対岸のあの子

@_naranuhoka_

対岸のあの子


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永遠に未成年でいられないことに普通の女の子たちはいつ気づくものなのだろう。みせいねん、という嗅ぎ馴れた安心する匂いのしみついた毛布のようなくったりとやわらかいひびき。そんな感傷的なプロフィールはとうにひっぺがされてわたしは無防備な存在のまま放り出されている。もう半年も経てば二十一歳、嘘でしょうと履歴書だの診察票だの自分の年齢を埋めるたびにわれに返って背すじがぞっとする。

正確には、まだ二十歳と五か月。でも、成人した瞬間になにかを大きく失ってしまった気がした。具体的なものの一つに、二十歳になる前になにかを残したい、と躍起になってじたばたしていた時の気持ちや手負いの動物のように荒い衝動。中学生のころから、なにかになるとしたら十代のうちに、などとひっそりと思っていたけれど、わたしの手のひらの中はからっぽで、なにも掴んでいないまっさらなままだ。

少女でも十代でもなくてなってからの一年間、一体何をしてたんだろう、と漠然と思う。あの頃は年齢だけで充分に世界と対峙できていたのに、もうわたしは何をひけらかしてこの世界に挑んでゆけばいいんだろう。

透明な膜でも張っているような冬の弱い水色がベランダ越しに見える。昨日の昼間から

干しっぱなしの洗濯物がひるがえって、 部屋の翳りのかたちがゆらゆらと絶えず変化する。

ベッドから起き上がった。時計は十時を回っている。パソコンは電源を切り忘れてスリープモードになり、起き抜けのわたしの顔をわずかに膨張させて映す。黒光りするつやつやした液晶のなかのいつもより老けて見える自分の顔を見たくなくて押し込めるようにして閉じた。

厚手の靴下を穿いて顔を洗い、台所に立つ。フライパンにあぶらを引いて熱して、溶き卵を流し込む。ジュッ、とフライパンの悲鳴のような音を聞きながら冷蔵庫から取り出したアボカドの皮を剥いてざくざく切ってフライパンに放り込んだ。数分炒めたのち、塩コショウを振って、ガラスの器に流し込むように盛りつける。本当は粉チーズをかけると味が濃くなっておいしいけど、面倒でやめた。それを持ってテーブルにつく。昨日から出しっぱなしだったペットボトル入りのミルクティーをマグカップに残りをそそぎ切る。つめたさの後にわずかな甘みと風味、紅茶独特の渋さを感じ取った。舌がすぼまる。

アボカドをフォークで口に運びながら、昨日書いた自分の文章の断片を思いだす。なんとかひねりだして二時までねばって千五百字程度吐き出した覚えがあるけれど、たぶんまた全消去するはめになる。深夜にこねくり回した文章を、冷静になって昼間に読み返すのが一番億劫な作業だった。代わりに携帯の電源をつけ、ツイッターを開く。


良(い)澄(ずみ) @148cm_ism

"なんだか精神が焼け野原になってめちゃめちゃに酔っぱらって帰りに真っ赤なばらを一輪買った。見た目はきりっとして強そうだけれどやわくていい匂いがする、今度から落ち込むたびにお花買おうかな"

"落ち込むと手紙を書く習性があるんですけど、起きたらテーブルの上に便箋に金色のペンでびっしり四枚にわたって書かれていて、読み返さずにこのまえ衝動買いした押し花のついた封筒に入れて朝日と一緒にポストに押し込んだ。ラブレターを投函したあとは誰かが見てるわけでもないのにいつも足早に去りたくなる"


ひととおりツイートに目を通し、壁に目を向けカレンダーを見る。ひそかに狙いを定めていた賞の締め切りは二月の初旬、あれはもう無理だ、諦めた方がいい。あと八日しかない。どれだけ頑張ろうが、わたしは一日に四百字詰め換算で十五枚程度しか生み出せない。

いちど閉じたパソコンを開き電源をつける。ワードをひらくと、無理やり字数をひねり出した文章が現れ、うんざりした。ざっと読み返して、削除する。いったいなんどこの作業を繰り返せばわたしは気が済むのだろうか。

こんなことをしている暇はない、今日は三限に英語の期末試験がある。それよりも、と一気に寝間着を脱ぐ。勝たなければ、と思いながらクローゼットからすでに出しておいたセーターをあたまからかぶる。肌にじかにふれると少しひりひりと擦れてむず痒い。夜に身に着ける予定のアクセサリーは、化粧ポーチに放り込んだ。

ほとんど何も入っていないトートバッグに教科書と電子辞書を入れ、アパートを出た。パソコンの電源をきちんと落としたか気にかかったけれど、どうでもいいや、とそのまま鍵を回した。金属の内部をむりやりえぐるような音が、耳に障った。


高校生の頃はヒールなんて履きもしなかったのに、アパートの靴箱はハイヒールとパンプスであふれている。大学の入学式の時にほんの二、三センチのヒールしかなかったにもかかわらずパンプスで靴擦れを起こして以来、半年はスニーカーかバレエシューズくらいしか履いてなかったのに、今日履いてきたピンヒールは九センチほど視界を上乗せしてくれる。今日は金曜日だから、五日連続この靴で登校していることになる。こんなに頻繁に履いていたらすぐ潰してしまうし、毎日無理なかたちに足を押し込めて歩き回っているせいでふくらはぎがすっかりむくんでいるのはわかっていても、昨日ためしに久しぶりにかかとのないバレエシューズを履いたときの心もとなさにしっくりこず、結局毎日手持ちで一番ヒールの高い靴を履いている。なんというか、地面と近くなった途端、急に自分が無防備になったような気持ちになった。もともと女子の平均身長は上回っているけれど、それでもキャンパスで女子の集団を追い抜く時、ヒールをかつかつと嫌味に鳴らしてすり抜けたい衝動にかられる。今日は余計、その音を鳴らしていないと自分をふるい立たせることができない気がしてつい歩む足に力がこもってしまう。コンクリートの地面を蹴る感触、地面から足をつたって背すじに鋼鉄の芯を入れてくれるようなしっかりとした高い音。誰からの視線も振り切るようなつもりで背中を張るようにしっかりと伸ばす。

試験が終わった後、キャンパスのトイレの全身鏡で服を整えた。鎖骨がしっかり見えるラウンドネックのアイスブルーのニット、黒に近い紺のスキニージーンズ、グレーのチェスターコート、アンクルつきの赤いピンヒール。それと、ごく小さな花飾りが揺れるピアスとシルバーの華奢なネックレス。はっきりいって武装に近い。彼氏と会う時すら滅多に引かないアイラインを、目をうんとひらいて引く。がたがたになって、それを修正していくうちにどんどん太く濃くなり、占い師がほどこす化粧みたいなペルシャ猫めいた眼になった。アイプチで作った二重のいびつな線が、わたしが嘘つきだと主張するようにぱちくりして引きつれる。

目の下にアイシャドウをほんの薄く引き、眉を描いてグロスを塗って化粧を終えた。エナメルみたいになったくちびるは、なんだか食虫花じみて気持ち悪くなり、ウエットティッシュで軽く落とした。

ポニーテールをいつもより高い位置で結うと、ひさしぶりに冬の空気にさらされたうなじがひゅうひゅうした。たたかえ、と口の動きだけでつぶやく。これは、わたしだけの決闘。

一歩踏み出すと、赤いグロスをたっぷりと塗ったくちびるのようにヒールがつやめいている。


「はじめまして……」

高島良澄がゆっくりほころぶと頬にえくぼが生まれた。一口だけ掬ったゼリーのみずみずしいふるえを連想した。

「木村くんから話は聞いてました、お会いできて嬉しい」

「こちらこそ、忙しいのに来てくれてありがとうございます」

なんとなく握手をかわした。しっとりとした温かい手だった。彼氏が腕時計に目を落として、「寒いから店行きましょうか」と歩き出す。自然と高島良澄と隣り合う格好になった。気まずさを感じる間もなく、「あの、自己紹介させてね」と早足になりながらわたしを見上げた。

「改めまして、高島良澄です。来年四年生。いずみって下の名前で呼ばれると嬉しいな。ねぇ、あなたのことは琴ちゃんって呼んでもいい? 初対面でなれなれしいかな」

「大丈夫です、良澄さん」

「琴子って可愛い名前だね、響きがシンプルで素敵だな」

頭一つ分、もしくはそれ以上身長差がある。知ってはいたけれど、こうして実際に並んでみるとずっと背が低かった。きっと誰もこの三人で一番年上なのが彼女だとわかる人は誰もいないだろう。うんと高いヒールを履いた化粧の濃いわたしと並んでいたら、中学生くらいに間違われるかもしれない。

「今日木村くんの彼女さんに会えるの楽しみで、歩きやすいぺたんこ靴履いてきたからふたりに挟まれてると完全に囚われの宇宙人って感じ」

軽口を叩きながら、「琴ちゃんって何センチなの」とわたしを見上げた。色が白い。黒目がくるくるとよく動く。額のうぶげが歩みに合わせてふわんと浮いている。ツイッターでよく見る、自撮りの写真と印象がそこまで変わらないけれど、やはり実際に会ってみるとなにか違うな、と思う。

「百六十八で、いまはヒール履いてるから百七十七です」

「おっきいね! わたし百五十あるかないかだからうらやましい。待ち合わせ場所に行ったらスタイルいい子いるなって思って、それが木村くんの彼女ってわかってびっくりしたもん」

聞きたかったコメントを意図通り引き出すことに成功して、思わずくちびるが品のないかたちに歪んだ。自分のこういうところが本当に情けないとは自覚しているけれど、どうにもならない。

彼氏が予約したのは和食メインのチェーン店の居酒屋だった。わたしと彼氏で隣り合い、「面接みたいだね」と笑いながら高島良澄が向かいに座る。高島良澄と彼氏はビール、わたしは梅酒を注文した。

「じゃ……乾杯」

彼氏の音頭に「何への乾杯?」「わたしたちの出会い?」と声が重なる。梅酒を喉に流し込みながら、高島良澄と目が合った。愛嬌のありすぎる笑みがこぼれ、どう反応したらいいかわからず、テーブルのグラスでもすべらすみたいに視線を横に流した。流れ込んだアルコールが胃をかっと火照らせる。

「あービールおいしい。木村くん今日の開催ありがとね」

「良澄さん、最近ゼミ終わりの飲み会来ませんもんね」

「おかげさまで原稿がたんまり溜まってるから。なんてのは冗談で、わたし今年から四年だもん、仕方ないよ」

そう言って大げさに眉をしかめる。わたしはそれにはとくに言及しなかった。運ばれてきたお通しのだし巻き卵のまるい匂いがふわんとテーブルを包み、誰よりも先に箸を伸ばす。つゆの香ばしさと卵のやさしいやわらかさが口いっぱいに広がる。ゆっくりと高島良澄がわたしに視線を移動させるのを意識しながら、丁寧に咀嚼した。

「あの、会ったら訊こうって思ってたんだけど、琴ちゃんはなんでわたしに会いたいって思ってくれたの?」

当然来るべき質問だった。彼氏にも「良澄ちゃんが卒業する前に会わせて」と頼んだだけで、きちんとした理由は言っていなかった。

単に、興味が湧いたからと簡潔に答えることもできる。でも、高島良澄が望んでいる通りの返答を与えてあげようと思い、口のなかのものを飲み込んでから、瞬時にあたまの中で言葉を選んだ。

「木村がゼミの話をするとき良澄さんの話ばかりするから、興味が湧いたのが一番はじめで。実際に良澄さんの作品を読んで文章に感銘を受けてから、本人に会えるチャンスがあるのなら、利用しない手はないなって思ったんで」

利用、という単語に高島良澄がにやりと反応する。

「そうなんだ、嬉しい」

「最近のものももちろん面白くて好きなんですけど、高二の時の、『流星群がこぼれる』が特に惹かれました。読み手の高校生の時の感情ごとよみがえってくる感覚があって」

「わ、そんなむかしのも読んでくれたの? はずかしいー、でもありがとう」

雫を三滴くらい閉じ込めそうなくらいえくぼが深くなる。笑うとますます幼くなる顔立ちだ。

「良澄さんは、いまは何をしてるんですか?」

「ちょいちょい原稿依頼とか取材をこなしてる。就活はまだどうするか考え中」

「すごい、ほんとに作家さんだ」

わたしの言葉に、まんざらでもなさそうに「いやいやいやまだ全然、駆け出しだけどね」と返す。それでも、目の下のふくらみは小さな丘のようにふっくりと持ち上がっている。

瞼にアイラインが押しつぶされないよう、目の周りの筋肉に力を込めた。ない目を見開きつづけるのは、かなりしんどい。

「琴ちゃんは、なにか趣味ある?」

今朝の、光を失って黒く反射するパソコン画面がちらと脳裏に浮かんだ。「読書です」と無難に返す。慎重にいこう、と決めていた。

「木村くんとは学部が同じなんだっけ。文?」

「そうです、専攻は違うけど。わたしは心理学で、主に思春期の子供の心理について研究しようと思っています」

なだれ込むまま、しばらく取り留めのない話をした。彼氏と高島良澄が所属するインカレのゼミの話や、交際の馴れ初め、高島良澄の現在書いている原稿の内容、ネットにあがっている過去の作品への感想、最近話題の新書について。お酒を介しているのもあって、意外なほど話は弾んだ。とりわけ、あらかじめ用意しておいた作品一つひとつへの詳細な書評は、じっくりと練ってきたかいがあって高島良澄はすっかり聞き入って感心させることに成功した。

一巡りして、ビールジョッキを三本明けた頃「ねぇ」と赤い頬をした高島良澄がうわ目遣いをした。「琴ちゃん、よかったらいまやってる原稿、途中なんだけど読んでくれない?」

「えっ、いいの?」

わたしはすでに敬語があやふやになっていた。酔っていたからでも、心から打ち解けたからというわけでもない。二杯目以降はずっとソフトドリンクを注文していた。頬は熱を持たず、しらふの体温のままだ。

「うん、なんか、琴ちゃんの感想すごくくわしいし、ただ褒めてるんじゃなくて的確な感じがするんだよね。腑に落ちるというか。だから、びしびし言って欲しい。感想というよりも講評するつもりで、いろいろ言われたい」

高島良澄が自分に小説を読ませたがっている――それもまだ書きかけで、未発表のもの。もちろん心がふわっと浮き立ったけれど、その一方でしっかりと高島良澄が述べたことを吟味していた。他人より感性がすぐれてる、目の付けどころが人と違う。とくにそういったたぐいの言葉は出なかったことに、内心くちびるを噛む。人より講評がうまいのはあたりまえだ、わたしはかつて三年も講評の才能というつぶてにこれでもかというほど揉まれつづけていた。ここの台詞回し逆の方が読者により深く刺さると思う。もっと展開をアップテンポにして時間の流れとリンクさせた方がいい。書き出しが説明的すぎるからもっとふくらませて想像の余地を与えて。これくらいの芸当はあたりまえだ。

それでも、おずおずとはにかんでみせる。

「わたしでよければ」

高島良澄はあかんぼうのようにくしゃりと無防備に笑った。

「ありがとう! じゃあメールアドレス教えて、後で送るから」

結局三時間ほど飲んで、駅前で別れた。高島良澄は赤い顔をして「また飲もうねえ」とふにゃふにゃした声と顔で手を振って終電に向かっていった。わたしたちも手を振り返す。

「今日そっち泊まる」

そのまま右手を突っ込んだ彼氏のコートのポケットは、真冬なのにいつも温かい。手袋をポケットの中で脱いだ。男の人の服のポケットってなんでこんなに広々としているんだろう。

「よかったな念願かなって。良澄さん、琴のこと気に入ってたっぽいし」

「うん」

創作者に取り入るのは普通の人にそうするよりもずっと簡単だ。作品を読み解いて感想を丁寧に述べるだけ。ただ褒めそやすのではなく、なるほどと唸らせるようなちょっとひねりを入れた批判めいた言葉を、彼女たちは貪欲に欲している。わたしがそうであるように。

それさえすればいとも簡単に心を開く。その人自身を褒めるより、ずっと的確に。

「また会いたいな。わたし、あの人と仲良くなりたいから」

 そうかぁと機嫌よさそうに彼氏がコートの上からポケットの中のわたしの手を押さえる。暗闇のアパートの部屋で、パソコンが電源のオレンジのちいさな灯りを点滅している様子が脳裏に浮かんだ。朝読み流した自分の文章は、もう一文も憶えてない。


 頭までかぶっていた掛けぶとんをわずかに押し上げると、部屋は焼く前のフレンチトーストのようにたっぷりとひかりにまぶされていた。眩しさに思わず左目を瞑る。ふとんの中をまさぐって脱ぎ散らかした寝間着を探り当て、上だけ頭からかぶった。ふとんの外に押し出されていたのか、冬の空気にさらされて冷えていた。一瞬で肌が粟立ち、思わずふとんのなかに身を潜らせる。手だけ伸ばして、充電していた携帯をはずし、電源がつくのを待った。電子の光がきんと瞼の裏の細胞を刺す。

 メールが一件届いていた。知らないアドレスからだったので読まずにツイッターを見ようとしたけれど、アドレスの冒頭の"spring"の文字列に記憶がつながった。

高島良澄からだ。寝る前に簡単なお礼とまた会いたいですというような挨拶を送ったのを思いだす。返信が来るのを待たず電源を落として眠ったのだった。メールをひらく。

"こちらこそ楽しかった! 琴ちゃんって木村くんの話通り面白くていい子だね、ぜひまた遊ぼう。それから、言っていた原稿です。まだ途中で推敲もしてないけど、よかったら目を通してください。正直な感想、いつでも待ってます 良澄より"

 ファイルが添付されていて、そこに彼女の書きかけの小説が入っているらしかった。さすがに寝起きで電子画面の小さな文字を追う気にはならず、メール画面を閉じた。

隣からはHBの鉛筆で地面を引っかいているようなささやかないびきが零れている。木村、と呼びかけると、わずかにふとんが揺れた。腰を引き寄せられる。しばらくして、寝息が再開した。

 ツイッターを開き、高島良澄のアカウントを表示する。


良澄 @148cm_ism

"友達の彼女さんと三人で飲みました! 久しぶりのお酒は最高、楽しかった! 頭のいい女の子にたくさん褒められていい気分、原稿がんばるぞって気持ちになりました 木村くんサンクス"


 いつ撮ったのか、わたしと彼氏の顔が入らないようにテーブルの画像が一緒に載っている。わたしがひとくち分だけ切り取っただし巻き卵がきちんと並んだ料理の中で浮いていて、生々しくだらしがなく見えた。

 わたしはまだ高島良澄を懐柔していない。まだ、心をひらかせきっていない。ツイッターでのざっくばらんでくだけた口調を読みなれていたせいか、よけいにそう感じた。次こそはかぶっている猫をひっぺがしたい。

"小説ありがとうございます。嬉しいです、ゆっくり読みます"

返信を送る。携帯をベッドの上に押しやった。

目をつぶる。また一日の半分を睡眠に溶かしてしまう罪悪感が、薄い春をまとったぬくさにすぐに覆われて溶けゆく。


  2

うちのゼミに面白い人がいるんだよ。違う大学なんだけど、いま三年で小説家活動してる人がいるんだ。

秋だっただろうか、ソファで寝転んで携帯をいじっていたら、ふと彼氏が雑談をし始めた。聞き流そうとしたのに、小説家、という言葉が耳をざらつかせた。その時点では、そんなの嘘だ、と反射的に否定する自分がいた。大学生で小説家、なんてそんな虫のいい話あるはずない、と。

誰? 女の人? 何年? などと矢継ぎ早に質問すると、彼氏は一つひとつに答えはじめた。高島良澄という三年生で、同じ県の私大に通っている。高校時代から文芸部で小説や児童文学を執筆し、大学でも文芸部の部長をやっていたらしい。去年大きな小説誌の新人賞で最終選考まで残ったのがきっかけで、小さなコラム記事を連載したり原稿依頼を受けているのだという。最近も地元の新聞でも未来を担う若手として取り上げられたらしい。彼氏と共通のゼミでは、月に一、二回ほどの活動の中で、唯一私大生として参加しており、異色の存在ではあったものの多角的で的を得た発言をするので一目置かれているらしい。人となりもさばけて明るい高島良澄に慕う人もゼミのなかで多いという。

「高校の時点で何回か全国ので賞を獲ってたらしい。良澄さんの書いたコラムみんなで読んだことあるんだけど、エッジがきいてて面白かった」

ふぅん、と喉声で返事をした。えっじ、と口の中でころがす。

寝返りを打ち、ソファの上で彼氏に背を向け、携帯で『高島いずみ 作家 大学生』と検索する。検索ワードを増やしたりはずしたり試行錯誤の後、彼氏が言っているのは『高島良澄』だとすぐにわかった。

わたしが黙り込んでいるので、聞くだけ聞いて興味をなくしたのだと思ったのだろう、ま、琴にしてみれば他大の他人だもんな、とひとりごちてゼミでいま合同研究している文豪について話し始めた。携帯を見ているのがばれないようにそつなく相槌を打ちつつも、目はしっかりと高島良澄のプロフィールや関連記事を追っていた。

 最初は顔も知らない他大生のことなんて、本心からそんなには興味なんてなかった。ネットに上がっている情報を一通り見たらその日は気がすんだ。けれど、彼氏がゼミの話をするたびに、「良澄ちゃんは何か言ってた?」「いま何か書いてるの?」と尋ねて近況を聞いている自分がいた。

興味なんかない、というポーズを自分にも彼氏にも取りつつも、本当は気になって仕方なかった。どこかで最初からこうなるとわかっていた。傷つくことははなから見えていたから、気にしないようにしないと、彼氏の知り合いだし目に毒だからあまり見ないようにしよう、と自分を牽制してうずうずと蠢く好奇心の蓋を無理やり押さえつけていただけだ。わたしが気にならないはずがなかった。むしろ、時間がたつにつれて存在はどんどん頭のなかを占めるようになった。あまり気にしないようにしよう、と律していたのもすぐに決壊した。プライドのかけらもない行為だとはわかっていたけれど、なにかほかに情報がないか、とすがるようにたやすく『高島良澄』と検索エンジンの白い細いハコに指が打ち込んでいた。

