第6話

五時半を回った教室は、西陽に遠慮がちに染められ、世界に取り残された標本のように静まり返っている。

追試模試を受けているのはわたしと常盤君だけだった。

 ほんとうは先週の土日に行われたのだけれど、風邪を引いて休んでしまった。てっきり模試の問題と答えだけ渡されて自主学習しなさい、と言われるものだと思っていたら、翌週の放課後に残された。まだ提出が間に合うらしい。今日は二日目だった。

 模試を受けるわたしたちのために昨日と今日は放課後の教室に誰も立ち入ることができない。普段はここで勉強をしている子たちも、荷物を持って学習室に行った。空席だらけの教室で試験を受けるのは、いつもの鏡のような緊張感がないぶんかえって落ち着かない。

 最後の生物を解き終え、首をゆっくりもたげる。残り時間二十五分だった。模試監督の先生はいない。ふたりの生徒のために時間を割く時期でもないだろう。高三の十月の半ば。さすがに未だに志望大学が固まっていないような子はいないだろうし、このごろはみんな、放課後も学校のどこかに残って一心に勉強している。

 ただし、常盤君みたいな特例もいる。

 わたしの席からそう遠くない、前方の席の常盤君はいさぎよくつっぷしている。最初から解く気がないのはわかっていた。シャーペンの音はわたしのほうからしか聞こえなかった。六十分も何もしないのは時間の無駄だしもう先に帰ればいいのに、とも思うけれど、一応試験だから残っているのだろう。昨日の最初に受けた社会も二科目ごとなにもせずぼんやりしていた。私立志願の子もマーク模試を受けるのとだいたい同じ道理だ。

 常盤君は音大に進学志望を出している、といううわさが流れたのは夏休み前だ。確かあのときも模試の終わりで、クラスメイトの何人かが残って答え合わせをしているときに、クラスメイトの男の子が「そういうや」と言い出したのだった。「常盤って普通の大学行かないんだって」

 もったいぶった言い方に、わたしを含めてその場にいた子たちがなんとなく顔を上げて、視線をかわしながらあいまいに笑っていると、なおもつづいた。

「あいつ、音大行くらしいよ。この前楽譜持ってたから、なにそれって言ったら音大の勉強用って言ってた」

 えー、まじで、とその男子と仲のいい女の子が派手に驚いた声を上げたけれど、そのほかの子たちは、驚いてはいるけれどそこまでの反応は見せなかった。わたしも、もちろん意表はつかれたけれど、そんなに驚きはしなかった。そういう人、だからだ。常盤君は。

 今年初めて同じクラスになった。普段ほとんど口を利かない、寡黙な人だ。ほかの男子とつるむこともあまりなく、休み時間もイヤフォンを耳に挿して一人でいることが多かった。浮いているわけでもなく、話しかけられればそれなりに気さくに応じるけれど、自分からは人にかかわろうとはしないタイプの人だった。なんとなく、公衆電話みたいだな、と思っていた。常盤君がピアノや音楽をやっているとは聞いたことがないけれど、常盤君ならやっていてもおかしくはないし、音楽と常盤君という組み合わせは常盤君にはしっくりくるような気がする。気難しげな雰囲気が芸術家らしいようにも見えなくはない。いつも、みんなから一歩退いているようなところも。

「え、何科? ピアノ?」

「そこまでは知らないけど、ピアニストじゃね、音大つったら」

 みんなが無責任に憶測をだらだらしゃべるのを聞きながら、模試の採点作業に戻った。――音大。

 うちの高校からでもそういう、特殊な大学に進む人はいるのか、と思った。一応、県内でもトップの高校だ。たいていの人が所謂普通の、国立大学を目指している。音大とかかっけーな、と男子が呟く。何人かが賛同するのがつづいたけれど、わたしは少し、胸の底がざらつくような思いを抱いた。

 音大や美大なんて、よっぽど自分の才能に自信がないと志望できない。常盤君には、それがあるんだろうか。

 口もきいたこともないのに、どうしてだろう、いらだちが漂砂のように残って心をけばだたせた。誰もいない常盤君の席をちらりと見ると、わずかに引いた椅子の背もたれの隙間から、詰め込まれっぱなしの教科書が見えた。

 夏休み明けにひさしぶりに常盤君を見たとき、音大のことを思いだしたけれど、クラスの誰もそれことについて突っ込んだり訊いたりはしなかった。少しだけ髪を短くした常盤君は一学期と同じように、必要以上に自分の存在感を出さいようにひっそりと息づいていた。

 眠っている常盤君のほうを観察していると、シャーペンを握っているのが見えた。腕を投げ出して、ペン回しをしている。起きているのだ。わずかにため息をついた気配が伝わる。

 授業後に三科目連続で試験を受け、疲労と解放感からか、自分のくちびるがいつもよりゆるんでいるような気がした。ねえ、と口にしてしまい、迷ったけれどつづけた。

「常盤君、音大行くんだよね」

 間があった。カシャン、と金属のような華奢な音がして、「え」と常盤君がこちらを振り向く。シャーペンを落としたのだと気づいて、急に話しかけたことが恥ずかしくなった。向こうは解いていないとはいえ、模試中にいままでろくに言葉をかわしたこともない男子なのに。

