文芸ガールズ

@_naranuhoka_

文芸ガールズ



1限りなく廃部に近い文芸部


「森さん。森有菜さん」

 昼寝していると、誰かがあたしの肩をグワシと掴んでショベルカーのように揺さぶった。誰だ。あたしの睡眠を邪魔する奴は。

「何」

 眠気でグラグラする頭を無理やり持ち上げ、目をこじ開ける。

目の前にいたのは、度の強いレンズのめがねをかけたざしきわらしだった。あたしには霊感の類はない。それにここは昼休みの中学校の教室。本物なわけがなく、あたしは「なんだ夢か」と呟いてもう一度顔を伏せた。

「ちょっと! 寝ないでください!」

 また肩を掴まれて思いっきり揺さぶられる。……ざしきわらしって、人間にさわれるんだったかな?

「へ?」

もういちど顔をあげると、おかっぱ娘が悲鳴のような声で言った。

「大変です。わたしたち文芸部が、廃部になりそうです」

 分厚いレンズのおくで、ちいさな目がいっぱいにみひらかれてあたしを真っすぐに見ていた。わたしたち文芸部? 何それ?

それが、宮沢繭との出会いだった。


 あたしは青葉中学校の文芸部に所属している。そもそも“文芸部”が何かわからない読者のために、一応さらっと説明しておく。

・小説や詩、短歌など文芸作品を創作する

・みんなで同じ小説を読んできて感想・批評を言い合う

・部員の作品を寄せ集めて文芸誌を刊行する

「文系部」「園芸部」と間違われやすいので憤慨した文芸部員が「文藝部」を名乗ることもあるが大概定着しない。ちなみに文系部なる部活は、全国に一つもないと思われる。とにかく“文芸”に関係することなら一応なんでもマルッとツルッと活動内容に含まれる。

 と言ってもあたしは完全に幽霊部員だったので、すべて宮沢繭――もう一人の、というか唯一のあたし以外の部員の受け売りなのだけれど。

 昼休み、眠っていたあたしを叩き起こして疎開児童みたいな見た目の女子中学生は淡々と説明した。

「わが青葉中学校の規則で、部員が五名以上に達していない部活は廃部になるそうです。今年はもう一年生の入部の時期も過ぎていて、部員確保は絶望的です。顧問の尾崎先生が言うには、七月には文芸部は廃部になって部室は取り上げられるそうです。代わりにいらなくなった教材を放り込むための部屋になるとかなんとか」

 なんの話をされているのかさっぱりわからず、あたしはとりあえず胸ポケットから折りたたみ式の櫛を取り出した。乱れたポニーテールを丁寧に結い直す。

「それとあたしに、なんの関係が?」

「あなた、文芸部員でしょう」

 めがねのレンズの奥で、ちいさな目がギラリと光り、するどくあたしを射すくめる。自分に文芸部員の自覚はないので、何度か瞬きした。そうだったっけ?

「まあ、忘れてても仕方ないでしょうね。あなた一年生のときいちども部活に参加してなかったし」ふ、とざしきわらしが息を吐く。「というか、わたしのことももしや知らないのでは」

 その通りだった。同じ学年にこんな子いたっけ?

「わたしは二年三組の宮沢繭。文芸部部長です。そしてあなたは副部長」

「い、いつの間にあたしが副部長になったの? 一度も部活なんて出てないのに」

 宮沢繭はフンと鼻を慣らした。

「だってわたしと森さんしか文芸部には部員がいないもの。わたしだって幽霊部員を副部長にしたいわけじゃなかったけど、森さん全然部室に来ないから……」

 部活をさぼっていたのは事実なので、後ろめたくて目をそらした。

全員どこかの部活には所属しなければならないうちの中学は、放課後は毎日部活の時間がある。けれど、顧問の先生がやさしいおじいちゃん先生で、ほとんど顔も出さない上兼任している囲碁部の方にばかり顔を出していることもあり、あたしは一年生のうちの本当に最初の方しか部室に行っていなかった。

 同級生たちはやたらと“先輩”の存在を怖がり、あたしも入学したての頃は結構ビクビクしていたのだけれど、文芸部ではそんな恐ろしい上下関係は存在していなかった。おとなしそうなオタクっぽい感じの先輩たちは、あたしをどこか怖がっている節があり、勝手に早帰りしようが宿題を片付け始めようが、なんの文句も言ってこなかった。顔を覚えていないので、廊下ですれ違っても挨拶ひとつしなかった。

都合はよかったけれど居心地が良かったわけでもないので、自然の流れで部活をサボるようになった。そのとき確かに宮沢繭とも顔を合わせたことはあるはずなのに、ほとんど覚えていない。

「文芸部が廃部になったら、森さんだって困るんじゃないですか」

「何で」別にどうだっていいけど。今だって全く部員として活動していないわけだし。

「廃部になった時点で、別な部活に必ず所属しないと行けないんですよ。うちの学校の規則で、部活に入りなおさないとならないの。そしたらもう、部活をサボることはまず無理ですよ」

 宮沢繭の言う通りだった。廃部になれば自由な放課後は奪われ、何かの部活に無理くり入って新しいコミュニティで気まずい思いをしながら頑張って溶け込んで人間関係に入り込まなければならない。なんてめんどくさいんだろう。

「……それは、困る」

 あたしが呟くと、宮沢繭は大きく頷いた。

「同感です。わたしたちは文芸部廃部をなんとしても阻止する必要があります」

「でもどうやって。もう一年生を勧誘する時期は終わってるんじゃ……」

 宮沢繭はニヤリと笑った。

「それは、これから考えます。とりあえず森さん、今日から文芸部に必ず出席してください。作戦を立てる必要があります」

 そう言って颯爽と教室を去っていった。スカートはかなり余裕を持って膝小僧を隠し、白いハイソックスと一続きになっていた。

 ――ダッサ。

 心の中で呟く。時計を見ると、昼休みはあと五分しかなく、あたしは寝るのを諦めて次の時間の英語の教科書を取り出して予習を始めた。


 問題を起こさず、巻き込まれず、ひたすら平穏に、静かに、波風立てずにそっと過ごす。それがあたしの中学生ライフの最たるモットーだ。

 読書にもポエムにも執筆にもなんの興味もないあたしが文芸部に入部届を出したのは、最もそれが守られそうな部活だと思ったからだった。

「森さんって何の部活入ってるの?」

「えっと……文芸部だよ」

「文系部? 社会とか国語を研究するの?」

「いや、文系じゃなくて文芸」

「へえ〜……」

 気まずい空気で終わるこの会話も、クラス替えから一ヶ月たった今、もうさすがに繰り返さなくなった。そもそも中学二年なので、グループ分けはとっくに終わっている。あたしがひとりで過ごしているので、時々おせっかいな女の子に「うちの輪に入りなよ」的なノリでつっつかれる。

あたしは冷たく追い払うでもなく、「え、まじ? ありがと〜」とその輪に入っていくでもなく、曖昧なスマイルを浮かべて「へへへ」とごまかす。

 一年のときからこの対応を繰り返しているうちに、うまい立ち位置と言うのが何となく掴めた。あたしは学区外から引っ越してきた転校少女で、次いつ転校するかわからないから、誰ともつるまないし、誰とも深い友だちにならない。アメリカ帰りで時差ぼけがあり昼休みはいつも寝てしまう。――もちろんウソの設定だけど、あたしが自分で言わないでも噂に尾鰭がついてこんなふうにみんなが納得するストーリーが作られた。

あたしはその壮大すぎる設定を別に否定せず、ちゃっかり乗っかっている。英語話せないのに。

 中学一年のときはまだ処世術のコツが掴めずひやひやしながら過ごしていた。そっけない態度をとってしまい、ハブられかけたり悪口叩かれたこともある。けど、「そういうキャラ」「人畜無害」が伝われば教室という戦場でも何とか生き延びられるということに気づき、のらりくらりと女子同士の派閥とかいざこざをくぐり抜けてきた。

 あたしはもうそういうの、まっぴらだった。平穏に三年間を過ごす。残り二年。来年は受験生だから、今年さえ乗り切れば楽になる。

 大丈夫。

 ダサすぎない髪型、ほどほどのスカート丈、破りすぎず守りすぎない校則、声をかけられればそれなりの愛想で対応して、グループ分けがあったらおとなしそうな子たちの輪にそっと加わる。当然男子とも仲良くしすぎないし、目立つようなことはしない。成績はもともと中の中だからノー問題。

目立ったり人より秀ですぎる点があるわけでも、クラスの足を引っ張るほど劣ったところもない。おでんでいうと糸こんにゃく、お弁当のおかずで言うときんぴら。あってもなくても気づかないし、そんなもの入れるな! と怒る人があらわれるような主張のある具材でもない、そんなポジション。

 ――宮沢繭が立ち去ったあとの五時間目。英語の時間はそこそこみんな起きて集中している。

 ついそんなことを考えていると、「では次のページを森さん」と当てられてびびってしまった。慌てて「すみません、何ページですか」と聞いた。

「ぼうっとしてたらダメですよー。きちんと集中してね」

 注意され、うっすらとクスクス笑いが漏れる。たはは、ってな感じで苦笑しながらも、あたしは心の中でだけ顔をしかめる。目立つのは絶対イヤなのに、しくった。

 音読は滞りなくあたしの後ろの列へ渡っていく。

 それにしても、宮沢繭はかなりの変わり者な気がする。

 田舎のおばあちゃんが週一で髪を切ってる日本人形みたいな古臭いおかっぱ(間違ってもボブヘアとは呼べそうにない)。分厚いレンズの大きすぎるめがね、ちいさな目、色白を通り越して蒼白い肌、校則を守りすぎて昭和のヤンキー一歩手前みたいな長さのスカートとひとつづきになった白いソックス。おまけにかなりのちびだった。あたしがざしきわらしと勘違いしたのもそのせいだ。あの子、二年三組でいじめられてたりしないだろうか。

 別にどっちだって構わないのだけれど、文芸部員同士として関わらないといけないのであれば話は変わってくる。“できる限り目立たないように暮らす”というあたしのモットーが破られてしまうからだ。

 いっそ文芸部が廃部になるのを待たずして、どこかおとなしそうな部活に再入部するか。でも、それもまた面倒くさい。新入部員なんて、自ら目立ちにいくようなものだ。教室と違って小さいコミュニティだから、仲良くして友だち付き合いとかしないとまずいだろうし。

 文芸部の部員を集めて、また幽霊部員に戻る道の方がラクそうだ。ノルマは三人。うーん……今更文芸部に転入したいなんて変わり者がいるのか果たして謎だけれど、何とかなるんだろうか。

 

 放課後、掃除から戻って机の中身をリュックにしまい込んでいると、おかっぱ頭が近づいてきた。宮沢繭だ。

「迎えにきました。さ、参りましょう」

 小さな体に大きな黒いリュックを背負っている。何だかカメの甲羅みたいに不格好だ。

 文芸部の部室は視聴覚室準備室の裏にある。ほぼ一年ぶりに来たけど、やっぱり不気味だ。校舎の隅にあるので、ひとけが全くない。

 けれど、パチンと照明をつけると、中は意外と綺麗に片付いていた。かすかにちりが舞っているけれど、気になるほどじゃない。本棚も整備され、ピシッと片付いていた。昔先生が使っていたであろう大きな職員用の机と、回転椅子。そして、スポンジが内臓みたいにわっとはみ出してしまっている古いソファー。

「意外と綺麗だね。宮沢さんが片付けていたの?」

「はい。去年は先輩がいたからそうでもなかったけど、今年は一人でしたから大変でした」

 イヤミな言い方ではなくあくまで淡々とした言い方だった。かえって申し訳なくなり、あたしは肩を縮める。体が小さな宮沢繭がせっせと床を掃き机を拭き本棚を整備するのは労力がいったはずだ。

「じゃ、とりあえず座りましょう」

 回転椅子を勧められ、腰掛ける。大きなテーブルを挟んで宮沢繭と向かい合った。小さいので、なんだか“小学生にして高い能力を見込まれて重役会議に出席する凄腕ご令嬢”といった雰囲気だ。

「部員っていつまで集めればいいの?」

「最終的な〆切は一学期まで、今年度の場合終業式のある七月十九日までです。もしそれまでに集まらなければわが文芸部は廃部となります」

 今日の日付は四月二十三日。あと一週間もしないうちにゴールデンウィークに入る。確か一年生の入部時期は先週だったはずだ。

「今年、一年生の入部はゼロだったの?」

「そうですね。廃部になるって知らないでひとりで部室にいただけで、そもそも『文芸部にようこそ!』『キミも憧れの岩崎亜衣ちゃんにならないか?』みたいなちらしを貼ったり看板を廊下に出したりもしてないし、誰も訪ねてきませんでした」

 いや何、途中の固有名詞。誰だよ。

「いわさきあいって誰?」

 あたしが疑問を口にすると、宮沢繭の口からファスナーを閉め損ねたような短い悲鳴が上がった。チャッ、みたいな音だった。

「い、岩崎亜衣を知らないんですか。文芸部員なのに!」

「誰それ」

 サッと宮沢繭の顔に縦線が雨のように降りてきた。そんなに有名な人なんだろうか? 全国的な文芸部員のマスコットキャラクターとかかな?

「岩崎亜衣ちゃんは青い鳥文庫の『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズの語り手にしてメインヒロインです。今はセカンドシーズンだからゲストキャラでしか出てないですけど、世の小学生たちは夢水シリーズを読んで『ぼくわたしも文芸部に入って〆切に追われたり文芸誌を発行したりした〜い』と夢見るんです。ちなみにわたしも、文芸部という部活を知ったのはこのシリーズがきっかけです」

 一から十までちんぷんかんぷんだ。っていうか名探偵ユメミズが主人公じゃないのかよ。

「語り手と主人公は必ずしも一致してなくてもいいんです。NHKの朝ドラだって、ナレーションは主人公のおばあちゃんがやってたりするでしょ?」

 わかりにくいんだかわかりやすいんだかよくわからない説明だ。あたしが頭にはてなマークを浮かべていたのだろう、宮沢繭ははああーーーーっと長いため息をついた。長すぎて永遠に終わらないかと思った。

「イヤな予感がするんですが、森さん。最後に読んだ小説は何ですか」

「えっ、と……『アオハライド』ノベライズ」

「好きな作家は?」

「え〜そんなのいないよ。いないいない。マンガ家だったら何人かわかるけど」

「好きな文庫は」

「へ」

「去年の直木賞作家と芥川賞作家、本屋大賞一位の作家を言えますか」

「ふへ」

「レベルをぐっと落とします。いいですか、直木賞最年少受賞作家は朝井リョウ、綿矢りさのうちどちらですか」

「誰それ」

「俳句の数え方は一句ですが、では短歌の数え方は?」

「わかんないよそんなの」

 宮沢繭は眉毛をハの字にした。眉毛でスキーの練習してるのかと思うくらい、きれいなフォームだった。

「森さん。あなた文芸にも小説にも読書にも、全然興味がないんでしょう」

 ばれたか。ついでに言えば、国語もあんまり得意じゃない。一番得意な科目は社会で、その次に英語、たぶん文系理系で言えば文系なのだろうけれど、国語は理系科目並みに不得意だ。

「ない。朝の読書タイムも、マンガのノベライズかにこるんのメイク本にブックカバーかけて読んでる」

「にこるんって何」

 まじかこいつ、目を閉じて日本で生活してるのか。面倒くさいので説明を省く。

「世界を代表する日本のスーパーモデル」

「フーン」

 宮沢繭は興味なさそうにくちびるをひよこみたいに尖らせた。

「宮沢さんは読書家なんだ? 小説を自分で書いたりもするの?」

「もちろん。文芸部員ですから」

「へえ。あたし自分で小説書く人って初めてみた」

「まあ、声高にいうような趣味でもないかもしれませんね」

 本や小説が好きなわりに、あまりこの話題を広げたくなさそうに見える。「それよりも」と宮沢繭は話題をひるがえした。

「すでに全校生徒が何らかの部活に所属してしまっていて、そこからわざわざ部活をやめさせて文芸部に引っ張り込むのは、至難の技ですね」

 そりゃそうだ。そんなめんどくさいことをする人、いるはずがない。

「ほかに廃部になりそうな部活はないの? そこから文芸部に来てもらったらいいんじゃないかな」

「なるほど。いいいアイデアだと思います。でも、文芸部以外で部員が五名以下の部活はないんです」

「ってことは青葉中で一番文芸部が弱小クラブってこと?」

「まあ、認めたくないですけど」

 宮沢繭は悔しそうだ。

「部員探しはともかく、二人いる部員のうち一人が本を全然読まないなんて、部員を探すのに説得力に欠けます。まずは、文芸部員として森さんを育成します」

「うげ」

 話が圧倒的に面倒くさそうな方向に向かっている。慌てて反論した。

「そ、それよりも部員勧誘に力を注いだほうがいいんじゃない? 図書室の常連を勧誘するとか、転校生が来るたびに勧誘するとか」

「それは当然、同時進行で行います。わたしが毎日課題図書を出しますから、部活の時間に感想を述べてもらうことにします」

「待って! 毎日本読むとか死んでも無理なんだけど!」

「安心してください、一冊丸々読めなんていいません。短編集のうちの一つ、とかですから、余裕でしょう」

「いや……それも無理な気がする」あたしは読書をしていると目がチラチラしてきて、早く挿絵があるページに行きたくてウズウズして、挿絵がないことがわかるとがっかりして眠くなってくるのだ。

「まじですか」

「ごめんって。でもあたし、まじで国語とか読書とか、苦手だから」

 宮沢繭は「わかりました」と呟いた。

「でも、なんで森さんは文芸部に入部したんですか? 本も読書も興味ないのに。マンガが好きなら美術部に入ってイラストを描いたりしたらいいじゃないですか。それに、これは勝手な第一印象ですけど森さんって、運動部の人、っぽい雰囲気がありますよね」

 あたしはまばたきした。

「そんなことないよ」

「そうですか。運動は苦手なんですか? わたしと同じですね」

「五十メートル何秒?」

「十一秒」おっせ。あたしは八秒台だ。

 内心、鋭いなと思った。体育が一緒の授業というわけでもないのに、どうしてそう思ったんだろう。確かに運動は得意だし、小学校の頃はテニスクラブに所属していた。中学でもテニス部に入るだろう、とあたしも友だちも両親もそう思っていたはずだ。

「……運動は苦手じゃないよ。でも、先輩後輩の上下関係厳しいし、レギュラー争いとか面倒くさいじゃん」

「まあ、そうかもしれません」

 宮沢繭はあまり納得していなさそうだったけれど、それ以上掘り下げてくることはなかった。

「課題図書については、一旦やめておきます。読書が課題になってしまったら、ますます本を嫌いになってしまうから。本は、娯楽であって強制されるものだとは思いません」

 ほっとした。頭カタそうに見えて、結構柔軟なんだな、と意外に思った。

「でも、唯一の文芸部員ですから、森さんに読書や文芸を好きになってもらえたら嬉しいです。何か方法を考えてみます」

 宮沢繭が静かに続けるのを、聞こえていないふりをした。あ〜、転部の可能性のことも、考えなければ。


次の日、部室に向かうと宮沢繭がちょこなんと座っていた。そして、あたしを見て「見てほしいものがあるんですけど」と小さな声で言った。

「何?」

「わたしが書いた小説です」

そう言って取り出したのはリングノートだった。

「なにこれ」受け取ると、宮沢繭は心細そうな顔をした。まるで、自分の内臓を手渡してしまったような。

「読んでいいってこと?」昨日はあんまり自分の書いた作品について話したくなさそうにみえたのに、どうしてだろう。

「もしかしたら、知ってる人間が書いた物語なら、義務感なしに興味を持って読んでくれるかなあと思って」

粉をはたいたお餅みたいに白い顔がみるみる赤く染まっていく。あたしはきまり悪くなってノートに視線を逃した。

 ――地味で目立たないから文芸部に入った、ただそれだけなのに。

 そこまでしなくてもいいのに、という鬱陶しい気持ちと申し訳ない気持ちが半分ずつだった。そこに面倒くさいな、という気持ちがじわじわにじんで割り込んでくる。

「ありがとう。家で読むよ」

「はい。さすがにわたしも、目の前で読まれるのは緊張します」

曖昧に微笑んでリュックにしまう。

「どんな話か、あらすじだけ教えてよ」

「う〜ん、そうやってあらためて聞かれると、恥ずかしいですね」宮沢繭は分厚いレンズの奥の目をしばたかせた。「去年の冬に書いた小説で、短編なんですけど、どちらかといえば児童向けかな」

「ふうん」

メルヘンチックな童話と言ったところだろうか。あんまり興味はそそられないけれど、それくらいなら読みやすそうだ。

「宮沢さんっていつから小説書いてるの。小学生のときから?」

「はい。小学校五年生くらいから、ちょっとずつ書くようになりました。わたしは全然、運動神経もないからあんまりみんなみたいに外に出て鬼ごっこして、みたいなタイプではなかったし」