名前で検索しただけで簡単に見つかったフェイスブックとツイッターはどちらも鍵がかかっていなかったので、時々更新がないか覗いている。タンブラーとインスタグラムを見つけた時はさすがにやりすぎだろうかと気が咎めたけれど、結局好奇心に逆らえず遡ってぜんぶの記事を読んでしまった。

ツイッターアカウントを検索するための、彼女のアカウントIDも指が、というよりも、検索候補がすぐに覚えた。フォローもしていないのに、毎日彼女のアカウントを見にいくことがすぐに習慣となった。単に彼氏の知り合いの日常を覗きこむのが面白い、という好奇心の範疇だけでそこまで執着したわけじゃない。作家であることをひけらかすわけでもなく、ごく普通の大学生として日常を呟いているだけなのに、面白かった。

一つしか年が違わない女子大生が、もしかすると自分のすぐそばで作家の道を切り開きかけている――それだけで胃が灼けつきしそうなほどくやしかった。高校時代、一つの文芸コンクールで五部門の受賞を総なめにしたという伝説のような経歴やわたしが中学生の時から傾倒している女性作家と対談している記事や、大御所のような貫録のある年配の人たちに囲まれて孫娘のような笑顔で胸に赤い花をつけ賞状をかかげている写真が、強い力でわたしをねじ伏せた。

写真を見る限り、美女とまでは言えないけれど人好きのする愛嬌のある笑顔が印象的な女の子だった。ひどく童顔で、高校生といっても十分通じるだろう。リスやムササビのような、雑木林にひそむ小動物めいた印象の顔立ちだった。ネット上でも実際の人間関係でも、年齢を問わずまわりから慕われているのもわかる気がする。

探してもさがしても華やかな経歴があふれていて、なんて鼻につく存在なんだろう、と眉を顰め、いらいらしながら記事を追った。彼氏をはじめ、ゼミにいる人たちは自分のすぐそばに、散らばる星を自分の周りに引き寄せる惑星のごとく称号をかき集めている女の子がいることに心をかき乱されたり厭になったりしないのだろうか。それとも、同じ集団に属していること自体に優越感を感じ満足しているのだろうか。もし自分もそのゼミにいたら、とても平静ではいられない。ごく普通の学生生活の精一杯虚勢を張って精一杯きらめかせたつぶやきしか流れてこないツイッターのタイムラインのなかでほんものの宝石のようになにも飾らなくても正真正銘ぴかぴかに光る世界のツイートが紛れ込んでいたら、きっとひるんで目をそらしたくなる。

わたしが初めて高島良澄の文章をちゃんと読んだのは、雑記帳のように使われているタンブラーというブログに載せられていた日常の雑感だった。

なにげなく目についた記事を読み始めてすぐ、わかってしまった。いままでなんどもその疼痛にも似た予兆のようなものは感じていて、そのたびに抑え込んでいたけれどとうとう無駄だった。胸の中で、よく熟したくだものをナイフで切り裂いたようになにか大きな一つの眸が満を持してすっと見開いたような気がした。

受けつけない文章だったとか、鼻につく内容だったというわけではない。タンブラーのアカウントを見つけたその日のうちに記事をぜんぶ一息に読んでしまった。

文句なしにおもしろかったのだ。

それまで、高島良澄の絵に描いたような華々しさに打ちのめされ、煙たく思っているだけだったのが、その実を目の当たりにして敗北を受け入れざるを得なかった。焼きごてのように胸に跡を押し込むような強くたぎった実力が、文才が、そこにはあった。

女子大生の等身大の日常や所感を書いているだけなのに、へたなエッセイよりよほど読みごたえがある。十代のように生意気で、ユーモアとちゃめっけのあるテンポのいい文章の連なり。少女の名残と、その軸にある正義心のようなもの。恋人が東京に帰ったあとはしばらく一緒に飲んだお酒の瓶を片付けられないこと、恋人がカーペットに煙草の灰を落として開けた穴はそのままにしていること、一人暮らしが決まり、実家を出る前の日に無口な父親と海までドライブをしてなにか口をきくわけでもなく額を窓に押し当て水平線とまじわって沈む夕日を目に焼きつけたこと、片思いしていた司書の先生と一年間交わした長い往復書簡を卒業式の前の日に泣きながら燃やしたこと、出せなかった最後の一通の一文、『写ルンです』で撮ったクラスメイトの屈託のない表情、文芸コンクールで賞を取った短編小説や短歌、理科室のつやめく蛇口に映りこむ風景、制服のままプールに飛び込んだ中三の夏、小説を書き始めた頃の書き出しを集めたもの、授業中回していたノートの切れ端の真っピンクの丸い文字。日記とも小説の断片ともつかない文章や写真が雑多に投稿されていたけれど、どれも読む人の心を惹きつける魅力があった。読みながら一人の女の子の思春期をまるごと、まんまと味わってしまった。

この人には才能がある、と初めて素直に認めた。単なる日記というわけでなく、ちゃんと読者を意識した文章だった。それでいてまぎれもなく高島良澄のためだけの日記だった。読者はそのおこぼれにあずかっているに過ぎない、ということがまた屈辱的だった。それは奇をてらうわけでもなく、みずみずしい感性だけが特色というわけでもなく、むしろ定石を踏んだオーソドックスともいえる気取ったところのない読みやすい文章だった。

きらいだ、と瞬時に思った。わたしはこの子を嫌いだ、と。

わたしはこの子を好きにはなれない、なりたくない、あなたのまわりがあなたの虜になっているのと同じようには好きになんかなってやるものか、そう思った。正確には、自分にこんなみじめな思いをさせる高島良澄が大嫌いだと思った。何気なく綴られた文章を読みながら、わたしはほとんど泣きそうなほど心臓がぎゅっと引き絞られていた。高島良澄の存在のせいで浮き彫りになった自分がいままでちまちま積み重ねてきたもののくだらなさ、平凡さ、みじめさ、卑小さすべてが、大きな影のように足元をいっぺんに暗くさせ、おぼつかなくさせた。

絶望してそのまますごすご引き下がってしまえばいいのに、そんなにも打ちのめされていながらわたしはどこかでそれを認めていないのだった。自分が、高島良澄と同じ側の人間だと、のし上がれる人間だと思い込んだまま、思春期とは言えない年齢に随分前から差し掛かっている。


 小説の感想を送って三日後、高島良澄から返信が届いた。どうしても胸が弾んでしまうのが癪だったけれど、一日放っておくような意地もなくすぐにひらいた。

"中途半端なもの送ったのに、丁寧な感想ありがとう! ためになったし、琴ちゃんの感想読んだらやる気が出てきた。言われたところを直したら確かに前より良くなった気がする。完成したらまた送らせてね。あと、今度は琴ちゃんとふたりだけで会いたいな(笑)女子だけでのほうが話しやすい気がするので! 小説のことも直接会って掘り下げたいし。検討よろしくね 良澄より"

 気張って長々と丁寧な講評を送ったのに案外あっさりとした礼状で少しがっかりした。高島良澄がいま手がけているのは大学が舞台の群像劇の長編小説だった。来年で卒業するので、現役の学生が描く学生もの、というのもコンセプトのうちらしい。添付されていたのは四十枚ほどの小説で、まだ書き出しという感はあったけれど、純粋につづきを読みたいと思えるくらいには面白かった。去年高島良澄が最終選考まで残った新人賞は大手の出版社が開催しているもので、受賞しなくても出版社が声をかけることは稀なことでもないらしい。高島良澄の文章に才があるとわたしですら感じとるのはごく当然だった。

つまらなかったらいい、少しでもあらがあったら騒ぎ立ててやる、という逆毛立った気持ちでおそるおそる読み始めたのに、そんな考えは風が始終吹きつけているようなエネルギーにあふれた文章にすぐに吹き飛ばされた。だめだ、面白い。そうすぐさま思った。若さという不安定な感性に頼っただけの瑞々しさではないことも、小手先の上手さではないことも素人目で読んでもわかる。

 何よりも、読者を小説の世界にぐいぐい引きこませるだけの力量はある。向こうからの求心力だけじゃなく、こちらからすすんで踏み込みたくなる、構成能力にも舌を巻いた。

高島良澄が発散している、わたしを見て、という太陽のような強いまぶしいエネルギーが作品から感じられる。決して自意識が空回っているわけでもひとりよがりというのでもなく、ちゃんとその力強さに実力が伴っているのが、わたしとの大きな差なんだろうなとしぶしぶ認めた。

才能が無防備なまでに放つまばゆい閃光に圧倒される一方で、こうも思う。かつてわたしが送りつけた小説を読んでいたあの子たちは、いまのわたしのように才能に圧倒されてくやしさと劣等感と敗北感に胸がつぶれたりしなかったんだろうか。彼女たちははなから自分がわたしと同じ土俵にいる意識などなかったから純粋に享受してくれていたのだろうか。それとも、わたしが生み出すものにそこまでの力はなかったから、いまのわたしはこんなところでくすぶっているのだろうか。

読み進めたくない、読めば自分がぺしゃんこに握りつぶされてしまう、それでも文章は上滑りすることなく、しっかりとあたまに入ってくる。気づけばひとつの世界のなかに、くるくると巻き取られるようにしていとも簡単に取り込まれてしまっていた。


いつから失くしてしまったんだろうか。あの頃のわたしは確かに文芸少女以外のなにものでもなく、怒りとエネルギーにあふれた、プライドの高い自信過剰な頭でっかちの女子高生だった。未熟という意味で、目一杯十七歳だった。

それなりに進学校で、課題も多く毎日忙しかったはずなのに、時間をどうにか縫って文章を書きつづけた。月に一、二は完結した短編めいたものを書いていたかもしれない。とにかくほとんど毎日なんらかの文章を携帯でちまちま打っていた。電車の通学時間、昼休み、課題が終わったあと、休日、飽きもせずに。

所属していた文芸部の同学年は五人しかおらず、先輩や後輩を含めてもごくごく小さな部活だった。そのなかで群を抜いた速さで作品を書き上げては皆にグループメールで回していた。「面白かった」「ここの表現が好き」「琴子は安定して質が高い」「今回のはちょっと泣きそうになったよ」――内輪でちやほやされて持ち上げられ、作家を目指しているのだと思われていたし、わたし自身、作家になるのだろう、と漠然と思っていた。いまは高校生で、きちんとした投稿をすることはかなわないけれど、いずれ自由ができれば、デビューしてみせる。図書館で毎月読んでいる文芸誌に、いつか自分も名前を連ねてみせる。

心の中ではそんなありきたりでわたあめのようにぷわぷわとあまったるい野望を夏の入道雲のようにむちむちに肥大させていたのに、文芸部員やわたしの小説を読んでくれる友達の前では、わたしはあくまで創作が好きなだけで作家にはならないと思う、というスタンスを三年間貫いた。恥や照れくささ、遠慮から、だけではない。

否定する方が、「小説家になればいいのに」「才能あるんだから、なれるよ」「もったいない」という言葉を簡単に引き出せるとわかっていたからだ。

欲していた主問通りの言葉をかけられるたびに、「才能あるとか自分ではよくわかんないし、あんまり興味ないかな」などとクールぶってさばさばと聞き流していた。聞き流してなんかいなかった。じっとりと反芻して舐めまわす勢いで抱え込んでいた。内心では貪欲に待ち望んでいた。書かなくなったいまそのことに気付いたわけじゃない、あの頃から自分のさもしさやいやらしさを自覚していた。

そういうかたちでしか自意識を満たせない自分をあさましく思わないわけじゃなかったけれど、でも、欲しかった。もっとあまくて気持ちのいいことを言って、もっと褒めて、もっと称えて、憧れと賞賛と尊敬と嫉妬をもっとわたしに投げつけて、浴びせて。すごいねって見上げて。わたしの能力を見つけてひからせて。ほかの人とは違うって思わせて。

実際、「すごい」というたぐいの言葉は三年間言われどおしだった。文芸コンクールに投稿したことも何かの新人賞に入選したこともないわたしを、周りはずっと称えつづけ、あまやかしていた。わたしが作品を書きつづけてみんなに読んでもらっているかぎりはお山の大将でいられた。文芸部のなかで、わたしより書くことに執着している子はおらず、読む方が好きだという子が大半だったせいもあるのだといまは思う。

四月になり、運よく志望していた大学の文学部に入学したわたしはぱたりと筆を折った。

目の前には――目の前どころか右も左も前も後ろも自分の周りには莫大な時間が横たわってわたしを押しつぶしていた。真新しいプリンターは、わたしの書いた小説を印刷することなく、本棚の一番下でじっと身を縮こまらせている。

全く書かなかったわけではない。二年間でいくつか短いものを気休めのように書き上げてはいる。でも、書き上げるたびになんか違う、と思った。書きたいものを書いたのではなく、書けるもの、までレベルを落として完結させただけに過ぎなかった。わたしが書きたかったのは、したかったのは、なりたかったのは、こんなんじゃない。小説誌や公募にも一切送ることはなかった。

送ることが、自分が小説家になりたいという表明のようになってしまうのが怖かったのかもしれない。なににも評価されないことが、怖かった。評価もされないのに作家に憧れを抱いている人間、になってしまうのなら、評価されるものを差し出さないほうがずっと容易く、傷つくことも一切ない。戦わないことが、負けない、優位を保つ唯一の方法だった。

自分ではもうすでに何も創り出せないくせに、まだどこかでいつかはと作家になりたがっている、もっと言えば作家になれるだろうという思い込みを捨てることができない。それが自分だ。あの頃、最も見下し、馬鹿にし、蔑んでいた人間に、自分自身が陥っている、これほど怖気だつ状況があるだろうか。それなのに二年経ったいまではその事実にまったく心動かされない自分がいる。焦っているのは心の表面だけだ。根本ではいたって平常心を保ち続けていた。誰もそのことを見咎めることはないから。

彼氏は、わたしが小説を書く人間だということを知らない。同じ文学部とはいっても書かなくなってから会った人だからというのもあるし、一般教養の授業で半年間同じ班にいたという縁で仲良くなって交際するようになったというのもある。

もともと、高校時代からわたしは小説を書いているということを人に言うことが少なかった。本が好きだとか映画が好きだとかテニスが好きだとかとは一線をへだてている気がしてならない。優越感からではなく、むしろまったく逆だった。わたし自身、小説を書く、という趣味を躊躇うことなくあらわにする人には少し退いてしまう。小説を書く、なにかを物語るという行為につゆだくの自意識があぶらをしたたらせてぎゅうぎゅうに詰められていることに、自分が一番わかっているからかもしれない。そうなんだ、小説を書くなんてすごいですね、と返すだけで、わたしも書くんですよ、などと告白し返すことは絶対にない。あなたの言っている「小説」とわたしが書くものは全然違う、というくだらない対抗意識や自負がはたらいているだとは、思いたくないけれど。

そこまで考えをめぐらせ、ふっと鼻から息が漏れた。ばかばかしい。わたしはもう「書いていない」どころか「書けない」も同義の人間だ。

高島良澄のツイッターを見ていると、プライドが紙のように薄くぺらぺらになり、彼女の吐息一つでぷっと簡単に吹き飛ばされそうになる。そのたびに高校生の時に作った手製の文芸誌を三年分引っぱりだして自分の作品を読む。面白い、才能があるねと言ってくれた声を思いだそうと、誤植がある箇所も把握しきった小説をなんどもなんども繰り返し目で追いつづける。ページが寄れ、日焼けして紙が傷んでも、わたしはきっとこれを捨てられない。どこへ引っ越しても、きっと手元から手放すことはない。温かいふかふかのふとんのように、ひらけばわたしを突き放すことなく慰め、安堵させてくれる。その一方で、そんな高校時代の遺物ともいえるものを後生大事に抱えているからこそ、いまいる場所から一歩も踏み出せずに自分の持ち場を必死に守るようにうずくまったままなのかもしれない、と思うこともある。

これは安心毛布なんかじゃなく、足に蔦のように絡みつく鎖なんじゃないか、と。


  3

初めて会ってから二週間後にあたる休日の昼間に約束を取り付けた。店の指定は高島良澄がした。

"こっちの都合で駅前にしちゃった。でも素敵なカフェだよ〜! 琴ちゃんとのランチデート楽しみ 良澄より"

彼氏には言わなかった。高島良澄から聞いているだろうか、と思って様子を伺っていたものの、ゼミがなかったせいかとくに話題に上がらなかったので、タイミングを逃して言わずじまいになってしまった。服装は迷った挙句、うんと短い丈の紺色のキュロット、くすんだオフホワイトのフード付きトレーナーにショート丈の赤いダッフルを合わせ、待ち合わせ場所に向かった。ヒールは履かず、スニーカーを選んだ。背の高さで威嚇するのをやめたわけじゃない。幼いファッションを選んだのは、わざとだ。ほんの一歳しか変わらないのに、その差をどうしても目に見える形で利用したかった。どういう格好をしようが見た目の若さでは背が低く童顔の高島良澄にかなうはずもないのに、どうしても戦おうとする意識を捨てられない。もう、学歴とか着飾ることとか、そういう目に見えるものでしかわたしはわたしをふるい立たせることができない。

「おー、こっちこっち」

メールに貼られてあったURLの地図と見比べながら歩いていると、脇から声がかかった。

中学生ほどの子供のような、それでいて格好はやや大人びているちぐはぐな印象の女が立っていた。

高島良澄だった。この間はお嬢様めいた襟付きのワンピース姿だったけれど、七部丈のワイドパンツにストライプのシャツ、ネイビーのロングコートという出でだちだった。コーディネイトとしてはお洒落だし年相応なのだろうけど、幼い顔立ちには母親の服を借りてきたかのように浮いていた。

「この店。さ、入ろ」

もったいぶるように開いた重そうな木のドアを押し開けると、ログハウス風の店内は光がいっぱいに満ちていた。木の香りが漂っている。

迷うことなく陽射しが降り注ぐ窓辺の席に着くなり、「感想ありがとうね」と話し始めた。「あんなに丁寧な長文来ると思わなくて、本当に嬉しかった」

はいこれ、とおもむろに目の前に花束を差し出され、面食らう。青みだつような芳香を遅れて感じ取った。

「これはほんのお礼。お部屋にでも飾ってね」

白いスイートピーだった。人から花をもらうのは初めてだ。

「ありがとうございます」

恐縮しながらお礼を述べると、にこっと微笑む。目の下がふくらみ、弧をえがいた線状になった。誰からも悪意を向けられたことのないような、生まれたての赤子のように邪気のない笑み。

ああ、こういうところなんだろうな、と思う。ツイッターの投稿からもわかる、こういう天然の抜け目のなさが、わたしを苛立たせたのだ。油断していたところに先手を打たれたようにも感じ、やられた、と思った。そんなことはおくびにも出さず、表情を作る。

「わたしの拙い講評なんて、ど素人の感想なんで役に立ったかわかんないですけど」

「全然! ど素人って感じなかったよ、むしろ書き手側に近い感覚が文章のなかにあってどきっとした」高島良澄の目が、すっと見開かれる。「三人で話してたときもうすうす思ってたんだけど、琴ちゃんってもしかして文芸部経験ある人?」

心臓がどん、と胸に強く体当たりした。

本当は、今日の段階でまだそれを明かす気はさらさらなかった。思いもかけない直球に押し黙ってしまう。間でばれたな、と観念し「あります」とおずおずと頷いた。「やっぱり!」と手を叩いて高島良澄が無邪気にはしゃぐ。

「えー、何か書いてたの?」

「本当に、ちょっとしたものですけど……小説というか、文章を断片的に書くことが多かったですね」

へぇー、と感心したようになんども頷いている。メニューをじっくり眺めるふりをして、視線から目を逸らす。「あ、ここのはオムライスがおいしいよ、ここだとわたしそればっかり食べてる」と言うので、素直にオムライス定食を選んだ。結局高島良澄はきのこのパスタを注文した。なんだ、と少し拍子抜けする。

「賞とかには出したりした?全国高校生文芸コンクールとか」

 かつて自分が三年間受賞を総なめにしたコンクール名をあっさりと出す。高島良澄にとってそのコンクールは自分の文芸部時代そのものなんだろう。

「そんな、全然。なんか、ぼんやりしてたら毎年過ぎちゃってて」

もったいない、とでも笑うかと思ったのに、高島良澄はふぅん、と突き放すように頷き、その話を掘り下げる気はなさそうだった。肩透かしを食らった格好になりあっけにとられたけれどかつてはわたしだってそうだったと、すぐに思い当たる。口ばっかりでけっして勝負に立とうとしない人間をさげすんで見下していた。だから、素で冷たい反応をした高島良澄の気持ちは痛いほどわかる。

間に困っていると、おばあさんがテーブルにオムライス定食とパスタを運んできた。フォークで切り取るとふんわりとバターの濃い香りが広がる。確かにおいしい。

「いまでもなにか書いてる?」

「大学生になってからは……あんまり書いてないです。バイトとか課題とかで忙しくて」

嘘だ。真っ赤な大嘘だ。「琴ちゃんの大学頭いいもんね」といくらかあわれんだ表情で頷く高島良澄だってよく考えたらわかるはずなのだ。いまほど時間に余裕がある期間なんてない。しょせん文系の大学生活の前半はほとんどまっさらな余白でできていて、時間なんていうものはいくら予定を埋めようとも湧いて余ってしかたないものだと、大学生なら誰でもわかるはずなのに。

「でも気になるけどな、琴ちゃんの書いた小説」そう言ってセットで頼んだアイスコーヒーをストローで吸う。すぼまったくちびるが、子供っぽくとがっている。「まぁ『小説』書いてたかどうか、わかんないけど」

 声量を落として付け足した高島良澄の言い方に、物書き特有の選民意識の線引きを感じた。書き終わらせることができる人間が、そうでない人間へのまなざしはわかりやすいほどあわれみと軽蔑がにじんでいる。敏感に察知した。わたしがそうだったから。

だからこそかちんときた。自分が「書ける」側の人間だからといって、そこいらのワナビーと一緒にしないでほしい、と思った。高島良澄と同じ領域に踏み込まないであくまで一歩引いたところで関わるというスタンスをとるプライドを保っていたけれど、もういい、そんなものはかなぐり捨ててやる。

 わたしだって。わたしだってかつてはあなたと同じところにいた人間なんだと、天真爛漫に自分の能力を見せびらかすことがゆるされているこの子に、思い知らせたい。ぐっと口の中の唾を呑み込んだ。

「……よかったら、読んでもらえますか」

 わたしの返しに思いもかけなかったのだろう、パスタを咀嚼していた高島良澄はんぐっと咳き込み、アイスコーヒーを喉が鳴るほど一気に飲んだ。「え! いいの! あるんなら読みたい読みたい」とこちらが気圧される顔を明るくする。会うのが二回目のさして親しいわけでもない人間の小説なんて鼻白んでいてもおかしくない、単なる社交辞令かもしれない。本音がどうであれ、どうでもよかった。わたしはどうしても、この子に下に見られたくない。この子のツイッターを一方的にフォローしているたくさんの人たちのように、素直にまっすぐ見上げてすごいなぁとあがめるだけなんてごめんだ。

「ほんと、良澄さんほどの方に読ませるなんて本当お目汚しというか単なる素人が厚かましいんですけど」

あくまでおどおどしたポーズはやめなかった。わたしの発言をすみっこに追いやるような勢いでううん! と大げさに高島良澄がかぶりを振る。

「いいよ! ってかわたしだってそんなすごい人とかじゃないからね? えー、楽しみだな、忘れずに送ってね絶対ね、絶対」

 遠慮がちに頷いて控えめに微笑む。同じ土俵に自分から認めて踏み込んだ以上、軽んじられたくない。絶対に。

 高島良澄が手洗いに席を外している間、テーブルの下のかごに入れていたスイートピーの花束をあらためて持ちあげ、しげしげと眺めた。受け取り方がわからず、不恰好に前かがみになったことを少し悔やむ。きっと高島良澄はいままでなんども花束をもらってきたのだろうし、これからももらう側の人間なんだろうな、とそんなことを思った。

ふと、怖いもの見たさで、めしべとおしべを探って花を覗きこんだけれど、どちらも白い花びらのなかにおくるみのようにきっちりと包まれているので、スイートピーの花はどの角度から見ても、グロテスクにも映る花芯が見えることはなかった。けがれのない可憐なスカートのようだ。その清廉さは、裏表のない高島良澄そのもののような気さえして、花束をかごに入れなおし、そっと足で椅子の下に入れた。


 カフェから帰るなり、パソコンを立ち上げた。USBにストックしてあった完結した小説のなかで、文芸部員から一番反響が大きく、自分でも入れ込みがある中編小説を選び、ざっと読み直して推敲に取り掛かった。ほぼ一年半ぶりに読み通した小説は、あの頃あんなに傑作だと思っていたのに、久しぶりに目を通しているとなんどか顔に真っ赤になり、背負った表現があると読み飛ばしてしまいたい衝動に駆られた。構成がいささか強引だったり、話のなかで小さな矛盾を見つけたりと稚拙な部分が目立つ。それでも、粗削りながら強い意志のようなものは雨あられのように感じられた。高校生の頃の、なににも裏打ちされていないながらも自分の能力を信じてやまない自意識やエネルギーのかたまり。執筆を突き動かす原動力である怒りに近い感情や、静かな躍動や、自信や、矜持が、乾いていた苔が雨上がりに鮮やかな緑色を取り戻すかのようによみがえる。けれどそれは、思い起こせるだけで自分のなかに戻ってくるわけじゃない。かえっていまの自分との乖離をひしひしと痛感し、胸が苦しくなった。

 二時間かけて推敲、校正を終わらせた。もともとある程度には仕上がっていたので、そんなに大した作業にならなかった。完結しているぶん、これ以上大幅には変えられないというのもある。仕上がったものを読んで、ベストまではいかないけどまあいいだろう、と誤字がないかだけ最終チェックして、高島良澄にメールを打った。

"添付したものは高校二年の時に書いたものです。怖くて読み返してないです(笑)つたない文章だとは思いますが、よければ時間があるときにでも読んでもらえると恐縮です" 

 二度読み返し、いくらか言葉を削ったり足したりして送信した。「ずうずうしいとわれながら思いますが」「素人の駄作ですけど」――そういった過度な媚や保険を含む言葉は同じ創作者に送る以上かえって鼻につき、読む前から悪い印象を作品にまで与えてしまいそうですべて削除した。でも、『怖くて読み返してない』という牽制は抜かなかった。送信する。

 あの頃もそうだった。わたしは、気の置けない仲だった文芸部員たちにすら、出来上がった作品を推敲し終えて送るときにいちいち「ちゃんと読み直してないからぐちゃぐちゃかも」「あんまりおもしろくないけど取りあえずみんなに送ってから供養します笑」などといった言い訳めいたコメントをつけずにはいられなかった。自信がある作品でも評価が下されるまえは、守りに入らずにはいられなかった。思いだした。わたしはあの頃からそういう人間だった。

 わたしにはわかる。勝負に立つ前からそうやって自分の身を守ることばかりにあたまが回っているような人間を、高島良澄は見下し、憎んでいる。蔑むだけの実力を、立場を、勝ち得ている側の人間だから。


 良澄 @148cm_ism

"原稿がつらい! がんばれ俺! 黙ってキーボードを叩けッ!!"


 高島良澄のタンブラーの更新は最近ないものの、インスタグラムとツイッターは高頻度で動いている。最新のツイートでは、いまは自分の原稿と戦っているらしい。実際の知り合いになって以降も、ツイッターはフォローしていない。わたしはごく仲のいい高校時代の友達数人としか分かち合っていない内輪の鍵をかけたアカウントしか持っておらず、繋がっている人は彼氏のことを実際に知らない人だけなので包み隠さず惚気や愚痴や日常のことを普通に書いているので、躊躇っていた。それに、つながっていないほうが都合がいいのではないかと思ったのだ。見張っているだけにとどめよう、と。

"いずみん頑張れ!""良澄さんの小説、楽しみにしてます"などとリプライが何人から飛んでいる。大学でも有名人らしく、フォロワーは多い。

 自分の好きなことで才能を評価され、周囲にもそれを知らしめることができ、応援されている。高校時代からの恋人もいて、遠距離ではあるものの頻繁に連絡を取り合って仲睦まじいことが伝わる。インスタグラムはデートの様子や自炊で作った料理の写真がきっちりと並んでいる。

 日常や暮らしぶりを追えば追うほど高島良澄のことを憎たらしいと思った。きらいだ、と思ったし見ていてもいらいらするだけだとわかっていたのに、目が離せなかった。単に彼氏の女友達というつながりを抜きにして、わたしは高島良澄を追いつづけるのをやめられなかった。知り尽くしたい、読み尽くしたい、と思った。見知らぬ人からたくさんフォローされていることをあまり意識していないような自由奔放でマイペースな発言、媚のない筋の通った考え方、きらいなものに対するきっぱりとした拒絶、自分の作品への愛着、独特のユーモアセンス、一人暮らしの大学生とは思えない料理の上手さ、時々上げている写真のこちらが照れるほどの笑顔、厭味のない惚気、人となりやあり方を知れば知るほど会いたいと思った。実際に会って話してみたい、そう思うのに時間はかからなかった。同じ県に住んでいて、しかも彼氏の友達だというのを利用しない手はない。同じ文学部だしいっそそのゼミに入ろうか、と一瞬かすめはしたけれど、彼氏彼女というあやうい人間関係を口実に入るのはリスクが高く、浅はかだと思い断念した。もっと率直なやりかたでアプローチすることにした。

「わたしもいずみちゃんに会ってみたいんだけど」

 年始開け、夕食を食べているときに飛び込むような気持ちで切り出すと、彼氏は思いもかけなかったのか「はあ? って、高島良澄さんのこと?」と困惑していた。それでも、わたしが前々から興味を持っていることは察していたので「まぁ、彼女が良澄さんに会いたがってるって頼んでみるよ」とあっさり引き受けてくれた。

ゼミがあった日のツイッターでは時々彼氏のことを言及していて、他大の後輩として気に入っているのはわかっていたから、彼氏を介せばまず断られないだろう、と踏んでいた。一方で、見知らぬ人から作品の感想がしたためられた手紙で届いたり有名な人とツイッターでつながっているような人間に、自分のような赤の他人の一般人が、興味があるという単なるミーハー心で近づいて会ってもらえるものなのか内心はらはらしていた。

会うことはあっさり承諾され、日時が決まり、その日からわたしはそわそわしていた。自分も小説ともういちど向き合おう、と思い立ったのもその日からだ。それだからといってすぐさま書き始められるわけがなかった。進まない、書きたいことが見つからない、なにからはじめたらいいのかわからない。創らなければ、書かなければ、わたしには何の価値も意味もないのに。

批判されるものを差し出すことすらできない人間が、いっぱしに人のことひがむな――高島良澄がさも気味悪そうに眉を顰めて表情で冷たく吐き捨てるのを想像する。悔しさが湧いてくるいまだけが、最後のチャンスなのだろうと自覚しているのに、なぜこうも動けないままなのだろう。わからない。それでも、高校生の頃の欲望をいっこうに捨てられない。かがやきたい、まわりを圧倒したい、才能を見えるかたちでひけらかしたい、すごいともういちど言わしめたい、見上げられて、なりたい自分になりたい。

 なにも動かずに傲慢な目つきで世の中を見据えていた二年間を相殺していろんなことをちゃらにして、しれっと人生の辻褄を合わせたい。そして何食わぬ顔をして高島良澄と同じ土俵にのし上がりたい。

 それだけだ。


  4

 小説を送ってから一週間過ぎても音沙汰がない。時間をかけてそこそこ自信があるものを送っただけに、無反応は少し――いや、だいぶこたえた。

読みましたか? とよっぽど催促を連投しようかと思ったけれど、相手は来年から四年でしかもプロとして原稿を抱えている身だ。たかが素人が高校時代に書いた小説を読んで感想を打つ暇なんてないだろう。

そもそも、高島良澄にしてみればわたしは二度しかあったことのない、「ゼミの友人の彼女」という他人でしかない。忙しいはずのいまの時期に会うことがかなったのだって、わたしが熱心に彼氏に頼み込んだからではなく、おそらくは「ゼミの後輩が付き合っている女の子を見てみたい」という高島良澄の野次馬根性と好奇心による気まぐれによって実現しただけなのだ。

 相変わらずパソコンのなかの文章量は増えては消去を繰り返している。いまさらきちんと小説を書いて就活を免れようなんて虫がよすぎたのかもしれない。実際こんなことに没頭したところで、現実逃避でしかないのだ。来年から進路をしっかり見据えなければならない。

 諦め、いったん上書き保存をしてパソコンを閉じ、遅くなった夕飯の支度に取り掛かる。くやしいけれど、料理上手な高島良澄が頻繁にあげる自炊の写真に感化され、以前より料理に手間をかけるようになった。彼女が栄養士である祖母から習ったというレシピもいくつか試している。これではまるきりファンでしかない、と情けなく思うけれど、彼氏にも褒められることが増えたし、手の込んだものを作ることに自尊心が満足する快感も覚えてしまった。食費がかさむとはわかっていても、季節の果物を買ってデザートに剥いたり、いままでめったに立ち寄らなかったスーパーの魚コーナーにも向かうようになった。食事だけではなく、一輪挿しのための花瓶を雑貨屋さんで探したり、茨木のり子の詩集を図書館で紐解いてみたり、すっかり行動や暮らしが高島良澄の信者めいて、われながら矛盾にうんざりする。無視して流すことができないほど高島良澄の暮らしや習慣は魅力的に映るのだ。贅沢にならない程度の手間で、自分にも手が届きそうなところが、特に。きっとわたしのように真似しているフォロワーも多いことだろう。

 炊き込みご飯を作るために、焼き鮭をほぐし、舞茸としめじを細かく刻んで炊飯器に入れ、研いだお米と混ぜる。顆粒だしと昆布つゆを加え、セットする。彼氏に"ごはん食べた?"と一応ラインする。

 冷蔵庫の上に置いてあるラジオのスイッチを入れると、小学生の時にやっていたドラマの主題歌が流れてきた。合わせて鼻歌を歌いながらごぼうをささがきにする。面倒だけど、無心に慣れる作業は嫌いじゃない。手が灰汁で黒くよごれ、ごぼうがみるみる尖っていく。

"ただいまお送りした曲は二〇〇六年放送のドラマ「白夜行」の主題歌でした。これ、いまから十年前の曲なんだ~懐かしいですね!"

 パーソナリティの何気ない曲説明にぎょっとする。小学五年生から十年が経ったという取るに足らない事実に、いまさらのように傷つく。あの時思い描いていた、「大きくなったら」という未来にちょうどいま自分が立っているのだ。

 何を目指しているの? 何になりたいの? と問われるたびいまだにわたしは困ってしまい、立ち尽くしてしまう。なにも目指していないし、なりたいとも思っていない。

一年の頃、周りが保険で教職をとっていたから合わせてとっていたものの、一つ単位を落としたのがきっかけでやめてしまった。春からは公務員講座が始まる。取るなら四月に申し込まなければならない。学部の友達は結構取る気の子が多いらしく、ツイッターでも就活関連のアカウントが目につくようになった。それは流していたけれど、同学年の知り合いがそういった類のアカウントをフォローしているのを見つけると不安で背すじが反射で伸びる。

いくらそこそこ偏差値の高い有名な国立大とはいえ、文学部ともなるとそこまで就活も楽ではないということで、堅実な道を選ぶ人が多い。きっとみんな、自分が確かな未来を選んでいると思い込んで安心したいのだ。

わたしはそこまで潔くなれない。潔さの問題じゃなく、単に自分から能動的に動くのを避けているだけだ。数十万の申込金を払って、教科書を買って、夜遅くまで講座を受ける。むりだ。一旦始めればそう苦でもないのだろうけれど、覚悟を決めてそのなかに自分で決めて飛び込む、その一連が億劫で仕方ない。講座をとるのにそこそこの金額がかかるというのもあってそこまで腹を括れなかった。わたしはそんなことはしなくてもいい側の人間だと、のらりくらりと暮らしていれば誰かが見つけてくれるはずだということは、大学に入ってすぐ諦めたつもりなのに。

 そんな人間はどこにもいないと、とうのむかしに思い知らされている。小説のなかで、ツイッターのなかで、飲み会の席で、大学生活のなかで、厭になるくらい語りつくされている。

"食ってない。これから買いに行こうとしてたとこ"

 五分前に返信が来ていたので、"いまから作るから食べにこれば。ごはん炊けるのはあと40分後"と送る。

 最近特に彼氏といると安心する。それは、恋人といる安らぎというあまったるい意味じゃない。留学ともインターンともボランティアとも無縁で、停滞してモラトリアムの中で怠惰になにかを大量に消費しているのは自分だけじゃないとひそかに安心できるから。内輪でのくだらない足の引っ張り合いをしていた受験生の時と似たものを感じて、同じ自己嫌悪を覚える。いつかわたしは抜け駆けてあなたを置いていく。

 それまでは、わたしのそばから離れないで。わたしをあまやかして。



良澄 @148cm_ism

"おしらせ◎ ななななんと!わたしの書いた短編が小説誌に載りました。二月二十七日に発売です!ぜひぜひチェックしてね! 感想もお待ちしております 詳しくはhttp:www……"


 わたしに送ってきた小説とはまた別に原稿を抱えていたらしい。あっという間にリツイートされたりいいねの数が伸びていくのを見て、あたまの隅が冷えていく。いやな汗が背中ににじむのを感じる。これ以上傷つきたくない一心で、羨ましいという感情をできるだけ自分の中から流し切る。またなのね、という目を持つだけにつとめ、湧いてくる感情を押し流す。

 もっと早くから動いていればわたしもこうなれていたんだろうかとか、高校時代、躊躇せずにコンクールや公募に投稿していればよかったなとか、まったく意味のなさない後悔が脳ごと洗濯機にかけているようにあたまのなかをめちゃくちゃにかきみだす。動かなかった、書かなかった、勝手に自己嫌悪とプライドと自意識と劣等感に埋もれて時間を食いつぶしていただけ。いまのわたしをつくっているのは、それだけ。

 思いきりくちびるを曲げ、ぐっと眉間に力が込めた。厭になる。なんどこの波のように容赦なく打ち寄せる焦燥を味わえばいいのだろう。精神が摩耗する。

高島良澄のことなんか調べなければよかった。存在を知らなかったら、諦めたことを自覚すらせず、四年になればところてんがつるりと押し出されるようにみんなに合わせて疑問を感じることもなく憂鬱と不安と、出来合いのやる気を持って就活をするだけの大学生活だった。

もらったスイートピーは瓶に活けてテーブルに飾ってある。もらったときは厚みのない花の形状が見なれず、ティッシュみたいな花だな、と情緒のない感想を持ったけれど、こうして活けてみるとすんなりと伸びた淡い新緑の茎に白い花をつけた姿はチュチュをまとったバレリーナの少女がぴんと背筋を伸ばしているかのように凛として、シンプルですがすがしい。もらってから六日経っているけれど、白い花びらはしおれることもほとんどなく、きれいに咲いているままだ。意外な花の生命力に目を見張る一方で、高島良澄のしたたかさやしぶとさそのもののようにも感じ、なんだか水を替えるたびに笑われているような気がしてならない。

茎の先端を切って新しい水に替えなければと思いつつ、ベッドに寝転ぶ。

もういちど高島良澄のアカウントをひらき、ひたすらログを遡った。他人のツイッターのむかしの呟きを遡ることの卑しさはじゅうじゅう承知していたけれど、飽きずに読みつづけた。飾らない日常、ユーモアと時折見せるストレートな皮肉、凝った自炊、恋人への素直でまっすぐな愛情。好きな作家は泉鏡花と小川洋子で、全巻そろえているマンガは「のだめカンタービレ」と「おやすみプンプン」と「かくかくしかじか」、YUKIとスピッツを好んで聴く。酒で大人数で騒ぐ大学生を憎み、落ち込むと一人でバーに足を運び、バーボンを一杯だけ飲む。卒業後は東京で恋人と同棲するのが目標で、東京にいる遠距離の恋人とはしょっちゅう電話をして、話に飽きるとギターを弾いてもらう。わたしはすでに彼氏が知っているのと同じくらい、もしくはそれ以上に高島良澄についての情報をそらで言えるだろう。

この子の魅力はいったいどこからくるものなのだろう。到底、わたしが持ちえないものだということだけはわかる。でも、うまく言い表すことができない。

長時間ネットに漂っていたせいで、いつのまにか携帯は取り出したばかりの心臓のように熱を持っている。ひ、と思わずベッドに放った。自分が怖い。赤の他人の生活を監視して勝手に感情を乱すことの気持ち悪さが、もうわたしには感覚がない。ごく自然に、思いついたときに毎日高島良澄のSNSをひっそりと見ることに、何の違和感も嫌悪もまとわりつかないことが、怖い。やがて、感覚がないことにも気づかなくなることも、わたしはわかっている。


  5

 幻覚か、夢か、見間違いかと思った。

榊の名前が携帯の画面に浮かんだ瞬間、考える前に指がスライドして電話に出ていた。

「もしもし」

躊躇なく電話を取ったのに、遅れて声がわずかに揺れた。

「ああ志田? お前、三月の頭そっちにいる? 旅行で行くかもしれないから、一応聞いとこうと思って」

声の懐かしさに浸る間もなかった。もういちど榊と会える――思ってもみなかった申し出に、心臓がひゅっと宙に浮かんだ。「いるいるいる!」と即答する。苦笑する気配がした。

「はしゃいでるな。夏にそっちに新しく水族館できたじゃん、そこに行きたくて」

郊外にできた県で一番大きな水族館のことを言っているのだとすぐわかった。なんなら泊めたっていいけど、と言おうとしたら「泊まるところならおさえてあるからご心配なく」と榊が言った。

「榊一人で来るの?」

「まぁね。一緒に行ける? 水族館」

「行く。わたしも行ったことない」本当は彼氏と秋に行ったのだけれど、「住んでるのに?じゃあちょうどいいじゃん、行こういこう」と榊の声が弾むのを聞いて顔が勝手にほころんだ。

「詳しいことはあとでまた連絡する。んじゃ」

世間話や最近どう? などと雑談することもなく、あっけなく電話が切れてしまう。自分勝手にすら見える榊のさばけた簡潔なところがむかしから好ましかった。余計な挨拶なしに用件を話し始め、わたしへの気負いや長いこと連絡を取り合っていなかったたことへの気まずさも感じなかった。まるで数週間前まで会ったり話したり連絡を取っていたような距離感だった。

実際には、榊と話したのは一年半ぶりのことだった。相変わらず、芯のある耳馴染のいい声だった。


「ひさしぶり」

駅で待ち合わせた榊は記憶の中より髪が短く、私服姿に未だに慣れないせいか大人びた雰囲気だった。気恥ずかしさで一瞬しか目を合わすことができない。

「榊、ちょっと変わったね」と言うと「そう? 長いこと会ってなかったからそう感じるだけじゃん」とさらりと流される。顔を合わせても思ったよりは緊張しなかった。

そのまま電車に乗った。平日の午前中は、まだ人が少ない。横に並ぶと、向かいの窓に淡くふたりの姿が映った。

「榊、元気だった?」

べつだん沈黙が気まずいというわけでもなかったけれど、話し出さずにはいられなかった。榊と話す機会も、今日が終われば次があるかはわからない。

「元気だよ。専攻決まってから課題がめちゃくちゃ増えたけど、楽しいっちゃ楽しい」

榊は偏差値がうんと高い東京の国立大学の文学部に通っている。「専攻は?」「日文」即答だった。訊くまでもなかったな、と思う。榊はその大学の日本文学専攻に入るために受験するのだと、高校生の頃から言っていた。東京の大学に行って、出版社でバイトをして、そのまま編集部に就職する。みごと、有言実行して前期で合格を勝ち得ていた。

「志田は最近どうなの」

ふいに訊き返され、咄嗟に言葉に詰まる。ひと気のない電車の床に落ちる窓型の陽だまりに、足をさらした。

「まぁ、普通かな」

「そう」

「来年から三年だから、進路が結構不安」

ちらりと榊がこちらを見やった。

「志田は何になりたいの? 結局」

「……うーん」

この問いは、榊からなんどとなく繰り返されてきた。おまえ、作家にはならないの? 高校生の頃の榊は決まってこうつづけた。

大学生となったいま、榊はそれ以上なにも言葉をつづけない。

「よくわからない。教職も取るのやめたし、こっちで就活かな」

「そう」

榊は黙り込み、わたしもただただ足元に落ちる真四角の陽だまりを見ていた。窓のぶんだけ陽射しがこぼれていて、春みたいに温かかった。隣に榊がいて、いまから一緒に水族館に行くなんて、本当のできごとだと思えなかった。