 だろうな〜と思う。全然活発なタイプには見えない。

「森さんはどんな小学生だったんですか?」聞かれてぎくりとする。

「別に普通。うちの学校では色オニが流行ってたからそれやったり、運動場の遊具で遊んでた」

「へえ。ガチガチに文化系だったわたしとは全然違いますね」

 曖昧に笑う。中学校では、あまり小学校時代の話はしないようにしている。

「なんて呼ばれてたんですか? あだ名とか」

「……あーりんとか。下の名前『ありな』だから」

「へ〜可愛いあだ名。女の子っぽい感じですね」

中学校では『森さん』か『有菜ちゃん』としか呼ばれない。あだ名や呼び捨てできるような深い友だちを作らないようにしているから、当然だ。

「じゃあ、わたしもそのあだ名で呼んでいいですか?」

 宮沢繭がにっこりと言う。あたしの表情筋は瞬間冷凍されて固まった。

「……いや、子供っぽいからあんまり好きじゃない。普通に有菜か有菜ちゃんって呼んで」

「はーい」

 宮沢繭は不自然な沈黙などなかったかのように、子供みたいにいい子の返事をした。

「有菜ちゃん。まず第一の作戦を始めましょう」

「勧誘?」

「いや、角が立つので、正面から勧誘しにいくのはやめておきましょう。それより、もっと個人に絞って直談判しにいく方が有効だと思います」

「三人ターゲットを絞って、その人個人に勧誘しにいくってこと?」

 宮沢繭がうなずく。

「一人目は、もう決まっています。一年三組の三島瑛未さんです」

「なんで? 知り合いとか?」

「いいえ。彼女は入学当初から不登校で、まだ入部届が唯一出されていない一年生なんです」

「どっからそんな情報を仕入れたの」

「普通に、一年生の教室に行って不登校の生徒がいないか聞きました」――意外とガッツあるな、この子。

「でもさ、不登校で学校すらまともに来ていない子が入部届わざわざ出すかな?」

「それは難しいと思います。ですが、唯一どこの部活にも所属していない貴重な存在なんだから、勧誘しない手はないですよね」まあ、それもその通りだ。

「でもどうやって接触するの? 保健室に登校してるなら、まだ会いに行けるけど」

「いや、本当に学校には来ていないみたいです」

 じゃあ、一体……まさか家にいきなり押しかけて「文芸部の者なんですが、うちの部活に入りませんか?」なんていうんじゃないでしょうね。

きらりと宮沢繭の目が輝いた。

「いえ。わたしたちは文芸部ですから。もっと賢いやり方が使えるはず」


一年三組の三島瑛未は、なんとうちの顧問が副担任をしているクラスでもあった。

「さっそく情報を掴んできましょう」

 というわけであたしたちは職員室に向かった。幸い、顧問の尾崎先生は席で日誌の添削をしているところだった。

「ちょっと今お時間いいですか」

宮沢繭が言うと、尾崎先生はゆるく作りすぎたババロアみたいにぷるぷるとふるえながらこっちを振り返った。記憶の中以上に超おじいちゃんだった。

「ああ、宮沢さんか。文芸部のことですか?」

「いえ……先生、一年三組の副担任をしてますよね。三島さんという生徒さんをご存知ですか?」

 尾崎先生は非常勤講師だから生徒さんには詳しくないかもしれません、と職員室に入る前に宮沢繭がポツリと呟いていた。だからあんまり期待しない方がいいかも、と。

けれど、先生は意外なことに「ああ、知ってますよ」としゃがれた声ですぐにうなずいた。「いちどもお会いしたことはないけどね。今は自宅学習というかたちで、登校しないで学校に通っています」

「不登校なのに学校に通ってる、ってどういう意味ですか?」

 あたしが疑問を口にすると、尾崎先生は柔らかく笑った。

「もちろん一番いいのはみんなと一緒に教室で授業を受けること。でも、それが難しかったり、苦痛に感じる生徒さんもいます。うちの学校では、そういう生徒さんには別で宿題を郵送して、郵送で提出してもらっています」

 へえ。学校版赤ペン先生ってことか。

「三島さんはまじめに宿題を学校に出してるんですか?」

「ああ、何日までっていう〆切を破ったことは僕が知る限りいちどもない」

 黙って聞いていた宮沢繭の眉毛がピクッと動いた。

「彼女は作文が得意みたいですね。国語で読書カードっていう宿題を出しているんだけど、毎回ビッシリカードに感想を書いて提出してくれる。それも、とても面白く上手にね」

 その宿題なら二年のあたしたちもたまにやっている。月に一冊小説の感想を読書カードに書いてくる、ってやつ。

「三島さんの読書カードって、誰が保管してますか?」

「僕が三組の国語担当だから持ってるよ」

「それ、見せてもらえないですか」

 尾崎先生はうーん、と首を傾げたあと、「本当はだめなんだろうけど、特別ですよ。まあ、大した個人情報ではないし、きみたちはお互い知らないからね」と言った。

 引き出しからファイルを取り出してあたしたちに寄越す。宮沢繭がうやうやしい手つきでカードを取り出した。

「まだ五月なのに、何枚もありますね」

「まとめて二十枚くらい、一年分として郵送したら、全部に書いてきたんですよ。きっと読書家なんでしょうね」

 宮沢繭があたしにも、読む? というふうに見せてきた。中学一年生が書いたと思えないくらい、習字のお手本のように整った字だった。すぐに行替えしたりせず、カードにびっしりと感想が書き込まれている。

「アガサクリスティー、東野圭吾、芦沢央、コナンドイル、江戸川乱歩、宮部みゆき……この子、ミステリーが好きなんですね」

「そうそう、自分でルールを作ったみたいに必ず推理小説の紹介なんです。オチはあかさずに丁寧にあらすじを紹介してくれるから、読んでみたくなるし、続きが気になってしまう。僕は彼女の読書カードを読むのが楽しみなんです」

「三島さんはどうして学校に来ないんでしょう」

 宮沢繭が小さな声で呟いた。先生はにこにこしているだけで、何も言わなかった。

職員室を出る。彼女を是非文芸部に勧誘したい、と尾崎先生に相談すると、「無理強いはできないですね」と静かに言った。「ですが、本は好きなようですし、案外相性はいいかもしれません」とつづけた。けれど、それ以上は何も言ってくれなかった。

 廊下を歩き出す。夕日をあびててらてらと不思議な色に光っている。

「不登校生徒をどうやって勧誘する気?」

「まあ、お手紙を出して心を開いてもらうしかないでしょう」

 宮沢繭が肩をすくめた。

「三島さん、たぶん文芸部の素質ありますよ。だって宿題の〆切、絶対守るみたいだし」そこ? とあたしはずっこけそうになった。

「なんて冗談です。三島さんのカードは、物語や本に対する愛や作家への尊敬の気持ちであふれていました。その気持ちを共有する場として、文芸部があるんだって伝わったらいいなあ」

 宮沢繭がふーうと息を吐く。ふと思い、あたしは尋ねた。

「宮沢さんって小学生のときなんて呼ばれてたの」

「カイコ」

「はい?」カイコって虫だよね? モコモコ動いて糸を吐く、マシュマロみたいなやつ。

「わたしの下の名前を孵化させたんです」いや勝手に人の名前変態させるなよ、と思ったけれど、宮沢繭は別にイヤそうな口調ではない。別にいじめとかじゃなくて、普通に、子供が考えたあだ名なのだろう。

「宮沢は走り方がもぞもぞして遅いからカイコっぽい、って男子が。それで女子にもじわじわ広がっていた感じですね」――うーん、それっていじめなのか?

「わたしは嫌いな呼び方じゃないですよ。二つ名があるってかっこいいじゃないですか」

「じゃああたしもカイコって呼ぶよ」

カイコはにこっと笑った。今までみた中で一番の笑顔だった。


 部室に戻ると、さっそくカイコは戸棚から作文用紙を取り出した。

「何書くの」

「手紙です」ーーいやなんで作文用紙に書くんだよ。

「最初、推理小説風の手紙にしようと思って。でも全然思いつかないや。わたし普段ミステリ読まないんですよねえ。普通にお手紙口調で書くしかありません」

 結局縦書きで【三島さんへ 初めまして、わたしたちは青葉中学校文芸部員の二年生です。よければわたしたちと文通しませんか? 本の感想や書いた小説の批評を送り合いたいなと思っているので、お返事待っています。二年三組宮沢繭、二年一組森有菜】と記した。

 ……これが本当に賢いやり方だろうか?

「なんかシンプルすぎない? あと硬い。先生が書いたみたい」

「ですかね」

「単純すぎて、これじゃあ小学生からの手紙みたい」

「じゃあボツ。もう一枚書きましょう」

ビリビリと宮沢繭が豪快に破く。

「代わりに書いてみてください」

「え〜。あたし、手紙書くとかまじで苦手なんだけど……しかも知らない女の子になんてムリムリ」

 いいから書けとうるさいので、渋々ペンをとった。

【瑛未ちゃんへ はじめまして‼︎ わたしは青葉中学校二年の宮沢マユと森有菜と言います。趣味はお菓子作りですワラ。好きなタイプは横山流星クンです☆ よかったらウチらと文通しませんか? ヨロです】

 カイコは顔をしかめた。

「なんかオジサンが妄想しながら書いたみたいなギャルの手紙みたい」

うるせー‼︎ 正真正銘ギャルプレゼンツのギャル手紙だ‼︎

「なんかイマイチですねー」

「っていうか書いたあたしが言うのもなんだけどさ。こんな手紙もらったところで、嬉しい! とかこの先輩たちと仲良くなりたい! とか思わない気がする」

 ムムムとカイコが唇を噛む。「それはその通りですね。知性のなさしか伝わらない」

「なにげにあたしのこと超ディスるのやめてくれる? っていうかさ、三島さんがミステリー小説が好きなこととか、ウチらが文芸部であることとかなんも活かせてなくない」

「た、確かに」

カイコがもういちどビリビリ破いて真っ白な原稿用紙に書き始めた。

【三島さんへ

  へへっ、はじめてのお手紙失礼します。青葉中学校文芸部の部員の者です。

 たんとう直入にいうと、わたしたちと文通しませんか?

  じっと家で本を読むのも贅沢ですが、

  ま

  ったく知らない人と読んだ本の感想を言い合ったり

  ていねいに手紙をしたためるのも古風で楽しいはずです。

  まずは、わたしたちのおすすめのミステリを紹介します。

  すなの器(松本清張著)です。とても長いですが、面白いです。 文芸部より】


 なんだこのクオリティが低すぎる暗号。カイコがやたら達筆なのもあいまって、なんだか余計に意味不明だ。「ま」ってなんだよ「ま」って。

「なんかゴリゴリすぎない? もはや横読みのメッセージ以外なんのメッセージも伝わってこないんだけど」っていうかこれくらいの内容なら横読みで伝えるまでもない気がするんだけど。

「それがいいんじゃないですか? それくらい重圧をかけられる手紙、ってことで」

 なんだかな、と思いはしたものの、他に案があるわけではないので、その手紙を尾崎先生に渡して宿題と一緒に届けてもらうことにした。

「手紙を送るのは自由ですが、返事を書くかどうかは彼女の自由です」

 チクリと先生が言った。あたしたちは目を合わせてタハ、と笑うしかなかった。

 三島さんは入学式すら欠席しているという。

 いちども同級生と会ったことはないのだろうけれど、誰かから手紙を受け取ったことはあるのだろうか。いきなり知らない先輩から「へんじまってます」なんて薄い内容の怪文書が来たら、「キモ」としか思わないのではないだろうか。

 だんだん不安になったのはカイコも同じらしく、職員室の帰り、なんだか元気がなく話さないまま部室へ戻り、そのままお開きになった。


 その晩お風呂に入りながら、三島さんに出した手紙のことを考えた。

 内容もないしひらがなばっかりだし暗号のレベルは幼稚園児レベル。あんな物を、急に知らない部活からもらったって不気味に思うだけなんじゃないだろうか。ふざけてる、と即刻ゴミ箱に放られたって全然おかしくない。

 なんだかだんだん暗い気持ちになる。お風呂から上がっても気持ちが晴れなかった。ドライヤーで髪を乾かしていると、ママが「有菜、電話」と子機を渡してきた。

「宮沢さんって子だって」すごい礼儀正しい友だちがいるのねえ、とママは上機嫌だ。

 子機を持って部屋に向かった。「もしもし。あたしだけど」

「こんばんは。夜分遅くにすみません」おとなのようにカイコが挨拶をした。「三島さんのことなんですが、あの手紙を先生に預けてしまったことは間違いだったような気がしてきました」

 カイコから電話があった時点で内容は察していた。「あたしもそれ思ってた」というと、子機の向こうでガサガサガサというノイズが聞こえた。受話器に向かってため息を吐いたらしい。

「ですよね。なんか、どさくさに紛れてふざけたお手紙を書いてしまいました。真摯な気持ちで誠実にしたためるべきでした。反省しています」

それじゃまるでラブレターじゃん、と思ったけれど口にしなかった。実際、三島さんの心をひらかせるには、ラブレターを出すくらい心を込めて書くべきだったのだ。

「まあ、そこまで落ち込むことはないと思うよ。あたしもあんまりいいアイデア出せなかったし」

「尾崎先生、荷物はいつも毎週金曜日の朝に郵便に出すって言ってましたよね?」今日は水曜日だから、明日渡しなおせば間に合う。

「明日の部活でもう一回練り直しましょう」

「わかった」おやすみと言い合って電話を終える。リビングに降りると、ママがあたしを振り返った。

「なんの連絡?」

「明日数学の板書当たってるんだけど解き方わかんないから教えてって」ナチュラルに嘘をついた。ママは、ふうんと低くうなずいた。

「有菜に友だちから電話がかかってくるの、めずらしいね」ぎくりとする。

「中学生になってからは初めてじゃない?」

「そうかな」あたしはキッチンへ向かい飲みたくもないのに麦茶を取り出してコップに注いだ。勢いよく注いだせいでお茶の表面がコップから溢れそうなくらい大きく揺れる。

「有菜」ママの声が低くなる。「何も起こさないでね」

わかってるよ、と口に出さずに呟く。黙って麦茶を飲んでいると、ママがもういちど硬い声で「有菜」と言った。

「わかってる。何もないよ」

「ならいいんだけど」ママがまたバラエティ番組に目を戻す。子供の頃は一緒に見ていた番組だったし、好きな俳優が出ていたけれど、黙って二階に上がった。

宿題を片付けようとリュックから中身を取り出していると、見覚えのないリングノートが滑り出てきた。

カイコの創作ノートだった。


翌日の放課後、さっそくあたしたちは手紙を書きなおすことにした。カイコがまたばかでかい原稿用紙に書こうとしたので「便箋持ってきたから普通の手紙みたいに書いた方がいいんじゃない」と言ったけれど、カイコは首を振った。

「縦書きの方がわたしは気合が入るので。ありがとう」

 カイコは「三島瑛未さま」と流れるような達筆でしるしたあと、ゆっくりと書き始めた。

「はじめまして。突然のお手紙失礼します。わたしたちは、三島さんと同じ青葉中学校の文芸部の者です。

わたしたちは廃部の危機にせまっており、現在部員を探しています。そんなとき、一年生の三島さんがとても熱心な読書家だと偶然知ったため、お手紙を送ることにしました。

 わたしたち文芸部は、仲間と一緒に同じ本を読んで感想を言い合ったり、自分が書いた文章を読み合って批評をしあったりしています。

三島さんはミステリー小説が好きなんですね。わたしたし文芸部員には、三島さんほどミステリーに愛情を持ち、敬意を払っている部員はいません。

ぜひ、わたしたちにミステリーの面白さや醍醐味を語ってくれませんか。

お手紙越しでもかまいません。

原稿には〆切はありますが、返信には〆切はありません。

いつでも、三島さんが書きたくなったときにお返事待っています。

青葉中学校文芸部 二年 宮沢繭 森有菜」

 いいと断ったのに、「有菜ちゃんも連名にしましょう」とカイコが熱心に言うのであたしも最後に名前を書いた。

「いい手紙だと思う」

「返事が来たらいいんですけどねえ」カイコが頬を桃色にしていう。

 さっそく職員室に行くと、尾崎先生は席にいなかった。

「あれ、尾崎先生、囲碁部に顔だしてるのかな」カイコが呟くと、近くにいた先生がひょいと顔を上げた。

「先生ならもう帰ったよ。生徒さんに宿題を渡すついでに、家庭訪問するんだって」……なんですとー!


 だったらあたしたちも急いで三島さんの家に行こう! と息巻いたものの、残念ながら三島瑛未の担任の先生は「情報漏洩はできない決まりなの」と住所を教えてくれなかった。それはそうだ。

 せっかく手紙を書いたのに、とがっかりしたけれど、カイコはこう言って慰めた。

「どちらにせよ、見知らぬ二年の先輩がいきなり家におしかけてきたら怖いと思います。また別の機会に先生に送ってもらうことにしましょう」

 そのとおりだと思ったけれど、ふざけた手紙をもらったあとにまじめな手紙をもらっても、かえってうさんくさく思われるだけかもしれない。そう思うとなんだか憂鬱だった。


 次の日、朝の時間にカイコと職員室に向かった。尾崎先生に三島瑛未の様子を聞くためだ。

「先生、昨日三島さんの家に行ったんでしょう?」

 先生はしょぼしょぼと目を瞬きさせた。

「ああ、行きましたよ。それがどうかしましたか?」

「わたしたちが書いたお手紙、どうしたのかなって」

すると先生はビクッと肩をふるわせた。そして、ヤギそっくりな白いひげを撫でながら、「いや~かたじけない」と言った。「実はきみたちの手紙は渡さなかったんだよ」

 ええ!? とばかみたいに大きな声を上げてしまう。周りの先生たちは何事かとこちらを振り返ったけれど、尾崎先生はおじいちゃんだからか、少しも動じずになぜか照れ笑いをうかべていた。

「すまない。実はここにある」

そういって引きだしを開けると、あたしたちが預けた原稿用紙が畳んだ状態で「よお」というふうに置かれていた。

「うっかりしまい忘れてそのまま三島さんの家に行ってしまってねえ。いやあ、申し訳ない。カカカカ」気が狂ったカスタネットのように笑い声を上げる先生を前に、あたしたちは顔を見合わせた。ある意味結果オーライかもしれない。

 が、新しく書いた手紙を預けるよりもさきに、尾崎先生がこうつづけた。

「文芸部の先輩が三島さんの読書カードを読んでえらい感激していたことを伝えたら、はにかんで喜んでましたよ。文芸部に興味を持っていたみたいなので、入部申請書を渡しました」そう言って先生はファイルから入部届を取り出した。

 三島瑛未――まだ見ぬ新入部員の名前は、ほそいけれどきれいな字だった。


 2読書家は二度同じ本を読む

 

 インゲン豆とニンジンのスープ、ブロッコリーのあえもの、ミートボールのケチャップ煮込み。今日の献立はあたりだ。そう思いながら掲示板に貼られた献立表を眺める。あたしは友だちがいないので、中学生活において給食は楽しみな時間ランキング堂々1位だ。

「最近森さん、宮沢繭と仲良いよね」

 給食配膳の列に並んでいると、後ろから話しかけられた。振り返る。

 石野紗江と歌川るりか。クラスでも結構派手で、「上」にいる子だからフルネームで言える。

 こういう子たちは一番敵に回したらいけない。もう、条件反射のようなもので口角が持ち上がる。

「あー、部活同じだからさ。去年とかは全然話してなかったんだけどね」

「へえ。ウチら小学校同じだからアイツのこと知ってるんだけど、超ウケるよねカイコって」超ウケると言っているのに歌川るりかのくちびるは意地悪くひん曲がっていた。

 あ、これ陰口的なノリが始まるやつだ、と思った。そしてあたしは思った。聞きたくない、と。

「あの子昔から本ばっか読んでてさあ。本のむしっていうの? 虫だからカイコって呼ばれてるんだよ。知ってた?」

「運動音痴すぎて誰も遊びに誘わないでいたら、『本だけがワタシのおともだち』状態になったカワイソーな子なんだよ」

 彼女たちはケラケラ笑う。けど目は完全には笑っていない。あたしが悪口に乗るか、怒るかを見定めている。

 ――くだらねー。

 あたしは笑顔を崩さないまま、ほんのり首を傾げてみせた。

「へー、知らなかった。話しててそんなに変な感じの人だとは思わなかったよ。確かに本の話が多いけど」

「っていうか本の話しかできないでしょあの子」

「天然っていうか、ズレてるんだよねー。なあんか意外かも。森さんがカイコなんかと仲良いの」

 うるせえほっとけ、と心の中で思う。そうかなあ、と適当に首を傾げていると「そうそう」と歌川るりかがツインテールを揺らしながら熱心にうなずいた。「森さんってかわいいし体育も得意だし、しゃべってみたいって言ってる子結構いっぱいいるよ」

ぐっと胸が熱くなり、にやけてしまいそうになるのを押し止める。そうなんだね、と言っているうちに列が進んだのであたしはおぼんに牛乳を乗せてさっさと皿を取った。

 クラスの女子の派閥はがっちりと岩のように硬く固まっている。だからこそ、グループからあぶれて一人でぷらぷらしているあたしが気になって、ちょっとつついてみたくなるのだろう。異端者は容赦無く目立つ。やっぱりどこかのグループに所属していた方が無難だっただろうか、とも思うけれど、今更仲間に加わる気にはなれない。

 石野紗江と歌川るりかはあたしに話しかけるのをやめて後ろでぺちゃくちゃしゃべっている。彼女たちはテニス部で、もう二人女子バスケ部の女の子といつも四人で行動していることが多い。

 まあ、一緒にいたら得をすることは多いかもしれない。文化祭でかわいいコスチュームを着てはしゃぐとか、運動会のときに前髪をお揃いの編み込みにするとか、そういうのに参加しつつ、かっこいい目立つ系の男子とも仲良くして、ちゃっかり彼氏とかもできるのかもしれない。

――でも圧倒的にめんどうくさい。

 気が強い子が四人もいたら、絶対揉めごとは避けられない。貸したCDカードが折り曲がってたとかジャニーズで好きなアイドルが思いっきりかぶってたとか挨拶したのに無視されたとか。それに、四人グループにあたしが加わると五人になってバランスが悪くなる。絶対やだ。

 自分の席につき、文庫本を開く。にこるんのメイク本ではなく、星新一の「ノックの音が」だった。

「話が難しくなくて、サクサク読めて、おもしろい本なら読んでみてもいい」――ワガママ極まりないあたしの雑な要望に対して、カイコは星新一という人の「ボッコちゃん」を勧めてきた。目次を見てあたしの口からカエルが踏んづけられたような音が漏れた。ゲエ。

「何これ。一冊に二〇話も入ってるじゃん」

「これはショートショートっていうジャンルで、どのお話も無駄なくコンパクトにまとまってるんです。本が苦手でも読めると思います」

 カイコの言う通りで、あたしはあっという間に「ボッコちゃん」を読み終え、別の作品も図書室で借りるようになった。これは三冊目だ。

 クスッと笑えたりちょっとゾッとしたり、あとから意味がわかってもう一度読み直したりする。本は宿題や感想文のために仕方なく読むもの、と思っていたあたしにとって、この経験はちょっとした驚きだった。

 教室で本を読んでいるとおとなしめの女の子たちに「あ、星新一好きなの?」「私も読んだことあるよ」などと話しかけられるようになった。邪険にするほどじゃないかな、と思って「最近ハマってて」と返すと、これが面白かったとかこの作家もいいなんて教えてくれたりする。こうしてみると、うちのクラスには教室の中で本を読む子や図書室ですれ違う子がぽつぽつといた。

 中でも夏目まどかさんという女の子は熱心な読書家らしく、図書館でしょっちゅう見かけた。最初はあ、どーもと目を合わせるくらいだったけれど、三度目には彼女の方から「有菜ちゃんって本好きなの?」とおずおずと声をかけてきた。「先週も借りにきてたよね」

 少し天然パーマのかかった髪を短く切り揃えており、すんなりと手足が伸びたモデル体型。目の色素が薄く淡い栗色がかっていることもあってあたしは最初夏目さんのことをハーフだと思っていた。噂によると、間違われやすいらしいけれどどうやら違うようだ。

「ああ、最近ハマってるんだ。星新一ばっかり読んでる」

「へえ。わたしも昔読んでた。おもしろいよね」夏目さんはハードカバーの本を何冊か借りていた。夏目さんはいつも家庭部の女の子たちと一緒に行動していて、あまり教室で本を読んでいるところは見かけたことがなかった。家で読んでいるんだろうか。

「夏目さんは誰の本借りたの」

「わたし? えっと……石田衣良」全然知らない作家だった。当然だ。

「へー。『夜の桃』? どんな本なんだろ。あたしも読んでみようかな」桃、果物のなかでかなり好きだし。夏にロイヤルホスト行ったら絶対ピーチパフェ食べてるし。

 すると夏目さんは見るからに頬を赤く染めた。それこそ熟した桃みたいに。

「どうだろ。面白かったらすすめるね。でもつまらなかったら別の本紹介してあげる」

「ありがと! じゃあまた感想教えてね」

夏目さんはなぜかほっとしたように微笑んで、「じゃあまた」と図書室を出て行った。

 そういえば夏目さんが図書室に誰かといるところを見かけたことがない。教室ではいつも女の子に囲まれているのに、なんだか意外なような気がした。


 部室に行くと、カイコがガリガリとノートに向かって文字を書きつけているところだった。「執筆してるの?」と覗き込むと、「ぎゃっ」と叫んでノートを伏せた。

「完成したら渡しますから。今は、ちょっと」

「ふうん」

 カイコが書いた小説も、星新一と同じくらい楽しみにしている。初めて借りたリングノートを気紛れにひらいて読み進めたら、意外なくらい面白かったのだ。

 カイコが言う通り、児童向けのやさしい内容だった。でも、だからと言って退屈だとか面白くないということもなく、りぼんをするする引っ張るみたいに簡単に最後まで読み切ってしまった。

 三島さんの入部届をゲットした日、部室で帰り支度をしながら「カイコの小説読んだよ」と告げると「グェー」とホウ酸ダンゴを食べたネズミのような悲鳴を上げた。

「どうでしたか」

「面白かった。もっと読ませてよ」

カイコはふにゃふにゃと笑った。よかったあ、とほっとしたように赤い顔で笑っていて、あたしまで照れてしまった。

 以来、昔書いたものや新作を読ませてくれる。毎回緊張した面持ちで渡してくる。「おもしろいものを書いたって自信があるんだったらもっと堂々と渡せばいいじゃん」と言うと、カイコはわかってないなーという顔をした。

「そうは言っても、まだ誰からもなんの感想ももらっていない、点数のついていないものを人に見せるのは緊張するものです」

 そうなのかな? 首をひねっていると、さらにつづけた。

「書いたものを人に見せるのは、すごく無防備なことです。もし笑われたりつまらないと突き返されたら、わたしは立ち直れるか自信がありません」

 大げさな、と思ったけれど、カイコの表情は張り詰めていて、ちゃかせるような雰囲気ではなかったので黙っていた。自分でお話を作れるなんてすごい、と無邪気に思うだけだったけれど、カイコはカイコなりに、あたしにノートを渡すことに葛藤があったのだろう。

「そうだ、夏目さんって知ってる?夏目まどか」

「誰ですか」そうか、カイコって他人に興味ないんだった。

「あたしのクラスの、背が高い女の子なんだけど」知らないならいいよ、と言おうとしたけれど、カイコは「思い出しました。去年同じ図書委員でした」と言った。

「へえ。やっぱり本が好きなんだね」最近よく図書室で会うのだというと、カイコは「わたしも何度か見かけたことある」と言った。

「そんなに本が好きなら文芸部に勧誘してみようかなあ」

「どうでしょう。難しいと思う」とカイコはしずかに言った。

「なんでよ」

カイコは少し首を傾げたあと、「有菜ちゃんは本が好きな人って言われたらどんなイメージがありますか」と言った。

「なんだろ。賢そう」

「それから」

「んー。頭が良さそう。ってこれじゃ一緒か。おとなしそう、まじめそう、静かそうってイメージ」

「もっとあるんじゃないですか」とカイコが呟いた。「地味そう、友だちが少なそう、暗そう」とか」

カイコ自身が相当な読書家ということもあり、あまり悪い方向のイメージはあげないように気を遣ったのだけれど、本人が容赦無く言いつらねたので、かえってあたしの方がきまりわるくなってしまった。

「まあ、正直そういうイメージもあるかも」

「有菜ちゃんは本を読むようになったから、多少イメージはいい方に変わってるかもしれないですね。でも本を読まない人は読む人のことをどこか、下に見ていることもあります」

「そうかなあ」

 口では言いつつ、内心その通りだと思った。本ばかり読んでいる子に対して、「友だちいないのかな」とか「鬼ごっことかはないちもんめした方が楽しいのに、変なやつ」と思ったことがないとは言えない。

「図書委員で一緒になったとき、夏目さんは意外なくらいたくさんの本や作家にくわしかった。教室ではあまり本を読んでる印象がなくて、びっくりしました。『本詳しいですね、好きなの?』と訊いたら、夏目さんは口ごもってしまいました」

「それで?」

「なんだろう、と思ってたら『クラスの子には言わないでね』って言われたんです。本が好きだってことをあんまり友だちに知られたくないから、って」ふーん。変なの。合点がいかず首を傾げたものの、ふと教室の中の夏目さんのことを思いだした。

 夏目さんはいつも、家庭部の華やかな子たちとつるんでいる。普通、文化部は運動部よりカーストが低いものだけれど、家庭部だけは別なのだ。女子しかいない部活のせいか、”可愛い子しか入れない”なんて噂がうっすらあり、自信がある子しか入部しないらしい。実際可愛い子やきれいな子が多く、男子からは憧れ目線で見られている。

 ――自分のイメージに水差したくないのかもな。

 本が好きなことがバレたくらいで好感度が下がるとは到底思えないのだけれど、グループ内の雰囲気もあるのかもしれない。教室の後ろでセブンティーンひらいてるような人たちだし。

「そういや今日も図書室で会ったよ。なんだっけ、桃? みたいな名前の本借りてた」

「モモ?」

カイコは眼鏡の奥で目を細めた。「ミヒャエルエンデですか」

 いや、そんな舌噛みそうな名前じゃない。「いや日本人」

「さくらももこの『もものかんづめ』とかですか」

「え、まるちゃんの作者って本出してるんだ。でも違うよ」

 桃、桃、とカイコが呟く。「作家名はなんか、全部で苗字みたいな名前だったよ」と言うと、カイコは「あっ!」と叫んだ。

「石田衣良の『夜の桃』じゃないですか」

「あ、そうそう。イシダイラ」昔小学校に石平という名字のクラスメイトがいたのだ。

「へー。夏目さんってああいうの読むんだ、意外」

 カイコは勝手にふむふむと納得してうなずいている。「どんな話?」と訊くと、なぜか顔をあからめた。そういえば夏目さんも本のことを聞くと顔を赤くしてたな。

「説明しづらいです。でも、もしかしたら夏目さんを文芸部に引っ張ってくるチャンス、わずかながらあるかもしれません」

 あとはどれだけつついてもあらすじは語ってくれなかった。まあいいや、夏目さんが返却したら借りてみようっと。

 

 教室のなかで夏目さんのことを観察してみた。

「まどー、英語のプリント写させてぇ」

「いいけど問5か問6がわかんなくて空けてるよ。島ちゃんに訊いた方が確実かもよ?」 

 同じ家庭部の女の子にプリントを渡して写させてあげていた。クラス内でも、優等生として通っている。見た目がお人形さんみたいのもあって、なんだか隙がない感じの人だ。体育でも足を引っ張るほどの運動音痴でもないから、カーストが上の派手な子たちに目をつけられるタイプでもない。

 トイレ行ってくるね、とグループの子たちが教室を出ていくと、手を振って見送っていた夏目さんはそっと机から本を取り出して、教室を出ていく。あまりにさりげない動作だったので、見失いそうになった。

 昨日借りてもう読み終わったのだろうか。早いな、と思いつつ図書室まで後をつける。三階まで上がると、カイコが図書室から出てくるところだった。

「あ」

あたしではなく夏目さんを見て声をあげた。夏目さんはビクッとして肩をふるわせたけれど、そっと会釈をしてカイコの横を通り過ぎる。

「つけてたんですか」

 カイコがあたしに気付いて話しかけてくる。「うん、ついでに『夜の桃』あたしが借りてみる」と言うと、カイコがワタワタしだした。

「いや〜それはちょっと」

「つまんないの?」

「わたしは別に、その……う〜ん」

 小声でつつき合いつつ図書室へなだれこむ。カウンターで返却手続きをしていた夏目さんと目があった。

「あ、有菜ちゃん。また会ったね」スマイルを浮かべて声をかけてくる。けれどどこか作り笑いにも見えた。

「『夜の桃』、返却したならあたしが借りようかな」

「えっ」

カウンターを覗き込む。けれど、机にあった本は『夜の桃』ではなかった。

「『アダルト・エデュケーション』あれ……桃の本じゃないじゃん。作者も違うや。『村山由佳』?」

あたしがタイトルを読み上げた途端、夏目さんが「ひっ」と短く声を上げた。振り返ると、カイコが「あちゃー」と言う顔をしてあたしと夏目さんを見比べていた。

「夏目さん、まだ昼休みまで時間があるし、ちょっとうちの部室で話しませんか?」

 カイコが声をかけると、夏目さんは心底イヤそうに顔をしかめた。


 百パー断るだろうってくらい顔をしかめていたのに、夏目さんは素直に部室についてきた。部長であるカイコは部室の合鍵を持っているので、昼休みでも入ることができる。

「ここが文芸部の部室なんだ。結構いいところだね。学校じゃないみたい」夏目さんはきょろきょろと見渡しながらソファにそっと腰を下ろした。

「夏目さん、うちの文芸部は現在部員が三名しかいないんです」

「そうなんだ」少ないね、と呟く。

「家庭部をやめてうちの部に入りませんか?」

あまりに単刀直入に言うのであたしも夏目さんも「はあ!?」と声を上げた。

「言いにくいんですが、実はわたしも『夜の桃』と『アダルト・エデュケーション』、両方読んだことがあるんです」

「……そうなんだ」

「…ええ」

なぜだろう、カイコと夏目さんの間に気まずい空気が流れた。「なんの話」と言うと、カイコが渋々というふうに口を開いた。

「この二冊には共通項があります。まあ、タイトルで薄々わかると思うんですけど」

「わかんない」

「どちらもかん「言わないで!」のう小説です」

途中で夏目さんが悲鳴のように鋭くさけんだ。何て言ったの? と目で尋ねると、カイコはもういちど言った。

「官能小説です」

「何それ」

 カイコはつうっと視線を横に滑らせた。「……まあ、すごくわかりやすく言えばムンムンしてるセクシーな小説ってことです」

さすがにあたしでも察しがついたのでそれ以上突っ込むのはやめた。そりゃカイコも夏目さんも言いたがらないはずだ。でも、あとでこっそり読んでみようと思った。

「言っておくけど、たまたまだから! いつもこういうジャンルばっかり読んでるわけじゃないよ」

 小さな声で夏目さんが反論する。「はい、わかってます。たまたまだと思ってます」とカイコがすかさずフォローした。

「でも、夏目さんにとってあんまり人に知られたくないことだったかもしれません。だから部室に連れてきました」

「どういうこと」ふてくされたように夏目さんが言う。教室の中の愛想のいい笑顔とは全くイメージが違うはすっぱな口調だったけれど、いつもよりおとなびてきれいだった。

「わたしたちは図らずも、あなたの弱みを握ってしまいました。夏目さんがそういう……ジャンルの小説を読んでいたことを黙っていてあげる代わりに、うちの部員になりませんか? ってことです」

 予鈴が鳴った。あ、やべと思っていると夏目さんは「お断りします!」と叫んで部室を飛び出していった。白い膝の裏が眩しかった。


「どうする?」

「どうしようもないですね」

 夏目さんはあとから教室に入ってきたあたしの方も見ずに硬い顔をして前を向いていた。体育の時間に何気なく夏目さんの近くのロッカーで着替えたりしてみたけれど、全く目が合わなかった。完全に敵だと思われているようだ。仕方ないのでそのまま部室に向かった。

「夏目さんの件はともかく、三島さんから返事が来たみたいです。尾崎先生が渡してくれました」

「へえ、読ませて」

相変わらず学校には来ていないけれど、三島さんとは先生を通して文通している。この前は初めてカイコが書いた小説のコピーを送った。あたしが勧めたのだ。

「『あまり読んだことがないジャンルだったけど面白く読みました。主人公がブチギレて仏像を投げつけるところがよかったです。仏像でぶつ、という動作は日本語でしかできない駄洒落ですね』――丁寧にギャグを解説してくれてるよ」読み上げると、カイコはぶすくれた顔で手紙を取り上げた。照れているのだ。

「三島さん、本の感想書いてるときが一番筆が乗ってる感じがするね」

「そうですね。ほかに分かち合える人がいなくて、つまらなかったんでしょうね」

 あたしが星新一にハマっているというと、彼女は東野圭吾の「毒笑小説」を勧めてくれた。星新一より一編いっぺんが長くてびびったものの、読んでみたら内容は軽くてポップだったから、意外なくらいスルスル読めた。

「今まで読書って、姿勢正して静かなところでお行儀良く読むもの、ってイメージがあったんだよね。でも、なんかポテチ食べながら寝っ転がってゲラゲラ笑いながらする読書もありなんだなあって思った」バカにされるかと思ったけれど、カイコは大きくうなずいた。

「わたしも、森鴎外や夏目漱石、幸田露伴なんかを読んでいると、そういう気持ちになることはあります。格式ばった感じがして、雰囲気が厳かなんですよね。でも、内容がするする頭に入ってくるような作品は、自分を高みから見下ろしているんじゃなくて寄り添ってくれているような気持ちになります」

 文学全集は文芸部の本棚にもずらりと並んでいる。わたぼこりがモコモコとかぶさっているものの、紺色の重厚な表紙や金色の糸の縁取りが高級感を醸し出していた。

「でもいつかあたしもああいう難しそうな本読めるようになりたいな。頭良くなった気がするしかっこいいじゃん」

 カイコは嬉しそうにうなずいたあと、「読みやすい本を今度貸してあげましょう」と言った。


「有菜。パウンドケーキ焼いたから食べる?」

お風呂から上がったあと、東野圭吾を読んでいると、ママが部屋に入ってきた。思わず顔をしかめた。

「ノックしてから入ってっていってるよね?」

「だってあなた、リビングから呼んでるのに返事ひとつよこさないじゃない」

 ママがくちびるを尖らせる。中学生の娘の部屋に無遠慮に入ってくるなんて非常識だ、と思うのだけれど、ママは目をほそめて言うのだ。

 ――だってあなた、ママが見てなきゃ何するかわからないじゃない。

 あたしには前科があるから、その台詞に反撃することができずにいる、

 ママはあたしが文庫本を手にしているのを見て、「めずらしいね」と言った。「有菜、本なんて読めって言っても読まなかったのに。国語の宿題?」

「別に」

 ママはあたしが文芸部に所属していることなど覚えていないに違いない。気にしているのはあたしの学校での素行だけ。

 黙って視線をページに戻して無言で「もう出て行って」と態度に表したつもりなのだけれど、ママはまだ部屋から出て行かない。仕方ないので口火を切る。

「何」

「美奈ちゃん、鵬明高校受験するんだって」

 ひさしぶりに耳にする名前に、全身がびくりと反応した。鵬明高校は、県内で一番の進学校だ。エリート大学の合格率は近隣県でも群を抜いてトップを誇る。

「副生徒会長とかしてて内申点もいいから、一般じゃなくて推薦入試で受けるかも、って。今日夕方美奈ちゃんのお母さんとイオンで会ったの」

「……そんなのあたしに関係ないじゃん」

 するとママは悲しげに眉を下げた。「でも、有菜も今から頑張れば鵬明に行けるんじゃない? そしたらまた、美奈ちゃんと同じ学校で仲良くできるし」

 冗談じゃない。ママのなかであたしと美奈はまだ親友同士だと思っているのだ。

「そしたらまたやりなおせるし、ね」

 かっとなって本をベッドに投げつけた。――嘘だ。これはカイコから借りた本だから、そんなことしない。黙ってにらみつけるだけだ。

 ママはそんな態度を見て、ため息を吐いた。

「ケーキ、置いていくから。あったかいうちに食べないとおいしくないわよ」そう言って学習机に皿を置いて出て行った。

 首を伸ばして皿を覗き込むとキャロットケーキだった。小さいころは好きだったし作るときにお手伝いしたけれど、いまとなっては甘すぎてあんまり夜に食べようとは思えない。

 ママは何もわかっていない。美奈の名前を聞いただけであたしはなんだか背中に悪寒が走り、せっかく読んでいた小説を閉じてベッドの上に顔を伏せた。

 息苦しくなってそっと顔を上げる。夜空に浮かんだ三日月が、ほそい目みたいにするどく光っていて、思わずカーテンを閉めた。

 うちら、親友だよね? 

 とろんと蜜が垂れそうなくらい甘い言葉を言うときほど、美奈のかたちのいい二重まぶたは細められてあたしを射すくめた。忘れたいのに、いつまでたっても囚われて逃げられない。


 午前中は濃い青空が広がっていたのに、午後になると分厚い雲が空を覆っていた。その模様を目で追っていたら、なんだか具合が悪くなってきた。

 お腹が重い。生理かもしれない。

 二時間目の社会が終わるまで頑張って我慢して、三時間目の体育は保健室で休むことにした。

 養護の先生に痛み止めをもらってベッドで寝てうとうとしていると、しばらくして誰かが入ってきた。「あらら、派手に怪我しちゃったのねえ」と先生がぱたぱたとかけよっているのが気配でわかる。「はい、体育で転んじゃって」と女の子が答える。

「消毒してあげるから、外の蛇口で流して砂落としちゃって。ばい菌入っちゃうから」

 からから、と窓が開いて、水がばしゃばしゃと流れる音がする。起き上がってそうっと覗き込むと、思った通りだった。

「今日は二年一組で貸切ね」

 先生がひとりごちながら消毒液を戸棚から取り出している。ベッドカーテンから顔だけ出していると、「あら、寝てなさいよ。トイレ?」と声をかけてくる。しまった。

 先生の声に反応して、夏目さんが顔を上げた。窓ガラス越しに目があってしまい、仕方なく苦笑いして見せた。夏目さんはさっと目を下に落としてしまう。

 からからと窓を開けて入ってきた。右膝が痛々しくすりむけている。

「痛そうだね」カーテンから顔を突っ込んだ間抜けな状態で声をかけると、無視されるかと思ったのに夏目さんは「思いっきりこけちゃって」と淡々と言った。

「走るの得意そうなのに」

「父に似て背が高いだけ。全然体育会系じゃないよ」

 先生が消毒して大きな絆創膏を貼る。「戻ってもいいけど、傷口が開くから今日はもう走らない方がいい」と言われて、夏目さんはむすっとした顔で窓の外を見やったあと、「じゃあ寝てます」と言ってベッドカーテンの中に入ってきた。意外な展開にびっくりしつつ、あたしもベッドに戻った。

 体操服のまま夏目さんは、かけぶとんの上にそのまま寝ころがる。

「わたし、保健室で寝るの初めて」小さな声で呟いて、目を瞑る。長いまつ毛がぴんと天井を向いている。

「そうなんだ。あたし何回かあるよ」

「具合悪いの?」

「今日あの日なんだ」

「そっか、つらいね」

 昨日のことを蒸し返してもいいものなのか迷っていると、夏目さんの方から「ねえ」と声をかけてきた。「有菜ちゃんって文芸部だったんだね。知らなかった」

「あ、うん」

「宮沢さんが文芸部なのはわかるけど、なんか意外だった。だからよく図書館で会ったんだね。自分で書いたりもするの?」

「ううん。あたし、本読みはじめたのつい最近だから。カイコがいろんな本教えてくれるようになって、読み始めたって感じかな。夏目さんこそ、教室だと全然本読んでないよね。家で読んでるの?」

 夏目さんはしばらく黙ったあと、「塾で読んでる」と言った。

「え、塾の授業中に?」

「違う。それは普通に授業受けてる。授業始まる前とか、自習スペースとかで読んでる。家だと怒られるから」よくわからない。黙っていると、ぽつぽつと夏目さんが話してくれた。

 両親がとても厳しく、自分たちが買いあたえた文学全集以外の読書は原則禁じられているということ。夏目家では読書はゲームについで『悪い遊び』扱いされていると言うこと。家で図書館で借りた本を読むことができないので、しかたなく塾でこそこそと読んでいるのだという。家庭部に入っているのは、顧問の先生が不在で〈自由実習〉の日は家庭準備室に閉じこもって思う存分本が読めるかららしい。

「何それ戦時中?」

あきれて言うと、夏目さんは傷ついたような顔をした。「うちね、とにかく家が厳しいの。兄も姉もすごく優秀だし、わたしもいい高校いい大学に入れたいんだって。だから、小説なんて娯楽に時間を割くと頭が悪くなるっていうのが両親の言い分」

「普通親って本読んでたら褒めるよね? 変わった家だね」

 夏目さんは苦笑いした。「家庭部入部は、女子は料理とかお裁縫ができた方が何かといいから、って母が勝手に決めたの。全然興味なかったけど、サボれる時間があったから、結果ラッキーかなって」

「他の子はその時間ちゃんと裁縫とかしてるの?」

「真面目な子はミサンガとか編んでるけど、だいたいスマホいじってる」……そんな部活の方がよほど廃部にするべきじゃないかな?