榊は文学部員の一人だった。同学年の部長を務めていた。

出版社の編集部で働くのが夢で、わたしがグループメールで小説を送ると誰よりも早く校正をして詳しい講評をくれた。こちらが恥ずかしくなるほど大げさに褒めてくれることはあってもお世辞が入っていると感じたことはいちどもない。自分は一切小説を書かない榊はわたしを物書きとして見て、単なる誤植を指摘するだけにとどまるほかの部員とは違い、話の運びや展開、台詞回しなどを編集者のように添削し、こうしたほうがいい、と助言したり、書き手の意図を読み取ってくれた。単に手放しで褒めるわけでない、それでもポイントを押さえて褒めてくれたり批評してくれる、榊の長文に渡る熱のこもった丁寧な講評を読むのがとても好きだった。榊からの講評が早くほしくて早足で書き進めていたというのも、少しあるかもしれない。

ちょっと目じりが尖った、人を寄せつけない雰囲気のある榊と初めて部の新入生歓迎会で会った時、文芸というニッチな共通項がすでにあるのに自分から話しかけるのが躊躇われた。向こうからそつなくわたしにも話しかけてきたものの、何となく一歩下がってこちらをうかがっているような気がして、きっとこの人とはそんなに仲良くなれない、と予感した。すぐにわかったのは、榊は五人の同学年のなかで抜きんでて成績がよく、十人足らずしかいない推薦枠でこの学校に入ったという。実際、張り出される模試の上位成績者の常連でもあった。

最初の講評会で、榊は作品を出さなかった。あまり自分を出さない榊がいったいどんなものを書くのか気になっていたわたしは、少しがっかりした。

でも、いざ講評会が始まり、わたしはあっけにとられた。提出された作品を一つひとつに対して、誰よりも、もしかすると作者よりも丁寧に詠み込んだ感想と批評をすらすらとノートを取り出す勢いで述べ、時々熱がこもりすぎて頬をきらきらと紅潮させて論じる榊を見て、わたしが思うより、この人は他人に興味があるんだな、とそんなことを思った。とりわけわたしが出した、手書きでノートに綴った短編小説を榊はわたしの目を見て「一番小説だって思った」と言った。わたしもわかっていた。提出されたほかの人の書いてきたものを読んで落胆すらしていた。面白い、とはっきり思えるものが自分のもの以外なかったから。榊の講評も、明らかにわたしのぶんだけ量が違った。時間制限で最後まで聞けなかったくらいだ。

わたしがあの部で才能を認めていたのは、ただ榊だけだ。書く才能ではなく、文章を丁寧に読み解き、書く人を伸ばす才能が、榊には高校生ながら確かに備わっていた。部だけじゃない、高校やいままで出会った同級生のなかで、確かな才能の存在を感じ、素直に認めることができたのは榊だけだった。

疎遠になったのは、大学生になってからだ。

受験が終わった春休みにたくさん作品を書こうと意気込んでいたものの、一年書かずにいたら筆がすっかり固まってしまった。結局一つも送れないまま、わたしは大学生になった。引っ越し準備や入学手続きでばたばたしていたから仕方なかった――そんなわけではない。高校二年までは試験期間も勉強の合間にすら文章を打っていたような人間だ、その程度の忙しさで執筆がおろそかになるわけがない。

書けなかった。書きたいものもなかったし、書けるものもなかった。受験が終わったらたくさん小説書きたい、と豪語していただけに焦りや気後れもあったけれど、他の部員も新生活の準備に忙しく、大学受験から解放されたことで浮かれていたからわたしが小説を送ってこないことになにか言及されることはなかった。榊も、特に何か言ってくるわけじゃなかった。榊自身、忙しかったのもあるだろう。

入学手続きが終わり、新歓でさまざまな飲み会を渡り歩くのにも飽きて一人暮らしの生活に慣れた頃、そろそろ本腰入れて書かないまずいなと思い、一日家にこもることにしてパソコンを立ち上げたことがある。一度や二度じゃない。でも書こうと思っていきなり書き出せるはずもなく、気づけばネットや携帯でツイッターを見ていた。

白いカーテンを透かして、空が青と桃色で混ざり合い、日が沈んでいく前の色に移りゆくのを乾いた眼球で見ながら、くだらない、と思った。なにも積み重ねていない二か月半の日々を、そしてこれからもなにも生み出せずにすすんでいくであろう四年間を。

小説を書かなくなってから気づいたことがあった。わたしは小説を送るとき以外、榊にメールを送ったことがほとんどない。個人的な相談や日々のくだらない雑多なことを送ったためしがない。クラスも一緒になったことがなく、部の事務連絡や合格の報告くらいしか、やりとりをしたことがなかった。三年間も付き合いがあっていままで気にならなかったのは、それほど頻繁に小説を送っていたからでしかない。他の部員とは雑談や用事のないメールやラインのやりとりもするのに、榊とだけは、妙な距離感があった。

理由はすぐに思い当たった。自分のくだらない面や取るに足らない部分を不用意にさらけだすのが厭だったのだ。少なくとも創作の才を認められているのだから、そこだけを榊には強調したかった。余計なことをして、榊からの評価を傷つけたくなかった。

他の部員と榊がどうだったのかは知らない。けれど、榊は同学年の中の唯一の異性だったから、榊抜きで遊ぶことも少なくなかったし、榊本人が他の部員同士なれあうことも少なかった。榊は用心深く、人になかなか心をひらかない。クラスでも、誰とも口を利かないわではないようなのだけれど、榊の周りにだけ半径一メートルのバリアが張りめぐらされてるみたいに一定の距離を保っているようだった。たやすく自分の内面に他人を招き入れようとしない。わたしが榊にどこまで心をひらかれているのか、掴みかねていた。小説を読んでもらい、その講評をもらうときだけが、榊の心を直接揺り動かしてひらかせることができているような気さえした。

夏に帰省した時にいちど会った。大学生になって会ったのは、その一回きりだ。

ふたりでごはんに行った。榊が免許を取るために一ヶ月帰省しているのだと知り、わたしから連絡して誘ったのだ。

和食屋さんだった。酒も飲まず、わたしたちは食事を取りながらぽつぽつと近況を話した。榊は文芸部には入らず、夏休み明けから希望の出版社での編集のバイトが始まりそうだとのことだった。その出版社は、わたしが好きな作家もよく小説を出している、文芸に感心がある人間なら誰でも憧れを持つような大手だった。

この人は高校時代からの設計図通りに歩んでいるのだと、思った。きっとそのまま編集部に就職する。それだけの力を培っている。その根拠も実績も、これから手にしていくのだろう。

「志田さ」

「うん」

「小説、書いてないの?」

インカレのイベントサークルに入ったけどもうやめるかも、専攻は来年から決まるけどどこに希望出すかは決めてない、五月から家庭教師やってる……わたしの話には文芸も小説も出てこなかった。出さなかった。ないものは、出しようがない。

「書いてない、ってわけじゃないよ」

嘘ではなかった。完結させたものは一つしかなかったものの、文章じたいはほそぼそと書きつづけてはいた。へぇ、と抑揚のない相槌が返ってくる。

「そうなんだ。全然送ってこないから飽きたのかと思ったよ」

胸がしくりと痛む。やはり榊にもそう思われていたんだな、と思うと、情けないような気持ちがした。

「そういうわけじゃないよ」

必死に言葉をつなぐ。「書こうとはしてるんだけど、なかなか書けないというか」

榊は眉根をよせてテーブルに視線を落としていた。尚もつづける。

「書きたいっていう意欲はあるに、そのエネルギーだけが空回りしてる状態でしんどいというか」

なんとつないでいいかわからず、言葉は尻切れとんぼになった。榊は何も言わない。居心地が悪くなり、水に手を伸ばした。なにか引き出したかった。くちびるを濡らし、「榊はさ」と呼びかける。

「なに?」

「わたしが小説を書かない人間だったら、ちゃんと友達になってなかったかもね」

榊がわたしの目を見据える。顔つきが明らかに変わっていた。

「どういう意味」

「いや、だから、」

自暴自棄で卑屈なことを言おうと決めていた。はすっぱな口調を選びたかった。「小説書けなくて投げ出すとき、榊は、小説を書かないわたしとは、縁が切れてもいいって思ってるのかなって、思うことがある。このまま書けなかったら、榊はわたしとの関係をつづけようとはしないんじゃないかなって」

榊はわたしから視線をはずさないまま、黙っていた。わたしは空気を読まずにテーブルの上の天ぷらに箸を伸ばす。正確には、空気を読んでいないというポーズをとっているだけで、身体の全神経は榊の反応に向かってこれ以上ないほど尖り、研ぎ澄まされていた。

「志田は、」

 不意に榊が口火を切った。4

「……なに?」

「俺のこと、自分の作品を校正してくれるだけの人としか見てなかったの?」

海老天を持ち上げたまま、空中で箸が止まる。

榊の目は、はっきりとわたしを見据えていた。その目に捉えられ、心臓がびくりと跳ね、恐怖で委縮する。他人の前でめったに感情をみださない榊が目の前で怒りをあらわにしていた。わたしにはそれにうろたえる資格すらない気がして、何も言えない。半開きだったくちびるを閉じた。

 ようやく自分が口にした言葉の意味を思い知る。わたしは榊と積み重ねてきたこれまでの一切を、たった一言でけがし台無しにした。

 何を意図したのか、自分でもわからなかった。すぐさま怒りを持って否定してほしかった、それだけはわかる、こんな愚問をわざわざ口に出して問わなければならないほど、わたしのプライドは摩耗して擦り切れていた。友達の心を、踏みにじってでも、プライドを守ろうとした。

書くこと以外能がないわたしには価値がないの? と詰め寄る方法で。

「がっかりしたな」

強い口調で吐き捨て、「俺、文芸部で一番おまえと仲いいと思ってたけど、おまえのなかではそうじゃなかったんだな」と言った。

持ち上げたままだった天ぷらを自分の取り皿に載せる。海老天を見下ろしながら、これから一生わたしはここから顔を上げられないんじゃないと思った。この先生きていくなかで榊と同じものを見て、感じて、共有するなんてことは許されないのではないかと思った。

もう何も取り繕うことができない。見えない大きな手で頭を押さえつけられているように顔も視線も下を向いたまま動かせない。友達の心にも思いをはせられないこんな人間が小説を書く書かないで悩んでいる、そのばかばかしさにつぶされそうだった。

二軒目に行くこともなく、わたしたちは店を出て駅で別れた。榊はあからさまにわたしを嫌悪したり無視するわけでもなく、淡々としていた。

改札口で微笑みさえ浮かべて手を振り別れながら、わたしはもう二度と榊に会えないのだろうと思った。会うことを許されないのだと、それだけはわかっていた。


新しくできたばかりの水族館は、平日ながら家族連れでにぎわっていた。大きな水槽、というよりももはや映画館のスクリーンのように壮大に広がる光景に、榊はほとんど首が直角になるほど見上げて目を輝かせた。

「すごいな、ここ」

青と透明が幾重にも重なって、複雑な影を床や壁にゆらゆらとたえずかたちを変えて映している。さかなたち群をなして一枚の布のように悠々とガラス越しに泳いでいた。館内は水銀灯で青い照明がつけられ、水族館ごと大きな海のようだ。来るのは二度目だけれど、それだからといって感動が薄れるわけではなく、わたしも目を奪われていた。

「きれいだね」

榊の横顔の輪郭が薄青いひかりにふちどられている。

「うん」

現実感がまるでないままだった。なぜわたしはこんなところで榊とデートまがいのことをしているのだろうか。

水の青さを吸収したような色合いの大理石の床を見下ろす。まるで薄い氷の上でも歩いているみたいだ。

「ねえ」

「何」

「なんでわたしを誘ったの?」

榊はほとんど間をおかずに、「だっておまえ、ここに住んでるし」と言った。「べつにそれ以上なんとも言えないな」

あまりにもシンプルな答えだった。そっか、とつぶやく。

榊はわたしのことをゆるしたのだろうか。それとも、水には流していなくとも、せっかくここに来るのだからとわたしに声をかけただけなのだろうか。

「わたしさ」

「なに?」

たくさんの海月が大きな球体の水槽の中で漂っている。ゆるゆるとかたちを変えながら漂う美しいやわらかさのかたまりは、毒を持っているとはとても思えない。光に透かされたまるさの群は水のあぶくの連なりのようだ。

「小説、ずっと書けないまんまなんだ」

そう、と簡単な相槌が返ってくる。崖から飛び降りるつもりで勇気を振り絞って言ったのに、榊の目は海月に吸い寄せられたままで拍子抜けしてしまう。どうにか反応を引き出せないかと、言葉をさがす。

「わたし、ずっとこのままなのかな。それがすごく怖い。何も創り出せない自分が平気になりそうで、怖いんだ」

エイがゆったりと視界をふさぐ。幼稚園児が描いたような顔は怒っているかのようだ。

なおもつづけようとしたら「あのさ」と榊がようやく口を開いた。わたしと目を合わせる。

「志田は、俺になんて言ってほしいわけ?」

「……え」

思いがけない言葉に、声が詰まる。榊はほとんど無表情で、声の抑揚もほとんどない。

「去年も同じこと聞いた気がする。志田は、それを俺に言って、一体なんて言ってほしいんだよ」

あきれているのだ、とやっとわかった。

何も言い返すことができない。わたしは二度も同じことを榊にぶつけ、何がしたいのだろう。

あんなに書いていたのに、大学生になってから何も送らなくなったことへの言い訳。きっとそれが近いのだろうけど、榊はわたしが書かなくなったことにあきれたり、怒ったりしたことなどいちどたりともない。わたしが勝手に罪悪感と後ろめたさを感じて弁解を始めただけだ。

「べつにおまえが書くことを放棄したり飽きたりしたからって、俺は責めるつもりないよ。そんなの志田の勝手だし自由だ」

榊が角を曲がり、深海魚のコーナーへ移ってしまう。いまの自分の状態を肯定されたはずなのに、むしろ突き放されたような気がして、わたしはしばらく立ちすくんだ。のろのろとあとにつづく。

書かなくなったわたしに、榊はどんな価値を見出すというんだろう。普通の友達? 想像もつかない。好きな作家やその作品、将来の夢は知っていても、わたしは榊の嫌いな食べものも休日の過ごし方もろくに知らない。

わたしと榊は、わたしの小説という潤滑油なしでも関係をつづけていけるのだろうか。傲慢だとわかっていても、そんな考え方がこびついている。

「お、こいつかわいいな」

榊はわたしの話などこれで終わったかのように無邪気にチンアナゴを指差して笑う。ユーモラスにくねくねと砂の中から顔を出したチンアナゴを見ていたら、自分のみじめさに涙が出そうになった。

あきらめるなよ。

才能があるんだから、書けよ。

俺はおまえの文章をずっと待ってるのに。

そういう叱咤激励やおだての類の言葉を榊から引き出そうとしていたんだろうか。浅ましい。わたしは自分の生み出すものがどれほどの価値を持つと思い上がっているのだろう。

おまえなら作家になれるよ。それだけの力はあると思う。

榊にはとりわけなんども言われた。反芻しすぎて、それはもうほとんど責めるような声色で蘇る。本当は、筆を折ったことを榊におまえなにやってるんだよ、と責められたり、腹を立てられたり、なだめすかされたりしたかったのだ。

おどろおどろしさと滑稽さの合間のような姿の深海魚たちを横目に、帰りたい、と思った。こんな情けない気持ちになるために榊と再会したわけじゃない。

「ねぇ榊」

「うん?」

「わたしが、小説書かなくなって、少しでもがっかりした?」

声がかすれた。 かなぐり捨てたプライドが、言葉となって榊のまえで発された途端、皮膚を引き剥がされた動物のように打ち震える。

深海魚の水槽前の廊下は、薄暗く、わずかな照明で何倍にも引き伸ばされた薄い人影が海藻のように揺らぐ。榊がちらとわたしを振り返るのがわかった。顔を上げることができない。

「随分思い上がってるな」

苦笑していた。いたたまれず、「うん、わかってる」とぶっきらぼうに言い返す。

「いや、それはそれでいいことだとは思うよ? 自分の作品に自信ないのもどうかと思うし。実際、おまえには力があるしな」

聞きたかった言葉を引き出せたはずなのに、あまりうれしいとは思えなかった。正確には、この期におよんでかすかにでもうれしいと思っている自分を認めたくなかった。

「でも、いまのおまえを俺はあんまり応援する気にはなれない。もちろん、今後なにか送ってくれればまた添削するし感想も送るけど、書くことを強制する気はないな」腹を押されたようにふぅっと大きな息を吐く。「志田は強制してほしいのかもしれないけどね」

なにも言わなかった。沈黙が肯定になるとわかっていたけど、もうごまかしたり取り繕う気にもならなかった。

「わかってるんでしょ? 欲しい答えなんて、俺からはなにひとつ与えてあげられないんだよ。自分の考えを話してほしいならいくらでも話すことはできるけど、何言ったって志田は満足しないじゃん、おまえ自身が納得のいくこたえを見つけない限りは」

深海魚のコーナーを抜ける。一気に視界に光が溢れ、トンネル型の廊下が現れた。青いチューブのような水槽の中、頭のすぐ上をウミガメが悠々と泳いでいる。

「高校の時、志田が自分の文章能力にうぬぼれてたこともほかの部員のことを下に見てたのもなんとなくわかってたよ。でも」

榊が振り返る。水面に映る光がまだらになって榊の顔に落ちていた。

「いまのおまえは、あの子たちよりずっと下にいるってことを自覚した方がいい。いいかげん、自分がシード権握ってる人間だっていう思い上がりを捨てろよ。口開けて待ってるだけじゃ、誰も見つけてくれないなんてあたりまえのことだろ」

ふっと頬が緩み、俺が甘やかしたせいもあるかもしれないけどな、と笑った。


水族館のフードコートで昼を取り、しばらく海浜をぶらぶらしてから電車で待ち合わせた駅に戻った。身体が汐の匂いをまとい、潮風になぶられた髪が少しべたついていた。

「面白かった。付き合ってくれてありがとう」

榊のスニーカーが、海に浸かったぶんだけ鉛筆を倒して線を引いたように灰色に染まっていた。昼間の電車は、ねむけをまとったように朝以上に温かい。背中側の窓から差し込んでくる鮮やかな陽は今日でいちばん強く、結わえずにいる髪がどんどん熱を持っていく。

「ううん、わたしも楽しかった。榊とまた会えてよかった」

「なんだよそれ、気持ち悪いな」

榊が喉をくっと鳴らして笑う。「まぁ、ひさしぶりだったしな」

一年半会わずにいたことも、夏にわたしがのたまったことも蒸し返されなかった。車窓から海が遠のいていくのだけ、目で追っていた。

もう榊とは会えないと思ってたよ、と言おうとしてやめる。そんなことをわざわざ口にすれば、今度こそ榊はわたしの前に現れない気がした。代わりに、話す。

「高校生の頃、おまえなら作家になれるよ、って榊、よく言ってくれたじゃん」

「うん」

「わたし、いつも否定してたけど、本当はなりたかったし、目指してた」

「うん」

「なりたかったんだ、小説を、書き始めた時から」

車窓から見えていた海が途切れ、街並みに変わる。わたしたちのふたりぶんの頭の影が床に落ちていた。榊は何にも言わずに目を閉じて揺られていた。


駅で別れ、その足でそのままバスに乗って彼氏の家に向かった。薄暮になると気温が冷え込み、手袋を着けていない手が風にさらされ冷たかった。吊革につかまりながらツイッターをひらく。


良澄 @148cm_ism

"日記も手紙も短く簡潔な方がかっこいいのかもしれない。沈黙や白紙より価値があるかどうかも考えないで湧いてくるまま饒舌に文章を書いてきたけど、それでよかったのかな"

"日記を書き始めると永遠に一日について思いだしていたくてつい長文を綴る。もう終わった日に執着してるみたいでかっこわるいからほどほどにしよう"


 高島良澄の文章を読むのが好きだ。どうしてかはわからない。知っている人の頭のなかを覗いているから単純に面白いと感じているだけで、これが赤の他人の文だったら興味も持たずに読み流していたかもしれない。憎たらしいと思いつづけているくせに高島良澄というフィルターをかけると、なんでもきらきらして見える。もう彼女を純粋に評価することなどできないのかもしれない。

嫉妬の情で苦しんでいる一方で、こうして暮らしや日々の思いを公開しつづけることをやめないでほしい、とすら思う。それでも、もし高島良澄がインターネットで言葉を発することをやめたら、わたしはきっとらくになるだろうと思う。きっとまた、文章を書かずに暮らし始める。

アパートにつき、合鍵で中に入る。ただいま、来たよ、と言っても返事がない。彼氏はベッドで眠っていた。

シャワーを浴び、下着だけになって中に潜り込む。熱がこもって、こたつみたいに熱い。こと? 寝ぼけたようなくぐもった声がする。丸まったままの背中に抱きついた。

「木村」

「なに?」

 高校の友達と会ってきた、と言おうとしてやめる。榊とむかし何があって、何を言ったか、何を言われたか、彼氏に伝える勇気はない。

「ううん」

腰に腕を回し、トレーナーを着た背中に鼻をうずめる。汗と洗剤の匂いが混じった、草いきれにも似た嗅ぎなれた匂い。シャワーを浴びても冷えたままだった身体が、彼氏の体温を吸収して少しずつぬくむ。背中やおなかなど、身体の広い面積で人と身体をぴたりと合わせるとどうしてこうも落ち着くのだろう。

初めて布団の下で抱きしめ合った時、他人が発する熱の大きさに圧倒的な安堵に襲われて、わたしはこのぬくもりを失ったら死んでしまうんじゃないかとさえ思った。人と抱き合うことの安らぎ、快楽を知ってしまったことへの恐ろしさを憶え、どうしてたったいままで一人で眠っていられたのだろうと本気で不思議に思った。

文章を書けなくなってから、わけもなく精神的につらくなることが増え、理由もなく落ち込んだり消沈することがたくさんあった。なにも生み出すことができない自分に、どう価値を見出せばいいのかわからなくなったのだった。なんで生きてかなきゃいけないんだろう、と何かにつけて他人と比べるたびに思った。それが、思春期の名残に拠るのものなのか、モラトリアムにはよくあることなのか、若さというエネルギーが空回ってそうなっているのかまるで分からなかった。すべての絵の具をめちゃくちゃに混ぜ合わせたような色が、始終心を塗りつぶしていた。

一日中ずっと、比喩ではなく朝目を覚まして夜眠りに落ちるまでずっとうすべったい膜でも喉にはりついているかのように苦しい感じがして、具体的に悲しいことが起こったわけでもないのに胸がふさがって、涙などでないのに泣きたかった。いつまでこの状態のまま生きていくのだろう、と思うと足元がずぶずぶと底知れない泥に呑まれていくような気がした。

鬱病にでもなったのかと思ったし、もしかしたら半分そうだったのかもしれない。自分に酔う自分にうんざりして自己嫌悪に絡めとられるこの一連が、世の中やおとながモラトリアムだとか若さだとか自意識過剰だと名付けて苦笑交じりに揶揄しているものなのだとすればなんて残酷なんだろう、そう思った。わたしはこんなに若いのに、いまが一番世の中でもてはやされている年齢をまっさかりに生きているのに、若さを一切生かすこともなく時間だけが自分の真上で過ぎていくのかと思うと、心の底からぞっとして足がすくんだ。

それでも、大学生なんてみんなこんなもんなんだろう、そう安心したいのもあって年上の先輩に何気なく愚痴をこぼしたとき、志田は大学生こじらせてんね、とからかわれ、瞬間的に目から炎でも噴いたかと思うほど目の前が真っ赤に染まり、怒りと恥ずかしさに身が灼けそうになった。もう二度と誰かに話す気にもならなかった。一方で、葛藤と呼べるほど高尚でもない、実のないくだらないことでくるしんでいるのは自分だけなのかと思うと、びょうびょうと足元から冷たい風が吹きつけてくるようだった。歳を取れば鈍感になって、無神経になって、やり過ごすすべが身につくのなら早くそうなってしまいたいとすら思った。解放されたかった。

志田さん、よかったらこのあと飯でも行かない?