「基本的には両親がOKを出さなければ私は何も選択肢がないの。だから、文芸部に誘ってくれたのに申し訳ないけど、私は部活やめられないよ。宮沢さんにもそう言っておいて」

「夏目さんの気持ちは?」

「え?」夏目さんは笑顔のまま固まった。

「夏目さん自身は、文芸部に入りたいって思ってるの?」

 沈黙があった。

 くるりとあたしに背を向けて、「親の言うこと聞いてる方が、楽だから」と小さく言った。それからは、寝てしまったのか寝たふりなのか、もう何を話しかけても返事がなかった。


 放課後、カイコに相談すると「まるでアンネ・フランクですね」と呟いた。

「何それ」

「第二次世界大戦中、屋根裏部屋で日記を書いていたユダヤ人の女の子です」

「あ、アニメで見たことある」なるほど、確かに家庭科準備室や塾で、親の目を逃れてこそこそ小説を読んでいる夏目さんの姿と重なる。

「でも、そういう事情があるなら無理強いできないですね。諦めて別の子を勧誘しましょう」あっさりと言い放つ。なんだか薄情に思えてがっかりした。

「同情してないの? 夏目さん、自分で決められないで全部親の言いなりなんだよ。かわいそうだよ」

 カイコは静かに言い返した。「大変だな、とは思います。もしわたしが家族に読書や創作を禁じられたら、発狂するくらい嘆いたり怒ったりするでしょうね」でも、と言葉を翻す。「これは想像だけど、夏目さんはあまり自分の家のことに首を突っ込んでほしくないように思えます」

 あたしは黙り込んだ。その気持ちは、わからないでもなかった。「戦時中みたい」と不用意に感想を漏らしたら、夏目さんの顔が小さくかげったことを思いだした。

「部員を探すことも大切なんですが、ひとつ言い忘れていました」

「何?」

「文芸部にはコンクールがあります。六月末が〆切の、全国の中高生が対象の賞です」

「へえ。カイコ、それ出すの?」賞獲れたらいいね、と言うとカイコはふにゃふにゃと笑った。

「いやあの……部活存続の条件は、部員探し以外にこれもあるんです。文芸部で三名以上が何かしらの賞に作品を応募すること」

 いまは五月の半ばだ。あと一ヶ月半しかない。

「現状、なんとか文芸部は三名部員がいるからこの条件自体はクリアできそうです。ねえ、有菜ちゃん」ポン! とカイコがあたしの肩を芝居がかったしぐさで叩く。「何のジャンルでも構いません。文芸コンクールに作品提出をお願いします」

「むい」

 最後まで声を発することはできなかった。カイコがあたしの口を手のひらで押さえたからだ。

「無理じゃありません。小説や詩、短歌、俳句、どんなジャンルの文芸もわたしが作り方を指導しますから」

「無理だって! リームー」

「大丈夫です。書いたことがないからできないと思っているだけです」

「カイコが昔書いた作品をあたしの名前で提出すればいいじゃん」

「別にできなくはないですけど」カイコがくちびるをとんがらせた。「どうせなら書いてみたいと思いませんか? 小説を書く、それはいわば世界の創造なんですから」大袈裟な言い草に思わず笑ってしまったけれど、カイコは目をキラキラさせてまくしたてる。

「誰を主人公にしてもいい、舞台を外国にしても宇宙にしても死後の世界にしてもいい、どんな時代にも行けるし気に食わない敵を完膚なきまでにボコボコに打ちのめしてもいいんです。その世界では作者が神様ですから。殺人を犯そうが薬物に手を伸ばそうが戦争を起こそうが、文章の中だけだったら誰にも裁かれることはありません。こんなに楽しいことが他にある?」

「うーん。いまいちピンとこないかな」

あたしの返事にカイコがずっこけた。めがねがずり落ちそうになっている。

「まあいいです。面白い小説を読むうちに、『自分でも書いてみたい』と思うようになるかもしれません」そう言ってあたしに手渡してきたのは、古い紙の冊子だった。

「何これ」

「まだ文芸部が活発だった頃、部で文芸誌を発行していたみたいです」

「ふうん」

 ほこりっぽくて汚れていたものの、ちりを払ってリュックにしまった。

「って言うか三島さんも勘定に入れてるけど、書くのかな?」

「三島さんは短歌部門と詩部門で出したいとのことです。小説はまだ書いたことがないから、って」

「あれだけ読む人でも、小説を書くことはハードルが高いんじゃん。じゃああたしなんて余計無理だっつうの」

カイコは「そんなことない!」とクワッと叫んだ。「そんなに肩肘張らないでも、小説は書けます。とりあえずその文芸誌を読んでみてください」

「わかったよ」渋々頷いた。部員もまともに集まっていないのに、小説なんて書いたって意味があるんだろうか? 


 次の部活から、カイコは早速小説の書き方をレクチャーしてくれた。

「まず、コンクールに出すものは三十枚までという規程です。短編小説よりもやや短いので、掌編小説と言えるでしょう」

「ふうん。星新一とかも?」

「あれはさらに短いので、また別ですね。掌編小説は短編とショートショートの間の長さです。もちろん、ショートショートを応募しても全然構いません」

 そして、さらにカイコは国語の先生のように壁のホワイトボードに板書していく。

 ・小説の基本は起承転結。

 ・筋立てを決めてから書いてもいいし、考えながら書いてもいい。ただし、初心者はプロットを立ててから書いたほうがいい。

 ・起承転結にパンチがなければ魅力的なキャラクターを作る。

 ・恥ずかしがらない。ノリノリで書く。

 ・最初のシーンから書き始める必要はない。書きたい場面や台詞から書いて後からつなげるのもアリ。

・題材はなんでもいいが、自分が知っていること、知識がある分野を舞台、題材にするのが吉。

・とにかく「書き終わらせる!」という意気込みを燃やし続ける。なんとなく書き始めると宙ぶらりんになって途中で投げてしまうことになる。

「有菜ちゃん、文芸誌は昨日読んできた?」

「一応。全部じゃなくて面白そうなやつだけつまみ読みした」

 一人だけやたらと文章が上手い人がいた。橘唯子という人の作品だ。

「どれが面白かった?」

「橘さんの『交換日記』ってやつ」カイコが大きくうなずいた。

「同感です。日記の文面なのに、場面や会話がいきいきと描写されてるんですよね」

 カイコが言うには、橘さんと言う先輩は文芸コンクールで何度か入賞しているそうだ。一年生のときから三年連続で獲っている人は、この部では唯一の存在とのことだった。

「まさしくレジェンド文芸部員です。同じ時代の先輩だったら、すごく憧れただろうし、同級生だったら嫉妬に狂ったかもしれません」

 いきなり書くのは難しいだろうから、とカイコはリレー小説を提案した。「実は一回目はすでに書いてきました」としれっとノートを渡してくる。ゲゲゲ。

「続きを書いてきてください」やれやれ、と思いながら受け取った。


 宿題をしている時、ふと思い出してカイコのリレー小説のノートを取り出した。開くと、二面にわたってびっしりと文章が書いてある。

「こんなに書けるわけないじゃん」ぼやきながら文章を追う。「第一話」と題打ってあり、丁寧な文字で横書きで文章が綴られている。縦書きじゃないせいか、いつもより読みやすい。本っぽくないせいだろうか。

 こんな話だった。

 中学二年生の田村花緒と遠藤真芽という女の子が、文芸部の廃部の危機に面してクラスメイトを順繰りに勧誘する、という話だ。おしゃれで華やかな、ちょっぴりギャル系の花緒とうずまきめがねをかけた昭和のおさげスタイルの真芽。一見正反対に見える二人だけれど、「文芸部を絶対に廃部にさせない!」という熱い志で固く結ばれている。

 なんだかどこかで聞いたことがある設定だ。そう思ってしまうのはあたしがナルシストなだけなのだろうか?

 花緒と真芽が文芸部廃止のピンチを受け、学校一の美女・安西ジュリアを勧誘して広告塔にしようと狙いをさだめるところでお話は終わった。その下に、コメントが書かれていた。

【リレー小説のセオリーとしては、各書き手は前回とは別のキャラクターを語り手にして話を書き始めます。有菜ちゃんの場合、真芽か安西ジュリアを主人公に話を展開させるのが王道です。

もちろん、花緒が主人公のままでもいいですし、まだ出てきていないキャラクターを登場させて話をつないでもOK。

 ただし、わたしが設定した世界観を使ってください。いきなり江戸時代になったり、外国になったり、宇宙戦争が始まったりするのはNG】

 最後に絵しりとりのコーナーがあり、タコが墨を吐きだしながら「次はありなちゃんの番」としゃべっている。全く、やりたい放題だ。

 とりあえずページをめくってシャーペンを手に取った。ものの、何にも思い浮かばない。あたりまえだ。小説なんか書いたことがないのだから。もういちどカイコが書いた文章を読みなおす。

 はじめてカイコが自分の小説を読ませてくれた時は何も意識していなかったけれど、いざ自分も文章を書いて話をつくるとなると、いかにカイコの文章が上手いかがよくわかる。単純に読みやすいともあるけれど、登場人物の性格や状況がわかりやすく伝わってくるし、テンポもいい。つづきが気になる。けど、そのつづきを書くのはあたしなのだ。

 三度読み返したところで、すでに夜十時を回っていた。慌てて途中になっていた理科の宿題を片付ける。

 小説の書き方で参考になるものがないかと思い、学習机の後ろにある本棚を振り返る。「アオハライド」「俺物語!」「ちはやふる」――ダメだ、マンガしかない。うーん。

 やってみるか。


「書いてきたよ」と部室でノートを渡すと、カイコは「読ませて」と大喜びして両手で受け取った。

「早かったですね。一日で回ってくるとは思いませんでした」

「あー、溜めるという発想がそもそもなかったな。っていうか、カイコが書く続きの方が気になったっていうか……」

「リレー小説の計略にまんまとハマってますね。それはモチベーションに大いにあると思います。嬉しいな」

 カイコがニヤリと笑いながらノートを開く。きまり悪くてそっぽを向いた。正直恥ずかしすぎて目の前で読まれたくない。フムフムとカイコがうなずきながら読む。

「安西ジュリアを語り手にしたんですね。わたしはカタカナ表記にしましたが、本当は樹梨愛、と書くんですか。本人は自分の名前がヤンキーめいていて嫌いだからプリントや試験の名前の箇所には『ジュリア』と表記するんですね。なるほど」

 あたしが書いた話はこうだ。美人で男子人気も高い安西樹梨愛だが、性格がツンケンしているので女子とはあまりつるむことがない。周りは彼女を「わがまま」「一匹狼」と遠巻きにしているけれど、本当はとてもシャイでつい言動がぶっきらぼうになってしまうだけだった。本当の彼女はとてもロマンティストで、眠れない夜は詩集を読む意外な面がある。――大体そういう内容を半ページ書いたところで力尽きた。ページの後半は絵しりとりの続きでデカいコアラの絵を描いて無理やり埋めた。

 文芸部のリレー小説はある程度溜まったらコピーを三島さんにも送ることにした。「タイムラグがあるから直接の参加はむずかしいかもしれませんが、別な形で加わってもらえたら面白いかも。キャラを使ってスピンオフを書いてもらうとか」とカイコは楽しそうだ。もしかしたら、今までリレー小説を一緒に回す友だちがいなかったのかもしれない。

 親しくなるにつれて、カイコのいろんな面を知った。かなり気を遣う性格であること。まじめそうに見えて意外とボケたりすること。いろんなジャンルの小説を小学校低学年から読み漁っている読書家だけど、ミステリーと歴史小説は人物の名前が覚えきれなくて苦手なこと。体育と数学は苦手だけど、国語は学年でトップを争うレベルで得意なこと。将来は小説家になりたいと思っていること。

 いいこだと思うし、仲良くなれてよかったな、と思うこともある。でも、第一印象や元々のイメージはあまりいいものではなかった。いまどきおかっぱで、分厚いレンズのめがねをかけていて、スカートがとんでもなく長い。二度ほどカイコのクラスに教科書を借りにいったことがあるけれど、そのどちらも黙々と席で読書していた。周りの女の子たちは、窓際にざしきわらしみたいな小さな中学生が本を読んでいることなど見えていないみたいにはしゃいで笑っていた。

 カイコの普段の会話にも、ほとんどクラスメイトの名前は出てこない。人のことなんて言えないのだけれど、あたしが誰ともつるまないのと、カイコがそうなのとでは何かが違うような気がする。

 ――でも、あたしがおせっかい焼くようなことでもないしな。

あたし自身、「もっと愛想良くしたら」とか「友だち作らないと浮くよ」とか他人に言われたら、カチンとくる。たとえそれがカイコだとしても。

「あのさ、カイコ」

「何?」

「夏目さんにも声、かけてみない? リレー小説に参加しないか」

 カイコは目をパチパチ瞬かせたあと、「いいかもしれませんね」と微笑んだ。


 言い出しっぺはあたしなので、早速翌日の昼休み、ノートを片手に夏目さんに話しかけに行った。

 大概の女子は教室の中で常に誰かとつるんでいるので、一人になるタイミングを見計らうのは意外と難しい。特に夏目さんはずっと人に囲まれていたので、なかなか話しかけにいくチャンスがなかった。

 トイレ前で伏せるか、と思って立ち上がる。と、夏目さんがさりげなくグループから離れた。どうやらプリントを先生のところへ提出するらしい。

「夏目さんっ」

 廊下から後をつけて、階段で声をかける。「きゃ」と悲鳴が上がった。

「……何」愛想笑いをかろうじて浮かべているものの、不信感があらわになっている。

「あの、交換ノートやらない」

「え」階段の途中で話し込むと邪魔なので、階段の踊り場の隅まで連れて行く。

「一昨日から、カイコ……宮沢繭とあたしとで、リレー小説回してるんだ。よかったら参加しない?」

 大きな目が困惑いっぱいになる。「リレー小説? って、お話をどんどんつないで書いていくってこと?」

「そう」

 夏目さんはサッと目を伏せた。「ありがとう、でも、わたしはいいかな。小説なんて書いたことないし」

「あたしも初心者だよ。でも書いたら意外と楽しいし、続けられそうなんだ。夏目さんはあたしなんかよりずっと本読んでるんだから、絶対ハマるって」

 夏目さんの長いまつげがわずかに持ち上がった。目に映っていたのは、不安と好奇心。

「……書いてくるかはわかんないけど、そのノート借りていい?」

 ぶっきらぼうに呟く。「もちろん」と手渡した。

 

 次の日、朝玄関で靴を履きかえていると「有菜ちゃん」と声をかけられた。振り返ると夏目さんがいた。

「おはよう。昨日のノート、返す」

「あ、ありがと……」

 ぱたぱたと靴を鳴らして去って行ってしまった。あの感じだと書いてないだろうな、とガッカリしながらその場でノートをひらく。

 ――二ページにまたがってがっつり書いてある。

 うずうずする気持ちを無理やり押さえてノートを閉じ、ダッシュで教室に向かった。

〈「なんでわたしが文芸部なんて入らなきゃいけないの。放課後自由に過ごしたいから帰宅部にいるのに。めんどいから却下」

 短いスカートを翻して、安西さんが立ち去ろうとする。慌てて腕を掴んで引き留めた。まるでワイングラスの取手のようにか細くて、どきりとする。

「お願い! 安西さんがいてくれたら、文芸部にもっと人が入ってくれると思うの」

「客寄せパンダ扱いはやめて」安西さんはぎゅっと眉根を寄せてわたしたちをにらみつけた。

「気を悪くしたらごめんなさい。確かに、わたしたちが安西さんをまっさきに勧誘しに来たのは、下心からです。学校でも有名な安西さんが入ってくれれば、文芸部に入りたいと思う子はたくさんいるはず。でも、文芸部に入ったことを絶対後悔させません」

 真芽が真剣なまなざしで安西さんに手を差し伸べる。まるで、眠りから覚めたおひめさまに手を伸ばす王子のようにうやうやしい仕草だった。

 何か秘策でもあるのだろうか。胸をドキドキさせながら真芽の様子をうかがう。わたしはそんな”秘策”なんて聞いていないのだ。

「文芸部に入ってくれたら、バスケ部の清武先輩と安西さんの仲を取り持ち、交際まで持ち込んでみせます。どうですか?」

 ――清武先輩?

名前は知っている。うちの学校の王子としてとても有名な先輩だから。なんでいきなり先輩の名前を出すんだろう、と思っていたけれど、安西さんの顔がみるみるうちに朱色に染まった。まるで桃が熟すのを早回しにしたように。

「な、なんのこと」

「あなたが先輩の熱心な隠れファンであることは突き止めてあります」真芽は得意げに言う。

「わたしたち文芸部が、あなたたちの恋のキューピット役を買って出ます。悪い話じゃないでしょう?」〉

 ――急展開だ。それに、めちゃくちゃおもしろくなりそうだ。

 リュックから教科書を机に移している夏目さんににやりと笑いかける。夏目さんは視線に気づいて、ほんのりと頬を赤らめてうつむいた。

 面白かったよとか、本当は小説書いたことあるんじゃないの? とか、話したり訊きたいことはたくさんあったけれど、教室の中でリレー小説のことで話しかけられたくないだろうな、と思ってやめた。書きたいことは次、ノートがまわってきたときにたくさん書けばいい。

 にひゃにひゃとゆるんでしまう口元をノートで隠していると、隣の席の男子に変な顔をされた。

 もう冬服では暑いくらい、窓いっぱいに原色の青空が気持ちよく広がっていた。もうすぐ五月が終わる。


3〆切破っちゃいそうだよ


 窓の外ではしとしととミシン目のようにほそく雨が降っている。夕方の雨はなぜか白っぽい。

 カイコが真剣な表情でガリガリとノートに文字を書きつけている。文芸コンクールまで締め切りはあと三週間。はっきり言って、全然時間がない。

 カイコが机にかじりついている向かいで、あたしは嶽本野ばらの「下妻物語」を読んでいた。

 ――小学生のあたしに、挿絵がない小説の方が今は面白く感じる、とか言っても信じないだろうな。

「有菜ちゃん」

「何」小説の中ではイチゴと桃子がパチンコ屋で大フィーバーを起こしている。

「いつになったら書き出すんですか。小説」

「……う〜ん。とりあえず下妻物語全部読んでから、かな?」

「遅い!」稲光に照らされた人のごとく、劇画調タッチでカイコがカッと叫ぶ。「文芸部の合言葉は『健康より原稿』『命の次に〆切守れ』です。さあ、本を置いてこっちにきてください」剣幕に押され、渋々読書をやめる。っていうかそんな合言葉いつできたんだ。

「マンガ上等のあたしが小説読むようになっただけでも進歩だと思わない?」

「思わないでもないですが、小説は一回”めちゃくちゃ面白い娯楽”だと気づいてしまうとほっといても本を読むようになるのが普通なんです」

 ふーん。そういえば下妻物語は二巻もあるらしいし、そっちも読もうっと。

「そんなことはどうでもいいんです。読書にリレー小説、準備運動はできました。そろそろコンクールに出す小説を書きましょう」

「そんなこと言ったって、書きたいテーマとか何もないもん」

 チッチッチ、とカイコが指を振った。

「そんな大御所作家みたいな発言は、小説すばると群像と小説新潮で同時連載を持ってから言ってほしいですね。わたしたちしがない文芸部員は、書きたいものがあるから書くんじゃありません。〆切があるから書くんです!」

「それってまるで、『山があるから登るんだ』じゃなくて『登らなきゃいけないから、ここは平野だけど山を創造する』って言ってるみたいに聞こえるんだけど」

「聞こえるんじゃなくて、そう言ってるんです。わたしたちがいるスタート地点は、平野どころかペンペン草一本生えていない荒れ果てた砂漠なんですから。山がなければここを谷にしてでもこさえるべきです」カイコがぎゃんぎゃんまくしたてる。「もちろん、創作は無理強いするものではないとは思います。ですが、有菜ちゃんはリレー小説の方はいちども溜めずにまわしていますよね?」

 ギクッとする。ちなみにリレー小説の展開は、花緒と真芽がタックを組んで学園の王子・清武彰先輩にアプローチするも、変わり者の清武先輩はなんと真芽に興味を持ってしまい、樹梨愛が怒って文芸部と対立しそうになっているところでいま夏目さんに回っている。しかも樹梨愛に思いを寄せている幼なじみ・相楽健斗が文芸部の試みに気づき、王子と樹梨愛をくっつけようとするのを邪魔してくるというこじゃれた展開つきだ。小説と言うより少女マンガの原作めいてきたけれど、これはこれで面白い。

 テスト前夏目さんは律儀にノートを止めてしまのだけれど、あたしやカイコはものともせずにまわし続けている。本当はテスト勉強や課題を優先するべきなのはわかっているのだけれど、ノートが回ってきた時点でうずうずしてつづきを書いてしまう。

「気持ちはわかります。コンクール用に短編三十枚書くのと、リレー小説を十回分書くのだったら、後者の方が圧倒的に楽で楽しいです。でも、めんどくさがってても〆切は必ずあなたをひたひたと追っています!そう、月のように!」

「わかったって! 何かは出すってば。でも、書きたいものがないときはどうしたらいいの」

 カイコはてへっと舌を出した。「いや~……わたしも五年くらい小説を書いてはいますが、いつも『ギャー!』と発狂しているうちに〆切前日くらいに気絶して、目が覚めたら無理やり仕上げた原稿ができあがっているので、そこらへんの具体的な策は大してないんです」

「何それ」がっかりした。いくつもストックがある文芸の年季が長いカイコのことだから、何か秘策やコツを伝授してくれると思ったのに!