最後の授業の日、班のかたちにしていた机を離していたわたしの腕をひっつかんできた木村は、そういった歪んだ自意識とは無縁そうな、おぼっちゃんめいたのんびりした気風の大学生だった。それなりに班員として半年間授業を通して打ち解けあっていた木村に、わたしは簡単についていった。ちょうど五限が終わった時間だったというのもあり、そのままここの学生がよくいく近場のごはん屋さんに行き、とりとめもなく話した。木村は国文学専攻が志望で、所属している演劇部では脚本を手伝うことが多く、次の卒業公演でキャストを務めるという。ラインを交換し、春休みに誘われるままになんどか遊び、帰りの電車で告白され、なんのとっかかりもないきれいなルートをたどって交際が始まった。木村という恋人ができて、わたしの精神は少し落ち着いた。常に自分の存在を見ていて、存在をそのまま肯定してくれる人間がそばにいる、というのは思っていたよりもずっと大きな拠り所になるのだな、と思った。少なくとも、ひとりになった時に自己嫌悪でしんどくなったときに友達と違って躊躇いなく電話で話したり呼び出してあうこともできるというのはどれほど救われたかわからない。

好きだと思う。高島良澄の名前を検索履歴から消した手で彼氏をかき抱いて、高島良澄のタンブラーに貼られた見つけたURLから見つけた高校時代のブログをすべて遡った目で眠りから覚めた彼氏と映画を見て涙ぐむ。夕立が降れば感傷的に心がふるえ、外に飛び出してすべてを洗い流してほしいと祈りのように思う。ありふれた恋愛ソングがラジオから流れてきたら思いだす顔がある。唐突に母の声が聞きたくなって電話をかけながら大学からアパートまで帰る冬がある。いろんなことをひっくるめて、わたしは自分という人間がきたなさだけでできている気がしてならない。


そのまま彼氏の家に泊まったその晩、高島良澄からメールがあった。

"遅くなったけど、小説送ってくれてありがとう。本当に申し訳ないのだけど、まだ開いていません。というのも自分の原稿にかかりきりで、しかもスランプまっさかり(笑)これがひと段落したら必ず目を通すね。

本当はそれどころじゃないんだけど閉じこもってても拉致あかないしパーっと遊びたい気分、あまり時間は取れないのだけれどよければまた遊びませんか 良澄"

夜明けに喉の渇きを覚え、目が覚めてメールに気づいた。午前0時頃に送られたものだった。部屋は薄暗く、朝の気配はまだない。

用を足し冷蔵庫から麦茶のパックを出してコップにそそぐ。ぐびりと喉を鳴らして飲みほすと、急速に胃の底が冷える感覚がある。寒くなり、彼氏のジャージを羽織った。そういえば昨日榊と会ったのだと、夢のなかのできごとのように思いだす。

窓の外は、灰色の靄をまとった空の底が淡群青と薄桃色で混じり合い、白い色鉛筆を数本弱く引いたように朝日が射し込んでいた。眠る街は車の通る音だけがごぉんと低く轟く。あたまが冴えていた。彼氏は眠り込んでいて起きそうにない。テレビをつけたものの、通販ショッピングしかやっていないのですぐに消した。こんな風に早い時間に目がさえると、ホテルに宿泊した朝をなんとなく思い浮かべる。すべてがよそよそしく、自分しか知らないような気になる朝。

日中に時間を持て余しても携帯をいじったりマンガを読んだりして時間を食いつぶすだけなのに、こんなふうに早い時間に目が覚めきってしまうと、身体がむずむずして何かしたくなる。ほかの人を出し抜きたい、という感覚に近い。みんなが眠っているあいだに、一歩でも二歩でも前に進みたい。

手の込んだ朝食でも作ろうかと思ったけれど、食材があるかわからないしスーパーはまだ開いていない。あんまり早くできて彼氏を起こすのも興醒めだ。

携帯を手に取り、文章を打つためにメモを開いた。

やってみるか。うまくいく保証も予感もないけれど、わたしには取り掛かる以外の手立ては残されていない。

書きだす。思い浮かんだ冒頭も文字に起こしたい場面も決定的な台詞回しもプロットもアイディアもなくても書き出せるのは、強みでもあるという自負だけが原動力だった。止まらないで走りつづけないとだめだ。ふっと疲れて足を止め、振り返ってしまうとみるみる熱が引いて嫌気が差し放り投げてしまう。ある程度の量までは打とう、と決めた。

高校生の女の子が受験勉強のストレスで眠れなくなってしまい、夜が明けきる前の早朝の河原に自転車を走らせると、トランペットを吹いている中年男性と出会う、それだけの話だった。ふたりは言葉を交わし合い、朝に演奏を聴きに行くのが日課となる。主人公はひととおりトランペットを聴くと家に朝日が昇る前にひっそりと帰り、勉強を始めるのだった。

ツイッターを見たりネットを見たりと休憩を挟みながら、おおよそ原稿用紙八枚分ほど書いたところで力尽きた。三時間経っていた。空はすっかり晴れ渡り、水を湛えたようにひんやりと青かった。メール画面を開く。

"いいですよ! 声をかけてもらえてうれしいです、ぜひまたお話したい。わたしの小説まがい(笑)に関しては時間がある時で全然かまいません。またご飯に行きますか? お忙しいようなので行先はこちらが考えます。日付、時間も、基本的にはわたしはいつでも空けられます◎"

 媚びるような返信内容を無意識に打っている自分にうんざりしたけれど、そのまま送信した。お米を研ぎ、炊飯器にセットしてそのままスタートボタンを押し、ベッドに潜り込む。また良澄ちゃんに会ってくる、と言うとくぐもった唸り声が返ってくる。そのことに安心したら、熱いチョコレートソースをかけられたアイスクリームみたいに意識の輪郭があやふやになり、重い麻袋を抱えて湖に沈み込むようにずっしりと眠ってしまった。


  6

 小説の打ち合わせとゼミの合間の一時間半ほどしか時間が取れないと言われ、内心鼻白みつつも無難に駅近くの市で有名なカフェを提案すると、"そこ三回くらい行ったけどめちゃめちゃ高いしその割に質は星三つ程度なんだけどいいの?"と意外なほど辛辣にばっさり斬られた。

定石を踏んでおけばいいという浅はかさを見破られたような恥ずかしさにむしゃくしゃして、やけっぱちになって"じゃあ駅からも大学からも遠いですけど森林公園に行ってピクニックしませんか。お弁当はわたしが作っていきます"と思いつきでしかない幼稚な返信をすると、予想外にも"いいじゃん!"とこちらが面食らうほど食いついてきた。

なにそれ最高に楽しそう! わたしも食べものと飲みもの用意していくね! そうして単なるあてつけのつもりだった案が可決されてしまった。桜の季節でもないしまだ寒いだろうにと思ったけれど、その日はちょうど晴れて気温も上がるようだった。

 わたしと会ったあとゼミで彼氏と高島良澄が会うことを考慮したら、さすがに前もって彼氏にも言っておかないと角が立つだろうか。いっそ公園にも彼氏を誘おうか。迷った末に、彼氏には言わないで高島良澄に会うことにした。口止めはしない、成行きに任せることにする。それに、前会ったことも彼氏にあとから問いただされることもなかった。

 駅から帰るとき、雑貨屋さんで大きなバスケットを見つけて、ピクニックに行くとき以外持て余してしまうとわかっていたけれどつい買ってしまった。これにサンドイッチをたくさん詰めたい、それともから揚げを山盛りに持っていくほうが面白いだろうか。高揚した脚でそのまま本屋さんにも寄り道してカラフルな表紙のお弁当のレシピ本も買った。

 自転車を漕いで帰りながら、微かに梅の甘酸っぱい匂いがどこからか漂っていることに気づく。もうマフラーをストールに変えてもいいかもしれない。冬物のコートをクリーニングに出して、ぱりっとしたトレンチコートを新調したい。明日から三月だった。


「開けていい?」

「どうぞ」

 高島良澄は息を詰めて、仔猫でも入っているかごを開けるようにそっと蓋を持ち上げる。よかった、あまり斜めに寄ったりぐちゃぐちゃになってもいない。わあ、と感嘆がこぼれ、バスケットいっぱいに入った食べものに目がまんまるに開かれた。

「すごーい、おいしそう!」

 朝八時から起きて作った力作だ。二人分なので量はそんなにないものの、おかずを何種類も作りたくて準備していたらあっという間に昼が近くなっていたので慌ててアパートを飛び出した。バスケットから下に敷いた赤いギンガムチェックがはみ出て、いかにもカントリーな少女めいた姿でバスに乗ったせいで、乗客が静かに笑うのが恥ずかしかった。 

 手羽先のチューリップ型からあげ、ポテトサラダ、ミニトマト、ウィンナー、ゆで卵、うさぎに切ったリンゴ、バナナ、メインはベーコンとクリームチーズとサニーレタスとゆで卵をフランスパンで挟んだサンドイッチ。われながらおいしそうだ。

「ありがとう、こんなにたくさん。これ、出来合いでごめんね。さっき買ってきたの」

 そう言って紙袋から蓋の付いたストロー付きの飲みものをふたつ取り出す。色とりどりの角形に切られた小さな果物がたくさん沈んでいる。透明なカップの中のそれは、宝石を詰め込んだ小さなたからばこみたいだ。受け取ると、氷は入っていないのに思いがけず冷えていた。

「これね、くだものの生ジュース。あとデザートにいちじくのタルト買ってきたんだけど、まさかデザートもつくってくれてると思わなかった、ほんとにありがと。いただきます」

 百均で買ったレジャーシートに身を寄せ合うようにして芝生に座り、サンドイッチを頬張る。ベーコンからあぶらがじゅっとあふれる。

「晴れてよかったねぇ」

「ほんとに」

 地上ではほとんど風はないのに、雲の流れが速い。目が染まりそうなほど空は青く、刷毛で刷いたようなすじ雲がゆるやかにかたちを変えながら浮かんでいた。遊具もないだだっ広い丘には、細い塔のような展望台が建っているだけだ。遠くで小さな子供とお母さんがフリスビーをしている。この幸福そのものの景色の中で高島良澄と過ごしているという状況の特異さに、現実味がまるで湧かない。高島良澄にとっては友達のガールフレンドと遊んでいるだけなのだろうが、わたしにとって高島良澄は、インターネット越しで見る有名人、という印象の方がまだ強い。等身大の女子大生の知り合いとして見なすことができない。

 からあげを頬張る。焼き肉のたれで下味をつけたので、化学調味料の濃い旨味が肉汁とともに広がる。

「さっきまでやってた打ち合わせって、いま書いてる原稿についてですか」

「ううん、それとは違うやつ。掌編の連載をしてみないかって」

手についたパンくずをなめとりながら、こともなげに言う。へぇ、と軽く相槌を打ちながらも、内心打ちのめされていた。ツイッターなどでひけらかさないだけで、様々な仕事が舞い込んでいるのだろう。就活が必要ないはずだ。

「いま書いてるやつは、長編を書きおろしてみないかって言われたんだけど、行き詰まってる。こうやって合間合間に友達と遊んでもらって気分転換してるんだけど、なかなか打開できないや。周りはぴしっとスーツ着て就活してるし、すごい焦る」

 思いだして落ち込んだのか高島良澄の声がだんだん弱くなる。それを聞いても、憐憫の気持ちはほとんど湧かない。贅沢なこと言ってるな、としか思えない。きっと、好きで才能もある分野でお金が発生するということにも大きなくるしみがあるのだろうなとは思うけれど、どうしても同じ物書きとして羨む気持ちが先行して苦労や葛藤を推し量ることができない。そして今日さして仲がいいとも言えない、知り合って間もないわたしに声をかけたのは、普段遊んでいる友達は始まったばかりの就活に忙しいからなのだろう、と冷静に分析する。

 カラフルなストローでジュースをすする。命そのものを凝縮したような鮮やかな酸味が突き抜けた。

「良澄さんは、いつから作家になりたかった?」

リンゴを齧っていた高島良澄が口を開けたままわたしを横目で見る。無防備な横顔だった。

「うーん、ぼんやり意識していたのは小六くらいかな。その時は小説なんて書いたことなかったけど、ほかに憧れてるものもなかったから」

 わたしも同じだ。卒業文集で「将来の夢」という題で作文を書かなければならなかったとき、ほかになりたいと思う職業もなかったので、本が好きという理由で「作家になりたい」というテーマで書いた。実際に小説を書くようになったのは中学の頃からだった。

「中学は文芸部がなかったからバド部に入って、高校で文芸部に入って本格的に小説を書くようになった。自分で言うのもなんだけど、結構さくさく書ける人間だったから高校のコンクールでは何度か大きい賞をもらってるのね。そのままの流れで、大学でもつづけて書いて、作家になれた。正確には、作家になれそうなところまできてる」

「いいな、文芸部員みんなの鑑のような進路だ」

 素でうらやましかった。高島良澄はあはは、と笑い「自分でも、ちょっとできすぎかもとは思ってた」と言う。「わたしは他の人より勉強ができなかったから、賞状とトロフィー部屋に並べて自分のこと励ましてた。もし大学生になったあといまみたいにわたしに原稿を頼んでくれる人がいなかったら、ずっと過去の受賞歴にしがみついてひけらかしつづけたと思う。いまでもやっぱり人に言いたくなるしね、表彰式で賞状を一人でいちどに十二枚受け取って全校生徒ざわつかせたこととかね」

 風が吹き、土の匂いと草の匂いが入り混じる。高島良澄の短い髪がふわっと持ち上がる。遠くの木々が、風で森ごと揺れているのがわかる。

「いまのほうが作家としての仕事をちゃんともらえてるけど、あの頃の方がよほどわたしのピークだったし栄華時代だったなって思うよ。小説も詩も短歌も、思いつくより先にペン握って原稿に向かってた感じが懐かしい。めちゃめちゃに不遜で、思いあがって、胸張って生きてた」

「わかります。賞を取まくってたってとこ以外はわたしもほとんどそうでした」

「そうなんだ」へぇ、と驚いている。

「わたしが高校生の頃思い描いてた未来図の場所にいまの良澄さんがいるように見えて、すごく羨ましいし時々落ち込みます……」

「ねぇ」じ、とまるい眼がわたしを見据えて動かない。「琴ちゃんがどの程度文芸活動をしていたかわからないけど、作家になりたいって思ったことあるの?」

見つめ返す。透明なまなざしにさらされ、胸の真ん中でごぉっと風が起こり、何かが強く煽られる。

こたえられない。何の意図もない世間話でしかないだろうに、ほかの誰でもない高島良澄に問われ、言葉が突いてこない。

先に目をそらしたのは高島良澄だった。

「風、強くなってきたね」前髪を押さえながらぽつりとつぶやく。「展望台行こうか」


 小高くなっているところにある展望台にはひとけが一切なく、受付すら無人だった。エレベーターで上がる。

「すごい、海が見える」

 高島良澄がはしゃいだ声をあげる。こんなしょぼい展望台からまさか、と思ったけれど、確かに街並みの奥で白っぽい海が幻みたいにきらめいていた。

「結構見渡せるものだねぇ」

「晴れてるからですかね」

 ベンチに座る。しばらく望遠鏡を覗いていた高島良澄は、ふいにこちらを振り向いた。

「ね、時間大丈夫?」

「わたしは平気です。良澄さんこそゼミまで時間ありますか」

「バスあるから大丈夫。もうちょっと話そうか」

 わたしの隣に座る。こうしてみると本当に小さい女の子だった。

「なんだか不思議な縁だったけど、初対面から一か月で三回も琴ちゃんと会ったんだね」

 ふうっと息を吐く。「なんだかねー、琴ちゃんはまだ会って日が浅いって感じしないんだよね。木村くんから少し話を聞いてたからかな」

「木村はなんて言ってた?」

「琴ちゃんのこと? あいつはあんまり言いふらすタイプじゃないから同じ学部の子と一年くらい付き合ってるとかそれくらい。わたしに会いたいって話の時は、本が好きだから物書きの良澄さんに興味が湧いたんだと思いますとかって言ってたかな」

「そうなんだ」すうと息を吸った。「良澄さんは、なんでそれを承諾してくれたの?」

「え、なんでって」笑顔を保ったまま、困惑で眉が少し下がる。「会いたいって言われたら、そりゃ悪い気はしないよ。木村くんみたいな男の子がどんな人と付き合ってるのか、気にはなったしね」

見てやろう、って思ったわけですね。口にはしない、さすがに。

「まぁ、自分で言うのも本当に厚かましいから聞き流してほしいんだけど、こういうことはそんなにめずらしいことじゃないから。とくにツイッターで、フォローしてくれてる人から会ってみたいとかファンレター送らせてっていわれること、少なくないし、それ自体はお世辞も半分なんだろうけど、実際に会ったことあるしね、わたしのファンだって言ってくれる人に」

そのようすは、ツイッターを溯ってみていたときにわたしも見ていた。彼女の言動を見ていたら、会いたいと思う人は当然たくさんいるだろうと思った。高島良澄という存在を知ってまだ半年も経たず、なおかつ反感を抱きながら監視していたわたしですら、高島良澄という女の子を嫌いつづけることを諦め、会いたいと思ってしまうのに時間はかからなかった。最初から高島良澄を見上げてファンでいる人がそう申し出るのも何の不思議もない。

「あ、そうだ、琴ちゃんってツイッターしてる?」

 ふいに心臓を素手で掴まれたように、びくりと肩が跳ねた。何でもないことのように笑みを作る。

「むかしはしてたんですけど、いまはやめました」

「あ、そうなんだ」してたらツイッターでもつながれたのに残念だなぁ、とひとりごちる。素直に明かした方がよかっただろうか。鍵をかけた内輪でしか共有していないアカウントを高島良澄とも分かち合うことにプライドがくすぐられなくもないけれど、どこまで心を許していいのか自分でも掴みかねていた。高島良澄のことは相変わらず嫉妬の対象のままだ。諦めて観客席に降りて、高島良澄がフォローをし返していない数千人と同じところから彼女を見上げる方が自分にはずっとふさわしいのはわかっていても、まだ同じステージに登ることに執着心がある。

「前も訊いたけど、琴ちゃんは、なんでわたしに会おうと思ったの」

「え?」

「興味が湧いたから、としか聞いてないけど、よかったらもっと掘り下げて聞かせてほしいなって」

 ないならないでいいし、無理して世辞とか言わなくていいからね、と付け加える。

「……わたしは、」

 なんと言えばいいのだろう。ツイッターを見れば見るほど高島良澄という一人の女の子に引き込まれた時のことを思いだす。人となりの明るさとそれでいて常識程度の毒っ気も持ち合わせていて、創作者としての才能もふんだんに溢れていて、たくさんの人に慕われいて、愛嬌たっぷりの笑顔が憎めなくて……会ったこともない、しょせん一般人でしかない他人にこんなに執着をしたのはこれが初めてだった。本人の知らないところでまったくの他人である自分が執拗に個人に固執して意識して見ているということの気持ち悪さにあたまが回らないわけじゃなかったけれど、どうしても目が離せなかった。一挙一動を追っていたかった。

 わたしは高島良澄のことを知った時から、彼女の虜だった。素直に慕ったりファンになれなかったのは、高島良澄が会おうと思えば会える距離に実在していたからだ。彼氏越しにふれられそうな距離で暮らしている。

会おうと思えば、会える物理的距離に現実味を感じたのが大きかったのかもしれない。素直に好きだ、素敵だと思えなかったのは、憧れではなく妬みや敵意にねじ曲がったせいでしかない。

「くやしかったから」

「え?」

「同世代の人間が、自分がかつて頑張っていた分野で活躍してて、才能があるのが、くやしくて、だからこそ会いたくて仕方なかった。ツイッターも、良澄さんの言葉が好きでフォローしてないけどいつも覗いてます。こういうひとりよがりな動機で会いたいって言ってくる人もたくさんいたんじゃない? 本人にぶつけたのはわたしくらいかもしれないけど」

 隣で高島良澄は黙り込んでいる。

「言ってしまえば、わたしあなたみたいになりたかったんだ」

 言い切った途端、かっと熱で頬が火照る。逃げ出したかった。この場から消え去りたかった。高島良澄の顔色を窺うことすらできない。

「そう」

 強風で流れた雲が空全体を覆い尽くそうとしていた。午後からは曇るのだろうか。

「だからわたしに会ったんだ」

「たぶん。でも、良澄さんの作品に惹かれたのも本当」

 なにげなくこたえながらも、内心声を振り絞るような気力だった。

 高島良澄はしばらく言葉を発さなかった。ふたりの間で、じりじりと蟻が這うように時間が経過する。手持無沙汰さに耐えきれなくなり、手に持ったままのジュースを啜った。四分の一ほど残っていたなかみは、とうにぬるくなって味がぼやけていた。

「じゃあ単なるファンってわけじゃないんだよね」

含みのある言い方だった。こたえずにいると、「わたしがそっちの立場なら、同じようにくやしいし羨ましくいと思うだろうし、平静でいられないかもしれない」とつづける。「違う分野ででも、先に成功した友達のこと、ひがみで素直に祝福できなかったし、ツイッターでも、フォローしてても見ないようにミュートの設定にしてたこともある。物理的距離を置いてた時期もあった」

 じっと隣から視線が注がれる。

「琴ちゃんは逆だよね。赤の他人であるわたしに自分から会いにきて、わざわざツイッターも見てる。いい悪いじゃなくてさ、なんでなんだろうなって、純粋に疑問なんだ。くやしいならわたしのことなんか見なければいいし、他人として放っておけばいい。どうしてわざわざ自分から近づいてくるのかなって」

 べつに責めてるわけじゃないよ、とつけくわえる。

 こたえられない。くやしさもあったけど作品自体のファンではあるから、とこたえればきっとこの子もそれなりに納得するし、この場は取り繕える。話は流れる。

 だけど――いったい何でなんだろう。わたしはどうして心が灼けつくように荒むのがわかっていながら高島良澄から目が離せないでいて、憎たらしい、と思いながらも近づきたい、と思ったのだろう。

「変な質問だけど、琴ちゃん、わたしと最終的にどうなりたいの?」

 困ったように高島良澄が微笑む。この問いはどのくらい深読みすればいいのだろう。どう言えばわたしは高島良澄に勝てるんだろう、とこの期に及んでそんなふうにしか考えが回らないわたしをこの子はどの程度見透かしているんだろう。

なにも言えない。なんで高島良澄に過去に書いた小説なんか送ってしまったんだろう、と思った。読まれたくない、感想も欲しくない。メールの文ごといますぐ取り消してしまいたい。

「どうって、」

 めまぐるしく思考が走る。ツイッターでフォローしあう、手紙を交す、時々は電話をかけ、都合が合えばごはんを一緒に食べる。お互いの作品を読み合って感想を言い、批評しあう。季節ごとの思い出を分かち合う。

 丁寧に時間をかければ高島良澄と仲よくなって、そんなふうな関係になることも可能だったかもしれない。来年には東京に行ってしまうのだろうけれど、それなりに近くに住んでいるわたしにはそのチャンスがある。もっと慎重に、媚びない程度に好意的に接していれば、共通項の文芸にとどまらず、なじみの友達のように心から打ち解けあうことだって、もしかしたらできていたのかもしれない。

 でも、そんなふうに高島良澄と密な間柄になることを望んでわたしは彼女に近づいてたのだろうか。親友といえるほど親しくなって彼女の内側に入り込むことで、プライドがくすぐられて高島良澄への敵意や嫉妬やくやしさは弱まるのかもしれない。でも、弱まったところでわたしは救われるわけじゃないのだ。なんの解決にもなっていない。たとえ高島良澄に、作品を見せつけて才能を認められたところで、そんなことは何の足しにもならない。いまいるところから前進できるわけでもない。高島良澄と匹敵する努力をして同じ高さにのし上がらなければ、いくら下から足を引っ張ろうと足掻いたところで、無駄なのだ。

 わたしがこたえるために言葉を選んでいると思っているのか、高島良澄は何も言わずに黙って待っている。

 ようやくわかった。なぜここまで高島良澄に執着して、コンプレックスを抱いているのか。

 見たくなかったのだ。自分が、面倒さや苦しみから遠ざかりたいがために努力することを放棄したいろんなことを、文芸の世界を、あらゆる方法でやりつくしている人間がいることなんか知りたくなかった。高島良澄を知る前は、なにも生み出すことのできない自分への罪悪感や劣等感を、やったってどうせなににもならないしなににもなれなかったんだ、と諦めたふりをして見ないふりをして正当化して自分をごまかせていたのに、ふいにそこへ、文芸の才能をすでに世間に認められている女の子が立ち現れた。高島良澄の出現は、見たくないものを見ないためのフィルターとしてがちがちにかためられたプライドをしゃくしゃくと野菜を噛み砕くようにかんたんに破壊し、痛いほどの現実を目に見せつけてきた。おまえが逃げているあいだに努力を世間に認めさせた人間がいると、知らしめた。

高島良澄はわたしがあっけなく手放した努力で欲しかったものをやすやすと――もちろん実際には血のにじむ努力や苦労があったに違いないのだけれど、それを見せびらかしたり周りにアピールすることもなくただ淡々と手にしているように見せている。傷つきたくない一方で見えないところにしやっていたもしもの世界が、もしかしたらわたしも努力することを投げていなければそうなれていたかもしれないという後悔や僻みにすり替わってしまったのだ。

「対等に、なりたい」

 ようやく言葉を振り絞る。高島良澄が軽く笑ったまま目をしばたかせた。声にした途端それは卑屈にも響いた。

「それってどういう意味?」

 ここまできたら、もう腹を割るしかない。息を吸い、一気に言った。

「ファンとして良澄さんの視界に入るんじゃなくて、同じ高さまで登り詰めたいって意味で、対等になりたいんです。それでけちょんけちょんにされたい。傲慢ですけど、自分と同じ分野で才能を認められる同世代の人に会ったの、良澄さんが初めてなんです。」

 困惑したように黙り込み、わたしを見つめる。

「わたしは本当に頭でっかちで、才能なんかないのに高校の時から根拠のない自信がこびりついて離れないんです。才能がある人にプライドを真正面からぐしゃぐしゃに叩きのめされたい。それで、また立ち上がりたい」

 口にして、あらためてああそうだと思う。わたしは誰かからぺしゃんこに叩かれることをどこかで望んでいる。本当は高島良澄に喧嘩を売りたいんじゃない、彼女を僻んで八つ当たりすることしかできない自分を思いきりひっぱたかれたいのだった。

 黙り込んでいた高島良澄がくちびるをゆっくりひらいた。

「琴ちゃん、それは違うよ」

 思いがけない切り返しに、それこそいきなりぴしゃりと平手打ちを食らったような気がした。あっけにとられていると、さらにつづける。

「まずね。才能がないって言うけど琴ちゃんそんなこと本気で思ってないでしょ。それを言い訳にするのはずるいよ。それならわたしだって才能なんかないよ」

 正論だった。羞恥でくちびるがひくつき、みるみる頬が朱に染まる。

「それなら、って、」

「才能があるように見える人はみんな才能があるふりしてるんだよ。それか、そう見せかけられるまでつづけられた人だけ残ってるの。はったりで装うくらいの気概じゃなきゃこんなことつづけられない」

 言い返せない。

「それと、誰かに在り方を批判されたいっていうのは他力本願すぎるでしょ。誰もいちいち立ち止まって良澄ちゃんにかまう暇なんかないからいままで突きつけてくれる人がいなかっただけの話じゃない」

 もしかしたら、いまこそ望み通り高島良澄にやり込められているのだろうか。想像とは違い、胸は熱くなるどころか氷のかたまりを次々と呑まされているようにくるしい。もう傷つけられたくない。

「ごめんね。わたし口悪いの。でもなんか、聞いてて腹が立ったから」

 本気で申し訳なさそうに言う。その気遣いがまた羞恥心を煽り、ばつが悪くて顔を上げられない。

「くだまいたり理論ばっかりこねくり回してないで、同じ土俵に来なよ。そしたらその時はこてんぱんに倒してあげるから。四股踏んで待ってる」

「……はい」

 万引きをとがめられた小学生のようにしおれた返事しか出ない。ぐうの根も出ない完敗だった。

「少なくともわたしに才能があると思って参ってる時点で、いまの琴ちゃんには戦意はないよ。のし上がるために手を貸す気もないけどね」

 ガラス窓の向こうの空を覆う幾重にも皺が寄った分厚い雲は、生きもののうらがわにも似てグロテスクですらあり、思わず目をそむけた。

「わたしに楯突いても、琴ちゃんはわたしを引きずり下ろすことなんてできないんだよ。自分の足でここまで来なきゃ」

 

 早朝に彼氏の家で突発的に書き出した短編小説は原稿用紙換算で三十枚ほどにまとまり、十日で完成した。とくに宛てもなかったけれど、とりあえず榊にファイルで送った。ほかの文芸部員には、送らなかった。ツイッターなんかではそれなりにいまでもつながっているけれど、わたしとは違うレベルで文芸とは切り離されたところで大学生活を送っている彼女たちに送るのはなんとなく気が引けた。

 ピクニックをしたそのあと、彼氏と高島良澄は会ったはずなのに、良澄さんとふたりで会ったの? などと問われることはなかった。きっと高島良澄が黙っていたのだろう。ツイッターにも、わたしと草原でお弁当を食べたことは書いていなかった。

「木村」

「うん?」わたしのベッドに寝転んで、携帯から目を離さないまま返事が返ってくる。

「小さいころ何になりたかった?」

「なんだよいきなり」 

「いいから」

 少し考えて、起き上がってあぐらをかく。「スポーツ選手、ではなかった気がする。少年野球は長いことやってたけど、そこまで野球うまくないって自分でわかってたし」

「ふうん。じゃあ、何」

「親に訊かれたときはサラリーマンってこたえてごまかしてたけど、翻訳家とか、小説家になりたかった」

 思いもかけない言葉に、すぐには反応できなかった。こんな身近に小説家を目指していた人間がいたのか。演劇部でたまに脚本を書いたりすると言っていたから、ありえない話ではないのだけれど。

「まぁ、それも無理なんだろうなって高校生くらいには諦めてた気がする。小説家はともかく、翻訳家になるにはどうしたらいいのかよくわからないしな。英文学専攻でもないし」

「来年から公務員講座取るんでしょ? てっきりもっと早くから公務員志望なのかと思ってたよ」

 わたしの言い方に皮肉を感じたのか、彼氏は少し困ったように笑った。

「取るけど、就活を全くしないとは決めてないし、最後までつづけられるかもわからない。でも、俺は他の人みたいにがつがつしてないしこれといって武器になる経歴もないから、就活で太刀打ちできると思えないし、結局公務員が向いてるような気がしたんだよ」

 彼氏から見たらわたしも十分がつがつしているように見えるのだろうな、と思うと恥ずかしくなり、テレビを見るふりをして背を向けた。

「琴は? 就活?」

「たぶんね。留学もインターンもしてないしする気もないから、あんまり考えたくないな」

「高校生の頃とかは、何になりたかった?」

 押し黙る。こたえはわかりきっていても、とてもそのまま口には出せない。

作家。なりたかったし、それ以上に周りが琴子は才能あるんだからなったらいいじゃん、とか琴子ならなれるよ、と言ってくれた。でも、いまは思う。それは単なる雑談の延長で、おもしろい人に、あなたは面白いしお笑い芸人になったら? というくらい無責任な発言でしかなかったのだ。単純に、一人でも敵となりうる人間を自分と違うところに追いやりたかったのかもしれない。わたしと同じ高さで、重さで考えたうえでそう言ってくれた人は榊くらいしかいない。

「文章を書くことに携われるなら、なんでもよかった」

 曖昧にぼかす。「新聞記者とか出版業とか、それこそ小説家とか?」と問われ、頷く。過去の話をしているのだし、作家になりたいという野望を暴かれたわけでもないのに、どうしてか羞恥があった。

「なんか、ぽいなあ」

「なんで?」

 見抜かれたような恥ずかしさで、少し咎めるような口調になってしまう。彼氏はそれを気にするわけでもなく、「いや、性格とか趣味とかから、らしいなって思っただけだよ」と言った。「書く人っぽさは、なんかあるよね、琴は」

「そっか」

"いまメールに気づいた 時間空いたときに読む"と榊から短いラインが来た通知を指で押しやり、画面から消す。

 わたし小説書くの。高校生のときは文芸部で、何作品も書き上げてた。作家になるという夢を書かなくなったいまも捨てきれずにいる。

 そんなふうに打ち明けるのを想像する。想像のなかで彼氏は見たい、読ませてときらきらした目で言う。この人はきっとわたしが、あるいは他人が小説を書くという事実に捻じ曲がった偏見も持たないしその事実の裏にある自意識を読み取ろうと覗き込んだりもしない。わかっていたけれど、やはり言い出せなかった。

 スイートピーはさすがに傷み始めている。白い花びらはくったりと水けを失し始めてはいるものの依然きれいなままのようにも見えるのに、裏のがくが思いがけず薄黒く枯れて丸まってしまっていた。花を支えきれずにうつむいてしまっているものもいくつかある。なんど目が覚めても朝日に照らされてぴんと咲き誇っているスイートピーを確認しては疎ましく感じてすらいたのに、いざ枯れ始めると高島良澄に見放されたかのようでわけもなく淋しさのようなものがざらざらと胸に吹きつけた。


良澄 @148cm_ism

"室温だけで氷が溶けるようなのろさで原稿がようやく少しずつ進み始める。見ていてくれる人、応援してくれる人が途絶えないのは本当にありがたいことだ。周りが就活一色で焦るよーホント怖い、人より保険がきかないところで頑張ると決めた以上、人より頑張らないといけない……"


 高島良澄自身にも指摘され、もうこんなことに体力や時間を消費している場合ではないのだろうな、とわかってはいるものの、それでも高島良澄のツイッターを覗くのはやめられなかった。見ようが見まいが向こうにはわからないのだし、自意識が空回っているのはわかっていても、きっと琴ちゃん見てるんだろうな、と思われているような気がしてならない。

 それでもあそこまでこきおろされた以上、もう以前ほどの、胸の内側を直接やすりで削り取るような痛みを伴った嫉妬や羨望は湧かなくなった。静かにパソコンに向かう。"久しぶりだったから正直期待してなかったけど、面白かったよ。書けるんじゃん。展開が透けて見えるのが気になるのでもっと遊べばいいのにと思う"と榊から感想が来て以来、なにか長い文章を書きたくてパソコンに向かうようになった。

それにしても、何もないところから一からひとつの世界を創りあげることはこんなにも大変だっただろうか。書き上げてしまえば大した作業ではなかったように錯覚するのに、物語に入り込んで構築している間は孤独で地道で、呻吟しながら一歩ずつ歯を食いしばって書き進めることしかできない。

 何も執筆していない時期はあれほど書くことに焦がれて執着していたというのに、いざ筆を執るとその重さにたちまちひるんでしまい、取りかかってやろうという意気込みが狼を前にした仔犬のようにしゅるしゅると萎みそうになる。少しでも気弱になると、こんな無駄なことやめてしまいたい、と思考が傾いてしまう。書きあがるかもわからない、書きあがったとしても面白いものなのか書くに値するだけの物語なのかまるでわからない、評価も点数もついていないいわば零点の作品にやっとのことでしがみついていて何になるのだろう、とフォルダごとゴミ箱に入れてしまいたくなる。それでも、世間から評価をつけてもらう土俵に立たなければ、わたしはずっと書くことにこだわり縛られつづけることになる。諦めることもできずに、みっともなく憧憬と羨望と嫉妬を岩のように抱え込みつづけ、やってさえみればいつかは自分もという思い込みを捨てられないまま生きることになる。

 休みを挟みつつキーボードを叩く。ふっと視界の端で白く携帯がひかった。新着メールが届いていた。すっと糸で引っ張り上げたみたいに心臓が釣り上がる。

思った通り、高島良澄からだった。最後に会ってから四日経っている。もうそろそろかもしれない、と朝携帯の電源を入れるたびにびくびくしていた。メールを開く。

"遅れてごめんよ~。いまさらだけど感想です。

面白かった。琴ちゃんってこういう文章書く人なんだね、と意外な気持ちで読んだ。何となく、自分が文芸部だったころを懐かしく思いだしました。読ませてくれてありがとう"

 息もつかずに読み終える。拍子抜けするほど簡単な、肝心の内容にほとんどふれていない、そっけないとも取れる短い感想だった。それでも、自然と指が動いてそのメールを保存した。感想を引き出せない程度の作品でしかなかったのだろうか、下手に褒めても厭味に思われると思って書かなかったのだろうか、と一瞬いろいろ逡巡したけれど、きっと高島良澄は本心でこの感想を書いたのだろうし、実際に抱いた感想はこれ以上でも以下でもないのだろうな、となんとなく思った。

 感想の短さよりも、次の約束を取りつけていないことが気にかかる。もう会わないのかもしれない。向こうも忙しいし、春休みもあと半分だ。わたしはもう半月も経てば、三年生に上がる。大学生も折り返しで、専門の授業の発表準備でばたばたになるだろうし、就活のための資金もためなければならない。

 対岸まで行かなければ。高島良澄に、こちらと同じくらい心をひらかせるには、いくら彼女の持っているものに付きまとって媚びへつらおうが敵意をむきだしにしようが無駄だ。同じだけのものを創り上げて、同じ場所まで辿り着かなければ、わたしの言葉も姿も届かない、わたしを振り向くことはきっとない。

 やってやる。かっこ悪くじたばたと足掻いて、くるしみながら同じ場所まで行ってやる。それができなければ、敗者として観客席に自分の席を見つくろう。

 まだ、わたしはなにもしていない。世の中に対して、自分の中から出したものに点数も評価もつけてもらっていない。誰からも傷つけられていない。たとえこれが、創作を諦めるために書いていることに他ならないとしても、断ち切れるなら上等だ。

 走らなければ、という強い意識が、ようやく灯る。電源ボタンを押し、暗くなりかけていたパソコン画面をもういちど起こした。


  7

 高島良澄が小さな紙袋を提げているのを見て、自分が何の差し入れも持ってこずにきたことにようやく気づいた。時計を見ると公演まであと三十分、違うキャンバスにある購買まで走って買いに行って間に合うとも思えない。

「うそ、もしかして手ぶら?」

 小さなショルダーバッグ一つしか持っていないわたしを見て、あきれ声を出す。前よりも髪が短く切りそろえられていた。「せめて自販機でジュースかなんか買って持っていったら」

 助言を素直に聞くのは癪だったけど、そうするしかない。山ぶどうジュースを選んで押す。がこ、となかから殴ったような音を立ててペットボトルが落ちてきたところで「おっすおっす」と声がかけられた。スーツ姿の彼氏がすぐ後ろに立ってにやにやしている。

「はい差し入れ」

「っていま買ったやつじゃん! ま、ありがと」そう言って早くも半分ほど飲み干してしまう。緊張しているのかもしれない。

「お疲れ様―、クッキー焼いてきたから終わったら食べて。頑張ってね」

「いつもありがとうございます、いただきます」

 嬉々として受け取る。さすがにそれはここでは開けなかった。

 よかったら木村くんの春公演同じ日に観に行かない? 他大のホールに一人で行くの慣れなくて、と高島良澄から申し出があったときはびっくりした。高島良澄は、わたしが春公演を観に行くつもりがなかったことを知ってもっと驚いていた。

 彼氏が出ている演劇を観るのはこれが初めてだ。演劇部が大学にある小ホールで公演をしていることも、それなりにいつも黒字で固定ファンが多いことも初めて知った。スタッフ側にいる彼氏は、いつもよりすこしよそよそしく見える。

「もう行かなきゃ。ふたりとも、楽しんで」

 慌ただしく走り去る後ろ姿を見送り、ホールに入る。舞台は重々しくカーテンで閉ざされており、あの空間で役者として彼氏が九十分ほとんど出ずっぱりになるなんて信じられなかった。舞台がよく見える真ん中を陣取り、緑色の毛羽立った椅子に深々と腰かける。

「あとから聞いたけど、琴ちゃん、木村くんの出てる演劇、いままで観たことなかったんだってね」

 隣から、声がした。

「木村くん、気にしてたみたいだよ。もし恋人が、わたしがすすめてもわたしが書いたもの一切読まない人だったら、きっと落ち込む」

 人工の唸り声のようなブザーが鳴り、ステージが照らされる。隣から注がれる視線をはねのけるように背すじを伸ばし、じっとカーテンの合わせ目を見つめた。

「琴ちゃん、冷たくない?」


 学校に演劇部があった中高から合わせて、学生による演劇を観たのは初めてだった。脚本は部長と彼氏がふたりで練ったものだ。家に泊める時も寝る直前まで持って来たパソコンを叩いたり、後輩とスカイプで話しているのは見ていたけれど、とくに内容について聞いたことはいちどもない。部活の話もあまりわたしからは訊くことはなかった。

 付き合ってる人が出てる舞台なんてとても恥ずかしくて見てられない、と身構えていたけれど、そんな懸念は無用だった。舞台に立っているのは彼氏ではなく、〈アキラ〉という名の話の登場人物でしかなかった。九十分の間、わたしは彼氏を〈アキラ〉としか見ていなかったことに、幕が下りてから気づいた。面白かった。たくさん笑っていたし、話が終わっていくのを寂しい、と思う自分がいた。なんだかこのあと彼氏と顔を合わせるのが気恥ずかしく、楽屋には立ち寄らないことにした。

「良澄さん、よかったら夕飯一緒に食べませんか?」

 高島良澄は少しだけ考え、「そうだね、おなかすいたし」とわたしについて学食に行った。

 からあげ丼とポテトサラダを取り、席を取った。高島良澄はうちの大学の食堂がめずらしいのか、あちこち見回していた。

「なんでいままで恋人が頑張ってるところを見てあげなかったのか、わたしには理解できない」

 おもしろかったです、もっと早く来てればよかった。わたしが先回りして取り繕うことを許さないかのように、席に着いた途端いきなりジャブを打ってくる。この子、わたしのこと好きじゃないんだろうか、と目つきを尖らせている高島良澄に射すくめられてぼんやり思う。

「毎回誘ってるのにいつもうやむやにしてかわされるから今回琴が来てくれて嬉しいって、声かけたわたしにお礼言ってたよ。余計なお世話かもしれないけど、木村くんにはひと言謝った方いいと思う」