「しかも有菜ちゃんの場合、ネタ帳とかもつくってないしなあ。普通、作家志望の人間は日々ネタ帳を持っているんですよ。日々の中で『おっ』と思うことがあればすかさずメモしてためておくんです」

「ふうん。たとえばどんなことをメモするの」

「そうですねえ」カイコが胸ポケットから生徒手帳を取り出す。やけにボロボロだな、とときどき思っていたのだけれど、まさか生徒手帳をネタ帳代わりにしていたのか。

「『隣の席の小川さんが彼氏からもらったネックレスをこっそり制服の下につけていて先生に叱られて没収されていた』『プールの水を交換するのを初めて見た。溜めっぱなしにしているのかと思っていたけれど毎日入れ替えしているらしい』とかそういうのですね。あ、昨日のメモには『雲を観察していたらミニストップのソフトクリームそっくりだった。今日スーパーで生クリームを買ってコーラの上にクリーム浮かべて飲もう』ってメモしてます」

「それじゃ単なる買い物メモじゃない。あと、あんまりドラマチックでもなければロマンチックでもなくない?」

 カイコは肩をすくめた。「そこから想像力でむくむくと入道雲のようにふくらませるのがわたしたちの仕事ではないでしょうか」

 ぶすくれて返事をしないでいると、カイコは「しょうがないなあ」とドラえもんの声真似をしながら後ろの棚から何かを取り出した。紅茶の缶だった。何これ。

「これはネタに困ったときに代々先輩たちが引いていたという文芸部伝統の『お題箱』です」

 折りたたまれた小さな紙がびっしりと缶に入っている。ためしに引いてみると【職員室】と出てきた。さらに引くと【かき氷】と出てきた。

「何これ」

「次で最後にしてください。その三つから書くか、三つのお題すべて使って書くべし」

 カイコが中をぐしゃぐしゃとかきまぜて差し出す。えいと引き抜いた。

【片思い】

急にハートマークが語尾につきそうな単語が出てきて、「ゲ」と呟いていると、「じゃ、有菜ちゃんはその三つを使って短編小説を書いてください」とさっさとお題箱を蓋をしてしまってしまった。

さらにカイコは「連想ゲーム」をしてネタをあたためるといい、と言った。

「いきなりその突拍子もない三つから話を考えるのは難しいので、もうちょっとふくらませていきましょう。三つの単語からそれぞれ思いつくものをどんどん書き出していくと吉。特に、ちょっと意外なものと結びつけるとすっと物語が始まったりします。たとえば、【かき氷】だったら、【冷たい】【いちご】だとあんまり世界がふくらまないけど、【夏祭り】【舌がシロップで染まる】とかだとほんのちょっと想像が立体的になりませんか」

 カイコがくれた紙に【職員室】【かき氷】【片思い】と三角形の位置に書き込み、そこから足を伸ばして思いついた単語を線で引っ張って囲む。なんだかどんどんゾウリムシみたいなのが繁殖していくうちに、部活の時間が終わった。


「【職員室】、【先生】、【説教】、【不良】、【ミニスカ】、【ギャル】……【かき氷】、【夏休み】、【海】、【水着】、【日焼け】、【ギャル】…あ、つながった」

 お風呂からあがったあと、持ち帰った紙を広げて連想ゲームの続きをした。意外と面白い。あたしがプリクラ撮ったりたまごっちしたりアイプチを試したりしているあいだ、こういうのを小学生のうちにやっていたら、そりゃあカイコが国語でつねに九十点台を取れるはずだ。辞書を引いたり、あれこれ記憶をひっくり返したりしながら、ゾウリムシをふやしていく。

 水着ギャルが海でかき氷食べて日焼けする、なんてそんなの海の家の光景をなぞっただけだよな。なんかもっとないかな、と思いながらゾウリムシの中の単語を目で追う。

【片思い】、【恋愛】、【ケータイ小説】、【おもしろくない】……意外と【片思い】から単語があまり派生していない。たぶん、あたし自身が男子と何の関係もなさすぎてあまずっぱい連想がてんで浮かばなかったからだろう。

 ふ、と一つの光景が思い浮かぶ。

ギャルの女の子が見た目を理由にケータイ小説を勧められるのだけれど、実は彼女はとても本が好きだから、中身がスカスカのケータイ小説を読んで「退屈だなあ」となげだす。それを見た図書館のお兄さんに「本を粗末にするな」と説教されるのだけれど、それがきっかけで図書館で二人は顔見知りになり、口を利くようになる。夏休み最後の日、二人でかき氷を食べに行くのだけれど、その職員のお兄さんは九月からは別の図書館へ異動することがきまっているのだった。

「めっちゃいいじゃん! あたしは氷室冴子の生まれ変わりか?」

 思いついてばん! と机を叩く。「有菜うるさいよー」と階下からママの声がするけれど、胸がわくわくしはじめてとまらない。 

 ――ネタが思いついたら、すぐに書き出したくなると思いますがまずは整理すること。起承転結を箇条書きでもいいからメモしておく。登場人物の設定や性格も、あとから読むと統一性がないなんてことがざらにあるから、最初に決めておくとぶれないですむ。

 カイコのアドバイスを思いだす。いますぐ思いついたものを小説に書き出したかったけれど我慢した。

 髪を後ろでひっつめて、ノートをばりっと破ってシャーペンを走らせた。


 ガチャピンのようにぶすくれたまぶたの自分が鏡の中からにらみかえしてぎょっとする。洗面所ですれ違ったママが「遅くまで起きてるからよ」とチクリと言う。

 アイプチしてごまかそうとも思ったものの、余計腫れぼったくなりそうなのであきらめた。こういうとき、カイコみたいに分厚いレンズのめがねがあれば人相の悪さをごまかせるのにな、と思う。

 とぼとぼ登校すると、廊下で夏目さんとすれちがった。「有菜ちゃん目、どうしたの?」と心配そうに声をかけてくる。

「おはよう。昨日ちょっと、夜更かししちゃって」

「そうなんだ。テレビ見てたの?」

「いや、原稿書いてて……」実際には“原稿を書く前段階”のメモ書き作業だったのだけれど、みえを張る。

「そうなんだ! もうすぐ賞があるとか?」

「うん、そう。文芸部で三人以上が提出するのが廃部にならないための条件なんだって。あたし今まで書いたことなかったことないから、かなり大変」

「へえ。どんなふうに書いてるのか、聞いてみたいな」夏目さんはさっきカイコにリレー小説を回してきたところだという。「わたし、宮沢さんや有菜ちゃんみたいに早く展開を思いついて書けないからさ。二人とも回すのすごく早いよね……」

「あ、焦らせてたらごめん。各自のペースでいいんだよ」自分もビギナーのくせにしたり顔で語ってしまう。夏目さんは苦笑いした。

「そうだよね、わたしはわたしのペースでいいんだよね。でも、みんなみたいに早く物語をつないだり、面白い展開を思いついたりしたいな。特に宮沢さんはいつも本読んでるだけあって、すごくこなれてる感じがする」

 ふう、と夏目さんがため息をついた。あたしはおずおずと言った。

「次、家庭部の自習のとき、文芸部に来ない? あたしはまだ初心者だけど、カイコだったら小説の書き方とか文章のコツとか教えられると思う」

 夏目さんはぱっと目を見開いた。

「本当? それだったら明日なら一時間くらい、こっそり抜け出せると思う。宮沢さんにもよろしく伝えておいてくれる? 楽しみ!」

 予鈴が鳴り、二人で教室に戻る。あ、人と並んで教室に入ること自体すごくひさしぶりだな、と思うと胸のはしっこがほんのり熱くて痛かった。


「ようこそ文芸部へ」

 夏目さんが文芸部にたずねてくると、カイコがぴょこんと立ち上がってお辞儀をした。

「夏目さんは、小説を書いたことはありますか」カイコが先生ぶって言う。

「何回かはあるよ。その時々はまった作家の文体とかくせを真似したり。でも、書き上げられたことはないの」

「小説を書き出すこと自体は、比較的誰でもできます。でも書き上げて完成させるのは本当に難しいんですよね。水中で息を止めて長距離マラソンを完走するような気持ちでぜえぜえ無理やり〆切に間に合わせています」

「宮沢さんでもそうなんだね」夏目さんはどこかほっとしたようだ。

「何度挑戦しても慣れることはないですね。産みの苦しみってやつに」カイコがフッとニヒルに肩をすくめる。「だからこそ完成したときは達成感がありますし、どれだけ稚拙でも完成させることには必ず意味があります」

 あたしにレクチャーしたように、カイコが小説の書き方をダイジェストで講義する。夏目さんは律儀に国語のノートを取り出してそれをメモしていく。

「ちなみに、文芸のコンクールが今月〆切なんです」カイコが文芸コンクールの概要の紙をひらりと取り出した。「テーマは自由で、枚数は四百字詰め三十枚以内。もちろん、短歌や俳句、詩でも募集していますけどね」

 どうやらちゃっかり夏目さんにも作品を書かせて文芸部の提出者の頭数を稼ごうとしているようだ。あきれて冷やかに横目で見ていたけれど、夏目さんは素直に紙を受け取った。

「これが規定? 手書きでも印刷でもいいの?」

「どちらでもOKです。ちなみに原稿用紙なら腐るほどわが文芸部にありますよ」

 カイコが踊り出さん勢いで後ろの棚から原稿用紙の束を取り出す。夏目さんはくすっと笑って、「中間テストも終わったし、ちょっとトライしてみるね」と原稿用紙の束をファイルにしまった。

 頃合いを見計らい、あたしは「おほん」と割って入った。

「昨日コンクール用の小説のあらすじ考えたから、ちょっと見てもらえる?」

「お、早いですね」カイコの目が輝く。夏目さんも「見てみたいな」と目を輝かせた。恥ずかしい気持ちでいっぱいだったけれど、昨日の連想ゲームの紙と起承転結、キャラ設定の紙を見せる。カイコと夏目さんが顔を寄せて覗き込んだ。

「『主人公は高校一年生の広瀬麻衣。成績はあまりよくないが書店経営の一人娘で、読書家。茶髪でメイクは濃いめ、カラコンをつけている。ケータイ小説は邪道だと思っている』――なんか、アイドルの合成みたいなフルネームですが、なかなか面白い設定じゃないですか」カイコがうれしそうに読み上げる。正直、恥ずかしすぎて紙を奪い取りたかったけれど我慢した。「起承転結は……『①図書館でケータイ小説を粗末に扱うギャル女子高生・麻衣。司書のお兄さんに注意され、ケンカになる②本当は読書家であることにお兄さんが気づき、仲直りする③仲良くなり、時々本の紹介をしあう仲になる④お兄さんが九月から別の県の図書館に異動することを知り、夏休み最終日にかき氷を食べに行き、別れる』――いいじゃないですか! めちゃめちゃ面白そうだし、情景が思い浮かびます。正直、このプロットでわたしが執筆したいくらいです」

 カイコが目をキラキラさせて熱弁する。恥ずかしさがぬぐわれ、「でへへ」と笑った。夏目さんもうんうんとうなずいている。

「べたべたな恋愛小説じゃないところがいいね。この連想ゲーム……もともとは【職員室】【かき氷】【片思い】から来てるんだね。全然関係がなさそうなストーリーになってる。すごい!」

 二人に褒められまくって、焼きすぎてとろけた餅みたいに「にへへ」と笑っていると、カイコが笑顔のままあたしに向かってひょいと矢を放った。

「あとは書き上げるだけですね。この完ぺきなプロットを無駄死にさせないよう、頑張ってください。言っておきますけど、これからが真の地獄です」ーー笑顔が引き攣りそうだ。


 カイコの言うとおりになった。マジでマジで地獄だった。

「かなりガッチリ設定を作りこんであるので、あとは設計図通り組み立てるだけです」カイコはそう言って励ましてくれたけれど、文芸部初心者のあたしがそんなするするうまくいくはずがないのだった。

 書き出しはそこまで手こずらなかった。「思いつかなかったら台詞からはじめてみてください。ベストではないですが、ベターな策ではあります」とカイコにアドバイスされた通り、麻衣の台詞から物語を始めた。「図書館の本棚って、なんか退屈だな」――けれど、そこからが苦難だった。

 一所懸命書き進めるのだけれど、しばらくたってから書いたものを通して読むととんでもなく不自然だったり、状況がよくわからなかったりする。小説のなかで進む時間と、読んでいるときの時間感覚がちぐはぐで「え、もう次の場面なの」と違和感があったり、逆に「なんだか展開が遅いな」と首をかしげたりした。

それだけじゃない。自然な会話の書き方がわからず教科書のようなカチコチな言い回しになったり、単語をド忘れてしまったり、こんな展開って普通の日常でありえなくない? と思って全部消したくなったり……思うように進まず、いらいらする。

 ……たった三十枚だ。それなのに、全然小説が書きあがらない! ゴールしたときの完成図はすでに頭の中にあるというのに!

「ギャーーー!」

 頭をかきむしりながら奇声を上げる。ママが階段を駆け上がってきて、「ゴキブリでも出たの?」と新聞を丸めた棒を持って部屋まで来たので、「いや作文書いてるだけ」と丁重にドアを閉める。

 くそー。ノートの余白にぐりぐりとシャーペンで意味もなく渦巻きを書き殴り、あたしは頭を抱えつつもういちど原稿用紙に戻った。


「なんか日に日にくまがひどくなっていますね。中学生は成長期なんですから、ちゃんと寝ないとだめですよ」

 カイコがめがねを押し上げながら言う。けれどあたしは知っている。少しでも廃部阻止のひと役になれば、とカイコが一人で文芸コンクールのすべてのジャンルに作品を提出しようとしていることを。そして、レンズの下ではあたしと同じようにべったりとクマをはりつかせていることを……。

 寝不足でドライアイになった目に目薬を差した。あー、沁み渡る。

「執筆は順調ですか?」

「いや~。難航してる。小説書くのって難しいね」

「そうでしょう」

「カイコのこと尊敬したよ。さらさら書いてるんだとばっかり思ってた」

 ノンノンとカイコが外国人俳優のように指を振った。疲れているのでつっこむ元気がない。

「わたしはいつも『ころしてくれー!』『おまえを殺してわたしも死ぬー!』と思いながら書いていますよ。書きあがればけろっとして『今回はわりと楽勝だったな』と思いますけどね」

 カイコはいま短歌・俳句・詩を書きあげて、短編小説と戯曲と児童文学を同時に執筆しているそうだ。端的に言うと、水泳とマラソンとバスケと野球とフラメンコとマリオカートをしながら平等院鳳凰堂のプラモデルを組み立てるくらい大変だそうだ。「娯楽混じってない?」と言うと、「運動神経がゼロのわたしにとってマリオカートは娯楽ではなく、競技です」と返された。そうか?

「三島さんからはすでに詩の原稿を預かっています。お互い悔いが残らないように頑張りましょう」カイコがばりばりと肩から湿布を剥がしながら言った。〆切まであと十日だ。


 目の下のクマが熊になり、「ここでひと冬越しますわ」とどっかり棲みつき始めた頃、夏目さんがげんきよく文芸部にやってきた。

「原稿が終わったよ! よかったら読んで感想を貰えないかな」

 USODARO! 

「〆切までまだ五日あるじゃん」とあたしが悲鳴を上げると、「心配性だから、余裕をもって仕上げたの。手直しする時間も必要でしょう」とあたりまえのことのように言う。まるで、「テストは終了十分前には解き終わらせるの。見直しの時間も必要でしょ」と爽やかに笑う進研ゼミの勧誘マンガに出てくる勧誘キャラのようだ。

 先を越された驚きとくやしさと寝不足で目玉がでんぐり返ししそうだったけれど、ホッチキス止めした原稿のコピーをもらう。お手並み拝見だ。

 あらすじと言えるほどはっきりとしたストーリーはなかった。幼馴染の中学生の男の子と女の子がおずおずと距離を縮める、淡々とした雰囲気の恋愛小説だった。起承転結がきちんとあるわけではないし、小説と呼ぶにはオチが曖昧ではっきりしない。でも、なぜか面白い。話が、じゃなくて、読んでいてとても心地がいい。あたしがそういうと、「そのとおりですね」とカイコがうなずく。

「これは純文学ですね。普段大衆文学を読んでいるから少し意外でしたが、とてもいい作品です」

「きゃー、緊張したあ」夏目さんが手をパタパタふる。

「純文学? 何それ」

「この作品のジャンルです。ストーリーの面白さや展開の起伏よりも、文章自体の芸術性が高いもの、といったらわかりやすいですかね。夏目さんの作品は、全体的に文章が詩のようなんです。たくさんの比喩がちりばめられていて、読んでいてとてもうっとりしました」

 言われてみればそうかもしれない。「星をくだいてばらまいたようなそばかす」「暑中お見舞いのはがきのような背中」「砂時計の砂がふちふちとこぼれるように話す」――たとえがたくさん小説の中にある。読んでいるときは気づかなかった。

「比喩がたくさんある文章は、情景が思い浮かびやすいんです。それから、体言止めの短い文を重ねているのもいいですね。より印象が強調されています」

 夏目さんが大きくうなずいた。「宮沢さん、さすがだね。そうなの。わたしはふたりみたいに面白い展開とかストーリーを考える技術はないから、代わりに凝った文章にしてみたんだ。国語でも比喩を習ったでしょう? 直喩と暗喩、それから体言止めね。それを活かしてみました」

 う~む、学校のつまんない授業すら執筆に役立てるなんて、優等生のかがみだ。そういえばそんな授業あったな。「パチンコは天国だ」が直喩で「パトカーのランプのように赤い頬」が暗喩だったっけ。

 カイコが顔をしかめて「思いっきり逆です。『のように』を使わないのが暗喩です」と言った。「なんか、有菜ちゃんの比喩、治安が悪いですね」

「昨日、ウシジマくんの映画を見てたの」

 カイコが「現実逃避はほどほどにしたほうがいいですよ」とジットリとした目で言った。はいはい。

「原稿のコピー、預かってもいいですか? いくつか誤字脱字があったのと、文章の順序を入れ替えた方がわかりやすい個所がありました。赤入れしてまた返します」

「ありがとう。小説書き上げたの初めてだから、へたくそだと思うけど褒められてうれしい」

 夏目さんが頬を赤らめる。うっすらと白い肌に蒼白いクマが浮かんでいた。優等生で器用そうな夏目さんも、原稿を書き上げるまで寝不足になって「キエ~!」と発狂していたのかと思うと、ちょっとうれしかった。

「それにしても、これだけ才能がある人材を家庭部においておくのはもったいないですねえ」しれっとカイコが呟く。夏目さんはあからさまに顔をこわばらせた。取り繕うように笑顔をこしらえたけれど、目は泳いでいた。

「ありがとう。でも……この小説も、親に隠れて全部塾で書き上げたんだ」カイコははっとしたように口をつぐんだ。夏目さんはおずおずと微笑む。

「こそこそ書くの、大変だったけど、文芸部の活動を味わえてすごく楽しかったよ。二人の感想もすごくうれしかったし、これからも時々書いてみようかなって思う。そしたら、また読んでくれる?」

 やはり親の怒りを買ってまで文芸部に移ることはできないということなのだろう。残念だけど、無理強いできるはずもない。

「もちろん。いつでも歓迎です」本当は勧誘したいけど頑張って我慢する、とカイコの顔に書いてあった。あたしだって本当はもっと強く誘いたい。けれど、それは困らせるだけだ。

「ありがとう。わたしも今度からカイコちゃんって呼ぶからわたしのこともまどかって呼んで。――じゃあ、家庭部にもどらなきゃだ」夏目さんがぱたぱたと部室を出て行く。

「……部員獲得は難しいね」

「部員数が足らないなら、作品数で勝負するまでです」カイコがやけっぱちのように呟く。その横顔が寂しげで、目をそらした。


 マラソン大会でぜえはあ言いながら走っていると、休憩所が見えた。あそこまで行ったら休める。ピッチを上げて走り、水に手を伸ばす。

 大きな白い壁だと思ってよりかかっていたら、それはぬりかべのように大きく伸び縮みし始めた。ぎょっとして飛び退くと、やがて見覚えのある規則正しいマス目が白い紙に浮かび上がる。

 ぬりかべは原稿用紙の束になり、あたしを取り囲んでおすしのようにぎゅうぎゅうと巻こうとする。

「助けてえ!」

 ずるりと抜けおちたところで目が覚めた。あたしは椅子からずり落ちていた。どうやら原稿を書きながら寝落ちてしまったようだ。

 今日は〆切二日前。あれ一日前だっけ? すでにカーテンから容赦なく朝陽がたっぷりとはみ出している。

 原稿、と思ったら書き上げていた。ただし、よだれがユーラシア大陸のように広大なシミをつけていた。


「なんかこの原稿用紙よれてませんか? 養殖池に落っことしたんですか?」

 カイコが首をひねりながら原稿に目を通す。「いろはすこぼした」と嘘をつく。

「概ねOKです。話に矛盾はないし、キャラや設定の統一性も問題ありません。最後の方は誤字脱字と乱筆がひどいですけど、作品自体すごく面白いと思います。赤入れしたのをそのまま清書すれば、間に合います」

 やった~!