 本当に余計なお世話、と思ったけれど、言い返す言葉はなにもない。黙ってからあげを頬張る。

 明後日からゴールデンウィークに入る。窓から、端々までたっぷりとみずみずしさをたくわえた葉桜が揺れているのが見えた。薄暮れの中のきれいな影絵に目をとられているふりをしていると、諦めたのか高島良澄は口調をやわらげ、「演劇おもしろかったでしょ」とつづけた。「演劇部の彼氏、いいじゃん。自慢できることだよ」

「……べつに、木村が演劇部だってことを恥じてるわけじゃないですって」

 言い返すと、納得がいかない顔で大げさに肩をすくめ、カツカレーを食べ進める。なおも言い訳を並べようかとも思ったけれど、決定的に自分の非を指摘されそうな気がして口をつぐんだ。

 高島良澄と会うのは一か月ぶりだ。迷った挙句、四月から彼氏が所属しているゼミに参加を始めたけれど、執筆活動が本格的に忙しくなってきたらしく肝心の高島良澄とはすれ違いになっていた。正直落胆したけれど、それでも、ゼミの活動自体は興味深く、すぐに夢中になった。意地を張ったまま蚊帳の外でうろうろしていたのがばかばかしく思えた。

 高島良澄がわたしに書き出しを送ってきた小説は、今月から連載が始まった。買うのはくやしくて、それでもやはり放っておくほど無関心を気取れず、立ち読みで一気読みした。わたしに送ってきたときのものより文章として整っている、とは思ったけれど、粗削りだった部分をなめらかにしたせいでかえって勢いが減っているようにも感じ、少し残念に思う自分がいて、それがなんだかおかしかった。

「琴ちゃん、ゼミはどう? まだ入ったばっかだろうけど」

「楽しいです。専攻とは分野があまりかぶってないんですけど、本来の自分の興味の研究ができる気がして」

 あれ、と高島良澄が雛のように小首をかしげる。そのしぐさは子供のようで、本当にわたしより年上なんだろうか。まったく二十代という印象を持てない。

「そういえば前に専攻は心理学って言ってたね。本を読む人ならもっと文学とか言語の研究を選びそうなのに」

 あからさまに何で? という顔をしてわたしからの返事を待っている。こたえる気はない。なんでこの子はこんなにも人の急所を嗅ぎ当ててくるんだろう。いままでも持ち前の天真爛漫さでたやすく人が必死にかくまっている心の翳りをえぐってきたに違いない。

 文学部の専攻は一年の後期に希望を出す。大学一年の春に研究室訪問した国文学や国語学、言語学は第三希望まである枠のどこにも書かなかった。よく覚えていないけれど、恐らくは社会学や行動科学など、文学にはあまり関係のない分野で埋めたはずだ。

 にこりと微笑むだけにとどめて、話を変える。

「良澄さんの連載、読みました」

「あ、ありがと。なんか知り合いに面と向かって言われるとすごい恥ずかしい、大学の生協に置いてあるの見ると逃げたくなる」

「前より面白かったです。読みやすくなって」良さが少し削られていた、とは言わなかった。

「琴ちゃんに感想もらった後も直したけど、編集さんに出したら鬼のように赤入ったからねえ」

 わたしたちのように演劇を観終わった帰りと思われる学生がたくさん列をなしている。わたしの目の前でなにげなくカレーを食べているこの子が作家として名のある小説誌に「女子大生作家、初の連載スタート」と銘打ってデビューした人間だとわかる人はあのなかにいるのだろうか。わたしの目には、こんなにも威圧感を放っているようにも感じるのに。

「あれ、木村くんじゃない?」

 指さす先につられて目線を持ち上げると、確かに入り口付近に彼氏が立っている。一緒にいるのはいつも彼氏がつるんでいる演劇部のメンツだ。キャストもいる。くたびれた笑顔は、目一杯の充足を隠し切れない。

「さっきまで舞台で立ち回ってたのに、あの人たちもこんなところでごはん取るんだねぇ。変な感じ」

 のんびりとした声が耳を素通りする。演劇部員のなかでほがらかに笑う彼氏は、わたしが注視していることにも気づかずに、仲間と一緒にトレーを持って列についた。


 パソコンを立ち上げると、控えめながら甲高い音が部屋にもったいつけるようにゆっくりと響く。ひやりとしながら、完全に電源が突くのを待ち音量をゼロに下げた。

 まだ午前八時を回っていないのに、晴れ渡る空は原色に近い暴力的なまでの青さだ。窓を開けて風を入れつつ、日焼けしたくない一方でカーテンを引く。

 三月末が締め切りの、地方の新聞社が主催の小説コンクールに以前書き上げた三十枚ほどの短編を出してから一か月半が経つ。それが仕上がってすぐ、ほかのものを書き始めた。こちらは六月半ばが締め切りで、大手の出版社が主催の新人賞に向けている。かつて高島良澄が最終選考で落とされた賞とだけあって、つい気負ってしまう。賞を取れば必ず単行本が出ると銘打たれているだけあって、枚数制限は二百枚以上五百枚以内。それを知った時、途方もない、まったく見当もつかない遠い暗がりの道のりに自分が進もうとしていることに眩暈がし、この賞は見送ろうかとも揺らいだけれど、次の公募は秋まで待たないとめぼしいものがない。腹をくくってプロットを簡単にだけ練って書き始めることにした。

 およそ一か月かかって、原稿用紙換算で八十枚足らず。いままで完結させたもので一番長かったものは七十枚に至らないほどだったから、ここからは未知の境地で書き進めていることになる。プロットは結局結末が具体的に思いつかないまま書き出してしまったので、どこにどんな展開で着地するのか、ここまで書き進めておきながらさっぱりわからない。こんな無謀でやり方でいいものができるのか自信はない。けれど、いくら頭のなかで書き始めてもいない物語をあれこれひねくりまわしていても埒が明かない気がして、見切り発車したのだった。

思い切って、榊にいちどちゃんと新人賞に向けて長編を書くことにしたと伝えたら、思いのほか応援してくれた。「おまえまたプロットちゃんと書いてないの? まぁそれはくせだから仕方ないのかもしれないけど、ある程度書きたまったら一回立ち止まって起承転結とキャラ設定練り直せよ? いままでは中編以内に収まってたから何とかなってただけで、本来ならおまえがめちゃくちゃに書き進めても読者は置いてかれると思うから」あきれられながらも、ひさしぶりに編集らしい榊の助言とも叱言ともつかない言葉が聞けたのがうれしかった。自分が何者かになれるような錯覚に陥る。

 彼氏はふとんに頭まですっぽりとかけて眠っている。その向かいの辺にパソコンを置き、ふとんの山を見ながらキーボードを打つ。

 劇面白かったよ、と千秋楽の翌日に伝えると、「小学生の発表会みたいに言うなよ」と苦笑いされた。打ち上げで随分酒を飲んだのか、二日酔いで顔色が悪く、一週間のぶっ通しの公演でやつれきっていた。それでも、彼氏の顔はこれ以上ないほど満たされているように見えた。

 どうやってあの話を思いついたの? 脚本って小説とどう違うの? 大学から書き始めたの? いろんな興味や疑問はもちろん湯水のように湧いたけれど、いまさら一つひとつ解説してもらうのが恥ずかしく、訊けないままでいた。わたしが三月からほとんど途切れなく小説を書いていることも、言っていない。彼氏が家にいるときにパソコンを立ち上げて執筆を進めるのは起床時間のわずかなずれの間だけだ。それか携帯でちまちまと打つ。

一番近くにいる人間に対してこんなこそこそしているのもどうかと思うけれど、たとえ脚本を書く人間にでも自分が物書きであることを明かすのはとても勇気がいるのだ。いままで、文芸部経験があることもひた隠していただけに。

 バイト以外の時間はほとんど自由に使えた春休みと違い、授業が始まったいま、昼休みやコマ休み、就寝前などに細切れに進めることしかできない。二年の時より授業数は半減したものの、演習の課題に専門の授業の発表準備、ゼミ、就活関連のイベント、やらなければならないことは山ほどある。合間合間を縫って持ち歩いているパソコンをいちいち起動させていると、高校時代に戻ったような気もした。追い込まれているときの方がかえってアイディアが生まれたり筆が進むのは、あの頃とまるで変わらない。

 テーブルには、彼氏が買ってくれた鈍くひかる錫製の細い花瓶に挿したかすみ草がしとやかに佇み、窓から風が入るたびさざめくようにわずかに揺れていた。


  8

 書けない。

 書かなければ、ああでも書けない、なにも出てこない、それが交互に頭を埋め尽くす。鉛でも溶かし込んだみたいに頭がぐらぐらと重い。腕を回して肩をほぐすと、油を挿していないゼンマイじかけの玩具のように筋肉が軋んだ。

 二時間はこうしてパソコンに向かっているのに、文字数が一向に増えない。何行か書いては消し、本棚をあさり、ツイッターを覗き、少し書いてはやはり気に入らずまた消去する……その繰り返しで、午後九時を回っていた。

 いったいこんなものを書いてなにになる? どうしても、誰かの文章を水で薄めたようなどこかで読んだような既視感がある。こんな長いだけのもの、他の人が読んでおもしろいと思うとでも思っているのだろうか。もっと目新しい比喩を入れたほうがいいんだろうか、でも入れすぎても狙いすぎというか、あざとくなって鼻につきかねない、登場人物の内面描写ばかり躍起になって展開や話に動きがないのでは、そもそもこのテーマはわたしが取り扱うには重すぎる、そもそも書いたことなどないのに長編小説なんて無謀すぎたんじゃないか、ああでも書き上げる前からありとあらゆる批判や非難を考えておいてできるだけ叩かれないように予防線を張るように書いてもしょうがない、雑念をそう振り払っても文字数は一向に増えない。

 でもそれは、なにか書こうとして、でもなにも物語り始めることができないときとはまるで違う沈黙だった。そのときは頭のなかは真っ白で、長い間水のなかにもぐって手さぐりでなにかを探すような苦しさだった。それは息苦しさや身体全体にのしかかる水圧にすぐに音をあげて水から上がり、肺がしなるまで思う存分呼吸をすればその苦しみからは永遠に解放される。また水中へと深くもぐりこむまでは。

 いまは違う。百二十枚も書いておいて、途中で話が行き詰まったからといって簡単に放棄などできない。そこまで積み重ねてきた以上、なにかとっかかりを見つけ、またたどりつくまで奥深くまで潜っていくしかないのだ。

そもそも自分自身がおもしろいと思って書いているのかどうかももうよくわからない。なんども読み返したので文章の流れも構成も呑み込みきってしまっていて、自分が作品を内側からしか見ることができずにいるせいかいま創り上げようとしているものが外から見て魅力的なのか、面白いのか、傑作なのか、駄作なのか、くだらないのか、さっぱりわからない。途中でも榊に見せようかとも思ったけれど、勇気が出ない。


 良澄 @148cm_ism

"エッセイの感想がかなり届いて嬉しい! 下駄箱にあふれるラブレターを一気に受け取ったようなモテモテな先輩の気分。小説の合間に息抜きで書いて、と言われてるけどこっちの方が楽しくて毎回枚数がオーバーしてしまう。エッセイを読んでくれてるみなさん、わたしの小説もぜひチェックしてくれよな! 今月はガラッと展開するぞ。お楽しみに"


 高島良澄は四月から地元の新聞で毎月エッセイの連載を始めた。わたしが住んでいる県では売っていないので読めないけれど、地元の中高生からは好評らしく、ツイッターで感想をもらっていることもある。若い読者からの反応がここまで大きい新聞の連載はめずらしいそうだ。

 もうめったなことではいちいち動揺したり驚かなくなってはきたものの、スランプの時に見る高島良澄のかがやくばかりの活躍は胸を垂直にえぐり、敗北と劣等感の烙印が胸にぐりぐりと焼きつく。見るのは毒だとわかっていても、一日にいちどは確認しないと落ち着かない。ツイッターをしない親の世代のおとなからしたら、病気だと騒ぎ立てられても仕方ないかもしない。

 やめた、今日はもう何もいいものを書けない。明日の演習の予習を少しして寝よう。そう決め、電源を落としてパソコンを閉じた。気分を替えようとコーヒーを淹れようと立ち上がる。

インスタントの瓶は空だった。そうだ、切らしたのを忘れていた。舌打ちしたい気分になる。悪いことは重なるものだ。

 あきらめて麦茶で我慢しようかとも思ったけれど、どうせなら散歩がてら外まで買いに行って気晴らししよう。部屋着の上からジャンパーを羽織り、携帯と財布を持ってアパートを出た。


 冷たいコーヒーの苦みが喉を滑り落ちる。やっとあたまが冴え、一気に飲み干した。

 欄干に身体を預け、川を見下ろす。車が通らないわずかな隙間にだけ、水が流れる音がこちらまで届く。さらさらともきゃらきゃらともつかない、子供のささやかな笑い声にも似た懐かしい音。海で聴く、緩急がはっきりした波音とはまた違う、心音を聴いているように落ち着く音だ。なんとなくもう少し外の空気にふれてぼんやりしていたくて、近くの橋まで歩いてきた。

 初夏の新緑の匂いと川辺のしょっぱいような匂いが混ざりあう。ごおっとライトでわたしを瞬間赤く照らしては通り過ぎていく車の数もだんだん間遠になっていく。缶を握りしめ、橋から飽きもせずに川の流れを見ていた。

 そういえば、小説に書いたな、と思いだす。落ち着きたいときに未明の河原に自転車を走らせる女の子。変わりたい、どこかへ行きたいという強い念。

 いくらもの欲しそうな目を外に向けていても、誰も連れて行ってはくれない。自分の足でしか立ち上がれないし、歩くこともできない。

 十七歳の時から同じことばかり考えている。わたしは本当に前に進んでいるんだろうか。場所を故郷から移して足踏みをして進んでいる気になっているだけじゃないのか。

 ここじゃないどこか、遠いところへ行きたい。義務のようにみんなそう思っていたはずなのに、未成年を過ぎたいま、誰もそんな青いことを思ったり、ましてや口に出したりしない。

 わたしは行く。だれもかれもを置いてきぼりにして、わたしをあざ笑う人たちを全員踏み台にしてここからどこかへ行ってやる。そんなところ、どこにもないなんて言わせない。だって高島良澄が現にそこに存在している。

 勇ましい言葉ばかり、頭に並ぶ。わたしはいつも、口から先に大物になっていく。

 風がぬるく髪にまとわりつき、くちびるから剥がす。二十一にもなって感傷をひっぱりだして夜中の橋に佇んでいるのもどうなんだろう、と冷静に思わなくもないけれど、わたしだって、たまには自分も物語のなかのひとりみたいなふりをしたいこともある。

 携帯を出し、ラインをひらく。"いま電話していい? べつに急用じゃないけど"――文を反芻するといつまでも送れない気がして、よく見もしないまま送信する。

「なに」

 ものの三秒で電話がかかってきたので、こらえきれずに笑ってしまった。「なに、怖いこわいなんで笑ってるんだよ」つられた榊の声も揺れている。

「ごめん、でもこんなすぐつながると思わないじゃん」

「え? あぁ、いまスマホ見てたから。どうかした? 特に用事ないなら雑談でもする?」

 榊に照れやぎこちなさは一切ない。春休みにアポも取らずにいきなり電話をかけてきたからこちらもそこまで躊躇いなくかけられた。

「うん、なんかしゃべって。近況とかでいいから」

「えー? まぁいいけど」

 最近読んだ小説、バイト先の上司の話、アパートの大家さんの話。取りとめのない話がぽろぽろと脈絡なく語られるのを、うん、うん、と相槌を打ちながら聞きつづけた。

 この人がどんなおとなになっていくかを、その過程を、そばではなくても、近くで見ていたい、ずっとそう思っていた。それでいて、わたしの見えないところにひとりで行かないでほしかった。

 榊はわたしが外にいることにも気づかないまま、抑揚のないラジオのように話しつづけている。

ふと話題が途切れ声が間遠になってきたとき、隙を突くようにたずねた。

「榊は何者かになりたいって思う?」

 どういうこと? と問いの意図を掘り下げたり、突然話を変えられたことに戸惑うこともなく、榊はするりとこたえた。

「思うよ。たぶん志田が思う『何者』と俺が言ってるのは意味がちょっと違うだろうけど、なりたいと思いつづけてるし自分がなりたいもののためにここに来たんだよ。みんなそうにきまってるじゃん」

 淡々とあたりまえのことのように諭され、口ごもる。ふっと息を吐く気配がした。

「なんというかなあ。選民意識があるのはおまえ以外の全員だと思ったほうがいいよ。のし上がりたいのはみんな同じだろ」

「……そうなのかな」

「おまえにしてみれば」ふっと皮肉っぽく笑う。「そのほか大勢は才能もない平凡な人たちに見えてるんだろうけど、そういう人たちにも野望はあるんだよ。おまえと同じように」

「わたし、榊が凡才だなんて思ったこと一回もないよ」

 勘違いされていたら困る、と慌てて否定したけれど、黙って笑っている気配しか伝わらない。

「何者かになりたいなら、まずその土俵に上がるまで足掻け。もっと自意識を振りきれ」

 土俵に上がれ――高島良澄と同じことを榊にも突きつけられている。

 俺も頑張ってるから、と榊はなだめるように言って電話を終えた。耳に押し当てたままの冷えた携帯の向こうから、しっとりと川風が絶えず吹きつけて髪を重く揺らす。


 榊は小説みたいな男の子だった。誰にも懐かず、ひっそりと自分のためだけの世界を職人のように積み重ねて生きている。はっきりいって、並大抵のかっこよさではなかった。

 榊にとって高校は次のステージを進むためのつなぎ、踏み台でしかなく、すでに過去のものとなっているように過ごしているように見えた。榊の心は東京の、たくさんのビルが並ぶどこか遠い街にはせられていて、そんな榊を見るたびに焦燥とも侘しさともつかないやりきれなさが胸を狭めた。

 わたしは東京には行かなかった。出版業につくなら東京にいる方が圧倒的に有利に動けるけれど、書くことはどこででもできる。でもそれは選ばなかった理由とは少し違う。たくさんの人がひっきりなしに歩いている東京が怖かった。太刀打ちできそうにない、とひるみ、地方都市にあるいまの大学を受験した。

 榊と違う場所で、榊と同じ高さのところへ行きたかった。せっかく才能がある人に能を認められたのに、置いて行かれたくなかった。

 まだわたしは文芸少女を騙る猶予がある。はったりはまだ破られない。きっとまだ間に合う。わたしはまだ走れる。


 雨粒が窓にぶつかっては流れ落ちる。本降りではないけれど、雨音は一定のリズムを刻んで降りつづけていた。

「夏休み、インターンとか行く?」

「まだ決めてない」

「予約とか、もう締め切り近いんじゃないの。俺の周り、結構ばたばたしてるよ」

「そうかもしれない」

 彼氏はなおも何かつづけたそうだったが、わたしの表情を読んで言葉を呑んだ。

 キーボードを叩きつづける。六月が近い。締め切りまであと二週間を切っている。もはや彼氏の前で取り繕っている余裕はない。

 あと三十二枚で目標枚数には到達する。プロットを悠長にノートに書きだすのももどかしく、練りながら一心不乱に文を紡ぐ。メッセージ性がないんじゃないかとか何がテーマなのかよくわからないかもしれないとか、あらゆる不安要素が佳境を越えたいまなお焦りを駆りたてるけれど、ここまできたら開き直って書き進めるほかない。誰かに伝えたいことなんて、実際ないのだ。書きたいから書いている、書けることを書いている、それだけで、読み手に何を感じてほしいとかわかってほしいとか、そんな高尚な目的はここには入り込まない。そんな余裕はないのだ。

「琴」

「ごめん、いましゃべらんない」

「はいはい」

 苦笑して公務員試験の資料を持ってベッドに寝転んだ。諦めたと思いほっとしたのも束の間「あ」と間抜けな声を出す。

「良澄さんが琴の小説? 褒めてた」

 一瞬、何を言われたのかわからず聞き流してしまいそうになった。

「え、」

 彼氏の目を見ることができない。心音がいきなり激しく主張しだす。心拍数が上がったのに手足はじわじわと冷えて熱を失くす。

「しっかりしてて読みやすいし、結構好みの文だったって。メッセージ性がまっすぐ伝わって、読み終わったあと静かに感動した、みたいなこと言ってたかな。よかったじゃん」

 ほんの雑談を伝えるような軽やかさで言われ、なんと反応すべきなのかわからない。なんでよりによってわたしの小説の感想を彼氏に話すのか――羞恥で顔にみるみる血が集まる。頬が破裂しそうなほど熱い。恥ずかしがっていることを悟られる方がよほど情けなく屈辱的なのに、狼狽を隠し切れそうにない。胸が苦しい。いつもの半分しか空気を吸えない。

「いま書いてるのも小説? それも良澄さんには見せるの?」

「……見せないよ」

 茶々を封じ込めるように反射的に否定しながらも、これ以上彼氏とこの話をしたくなくてなにも言えない。言いたくない。いったい高島良澄はどこまでわたしのことを彼氏に話したのだろう。彼氏はどんな顔をしてそれを聞いていたのだろうか。

「教えてくれればいいのに」

 彼氏の声はあくまで明るく、のんびりとやわらかい。「俺普通にびっくりしたよ。良澄さんから初めて話聞いたとき」

「……言う機会、なかったからなんとなく」

いちいち返事をするのもしんどい。隠していたことを知られた、というショックを呑み込みきれない。

 それ以上何も言わないでいると、ごろりとわたしから背を向ける格好で寝返りを打つ。突き放されたようでひるむ一方で、顔を見られずに済むことにほっとした。みっともないほどうろたえている表情をこれ以上さらしたくない。ああなんで口止めしておかなかったのだろう。高島良澄が彼氏との間でわたしのことを話題に出さない保証なんてあるはずない。むしろ彼氏にも話が通っていると思う方がすじだ。

「琴」

 さあさあと鼓膜をわずかにふるわせて降る雨は止みそうにない。今日は彼氏を泊めるほかない。

「俺はいつまでおまえの蚊帳の外に立っていなきゃいけないの?」

 わたしから背を向けているのに、その背中はするどくわたしを射すくめている気がして、目をそらすことができない。


 良澄 @148cm_ism

"秋にひっそりと出した短編が特別賞受賞した! 嬉しい! 祝杯のために甘口の赤ワインを買ったので昨日焼いたチーズケーキと合わせて飲んでいる。酔っぱらったので寂しい、誰かスカイプに付き合ってほしい、できる人はリプライかDMください 知り合いじゃない人はガールズのみで頼むぜ"