 疲弊のあまりに声が出ない。ゴロゴロと部室の床をころがった。こねればシルバニアどころかメルちゃんのサイズのわたあめができあがりそうな綿ぼこりがそこいらじゅうに転がっていることに気がつき、マッハで起き上がる。

「頑張りましたね。これで文芸部存続の条件をひとつクリアできました」

「まあ、あたしが〆切間に合わなくても、夏目さんの原稿があるからその時点でクリアできてたけどね」

それでもなんとか崖沿いを這うようにして山を登りきったのは、部員ではない夏目さんが先に作品を完成させたことがくやしかったからだ。それに、カイコの驚く顔が見たかった。

「わたしもなんとかすべてのジャンルの原稿ができあがりました。さ、急いで原稿を清書しましょう。それを尾崎先生に提出すれば、ミッションクリア、です」――指がつりすぎて右手が分離して海老のようにブリッジしそうだったけれど、あたしはたっぷり一時間かけて作品を清書した。


 ボロ雑巾のような状態で原稿用紙を職員室に持っていく。尾崎先生はあたしの右手を見て「おや、側面が鉛筆の粉で真っ黒ですね。まるでゴリラのよう」と笑った。女子中学生に向かってなんてひどいこと言うんだこのジジイ。

 そうだ、と先生があごひげをかきながら言った。「明日の午後、保健室に三島江瑛未さんが来るそうです」

「うそ!」

「授業は受けていないのですが、時々学校に顔を出すようになったんですよ。文芸部の先輩には会ってみたい、とのことでした。放課後にでも、たずねてみてくれませんか」

「もちろんです。会いに行きます」カイコがしっかりとうなずく横で、あたしも大きくうなずく。先生は「よかった」とにっこりした。

「入学当初からどれだけ呼びかけても学校に来なかった彼女が保健室に登校したことは、大きな一歩です。それにはきみたち文芸部の存在が大きくかかわっています。三島さんに手紙を出し続けてくれてありがとう」

 あたしたちは顔を見合わせてはにかんだ。いったいどんな女の子なんだろう?


 次の日の夜、あたしは〆切から解放され、それはもう死ぬほど寝た。ご飯を食べたあとは、眠気が強盗のように襲いかかってきた。

「もう、クマがうすいですね。きっと寝不足と言うより重圧でできてたのかな」

 カイコがじろじろ見ながら言う。「カイコにはまだあるよ」と言うと、「作家志望ですから、こんなもの一生の付き合いですよ。天然の刺青です」と吐き捨てる。正直かなりかっこよかった。

 放課後、カイコと二人で保健室に向かった。

「三島瑛未さんいますか」

 おずおずと呼びかける。養護の先生は席を外していた。誰もいない。

 と、奥のドアが開いた。色白の長い髪を垂らした女の子が、はっとした表情であたしたちを見ている。

「もしかして文芸部の方ですか」思っていたよりも硬いアルトの声だった。警戒心がかなり強いようだ。まっすぐにあたしたちを見ている。

「そうです。わたしが部長の宮沢繭、こちらが副部長の森有菜。よろしくお願いします」カイコが丁寧に話しかけているのに三島さんはじっとあたしたちを凝視して動かない。

 いや違う、あたしだけを見ているのだ、と気づいてぎょっとした。何? と思ったけれど、いちども会ったことがないのだから思い当たることなんて何にもない。

「すみません。わたしやっぱり文芸部、やめます」三島さんの顔は真っ白だった。

「えっ、どうして」

カイコがおろおろしている。三島さんの目は、まっすぐにあたしを見つめていた。正確には、あたしの目というよりも、喉元あたりを。

「三崎小ですよね」

「え」その単語を聞いた途端、脳のなかでぶちぶちぶちっと音がした。古くなった綱が重みに耐えきれずにちぎれるような音だった。

「わたしもあの小学校出身なんです。わたしの学年で森先輩のことを知らない子はいないと思います」三島さんの声は震えていた。「六年二組の森有菜っていう先輩は、目をつけた人をいじめ抜く天才だから、逆らったら絶対駄目だって」

 ごおっ、と唸りのような音が耳の近くで聴こえた。あたしにしか聴こえない音だった。血液がものすごい勢いで、内側で満ち引きしている。

 聞かれたくない。

 この話をこれ以上、カイコに聞かせたくない。

「嘘でしょう? 人違いだと思います」カイコが控えめな声で、けれどしっかりと言い返す。

「有菜ちゃんは、人をいじめたり迫害するような人じゃないと思う」

「間違えてなんかいません」三島さんの声は悲鳴のように鋭く、カイコは息を呑むように黙り込んだ。「この人、ずっとずっとわたしの友だちのこと、いじめてました」

 あたしはもう、誰の顔を見ることもできない。自分の目の前の宙をじっと見つめる。今すぐここにブラックホールが現れて、吸い込まれて二度と出られなくなれればいい。そんなバカみたいなことを本気で願った。

「凜ちゃんのこと、覚えてないなんて言わせません」やめて。「わたし、凜ちゃんと小二の時から絵画教室が一緒で、学年が一つ違ったけどすごく仲良かったんです。けど、凜ちゃんが五年生に上がってからなんだかおかしくなった。あなたがいじめを始めたときから!」

 違う、どれもこれもあたしが本心じゃない。あれは、全部――。

「凜ちゃんがどれだけ苦しんで心をぐちゃぐちゃにされたか、一番近くで見てきたのはわたしです。友だちをそんなふうにした先輩がいる部活、怖くてわたし、入れません……」

 最後の方は、大きく揺れて、聞き取れなかった。茫然とカイコがあたしを見ていた。

「あたしじゃない」

「有菜ちゃん、」

「あたしじゃないの。本当に。でも、みんな、凜子も先生も親もみんなも、あたしがしたことだって思ってる。あたしが凜子のことをいじめてたって、思ってる」

 もう、自分が何を口にしているのかもよくわからない。言葉に発した途端ぼろぼろと無格好にちぎれて、床にころがってほこりがまとわりつく。

「あたしじゃない。けど、あたしのせいだ」

 問題を起こさないこと。誰とも深い関係を築かないこと。目立たず静かに、息を潜めて生活をする。中学に入学するとき、あたしは親と約束させられた。そんな約束させられる以前にそうするつもりだった。それなのに、結果がこれだ。

「三島さん、思いださせてごめん」

 返事はなかった。返ってくるとも思っていなかった、勝手に口走っていた。

 保健室を飛び出す。誰かがあたしのことを呼んだような気もしたけれど、誰も追いかけてこなかったから気のせいかもしれない。

 涙が通ったあとの頬に風が吹き付けてきて、そこだけやたらと涼しいのが哀しかった。


4プールサイドでつかまえて


 あの頃、あたしにとって泉美奈は女王様だった。

 あたしだけじゃない、美奈は六年二組の、いや三崎小の支配者だった。

 お父さんは弁護士でお母さんは大学教授。うんとお金持ちでモデルのように整った顔立ち、中学生のようにすらりとしたスタイル。同じクラスになったとき、「あの子上級生じゃなかったんだ」とびっくりした。美奈は、圧倒的におとなっぽくて、それに比べて自分たちはひどく子供っぽく感じた。

 初めて同じクラスになった五年生のとき、美奈を見て、神様に愛されている子っているんだな、と思った。仔猫のように大きな目、長いまつげ、キュッと持ち上がったさくらんぼのようなくちびる、さらさらの長い髪。お人形さんのような容姿に、天使みたいにひとなつっこい性格で、誰とでもわけへだてなく仲良くできる。

 当然みんな美奈と仲良くしたがっていたし、ほんのり媚びていた、と思う。担任ですら、「泉さんはどう思う?」などとたびたび美奈に確認を取るように意見を求めた。おとなにご機嫌をうかがわれている子供を初めてみて、ますます敬意を払ったのはあたしだけじゃなかったと思う。この人はとくべつなんだ、と。

 だから、美奈が教室の中であたしを〈親友〉に選んでくれたとき、うれしいというよりも「なんで?」と戸惑ってしまった。あたしなんて、美奈に比べたら全然美人でもないし、賢いわけでもない、とびきり話が面白いわけでもない。

 けれど美奈は笑顔であたしを褒めちぎった。

「有菜ちゃんはすっごく可愛いよ。わたしつり目なのがコンプレックスなの。有菜ちゃんはちょっと垂れ目で可愛い」

「有菜って言うことがいちいち面白いよね、有菜と喋ってると時間があっという間だなぁ。そうだ、今日の夜電話しようよ! 八時くらいにかけるから、それまでにお風呂と宿題済ませておいてね」

「あーりんのお母さん元気で面白い人だね、クッキーすごく美味しかった。また遊びに行きたいなあ。あ、でもわたしのおうちに遊びに来る?」

 有菜だからあーりん。美奈のことは「ミーナ」と呼んでいた。他の子には同じようには呼ばせなかった。「だって親友同士なのってわたしたちだけだもん」と美奈は意地悪そうにくすくす笑った。あたしの前だけで見せる笑みが信じられないくらい綺麗でぞくぞくした。

 毎週のようにプリクラを撮り、それぞれの家でゲームをして、休みの日も遊んで、夜は電話をして、幼なじみのようにべったりと過ごした。それまで、一人の友だちとこんなにも長い時間を過ごしたことがなかったので、なんだかはちみつの瓶の中を泳いでいるみたいにまったりと甘い時間にうっとりした。美奈はいつだって可愛くてやさしくて、天使みたいな子と友だちになれてあたしはなんてラッキーなんだろう、と思った。

 悪魔はたいてい、天使の皮をかぶってにこにこしながら近づいてくるなんて、十一歳のあたしにわかるはずもなかった。あたしは美奈のことを信じ切っていた。神様みたいに。

 あれは小五の七月のことだった。「あちー」と言いながらあたしの部屋のベッドに寝転がってアイスを食べているとき、唐突に美奈は呟いた。

「なんか、退屈だよね。ゲームしよっか」

「え? 何する? どう森? 久しぶりにマリカやる?」

「えーやだあーりん、違うって」べろりとアイスを舐めとり、美奈は棒を器用にゴミ箱に向かって放り投げた。なぜかその放物線から目が離せない。

「誰かを使ってゲームをするの。怖くて楽しそうでしょ?」

 ぱす、とゴミ箱から音がした。小動物の鳴き声みたいに聴こえた。


 美奈の考えたゲーム――それはとても刺激的で意地悪で恐ろしい内容だった。

「テレビで見たんだけど、笑顔で怒られると人は混乱してストレスを感じるんだって」

 窓によりかかりながら美奈が言う。教室を見渡す目は、水族館を泳ぐ魚を観察しているみたいに見えた。

 ふうん、とあたしが曖昧にうなずくと「練習してみよっか」と楽しそうに言った。

練習? と思っていると、「凜〜」とクラスメイトを呼び出した。谷崎凜子。同じクラスだけど、あたしはほとんど口を聞いたことがない。すごくおとなしくて、休み時間は静かに友だちと絵を描いているタイプ。美奈だって、別に仲が良いわけではないはずだ。

「何?」いきなり美奈に呼ばれ、凜子は小さな目を見開いて慌てた様子でこちらに寄ってきた。おそるおそる、というふうに。

「ごめんねー、いきなり。今大丈夫?」

美奈が可愛らしく首を傾げる。凜子の白い頬がピンクに染まった。

「大丈夫」

 クラスで、いや学校で一番の美少女に名前を呼ばれて、凜子の心が期待と疑問でいっぱいになっているのが手に取るようにわかる。

「この前図工の時間に書いた交通ポスターなんだけど」

 凜子が小さく首をかしげる。あたしも、美奈が何の話をしようつぃているかわからず黙って聞いていた。

「凜が描いたポスターがクラス代表に選ばれてたよね」そういえばそうだったかもしれない。図工で何か絵や作品をつくるとき、職員室前で展示されたり賞をもらっているのはたいてい凜子だ。絵画教室に通っているらしい。

「うん」凜子の頬がふくふくともちあがる。うれしそうに、美奈の言葉のつづきを待っていた。飼い主に従順なイヌのように。

 美奈は笑顔でつづけた。

「あれさ、すっごくださかったよね。マンガみたいな絵だったし、全然交通の絵っぽくなくない? わたし、廊下に張り出されてる絵見て笑っちゃったあ。ひとつだけ、ふざけて描いたみたいなポスターが飾ってあるんだもん」

「え……?」凜子の表情が固まっている。笑みを浮かべる途中で石になってしまう呪いをかけられた人みたいに、不自然な位置でくちびるが持ち上がって、動かない。

「ミーナ?」いきなり何を言い出すんだろう。ぎょっとして小声で話しかけたけれど、美奈は無視してつづけた。

「うちのクラス全体を代表してるんだから、授業でああいうふざけた絵を提出するのやめた方がいいよ。みんなが連帯で恥をかいちゃうんだから。五年一組全員が、ああいう気持ち悪い絵を描くオタクだと思われちゃうよ」

 凜子は目を伏せて顔を真っ赤にして床を見ていた。ぎゅっとにぎりこぶしをつくっている。その手を見下ろしながら、美奈は完ぺきな笑顔でつづけた。

「凜はさ、ほんとはもっと頭いいしセンスいいんだから、わかるよね? たまたま前回は調子が悪くてああいう絵を提出しちゃっただけだもんね? わたし、普段の凜の絵、好きだもん。上手だし可愛いし、オリジナリティあるし」

 凜子はこわごわと顔をあげた。

「だからさ、もうああいうこと、二度としないでね」じゃあもう行っていいから、ごめんね急に呼んだりして。美奈は眉をハの字にして、凜子の肩をやさしくたたいた。その顔は、本気でねぎらっているように見えた。

 よろよろと風に吹かれる木の葉みたいに自分の席へ戻っていく凜子を見ながら、「まあこんな感じ」と美奈は言った。その声も顔も、いつもの機嫌のいいときの美奈だった。

「……絵、そんなにへんだったけ? 普通に上手かったよね?」

 わけがわからず首をかしげるあたしに、「もう、あーりんってばまじめ―」とひらりと美奈は手を振った。花畑をひらひら舞う蝶みたいにくすくす笑って言う。

「別に。ただなんとなく目についたから凜にしただけだよ」


 ただなんとなく目についただけだから凜にしただけだよ。ビュッフェでデザートを気まぐれに選ぶみたいな軽やかな口調だったけれど、美奈はいちどさだめた標的は絶対に途中で変えたり飽きたりしないのだと、あたしは知らなかった。

「凜ってさあ、時々口がすっごくにおうの。でも、たまたま歯をみがきわすれて寝ちゃっただけだよね? 凜みたいにまじめな人が口クサいまま学校来たりするはずないもんねえ」

「ねえ、今日の凜の髪型見た? 絶対昨日のわたしの真似だと思わない? せっかくママに頼んで可愛い編みこみにしてもらったのに、こそこそパクられたみたいで気分悪ーい。でも、たまたまだよね? たまたまわたしと同じヘアアレンジの雑誌を読んで、わたしがしてきた次の日に試しただけだよね?」

「今日笑っちゃった、凜がおつゆの人参ちょっとだけかじったあとまたおつゆに戻して、またちっちゃくかじってたの。なんか凜の食べ方って虫みたいじゃない? 顔もちょっと虫っぽいし。あ、これ悪口じゃないよ。だって虫は虫でも、テントウムシとかかわいい虫のことだし」

 ねーえあーりん、と可愛く首をかしげて同意を求める。いつだって、日なたに置いたアイスクリームみたいにとろけそうな極上のスマイルを浮かべて。

 凜は真っ青な顔をして立ち去ったり、「あの……」と声を震わせて話しかけようとしてくる。けれどいつだって美奈の方が上手だった。さりげなく「次の体育外だっけ? 早めに行っておく?」なんて話を逸らしたり、「何? っていうか今日の凜の着てる服可愛い! どこで買ったの?」とにこやかに褒めてみせる。さっきまで聞こえよがしに悪口を言っていたとは思えないくらい、純粋に。

 凜子は日に日に顔色が悪くなった。教室の中であたしたちとすれちがうとき、あからさまに肩をはねさせ、そそくさと立ち去った。美奈が授業で発言するとき、凜子は首を亀のように縮めてうつむいてノートに目を落としていた。叱られる子供みたいに。

 一方で美奈は、陽をたっぷりと浴びる花のように教室の中でかがやきを増していく。凜子が鉛筆を落としたり、わすれものをするたびに、うれしそうにはしゃいで責め立てた。いつだって笑顔で

 横にいていつもハラハラした。それ以上凜子の顔が青ざめて泣きそうに目と口がゆがむのを見たくなかったから、「そんなことないんじゃない」「もう体育館行こうよ」といなしたり話をそらしたりした。

すると美奈は、つまらなさそうに目をほそめ、それでも「はあい」といいこのお返事をして「昨日の特番見た? あーりんが好きな歌手出てたやつ」とするりと話をそらすのだった。こんなゲーム、ちっとも面白くない。心が擦り減る。早くあきればいいのに、とばかり思った。

 けれど、事態が変わった。

美奈が「わたしのを見てやり方だいたいわかったでしょ。今度はあーりんがやってみて」と言いだしたのだ。

「いいよ、あたしは」凜子のこと、好きでも嫌いでもないし……もごもごと口ごもっていると、「えー」と美奈が眉根を寄せた。

「わたしがゲームしてるのを横でただ見て楽しんでただけじゃん、ひきょうじゃない? 自分だけ何もしないでラクしてさあ、サクシュだよサクシュ」

 漢字変換できない難しい言葉で責め立てられ、だんだん頭がぼうっとしてきた。「あーりんだーいすき」「あーりんとずっと親友でいたいなあ」「ねえ、おそろいでおみやげ買おうよ。もちろん二人だけで」と甘い声でしゃべるいつもの美奈と違ってとても冷たく、不機嫌だった。

「そんなこと言うなら、凜じゃなくてあーりんでゲームしよっかな。笑顔で詰められると、人ってすっごくストレス感じるんだって。脳が混乱しちゃうからだろうねえ」

 美奈はとろけるような、いつもの完ぺきな笑顔を浮かべていた。けれど、引き絞られた弓のようにほそめられた目は笑っているのにあたしの反応をじっとうかがっている。それだけで恐怖のあまり倒れそうだった。あんなにあたしのことを褒めつづけ、「ずっと親友だよね?」と心配そうに繰り返した美奈ととても同一人物とは思えなかった。

 幽霊のような足取りで、廊下側の席で絵を描いている凛子のところへ向かった。あたしに気づき、ぎょっとしたように顔を上げる。それこそ、この世のものじゃないものを見たみたいに。

「凜子って、いつもひとりで絵描いてるよね。どんなの描いてるかみせてよ」

「え、ごめん、やだ」美奈の親友であるあたしが近づいてきた時点で嫌な予感がしていたのだろう、まだ何もしていないのに凜子の声はふるえていた。

「いいじゃん見せてよ、うまいんでしょ? ちょっとくらいいいじゃん」

 ノートを取り上げると筆箱が机から落ちて鉛筆がからからと床を転がる。かまわずあたしはノートを持ち上げた。美奈に向かって、勝利の旗でも掲げるみたいに。

「うわあ、なにこれ。王子様とおひめさま? 小五にもなってこんな絵ひとりで描いてるんだ。なんか、気持ち悪いかも」

 みるみるうちに凜子の目に涙がせりあがり、わっと顔をふせった。これでいいんでしょう、と美奈の方を見やると、机の間をすいすいと泳ぐように近づいてあたしの手を取り、教室を出ようとする。慌ててノートを机に返した。廊下を早足で歩きだす美奈についていく。

「やりすぎ。あとわたしがしてたやり方と違わない?」

 喜ぶと思ったのに美奈のくちびるは不機嫌そうにつんと尖っていた。「ごめん」と思わず口走ると、美奈はくちびるの端をほんのわずかに持ち上げて言った。

「まあいいや。もっとやってみせてよ、あーりん」

 絶対にいやだ――そう思ったのに、「うん」とうなずくしかなかった。美奈が笑みを消し、あたしに向かって凜子にしたことをすることが、あまりにも恐ろしかったのだ。


 ***


 平日の十一時。いつもなら「給食まだかなあ」と思いながら三時間目を受けているところだ。具合が悪いわけでもないのに日の高い時間にベッドのなかにいると、世界から責め立てられているみたいでまるで寝つけなかった。無理やり布団をかぶって目をつむる。」

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 もう二度と、カイコたちと顔を合わせられる気がしなかった。いちど知られたら、忘れてもらうことはできないし、なかったことにもできない。

学校に行きたくない、と言うとママは顔を歪めて「またなの?」と口走った。「どうして?」とか「何があったの?」ではないところに、あたしへの信用のなさが透けて見える。

「ごめん。クラスのリーダーっぽい子に目をつけられて。たまに物とか隠されちゃうんだよね」

 そういうとママは困惑した表情のまま、「わかった。でも、先生に相談とかしなくていいの?」と心配そうに言った。

 大丈夫、ちょっと仲たがいしただけだと思うし、と言って自室に引っ込んだ。加害者ではなく被害者なのだとわかってあからさまにほっとしているママの顔をそれ以上見たくなかった。

 あのときも、「学校休みたい」とただ一言、ママに言えばそれでよかったのに。

 けれどあたしは、美奈の顔色をうかがうために登校し、今日の美奈は機嫌がよさそうだったけど心の中ではどう思っているんだろう、明日は機嫌がいいだろうか、と一日の美奈を振り返ってから眠った。朝から晩まで、考えていたことは美奈のことだけだった。

 それなのに、あたしが教室で付きまとったのは凜子だった。「今日の服ださすぎない? もしかしておばあちゃんの着てきたんじゃない? 昼休み家に取りに帰ったほうがいいんじゃないかな」「気付いてた? さっきの体育、最後まで逆上がりできなかったのあんただけだったよ。ちゃんと練習してできるようになるまで体育は休んだら?」と耳元でなすりつけるように悪口を言い募った。全部でまかせだった。あたしは凜子について何も文句なんてなかったし、おとなしい凜子がクラスで嫌われている事実もなかった。でも、美奈が見張り塔のように窓際で腕を組んであたしが凜子をいたぶるのを見ているから、どれだけ凜子があたしを巧妙に避けてもまとわりつづけた。心の中で、ごめんなさい、と唱えながら。

 そのうち、クラスの流れも変わり始めた。クラスメイト達もだんだんあたしの悪口に「そうだよね」「前からそういうところあったよね、かわいそうだから言わなかったけど」と便乗し始めたのだ。 

 みんな、本当にそう思っていたわけじゃないと思う。けれど、誰かをいじめることを楽しむためだけに、凜子のことを嫌っているふりをし始めたのだ。

 物が隠され、壊され、「さっき凛子の筆箱体育館裏のゴミ箱に捨ててきちゃった」などと耳打ちする子までいた。おかしなことに、凜子をいじめるうちに、「クラスの女王は美奈だけど、実質のリーダーは有菜」だと思われるようになっていた。みんな、美奈の右腕であるあたしに媚びたくて必死だった。

 それはそっくり、美奈へのあたしの態度と同じだった。

 間違ってボタンを押してしまった洗濯機の中身みたいに、教室でいちど生まれたいじめの渦はあたしには止められなかった。「やばいかも」と思っているうちに、事件が起こった。


***


 深海魚になったみたいに、ベッドにもぐりこんでこんこんと眠りつづけた。眠くなかったけど、意識を持ち続けるのが嫌でむりやり眠った。起きていると、どうしても、三島さんの糾弾のことを思いだしてしまう。

 そのまま、数珠つなぎになって小学校でのことを思いだしてしまう。

 うとうとして眠りに落ちては嫌な汗をかいて飛び起きる、その繰り返しだった。水を飲もう、と思って階下に降りると、チャイムが鳴った。

 インターホンを覗き込む。嫌な予感は確信に変わった。逆光で顔が真っ黒につぶれていたけれど、ざしきわらしのシルエットが映っていた。

 無視して冷蔵庫から麦茶を取り出して飲む。もういちどチャイムが鳴った。

「なに」

 玄関を開けると、開くと思わなかったのか「ぎゃっ」と叫んでカイコが後ろにひっくり返る。

手を引いて抱き起すと汗でべたついていた。クーラーの効いた部屋でカーテンを閉め切って寝ていたから気づかなかったけれど、外はとても暑かった。

「宿題を預かってきました」

「あんた別のクラスじゃん」

「別のクラスでも届けに来たっていいはずです。暑いので、とりあえず水か何かもらえませんか」

 色白いカイコの肌が、痛々しく赤くなっているのに気づき、仕方なく「じゃあ玄関に入って」と土間に通した。

「はい」麦茶に氷を入れてコップを渡すと、カイコは「カッ」とおっさんのように叫び、一瞬で飲み干した。

 土間で立ち尽くしたまま、カイコが突っ立っている。封筒を受け取ろうとしたら「まだだめです」と逃れようとする。

「宿題渡すために来たって言ったのはそっちでしょ」

「そ、それは建前です。ほんとうは、有菜ちゃんと話し合うためにここに来ました」

 だらだらとカイコの額からそれこそ滝のように汗が流れている。日差しが容赦なく燦々と降り注ぎ、あつくるしい空気がどっかりとたまった玄関に立っていると、あたしまで暑くなってきた。

「話なんかない」

「じゃあわたしが一方的に話すのでもかまいませんから、部屋にあげてくれませんか。クーラーのある涼しい部屋」

 追い出したかったけれど、カイコが「暑いから涼しくなるまで外に出られない」とわめくので、仕方なく部屋にあげた。ママが帰ってきて何か勘違いされても困る。

「へー、可愛い部屋ですね。全然本がないですね、わたしがこの部屋で過ごしたら退屈すぎて二分で死んでしまいます」

「じろじろ見るのやめてくれる。っていうか部活は?」

「今日は休みにしました。もともと他の部員はいませんから、特に不便はありません」

「あ、そ」まああたしには関係ないけど、と呟いてベッドに寝転がる。さっきまで何時間もいたから、ふとんがじんわりと嫌なふうに湿っていた。

「あのさカイコ」

「はい」くるりとひっくり返って背を向ける。「あたし文芸部辞める。だから、部活は廃部だよ」

 カイコは何も言わない。

「もう三島さんと顔合わせられないし、あっちだってあたしがいる以上部活も学校も来ないだろうし、どっちにしたってもう、無理」

 カイコは何も言わなかった。空調の音とカーテンの裏から遠くで響く蝉の声明だけが響き渡る、

「そうかもしれませんね」どれくらい経った頃だろうか。カイコが静かに呟いた。「わたしには三島さんと有菜ちゃんの事情は、正直よくわかりません。どちらの言い分が正しいかも判断できませんし、部外者である以上どちらの味方にもつけない。夏目さんは説得すれば文芸部に来てくれるかもしれないけど、無理強いはできない。どちらにせよあと二週間で部員を集めるなんて相当難しいし、廃部は仕方ないかもしれない」

 おとなのようにあっさりと現実を受け入れるカイコの冷静さがむかついた。寝返りを打ってにらみつける。

「あんなにしつこく文芸部復活にこだわってたくせに、そんなにあっさり諦めるんだ? 人には〆切は絶対に破るなとか作品を完成させるまで諦めるなとかえらそうに言ってたくせに」

 うそだ。別にカイコはえらそうに言っていたわけじゃない。真剣だっただけだ。わかっていてあたしはわめきつづける。風船を意味もなく割りつづける子供みたいに。

「どっちにしろ、あたしはもう学校行かないから。三島さんの言ってた話、あれ嘘じゃないよ。あたし小学校でいじめっこだったの。あたしが中学で友だちつくらないのは、もう揉めごとを起こさないためだよ。クラスメイトが手首カッターで切るくらい、追い詰めたから」

 カイコが小さく息を呑んだ。

 吹き荒れる竜巻のように勢いを増していったいじめは、凜子の自殺未遂で終わった。お風呂の中でカッターを使って手首を切ったらしい。

 幸い命は取り留めたものの、壊れていたのは心の方だった。遠くの大学病院へ入院して、それから街からも姿を消した。母方のおばあちゃんちへ療養のために引っ越したのだとかあたしが怖くて外国へ行ったのだとかいろんな噂が飛び交ったけれど、真相はわからない。

 ただ残ったのは、「凜子が自殺したのは森有菜のせい」というクラス全員の証言だった。緊急で行われたクラスアンケートで、ほぼ全員あたしの名前を挙げたという。

「森さんが廊下で凜子のみつあみを引っ張って『バーカ』と叫んでいた」「トイレで水をぶっかけていた」「鼻をつまんでチョークを食べさせ用としていた」――会議室で担任が読み上げたアンケートには実際の何倍もひどい架空のエピソードばかり飛び出してきた。読み上げるたびに隣でママが発狂したように悲鳴を上げて泣いた。あたしはただただ、机の木目調ばかり見ていた。泉美奈の名前は、誰ひとり挙げていなかった。

 美奈がしていたことはゲームであたしがしていたことはいじめ。そんなのうそだ、と思ったところでもう遅い。

 どちらにせよ、あたしがしたことが凜子の心を追い詰めたことはどうやったって否定できるはずがなかった。いろんなおとなと話し合い、学区外の遠いところへ引っ越すことになった。パパには「迷惑をかけるな」と頬をぶたれ、ママには「有菜がそんなひきょうな子だなんて思わなかった」と泣かれた。親戚中に白い目で見られ、三崎小では戦犯者として学年中、いや学校中から石をぶつけられるような扱いを受けた。逃げるように転校手続きをした。

 教室に立ち寄って机の中身をランドセルに詰めていると、紙ごみが中からこぼれた。ひらくと「しね」と書いてあった。もうひとつには「嫌われ者」と書いてあった。

 自分に向けられた激しい憎悪に目をそらす。紙ごみをあつめていると、「ねえ」と後ろから声をかけられた。

 美奈だった。いつもの笑顔を浮かべている。学校の誰もがあたしを見て眉をひそめてにらみつけてくるのに、美奈だけは笑いかけてくれた。そのことに安堵しすぎて、あたしは泣きそうになった。

 たいへんだったね、あーりんのせいじゃないのにね、ごめんねわたしがへんなこと言い出したせいだよね、あーりんが学校休んでる間先生に本当のこと言ったから。そんな言葉が紡がれるかと思っていたけれど、美奈のかたちのいいくちびるからこぼれたのはそんな甘い蜜のような言葉ではなかった。

「有菜がこんなに頭悪い子だと思わなかった。もっと賢い子と親友になればよかったな」

 ぱきん、と鈍い音がした。

美奈の笑顔、美奈の言葉、美奈の甘い匂い、すべてがこなごなに砕け散った。じゃあごみは片付けて帰ってね、とさっさと教室を出て行く。女子の誰かが笑顔で美奈のあとを追いかけていくのが見えた。

 引っ越す前夜、あたしは美奈と交わした手紙や撮ったプリクラをすべて紙ごみにして燃やした。

そして誓った。二度と、誰のことも傷つけない。心を壊さない。そして、何よりもーー誰にも心を開かない。安心し切って寄りかかり、無防備な隙を見せたりなんかしない、と。

「だから、あたしはもう誰とも仲良くなっちゃだめなの。友だちだってつくらないし、誰ともつるまない。誰かの言うことを聞いたり、言いなりにさせたり、もううんざりなの。わかったでしょ? あたしって最低なの。人間として最悪なことをしでかしたから、もう誰に何言われてもしょうがないの。この話はおしまい」

 カイコは白い顔で話を聞いていた。

「けいべつしてる?」カイコはこたえない。「すれば。あたしだって、もし同じ中学にそんな子いたら、絶対仲良くなんかなりたくないし、けいべつするし、そんなやつ一人でいて当然って思う」

「わたしは」カイコが小さな声で話した。「わたしは有菜ちゃんとは別な理由で友だちがいません」カイコはじっと自分の膝の上に置いたこぶしに目を落としている。「本ばかり読んでいて何を考えているのかわからない、不気味だ、気持ち悪い、おばけみたい。――面と向かって言う人は少ないですが、陰で自分がどんなふうに呼ばれて、笑われているかはなんとなくわかります。いじめられているとは思ったことはありませんが、人によってはとても耐えられないでしょうね」

 あたしは黙っていた。周りの目を気にせず、自分の好きなように生きているように見えていたカイコが、実は自分がどう見られているか的確に把握していたことに驚いていた。

「わたしが耐えられたのは、誰かとつるむよりも物語の世界の方が楽しいからです」でも、と言葉をひるがえす。

「一年生のときに文芸部に入って、初めて話の合う人と会いました。全員先輩でしたが、みんな本が好きで、文章を書くことを趣味にしているわたしを笑わないでいてくれる。そういう人に会ったのは初めてでした」

 友だちがいないカイコが文芸部にこだわるのは、単に本を読む場所を守りたいだけなのだと思っていた。

「それで初めて、自分と同じことを楽しい、好きだと思う友だちと話したり一緒に過ごすことが、とても楽しいと気づいたんです」

 そうじゃなくて、文芸部の仲間がほしかったんだ。

「夏目さん……まどかちゃんも三島さんも、わたしと同じように、本の楽しみを孤独に味わっていました。それももちろん豊かだと思いますが、もし仲間がいたらもっと楽しいはずです」カイコはそこで言葉を切った。「でも、無理に人を集めてまで文芸部の廃部を阻止しなければいけないのか、自分でもわからなくなりました。確かに部室があれば便利ではありますが、図書館であれ教室であれ、感想をわかちあったり自分が読んだものを渡すことはできますから」

 よいしょ、とカイコがリュックを背負う。「帰るの」と言うと、カイコはそれにはこたえず、こう言った。

「確かに有菜ちゃんの言うとおり、行ったことは消えないと思います。三島さんに『有菜ちゃんのことを許してください』『昔のことだからわすれて』と言ったところで、それは誰にも決められることじゃない。でも」カイコの長いスカートがひらりと揺れた。「過去よりも、今過ごしている時間や未来の方がずっとずっと大事だって思いませんか?」

 こたえられない。

「明日、気が向いたら学校に来てください。授業に出ろとは言いません、放課後プールに来てほしいんです。まあ、四時くらいに。面白いものが見られると思います」

 唐突に言われ、「はあ?」と返すとカイコは「じゃあ、おじゃましました。麦茶ありがとう」と言ってあっさりと帰ってしまった。

 カイコが勢いよく飲み干したコップから、からん、と氷が溶けて音が鳴った。


 うちの学校には一応体育館の裏側にプールはあるけれど、水泳部はないし体育の授業にも水泳はない。なんでも、昔男子がふざけて女子の更衣室を覗いてさわぎになり、それ以来使わなくなったらしい。それでも水がなみなみと溜められているのは、防火水のためだそうだ。

 プールに来いつったって、そもそも施錠されているから入れるはすがない。それでも、夕方にのろのろと学校に向かった。暑すぎて十秒で出てきたことを後悔した。

 あまりうろうろして人に見つかりたくもない。カイコはどこにいるのだろう、と思いながら柵越しにプールを覗き込む。

「あ」セーラー服のちびっこい女がいる、と思ったらカイコだった。

「どうやって入ったの」

「策を登って飛び越えました。南京錠がかかってるから内側からも開けられないんです。有菜ちゃんもよじ登って入ってきて」

 めんどくさ、と思いながら金網に足をひっかける。ローファーが滑りそうになった。カイコがひっぱりあげてくれてようやく中になだれこむようにして入れた。

「……何してんのこんなところで」

「まどかちゃんももうすぐ来ます」

 おーい、と外から声がした。覗き込むと、さっきあたしがいた柵の外に、夏目さんと知らない女子が手を振っていた。重そうなカメラを首から提げている。

 よ、と器用に柵を登ってこちら側にぺたぺた歩いてくる。カイコは靴を脱いで飛び込み台の上に立った。

「何、なにするの」

 事態がまるで呑み込めずに夏目さんを振り向くと、知らない女の子が説明してくれた。

「わたし、写真部の川端。宮沢さんはいまから、わたしの写真のモデルをしてくれるの」

 さっぱり呑み込めずにいると、川端さんはさらに説明してくれた。

「七月に写真コンクールがあるんだけど、なんかいい題材無いかなって探してたら、宮沢さんがうちに来てさ。『文芸部のポスターを撮影してほしい』っていうから、どういうの? って訊いたらプールに飛び込むっていうんだもん。そりゃあ撮るよね」

 世界一意味が分からない。

「何、文芸部のポスターって」

カイコは飛び込み台で肩をすくめた。

「正直、部員を集めるのには無理があると思って諦めようと思ったんです。でも、まどかちゃんが文芸部を宣伝するポスターかちらしでもつくったらどうかってアイデア出してくれて」

 夏目さんを見ると「ふふふ」と照れ臭そうに笑った。「何もしないで廃部になるのを待つよりはましなんじゃないかなって思ったの。でもカイコちゃんってば美術部に頼みに行くのかと思ったら写真部に行くからびっくりした。しかも自分がモデルやるなんて」

 夕方の重く湿った風がカイコの時代錯誤なおかっぱを揺らす。きちんとアイロンがかかったスカートのひだがふわっと持ち上がって、ピアノの鍵盤みたいだった、

「っていうかなんでプールで撮るの? 文芸部のアピールなんだから部室か図書館でよくない?」

「二つ理由はあります」カイコが指をピースサインにする。

「ひとつは、せっかく写真部の部長である川端さんを借りるんだから、どうせなら作品として使えるものを撮影してもらうためです。写真コンクールも近いようですし」もうひとつ、と指が折られて空をぴっと指差した。まるで、いまから空が割れて世界が終わります、とでも宣言するみたいに。「――校舎の隅に追いやられてついには廃部のピンチに瀕したわたしたち文芸部が、最後の最後にいかにも青春、みたいなことをして何が悪いんでしょう」

 ぷふ、と噴き出してしまう。「なんですか」とカイコが横目であたしを見た。

「ごめん。カイコってそういうの興味ないと思ってたよ。青春、とか思い出、とかそういうドラマチックなこと」

 恥ずかしがったり怒ったりするかと思ったけれど、カイコはクールな表情のままフッと息を吐く。

「興味がなかったら、わざわざ青春小説を創作したりしないですよ。じゃ、川端さん」

「はい」

先生に呼ばれた小学一年生みたいに、川端さんが姿勢を正した。

「飛びます」

「オッケー。ばっちりかっこよく撮ってあげる」

 とん、と軽くジャンプする。

 カイコの動きにはまるでためらいがなかった。コンパスのように綺麗に弧を描いて、カイコがプールへ飛び込んだ。

 うわパンツ丸見え、と思った瞬間、特大の包み紙を破るような派手な音と同時に、大きな水飛沫が上がった。全員、水をかぶってびしょ濡れになる。

「えめっちゃきれい」

 川端さんが隣でうれしそうにカメラのファインダーを覗いている。

こらあ! と高いところから怒号が聞こえた。そういえばここは職員室のある二階から丸見えだ。たぶん、どの生徒かわかるくらいには近いだろう。

次々に職員室の窓が開き、目玉をふくらませて先生たちがプールを見下ろし、叫んでいる。

「おい、あれ二年の川端と夏目じゃないか?」

「森もいるぞ」

「泳いでる生徒は誰なんだ! プールの遊泳は禁止だぞ」

 先生たちはいまにも職員室の窓からこっちまで飛び降りてきそうな勢いだ。最悪だ。

「やばい! 宮沢さん、早く上がって!」川端さんと夏目さんが柵に向かって走りながら叫ぶ。けれど、アメンボのように器用に平泳ぎしながら、カイコは「先行っててくださーい」としぬほどのんきだ。

「カイコー! 早く!」プールに身を乗り出すようにして呼びかけたけれど、カイコはあたしから逃げるようにして、どんどんプールの真ん中へ行く。

「有菜ちゃん?」さきに柵の向こうへ飛び降りた川端さんたちが後ろから心配そうに呼ばれたけれど、あたしはプールへ戻った。

 カイコのように、飛び込み台に立つ。職員室から降ってくる怒号が、激しくなったような気がした。けれど、降りない。

 カイコは意外なくらい優雅な動きで泳いでいる。まるで水中の方がもともと生きやすいんだ、とでも言いたげに。

 ばかだ。校則まで破ってまでプールに飛び込んで、なんて気持ちよさそうなんだろう。

目立ちたくない。注目なんて浴びたくないし、笑われたり指差されるのはもっとごめんだ。あたしを非難する顔、顔、顔、好奇心でギラギラと光る目、目、目。

 あの日、学級会であたしは一斉に名前を挙げられた。

「凜子をいじめていたのは、森さんです!」

 誰一人あたしをかばうことはなかった。あたりまえだ。あたしが凜子をいじめて追い詰めた。けれど、あたしは美奈に嫌われたくなかっただけだった。それを、誰に言えばゆるしてもらえたんだろう。

 でも。

 あたしは。

 十二歳にして人生が終わったと思った。人生が終わればいいと思った。

 でも、あたしの人生はこれからもつづくのだ。しにたくなるほどつらくても、殺したくなるほど自分を嫌いになっても、否応なく。

「有菜ちゃん!」

  悲鳴を聞いたのは、水中だっただろうか。

 どごん、とやわらかなゼリーのなかに全身をやさしくつつまれたようだった。やわらかに水圧で押し上げられる。

 苦しくなって水面に向かって泳いだ。ぷは、と息を吸う。

「有菜ちゃーん」

 離れたところからカイコが手を振っている。泳ぎは得意だ。平泳ぎをし始めたけれど、水を吸った制服はしぬほど泳ぎにくかった。

 けど、水のなかはとても気持ちがいい。つめたくて柔らかくて、なんて開放的なんだろう。

 おーい、とカイコがプールの真ん中で、あたしに向かって手を振っている。泳いで追いついた。

「本当はわかってます。こんなこと、やってもやんなくても本当は結果なんて変わらない」

 カイコがぷかぷかとラッコのようにプールで浮かびながら妙に冷静に呟く。

「でも、どう考えたって、実行する方が圧倒的に面白い。それだけは誰も否定できません」

 そのままブクブクと沈んでしまったので、慌てて引き揚げた。カイコはくしゃみを失敗して死にかけた老人のような重い咳をして水を吐きだしたあと、「あー気持ちいー」と言った。