 五分前のツイートだった。迷う間も惜しくすぐさまラインで電話をかける。思ったとおりすぐにつながった。

「……琴ちゃん? え、どうしたの?」

あからさまに動揺した声だ。かすかに非難の意さえ感じ、さばさばとこたえる。

「ツイート見たので。スカイプはやったことないので電話しました。もう相手決まってますか」

 電話の向こうは黙り込んでいる。やがて、「まあ、まだ誰も言ってきてないからいいけど」とあきれたようなため息交じりの声がした。

「受賞おめでとうございます」

「ありがと。前にちょこっと書いたものを書きなおしたやつなんだけどね」

 ケーキを咀嚼している音がする。「えーっと、じゃあなにしゃべろっかな。そっちはなんかある?」

「木村に、なんで小説書くこと黙ってたのって言われました」

 しばらく沈黙になる。

「……もしかして」そろそろと様子をうかがうような声色で言う。「言っちゃいけないこと言ったのかな、わたし」

「いや、良澄さんに非はあまりないと思う」

 ふいに向こう側からテンポのいい音楽が流れてきた。なにこれ、と思っていると「むかし、電話の沈黙が苦手だって恋人に言われたから、人と電話するときはBGM流すことにしてるの。ラジオみたいでしょ」と得意げに解説する。

「そっか、それは悪いことしたね。まさか木村くんが知らないと思わなかったんだよ。わたしが琴ちゃんの小説読んだよー、って話した時もへーそうなんですかって普通に話合わせてきたから……」

「そうだったんだ」

「演劇も観に行かないし小説書いてたことも言わないなんて、なんかわたしなら息が詰まりそう」

 けろっと非難しながらも、あまり厭味っぽくは響かない。高島良澄のそういうあけっぴろげなところが羨ましい。

「で、小説は木村くんにも見せたの?」

「いいえ」

 え、と今度こそ非難の声を上げる。「えー、わたしの過失でばれたからあんまり言えないけどさ、もうばれたんだから読んでもらうことに抵抗はないと思うんだけどな。別に読まれて困ること書いてるわけじゃないんでしょ」

「わかってはいるんですけど」

「殻が分厚いんだね、琴ちゃんは」

決めつけるような口調にむっとする。でも、なにも反論はできない。

「最近はなにか書いてるの? 木村くんがそんなこと言ってたけど」

「……わたしが最近小説書いてるってことですか」

「うん。家でも大学でも発表期間でもないのにちょいちょいパソコンで何か作業してるから書いてるんだろうなーって」

 ずんと重い石でも胃の底に入り込んだみたいな気分になる。それを呑み込みきれないまま、話す。

「書いてます。なにかに出したくて」割り切って物書きとして話しだすと少しだけ誇らしい気持ちになる。「いまだいたい百八十枚とかそれくらいですね」

「え、すごいじゃん」ぴんと糸が張るように高島良澄の声が弾む。「長編?」

「そうです、ここまで長いものは初めてなので手さぐりの状態なんですけど」

「それこそ読んでもらったらいいのに」

またか、と思った。

「いや、いいです」

「なんで?」声がわずかに険を孕む。「脚本とかも書く人なんだし、本も読むし、喜んで読むと思うけどね。感想もほかの人よりよほどしっかりしたものくれるよ」

「書き終わったら考えます」

 良澄さんにだったら読んでもらいたいなとは思うんですけど、という本音は言わなかった。ピクニックに行ったときにそれなりに自分の本意を露呈したのに、依然、媚びるのが悔しかった。

「いったいなにをそんなに守りたくてかたくなでいるのか知らないけど、ずっとそのままでいたらいつか絶対行き詰まると思う」

 硬い声だった。戦闘意識が過敏に反応し、みるみる心が居丈高になって張り詰める。

「そうかもしれません。でも良澄さんには関係ない」

「そうだね。でも、わたし、木村くんがかわいそうでならない」

 電話口の向こうで、松任谷由美がハスキーな声で歌いあげている。

「もしかしてさ」声が早口になる。「心をひらききらないことで恋人に対する優越を保ってたいとか?」

 勝手にくちびるがゆるんだ。なにそればかばかしい、と一笑したかった。でも、声にはならない。

高島良澄はさらに畳みかける。

「そういうところあるよね。フォローはしてないけどわたしのツイッターはいつも見てるって言われた時、ちょっとぞっとしたよ。自分は相手のこと視界に入れて把握しておきたいけど、自分の内は明かさないで一歩引いた高いところで見てるのが気持ちいんだよね。自分は傷つかないから」

 幼いくらいに少し高い、綿にくるんだようなやわらかい声質なのに、辛辣に言葉を突き刺してくる。

「まあそれはそっちの自由だしわたしがとやかく言うことでもないかもしれない。でもね、それってはたからみたらものすごくかっこ悪いことだよ。ねぇ、そんなに怖い? そんなに安全なところから降りれない?」

 ふつふつと煮え立つように怒りが湧いてくる。なんでこんなに責め立てられなければならないのだろう。なんでこんなにつっかかってくるんだろう。わたしたちはさしてお互いのことなんて知らない。わたしは高島良澄の文章のくせやツイッターでつぶやくときの口調、休日の過ごし方も初めて作った料理も知っているけれど、実際の人となりはほとんど見ていないも同然だ。向こうに至っては、ほんの四度会っただけだ。なぜここまで、見透かしたような口調でまくしたてられなければならないのだろう。

「良澄さん、わたしのこと気に食わないんですか」

 あくまで穏やかな口調で言い返す。息を呑む気配ののち、そうかもしれない、といくぶんか落ち着いた声が返ってきた。

「琴ちゃんが思うより、わたしは琴ちゃんのこと嫌ってはいないよ。でも」

 とどめを刺される気配に敏感に自意識が反応する。言うな、ととっさに押しとどめた。それは実際には声にならない。

「かわいそうだなぁ、とは思うよ。木村くんも多少なりとも同じこと思ってるんじゃないかな、きっと」

 そういえば、と思いだす。スイートピーは枯れる間際、めしべとおしべを包む舟弁が押し下がり、それまではまったく見えることがなかった花芯がようやくむきだしになる。けして目をそむけたくなるほどみにくくはないけれど、最後の最後に本領があらわになっているような気がした。それでいて、やはりどの花でも生々しい本体部分は秘しているのだと、ほっとするような、なんだとあざ笑いたくなるような、そんな思いを抱いた。

 ぽつりと高島良澄がつぶやき、われに返った。

「簡単に言えば痛々しいんだよ。見ててこっちが苦しい」


 9

 彼氏から連絡が来ない。

 いつもはほとんど毎日ラインが来るのに、四日前でやりとりは終わっていた。大学でも、授業数じたい少ないのもあってほとんど見かけなかった。ツイッターの更新もない。

 皮肉ではあるけれど、一人の時間が増えたことによって原稿はそこそこペースを上げて進んでいる。この調子ならきっと間に合う。でも、肝心の結末が思いつかないままだった。このままではいつまでたっても終わらない、それでは困る。

 ――痛々しい。

 高島良澄に突きつけられた台詞が耳元でよみがえるたび、足元から羞恥といたたまれなさがぞわぞわと鳥肌を立てて背中まで這い上がってくる。別に、自覚がないほど幼くはないけれど、こうもはっきりと他人から言われたのは初めてだった。

 どうして素直に高島良澄のファンになれなかったのか。専攻の希望を出すとき、どうして文学や文芸とは直接的なかかわりがある分野を選ばなかったのか。どうして高島良澄のツイッターをフォローしないのか。なぜ自分のつぶやきを見られたくないのか。どうして彼氏に自分が小説を書くことが好きだと話さないのか。どうして榊がいる東京を進路からはずしたのか。どうして彼氏が出ている演劇を観に行かずにいたのか。どうして彼氏に榊という友人がいることを話さないのか。どうして書き上げた作品をコンクールに出したことがいちどもなかったのか。

 いちいちなんで? どうして? と問い詰められなくても自分でぜんぶわかっている。かっこ悪い、ださい、見苦しいとわざわざ指摘されなくても、そんなことはとうのむかしから自覚している。自覚している、ということを免罪符にしていることすら、ちゃんと。

 取り澄ました顔で誰にもかっこつけたまま、のし上がりたい、勝ちたい、成功したいと望むことはそんなに罪深いことなんだろうか。わたしには、成功した人はみんなそう見えて仕方ない。泥臭い努力とは無縁に飄々と勝ち得ているようにしか。

 三か月間まるまる身を削るように書き進めた二百枚ほどの原稿が、もし何の点数も評価もつかなかったとき、わたしはきっと誰にも告げない。もしかしたら、訊かれないかぎり榊にも報告しないかもしれない。敗れ傷ついたことを隠してなかったこととし、またゼロから始めるような顔をして小説を書きだすのだろう。なにか、点数をつけてもらえるまで。

 なけなしのプライドなら、もう十分なげうっている。これ以上何をかなぐり捨てろというのだ。いらいらしながらキーボードを打つ。

 近道か抜け道が欲しかった。どうにかして抜きんでたかった。でもそんなものはわたしの前には現れない。わたしだからなのか、はなからそんなものは存在しないのかはわからない。いまはただ戦うための土俵に上がるまで必死に足掻くだけだ。

 たたかえ。

 ずっと前からわかっていた。見ないふりをしていただけだ。本当に勝ちたいのは目先にいる高島良澄なんかじゃない。十七歳のわたしだ。

 なにも生み出すこともできないくせに自分には他人とは違う才能がある、とくべつな何かになれるだなんて思わないでくれる? あんたなんか黙ってあたしの才能に打ちのめされてひざまずいてればいいのよ。

 書き上げることができるという能に酔い、それだけを盾にしてわたしを見下しわめく生意気な少女の顎を指で掴み、黙らせる。

 いいから見てなよ。わたしはあんたを置いて向こう岸まで泳ぎ切ってみせる。


 ずいぶんひさしぶりな気がした。この人とかつて抱きあったり肩に鼻をうずめて眠っていたことがまるで見た夢の記憶のなかのことのようにも思えた。

「ここで会うこと忘れてたわ」

 きまり悪そうな顔で笑う。ほんの少し痩せた気もする。

六月分の、月に一度のゼミが終わったところだった。会議室にいるわたしを見て遅れて入ってきた木村がぎょっとしていたけれど、気づかないふりをした。今回のゼミには高島良澄も来ていた。どちらかと言えば彼女と顔を合わせることの方が気が重かったけれど、わたしと不自然に視線をかわすこともあからさまに顔をそむけることもなく、淡々として人の発表を聞き、はつらつと意見を述べていた。

「このあとの飲み、行く?」

「うーん……」

 視界の隅で高島良澄が後輩の女子とほがらかにしゃべっているのをとらえながら、「まだ決めてない」とこたえた。そう、と木村が呟く。視線はわたしからはずれ、どこか虚空に目を投げていた。わたしも言葉をそれ以上失くし、ぼんやりと自分の足元を見つめた。もしかしたらわたしはもうここに来ないほうがよかったのかもしれない。少なくとも木村はそれを望んでいるだろう。

「行かないの」

 照明が半分消され、気づけばゼミのメンバーは皆荷物を持って外へと歩きだしていた。飲む店が決まったらしい。高島良澄が、わたしと木村を交互に見ていた。

わたしたちがふたりして黙っているのを見て、玩具を取られて拗ねる子供のようにくちびるを尖らせる。

「もういいよ。三人で飲も」

 てっきり断るかと思ったのに、木村は机の上の荷物を背負って「わかりました」と言った。行くでしょ、とわたしの目も見ずに呟いて早足で部屋を出て行く。え、と高島良澄が焦ったように振り返っても、足を止めない。

「……喧嘩でも、した?」

 いまになって不安そうに問う高島良澄にはこたえず、電気を消して廊下に出た。梅雨が明けた夕暮れは、火事のように陽が照って空を燃やしている。

先に出たとばかり思っていたら、木村がそれを眺めていた。しっかりと突き出た頬骨が紅緋色に照らされている。どこかでこの光景を見たことがあるような気がした。去年の花火大会だ。花火が打ちあがるたび、青や赤や緑や金に染まる木村の頬骨のしっかりとしたかたちを、わたしは気に入っていた。化石になってもここのかたちでわかるだろうな、とそんなことも思った。

「木村」

「……ん」

「今日泊まる」

 くっと喉が鳴る。ああこれって木村のくせなんだ、といまさらのように気づいた。話に入れずに困って立っている高島良澄を振り向き、言う。

「良澄さん、どうせならコンビニとかでお酒買って外で飲みませんか?」


 自転車のかごにサングリアや酎ハイの缶、おにぎりとつまみの入った袋をどさどさと押し込む。ぜんぶ押しつけられた木村は重みで自転車を持っていかれながら「うわ、重ッ」とぼやいたけれど、わたしと高島良澄はきゃっきゃと笑うだけだった。

「どこ行く?」「アーケードのわきの公園とか?」「川辺は?」「蚊に刺されそう」「もうそのへんのベンチとかでよくない?」「でも補導されたらめんどくないですか?」まだなにも始まっていないのに、思いのほか楽しかった。酔ったようなテンションでぺちゃくちゃ話しながら自転車を引く。自転車を持っていない高島良澄は鞄だけわたしのかごに入れ、歩いていた。

「どっか行きたいね、ぽーんとね」

「どっかって」

 高島良澄が、すっと腕をもたげた。まっすぐ前を指さす。

「ここ、と地つなぎじゃないところ。なんか、非日常っぽいところ」

 幼い言い方にわたしも木村もげらげら笑った。「なによふたりして!」とむくれるのでさらに笑ってしまう。

「どうせなら海とか行きますか。いいじゃないですか、思いつきでチャリ飛ばして海まで行くとか、めっちゃ青くさくて、ドラマのまねごとっぽくて」

「青くて悪かったな!」

噛みつきながら勝手にわたしの荷台にまたがる。二人乗りなんて何年振りだろう。懐かしい重みだった。

「うーん、そう遠くもないし。まっすぐ行けばまあ着くでしょう」

 木村が自転車にまたがり、すんっと飛び込むように坂道を下っていく。ブレーキを掛けながらゆっくりとあとにつづいた。

「いまから海とかマジかよ」

 ぼやいていると、「そんな遠くじゃないよ。疲れたら交代するからさー!」と後ろで高島良澄が叫ぶように言う。木村の背中はすでに遠い。夜と夕方のはざまの風は湿り気をふくんでぬくく、髪がほつれながらさらわれる。立ちこぎをして、ペダルを踏み込む足にぐん、ぐん、と力を込めた。みるみる体温が上昇し、ふくらはぎの筋肉がぱんぱんに張り詰める。街灯が何本も後ろに流れていく。背中を汗が一すじ伝って風が冷やすのが気持ちいい。時々後ろから笑い声とも悲鳴ともつかない声が上がった。

「夏だね」

 高島良澄が呟く。七分袖が肌にはりつくのがうっとうしく、肩までまくり上げた。汗で濡れていた肌に風が浸み込むようにしゅうしゅうと冷えていく。結んでない髪がうなじに熱をこもらせる。ああ、切りたいな、と思った。高島良澄くらい、ばっさりとうなじが出るくらいに髪を切りたい。

「夏ですね」

 信号が変わり、もういちど力を込めてペダルを踏み込む。鼻のあたまから汗の玉が噴き出す。さっきまでは気づかなかったけれど、ブラックコーヒーをこぼしても気づかないほど濃い夜空に銀星がいくつもきらめいていた。


 原稿を出したのは締め切りの四日前のことだった。印刷し終え、封筒に入れると改めてしっかりとした重みに感慨深くなった。

 榊に"新人賞に出す原稿できあがった"と短い報告をすると、"送ってくれるなら添削と講評するけど"と返ってきた。迷った末、送らなかった。時間がないというのを理由に断ったけれど、本当は違う。自分の自意識をありていに書ききった作品なので、見せる勇気が湧かなかった。

 主人公は女子大生で、自分と同じ物書き志望という設定にした。創作に行き詰まりを感じて悩んでいたところ、同じ大学の先輩が作家としてひとしれず執筆活動を行っていることを偶然知ってしまう、というあらすじだった。

 書きたいのに書けない、書けないのに書くことを諦めきることができない――書くことが困難になってから、その葛藤をいつも書きたいと思っては頓挫していた。そのテーマを初めて書ききることで、もうそんなことで自意識をこじらせてくるしむのはやめたかった。

最後まで書きあげることで、わたしは諦めたかった。書くことを、自分が物書きであるということを。振られたことがないという言い訳をかざして男のことを諦めることができずに未練と執着がだらだらとつづく片思いにも似た生殺しはもうたくさんだった。

この一年間だけ、執筆をがむしゃらにやってみて、公募や新人賞に目一杯出して、自分の書くことへの執着にどれほどの価値があるのか、それともまったくもってないのか、納得がいくまで見定めることにしよう。そう決めていた。それが、「土俵に上がる」ことだった。

 これまでで一番かっこ悪い一年を過ごそう。そう腹を据え、宛名書き用のブルーブラックのモンブランを新調した。ふるえる手でそっとキャップを外すと、銀色のペン先が小さな剣のようにらんらんとかがやいて世界を映していた。

 わたしはまだ世界を知らないのだと、ようやく気づいた。


 なんどか運転を替わり、結局わたしは木村のうしろに乗って海沿いに着いた。

「やばい、二時間も漕いでる! もう向こうはおひらきにしてるんじゃないの」

高島良澄がけらけら笑う。木村はパーカーを脱ぎ、ばふばふと胸元を煽いで風を送った。

 道路脇に自転車を停め、ガードレールをまたいで砂浜に降りる。慎重に踏み込んだものの、一歩二歩歩いたところであっというまにパンプスに砂が容赦なく入り込む。苦笑しながら裸足になったらなにかが吹っ切れ、意味もなく波打ち際まで駆け寄った。しゅわしゅわとサイダーのように白く泡立つあぶくを足で踏む。じゅっとわずかにストッキングが水を吸った。

「つめた!」

 きゃあきゃあ言いながらぴょんぴょんと飛び跳ねるわたしを、高島良澄が指さして笑っている。お酒の入った袋を提げた木村も笑っていた。

「かんぱーい」

 それぞれ酎ハイを一気に飲む。「いまさらだけどコレまずくない? 帰り危なくない?」「うわ、自転車じゃなくてバス使うんだった」と言い合いけたけた笑う。三人とも汗で花のあたまが光り、頬がばら色に照っていた。

あまい炭酸が渇いた喉を焼きながら滑り落ちる。茣蓙もベンチもないので、砂浜に直接座っていた。白いショートパンツを履いてきたのは間違いだったな、と思ったけれど、砂のさらさらした感触が気持ちよかった。地べたに座るのはずいぶんぶりだとふと気づく。どうしておとなになると座らなくなるのだろう。

 ざーぁ、と打ち寄せては波が引く。その時に聴こえるのは砂浜が水を吸い込む音なのか、それは幻聴で違う原理による音なのか。誰が選んだのかもおぼえていない紀州梅のおにぎりを頬張りながら、幾重にも重なるフリルのようにきめ細かい波が寄せては返すのを飽きもせず見ていた。

「なんでこの三人でここにいるんだろ」

「良澄さんが発端じゃないですか」

「あは、そうだったっけ。非日常だね、まさしく」

 汗が引き、夜風にさらされた肌が少し冷たくなってきた。袖をひっぱってむきだしになっていた肩を隠す。

「花火でも買ってこればよかった」

 ぽつりと木村が呟く。確かに、と女子ふたりの相槌が重なったのでまた笑った。アルコールで頬がかっかと火照る。

「夏にまたやろうよ」

「真夏にまたここまでチャリ飛ばすのはやだな」

「でも川でするよか手持ち花火は海辺じゃない?」

ぺちゃくちゃとしゃべりながら、缶が空いていく。わたしと木村。木村と高島良澄。高島良澄とわたし。どの組み合わせでもない三人組は、どうでもいいことしか口にしない。

「わたし、二百枚の原稿書き上げたよ。初めて公募に出したの」

 視線があつまる。思いきって背中を倒し、砂に頭をくっつけた。ひんやりとして気持ちがいい。まっすぐ上にある星を見て、なぜだかほっとした。寝転んでしまうと、一気に腰や腿のあたりが重くけだるく感じた。

「どっか、ひとりだけすっごい遠くに行きたい。それが無理なら、どっかなんてないって諦めがつくまで走りたい」

 ふたりともなにも言わなかった。目をつむる。このまま寝てしまいたかった。

 ばかにされてもいい、かっこ悪いと嘲笑されてもかまわない、でもいまだけはその幼い願いを認めてほしかった。

 ふたりはがんばれともあなたならできるとも口にしない。みんな――ここにいる三人がみんなまだめいめい思春期の青写真を捨てずにいるのかと思ったらなんだかおかしかった。とうといことのようにも思えた。

 きっとわたしは永遠に何者かになんてなれない。高島良澄ですら、きっとそうだ。そんな存在、この世界のどこにも存在しない。

 でも、ならなくちゃ。

頭のなかがせかせかして落ち着かない。身体のなかで誰かが走ってるみたいに。

「行こう」

 高島良澄が立ち上がり、わたしに手を差し出した。わけがわからないまま立ち上がる。ショートパンツから払った砂埃が月光に照らしだされて雪のように光りながら舞い落ちる。

「行くってどこに、」

「うーみ! ほら、木村くんも」

 三人でまろぶように波打ち際まで走る。さっきよりもずっと冷たく、海は暗い。それでも、きゃあきゃあとはしゃぎながら三人で波から逃げたり駆け寄ったりを繰り返した。木村も、高島良澄もほっぺたが張り裂けそうなくらいにいっぱいに笑っている。お酒が入っていなければこんな青春ぶったこと恥ずかしくて絶対にできない。でも、わたしたちはテンションをうんと引っ張り上げてはしゃぎつづけた。波は意外なほど重く、足を持って行かれそうになる。飛沫が顔にかかり、冷たさにまた笑う。

 やがて疲れて浜辺に倒れ込むまで、わたしたちは若さを誰もいない海辺にまき散らしつづけていた。

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対岸のあの子 @_naranuhoka_

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