 頭上で誰かが怒鳴っている。あとでみっちり怒られるのかな、と思いながら平泳ぎしてプールの端っこまで泳ぐ。制服が、感じたことのない重さをまとっておかしな感覚がする。横でカイコもぶさいくなくらげみたいになって犬かきしていた。

 柵の向こうで、川端さんがカメラをかまえている。夏目さんは困ったような顔であたしたちを見て笑っていた。

「文芸部なんて、青春から一番遠い部活だと思ってたよ。暗くて地味で、おとなしい、静かな部活」

 プールから上がり、スカートから水を絞る。すっかりプリーツがめちゃくちゃになっていた。カイコはぺったりとおかっぱがほっぺたに張りついて、床浸水した日本人形みたいになっていた。

「同感です。でも、わたしたちにはほかのどんな中学生にも負けない武器があります」

「何」

 カイコがめがねをはずす。あれ、と思った。この子、こんなに可愛かったっけ。

「想像力」

 ぱん、とどこかでパラソルを開くようなピストルの音がした。五時を知らせるメロディが、遠くの風から運ばれてきて、あたしたちは同時に「あちー」と呟いて、アスファルトの上を歩きだした。


 職員室を出ると、入ってから一時間半経っていた。

「あたしら九十分も説教されてたっぽいよ」

ゲンナリした顔でカイコが「うげ」とかすれた声でうめく。

 “小テストの結果で紙飛行機つくって飛ばしていたら、間違ってプールの柵の向こうに飛ばされてしまって、しかも運悪くプールの水の中に入ってしまったんです。もし誰かに見つかったら恥ずかしいので、気が動転して飛び込んでしまいました。おぼれかけていたら、ほかの友だちが気がついて入ってわたしを助けようとしてくれました。森さんはわたしを助けるために飛び込んでくれたんです、森さんのことは叱らないでください”

 ぺらぺらと口から国旗を出す手品みたいによどみなくカイコが作り話を披露したら、先生たちは(本当か?)(宮沢、完全に泳いでたよな? あれおぼれてたのか?)(川端がカメラ持ってたのはなんでなんだ?)と不審そうな顔をしていたものの「今後は生徒だけで勝手にプールに入らないように、ましてや制服のまま飛び込まないように」と重々しくねちねちと説教されただけで済んだ。

 カイコもあたしも夏目さんも(たぶん写真部の川端さんも)普段は問題を起こさないおとなしい生徒だった、というのが不幸中の幸いだった。あたしは超適当な作り話に噴き出さないように必死だったけれど、先生たちは大して疑っていないようだった。なるほど、カイコの言うとおり、文芸部の一番の武器は想像力なのかもしれない。

 体操服でとぼとぼ歩いていると(びしょ濡れになったので着替えた)、廊下の向こうから夏目さんと川端さんがぱたぱたと靴を鳴らして走ってきた。

「どうだった? 怒られた?」

「うちらおとがめなしでごめんねー」

 二人はけらけら笑う。勝手に飛び込んだのはあたしたちなので、二人がなぜか先生に見逃されたことには別に何も思わなかった。

「っていうかさ、めちゃくちゃいい写真撮れたんだよ! 見て!」

 川端さんがカメラを操作して画面を見せてくれる。カイコと覗き込んで、思わず「うわーっ」と声をあげてしまった。

 みずみずしいプールの水、白い龍のように派手に立ち上がった水飛沫、プリーツスカートからのぞく脚はめちゃくちゃな方向に伸びている。空は夕方特有の、水をたっぷりと含んだようなほんのりやさしい青で、底の方で飲み残したピーチネクターみたいに凜色と淡い橙がまじりあっている。

 まるで水飛沫を翅みたいに背負ったカイコは、神々しいくらいきれいだった。

「これなんかめちゃくちゃ青春だよー」と川端さんが次の写真を見せてくれる。カイコを追ってあたしがプールに飛び込む瞬間だった。その最中は気づかなかったけれど、小さくカイコが振り返っている。

「カイコ、あたしが飛び込む瞬間見てたんだね」

「はい。なんか様子がおかしいなと思ったら有菜ちゃんまで飛び込もうとしてたので、びっくりしました」

「もう先生たち気付いてたのに、なんで飛び込んだの?」

 川端さんが首を傾げる。夏目さんも不思議そうにしていたけれど、ヘラヘラ笑って答えなかった。

 目立つのは大嫌いだ。もう二度と学校の中で問題を起こさない。そう決めていた。はずだったんだけどな……。

「これならかっこいいポスター、何種類でも作れそうだけど、掲示板に貼り出したらまた先生たちに怒られそうだね」

 川端さんが肩をすくめる。確かにそうだ。

「でも写真部のコンクールには何枚か出品してみるよ。三年間でぶっちぎりでいい写真が撮れた。呼んでくれてありがとうね。また文芸部で面白いことやるなら、わたしも呼んでよ。ばっちり写真に収めてあげるからさ」

 これから写真部に行って、部員たちにも写真を見せるという。川端さんが手を振りながら去っていくのを見送った。

「二人とも、かっこよかったよ」

ポツリと夏目さんが呟いた。

「制服でプールに入るのってさ、なんか、目立つ系の男子とかが悪ふざけでやるイメージあるじゃない? リア充ぶってる陽キャが思い出づくり~とか言ってさ。でも、二人がやると全然、悪ふざけの雰囲気とか全然なかった。なんかもっと、切実だったよ」

 夏目さんの目に、みるみるうちに涙が浮かぶ。ぎょっとした。

「夏目さん?」

「最初話聞いたとき、わたしが言い出したことではあるけど、制服のままにとびこむなんて意味不明だと思ったし、絶対実行なんてできないって思ってた。実際、先生に見つかっちゃったしね。でも、カイコちゃんも有菜ちゃんも全然びびらないで飛び込むんだもん。いいこすぎていろんなルールとか、守って守ってはみださないようにびくびくしてる自分がすごくばかみたいに思えた。つまんないなーって」

 すすり泣く夏目さんに寄り添って、カイコがやさしく背中をさする。頭ひとつ分背が低いカイコが寄り添っていると、なきむしの姉としっかり者の妹みたいに見えた。

 夏目さんがポケットからハンカチを取り出して、目元を押さえる。

「ずっとなあなあにしててごめんね。わたしも文芸部に入りたい。仲間に入れてほしい。でも、部員集めはもう間に合わないのかな」

 カイコとあたしはそっと目を合わせた。

「ありがとう。もちろん歓迎です。ただ正直、ちょっともう廃部を止めるのは難しいかもしれません。ですが、望みはあります。たとえ部室はないとしても、小説を書いたら回して感想を言い合ったり、リレー小説を続けたり、読書会を教室の隅で開くことは可能だと思います。――まあ、わたしと有菜ちゃんは別な部活に入らないといけないんですが」

「だったら家庭部に入ってよ。自習の時間、こっそり三人で文芸活動しよう」

「いや〜……学祭のときメイド服でカステラ売ったり巾着売ったりするのはちょっと……」カイコが顔をひきつらせている。正直、女の園と化している家庭部に入るのは、あたしも抵抗があった。

「ちょっと!二人とも家庭部にそんなにはいりたくないの!? 三年になったら自分たちで企画立てられるんだよ、『ぐりとぐら』のカステラをフライパンで作ったり、『食堂かたつむり』のスープのレシピ試そうよ。『おばけのてんぷら』を揚げるのもうやってみたかったんだよねえ」

 さっきまで泣いていたはずの夏目さんがよだれを垂らさんばかりにうっとりと言う。お嬢様に見えて、意外と食いしん坊なのかもしれない。

 三人で、おばけを天ぷらにしたらどんな食感になるかで結構議論になった。あたしは「白いし、はんぺんみたいにふわふわしてるんじゃない」と言ったけれど、カイコは「実態がないからもっと泡みたいにスカスカしてるはず。たとえるならビールの泡とか、カフェオレの上のフワフワみたいな食感」と主張し、夏目さんは「泡じゃ天ぷらにならないでしょ。意外とイカみたいにしっかり歯応えがあるタイプなんじゃない? 海苔を巻いて揚げたらもっとおいしそう」とかなり天ぷら寄りの意見を述べていた。

「自習の時間、五時までだから」と家庭部に戻っていく夏目さんと別れ、カイコと並んで部室に向かった。もしかしたらこうして部室に向かうのもあと少しなのかな、と思ったらさみしかった。

 ねえ、とカイコに話しかける。

「元々部員勧誘のポスターに使えないなんて、ちょっと考えたらすぐわかるじゃん。なんで決行したの」

 カイコはクールに肩をすくめた。

「無理だってわかってたけど、飛び込んだ方が面白そうだったから。あと、有菜ちゃんまで不登校になったら、文芸部員はひとりぼっちになりますから、なんとか呼び出せないかなと思って」

 言葉を返せない。事実、三月から四月まで、カイコはひとりぼっちで文芸部をしていたのだから。

「ごめん」

「謝ることないですよ。三島さんと有菜ちゃんのことは、わたしには介入できないですが、これからも手紙は送ろうと思います。小説のコピーとか、感想文とか」凜ちゃんのこと、忘れたなんて言わせません。あたしを糾弾する甲高い声を思い出し、なんだか足取りが重くなった。

「あたしはもう、三島さんには手紙書けないや」

「そうですか。無理強いはしませんよ」カイコが柔らかく微笑む。でも、どこか寂しそうだった。

 部室に行くと、カイコが「あれ」と呟いた。「わたし、鍵は開けてないけどな」

 嫌な予感がする。待って、と言うよりも早く、カイコがドアノブを回した。

「お邪魔してます」

 中から、しっかりとした声がした。

 三島さんが姿勢をピンと正して、座っていた。中に入れず、固まっていると「森先輩、入ってください」と名指しされる。

「有菜ちゃん、入りましょう」

 後ろからカイコがささやく。あたしはなんだかもう、この場で這いつくばって土下座でもした方がよほど楽になれるんじゃないか、と思ったけれど、カイコに背を押されるまま部室の中に入った。真正面から目が合う。

「……今日、森先輩は欠席だってうかがったんですけど、来てたんですね」

「うん」

「よかったです。わたし、先輩に言いたいことがあって」

 座ってください、とうながされてのろのろとソファに腰掛けた。少し離れたところに、カイコが座る。

 今度こそ激しく詰め寄られるのだろうか。

「あの」

「うん」

「凜ちゃんのこと、この前、言い過ぎました。そもそもわたし、凜ちゃん本人じゃないし、先輩に直接何かされたわけじゃないし。すごく一方的にひどいこと、わーってわめいちゃって、ごめんなさい。あのあと、すごく後悔しました」

 ボソボソと小さな声で話す。三島さんの鼻の頭が、豆電球を透かしているみたいにほんのりと赤い。

「森先輩の手紙、面白くて好きでした。宮沢部長の手紙はすごく丁寧で、森先輩のはくだけてて。最初はこのふたり温度差ありすぎって思ってたんですけど、先輩後輩とか気負わないで読めて、たぶん人との距離感を掴むのがすごく上手な人なんだろうなあ、って想像しながら読んでました」

「……その正体が、いじめをしていた三崎小の森有菜だって知って、がっかりした?」

 三島さんは、小さくうつむいた。「正直に言えば、最初は裏切られたような気持ちになりました。でも、思ったんです。手紙の中の、飾らなくて気安い森先輩と、小学校時代凜ちゃんから聞いていた怖いいじめっ子の森先輩と、どっちが本物なんだろうって」

 いじめ、と言う言葉に、心が小さくこわばる。氷でつくったナイフを押し当てられたみたいに。

「凜ちゃんの言ってたことが嘘だったとか、大げさだったとか、そういうふうには思いません。昔、森先輩にそういう面があったのは、たぶん本当なんだと思います。でも、今はそうじゃないし、不登校のわたしにもやさしくしてくれる。もし、先輩が努力して自分を変えようとしてそうなったんだったら、わたしはいまの先輩を信じたいし、先輩と仲良くしたいなとか、好きだなとか、会ってみたいなって思った気持ちを捨てたくないと思いました」

 三島さんが顔を上げる。

「だから、文芸部はやめません。学校に来るかどうか、それはまだわからないけど、これからも仲間に入れてほしいです」

 三島さんが深々と頭を下げる。あたしはあわてて顔を上げさせた。

「三島さん、顔上げて。あたりまえじゃん、これからも手紙送るよ」

「ありがとうございます」

 三島さんが笑顔になった。「これからは瑛未って呼んでください。宮沢部長も」カイコは「もちろん」と笑った。

「それにしても、二人ともどうして体操服なんですか?」

 三島さん――瑛未ちゃんが首をかしげる。カイコは「それには海よりも深いわけがあるので……」とワタワタとごまかした。さすがに後輩相手に「制服でプール入ってきた」とは言えないのだろう。代わりにあたしが話した。

「文芸部って、地味じゃん? 地味で冴えなくて、廃部になりかけてるじゃない」

「ええ、まあ」

「その窮地を救うために、いろいろあったのだよ」

 瑛未ちゃんは不思議そうな顔をしていた。けれど、きっといつか話したら「バカなことしてますねー」とあきれたあと、「でも、なんかわかるような気がします」と言ってくれるだろう。


 エンディング――あたしたちは魔法しか使えない

 

 九月一日。夏休み明けの体育館は、退屈なあくびと眠気に満ちていた。けれど、あたしは目を見開いてステージを見つめていた。

 川端さんと並んでカイコが壇上で賞状を受け取っている。

【乱反射】

 川端さんがプールに飛び込んだあたしたちの写真三枚組をそう題してコンクールに出品した。それは全国の写真部コンクールで賞をもぎとった。写真部が全国大会で入賞したのは初らしく、その写真はでかでかとピロティに飾られた。  

 写真を展示するにあたって職員会議がひらかれ、真似をする生徒が現れないようにプールは夏の間掃除もかねて水を抜くことになったらしい。すっからかんのプールはなんだか用事をなくしたみたいでわびしく、なんだかうしろめたかった。

 一方、文芸部でも快挙があった。六月に〆切があった文芸コンクールでは入選どまりだったものの、別な賞でカイコが超特急で書き上げた小説が、特選を獲ったのだ。それは中学生向けのコンクールではなく地方の新聞社が主催している短編のコンクールだった。最優秀賞は逃したものの、中学生が特選を受賞したのは史上初らしい。

 それは、二人の女子中学生がいじめをきっかけに教室の中で徐々に居場所を失い、まっぴるま学校のプールに飛び込む話だった。すごく面白かったのだけれど、それはそれで「もしや文芸部の二人もいじめに遭っているのでは」「心に孤独を抱えているのでは」という疑惑がかけられ、カイコもあたしも心がすこやかであることを先生たちに説明しなければならずめんどくさかった。

 全校生徒の拍手をあびてカイコがにっこりと笑っている。やっとわかったか、わたしのすごさが――心のなかではにらみをきかせていることを知っているので、苦笑してしまう。

 結局文芸部は一学期以内で部員を五人集めることができなかった。

終業式の日時点でメンバーは宮沢繭、森有菜、夏目まどか、三島瑛未の四名。「あと一人だけなんですけど……」とおずおずと名簿を提出しに行ったら、尾崎先生はううむとヤギのような顔をしかめた。

「よく健闘しましたねえ。正直、四月時点で宮沢さんに通達したときは無理だと思っていました。けど、規則は規則ですから、次に入る部活のことは考えておいてください」

 廃部が決定するのは夏休み期間中なので、その間部室は使っていいとのことだった。「あちー」と文句を言いつつも、あたしたちは休みの間も集まって本を読んだり小説を書いたり、それなりに部活っぽいことをした。「夏休み期間も監査されてるから」というのがカイコの言い分だった。

「っていうか思うんだけどさ」

「なんですか」

「あたしらプールに飛び込んでるじゃん? もしかして素行不良で廃部の後押しになっちゃうんじゃない?」

 カイコは顔をひきつらせたものの、「まっさかあ。もっと公平に見てくれるはずです」と言った。どちらにせよ、部員を五名集めることはできなかったので、廃部を免れることはかなり難しいのは明白だった。

 そして八月三十一日。尾崎先生が部室を訪ねてきた。

「文芸部の処分が決まりました」

 居合わせたカイコとあたしとまどかは思わず目を合わせた。つばを飲み込む音がする。

「まずさきに、宮沢さん、受賞おめでとう。新聞社から学校に連絡がありました。あなたの書いた小説が、特選受賞だそうです」

「すごーい!」「新聞だって、カイコおめでとう」と口々に言ってカイコの背中をばしばし叩いた。

「中学生の受賞は史上初らしいですよ。おめでとう」

 カイコはほうけたように「ありがとうございます」と言った。「それで、文芸部は解散なんでしょうか」

「それなんですがね」尾崎先生があごひげを撫でる。「部員が四名いること、過去に何度も優秀な成績を残していることをかんがみて、廃部に結構反対が出ていたんですね。加えて不登校だった三島瑛未さんが少しずつ学校に顔を出すようになった。これは文芸部の存在があってのことだと思います」

 蝉の声が妙に近く聴こえてくる。胸がどきどきしていた。

「それに今回の宮沢さんの受賞の連絡が来て、それが後押しになりました。今回は特別に、文芸部の廃部は取り消すそうです」

 よかったー! とまずはじめに叫んだのはまどかだ。親の反対を押し切ってまで部活をやめて文芸部に入部したのだから、誰よりも廃部に不安を抱いていたのは彼女だったのかもしれない。

「よ、よかったです。ありがとうございます」

 カイコも、へなへなと腰が砕けたみたいに床に倒れこんだ。まどかとあたしで助け起こす。

「でも、プールに飛び込んだり問題行動も起こしたのに、なんで廃部にならなかったんでしょう」

 尾崎先生はぱちんとウィンクした。おちゃめな仙人みたいだった。

「それ以上の功績をきみたちやきみたちの先輩がつくっていた、ということですよ。それに、あの写真部の川端さんの撮った写真。先生方の間で賛否両論あったんですが、おおむねみんな、心打たれたようですよ。賞を獲っただけあって、いい写真ですね、あれは」

 にっこりと先生が笑う。

「文芸部は華があるわけでも、存在感がある部活でもないかもしれません。でも、どの部活よりも青春をまばゆく記録できる部活なのかもしれないですね。もちろん川端さんの腕もあってのことではありますが、彼女いわく、どうやらきみたちの発案で実現した写真らしいじゃないですか。少々うらやましいです」

 では、と先生は去って行った。あたしたちはもういちどギャー! とかしましくさわぎ、いそいで公衆電話に向かい、瑛未ちゃんに文芸部存続決定を報告したのだった。

「でも、部活動は原則五名以上じゃないと活動停止検討だそうです。できるだけ早く次の部員を見つけないといけないですね」

 始業式が終わったあと、リュックのサイドポケットに丸めた賞状を突っ込む、と言うなんとも雑なスタイルでカイコがうちのクラスに来た。「宮沢さん、全国で賞撮ったんだって?」「中学生では初めてなんてすごーい」とそれなりに声をかけられ、真っ赤になって照れている。

 以前だったらありえなかった光景だった。カイコと周囲の関係も、良い方向に変わっているのかもしれないな、と思った。

「川端さんの写真、もっかい見てこよう」

「いいですね。まどかちゃんも呼んできます」

 八月の半ばにピロティの壁にでかでかと貼られたときは「ウギャー」と大声をあげたいくらい恥ずかしかったけれど、もはや通りかかりすぎて校内に自分の写真がばんと飾られていることに何も思わなくなっていた。

 しげしげと眺める。

「こうしてみると、絵になってるんだかなってないんだかよくわかんないよね」

 もごもごというと、カイコは「ああ、わたしたち全然垢抜けてないですからね」と直球でバッサリ斬った。って、あたしもダサいってことか?

「この写真なんて、とくにそれを表してませんか」

 カイコが指を指した写真は、最後のものだ。

びしょぬれになったあたしたちがぺたぺたと気だるげにアスファルトを歩いているところだった。人の目も気にせずにスカートをまくりあげて水を絞っている。ちびのカイコと、運動を怠っているのと成長期のせいでふくらはぎがしっかり肉のついたあたしの後ろ姿は……うん、全然垢抜けてはいないな。

「でも、だからこそいい写真なんじゃないかなあ。モデルみたいな子がばっちりメイクでやっても、ここまで迫力のある写真にはならなかったと思うよ」

 ばっちりメイクをしなくても美人でモデル体型のまどかが慰めるように言う。なんだかな、と思いはしたけれど、「まあそうだね」と素直にうなずいた。

「尾崎先生の言うとおりだよ。文芸部はダサくて冴えなくて地味だけど、なんだかんだ一番青春を切り取って永遠に保管できる部活な気がする。――文芸部に入ってよかった」

 カイコがぽかんとした顔であたしを見ている。大きくうなずいた。

「そりゃそうでしょう。文芸部には特別な魔法がかかっているんですから」

 そして、満面の笑顔を浮かべた。あたしはそれを見ながら、いつかカイコのことを小説に書こう、とひそかに誓った。

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文芸ガールズ @_naranuhoka_

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