「いま声出したの夏目さん?」

「うん」名前を覚えられていたことにちょっとびっくりした。誰かに初めて名前を呼ばれるとき、大事なものを預けたみたいでときどきする。

「……あんま言わないようにしてたけど、音大のこと、みんなに知られてるんだ」シャーペンを拾いながら、どこか戸惑った声で呟く。迷ったけれどどう取り繕えばいいのかわからず、「うわさで聞いた」と正直に言った。「この前のもし休んだのも、レッスンがあったんじゃないかって、聞いた」

「そんなことまで言われてるんだ。まあ、事実だけど」

 常盤君の声にはあまり動揺も照れもなかった。みんなに進路を把握されることに、さして抵抗がないのだろう。

「音大ってことはピアノ弾けるの?」

「弾ける。でも俺が受験するのはピアノじゃないよ」

「何科?」

 まさか声楽、それとも最難関とも言われる指揮? と驚く前にクッションを敷き詰めていると、「チェロ専攻」と言った。試験だからか、一応前に向き直って。

 なじみのない楽器をさらりと口にされ、戸惑う。バイオリンより大きくて、コントラバスより小さい。わかるのはそれくらいだ。どんなふうに抱えたり支えて弾くのかも、うまく想像ができない。

「チェロ弾けるんだ」

「うん」

「ピアノもできるのに、すごいね」

 ああでもピアノは楽器の基本だからたいていの音楽家はピアノを弾けないといけないって聞いたことあるな、と思っていたら、おもむろに「あのさ」と常盤君が言った。

「夏目さんって、ピアノ弾いてる? もしくは、習ってた?」

「……そうだけど」

 突然、自分のことを聞かれ、しかもそれが事実であることにたじろぐ。十年以上習っていたとはいえ高校受験をきっかけに中学でピアノはやめているし、ピアノを習っていたことを誰かに話したこともほとんどない。合唱コンクールで伴奏をしたこともない。ましてや常盤君がそれをどこかで聞いていたとも思えない。

「なんで?」

 どこかぶきみにすら思って、不信感をふくんだ声でたずね返す。常盤君がわずかにこちらを振り向きかけ、でも前を向いたまま、どこかためらうようなそぶりを見せて、言った。

「……夏目さんの指、反ってるから」

 は、と声を出しかけ、すんでのところで飲み込んだ。はだかでいるくらい無防備でいるような気がして、思わず自分の両手をぎゅっと握りこむ。顔が真っ赤になるのがわかった。常盤君がこちらを向いていなくてよかった、と思った。

「そんなの見ないでよ」

 恥ずかしさからいかりを孕んだ声が出た。熱が顔から逃げない。

「……ごめん」

しんなりと力無い声で謝る。無邪気な指摘に過ぎないとはいえ、自分が言ったことの意味があとからわかったのだろう、本気で後悔しているのが伝わった。

「ごめん、じっと見てたわけじゃないけど、数学とかで、板書するときに俺、前の席だからチョーク持ってる人の指、結構はっきり見えて。夏目さん、たぶん長いことピアノやってる人の指なんだろうなって思っただけ、ごめん」

 たどたどしく弁解する。途方もなく恥ずかしかった。まがりなりにも十七歳で、思春期だった。異性に指の反りを指摘されて、もう二度と人前で手をひらきたくないような気さえした。セクハラだ、と思ったけれど、さすがにそれを口にする勇気はなかった。

 確かに、わたしの指は反っている。両手をぴんとそらしたとき、けっしてまっすぐとは言えないほどには、外側に向かってハの字に傾いている。ピアノの先生にも子供のとき言われていたから知っていたけれど、人から言われたのは初めてだった。誰かに言われたことがなかったこともあってゆがみをいままでさして気にしていなかったけれど、自分の指のかたちから、ピアノを習っていたことを見抜く人がいることに、驚いて、恥ずかしくて、悔しかった。

「ごめん」

 気まずくなるからか、試験中だからなのか、常盤君は前を向いたままひたむきに謝りつづける。もう頬の熱は冷めたし、驚きがひくと最初の怒りや恥ずかしさも凪いだ。べつにいいよ、と言うと、もういちど「ごめん」と低い声で言って、常盤君は椅子を引いて姿勢を正した。試験時間は残り十五分だった。試験問題に目を戻し、見直しにかかった。ふっと視界に違和を感じ、視線を持ち上げる。

 少しだけ左のほうが位置の高い常盤君の耳が、後ろから見てもわかるほど、朱色に染まっていた。それは、見ていいのかな、とたじろぐくらい、あざやかでなまなましい色だった。


 試験が終わり、職員室の先生に解答用紙を出しに行った。教室に戻ると、予想はしていたもののすでに常盤君は荷物ごと姿を消していた。わたしとはもう顔を合わせたくないのだという気持ちはわかるからこそ、安堵しながら腹が立った。

 でも、玄関に降りると常盤君が靴を履いて立ち上がるところだった。知らんふりもできたけれど、「お疲れ」と声をかける。あ、と無防備な声をもらして「お疲れ様」と頭を下げて帰って行った。常盤君がわたしと同じ駅を利用しているのをなんどか見かけたことがある。わたしと同じように最寄りの駅まで行くことはわかっていたけれど、追いかけて一緒に行こうとは思わなかった。さっきの気まずさの弁解をしたいような気はするけれど、何を話していいかわからない。

す、とゆっくりローファーにつまさきを沈めると、冷えた空気が靴下越しに伝わってくる。のろのろと重たい硝子戸を押すと、乾いた土の匂いが鼻を掠めた。もう常盤君は校門を出るところだった。

自分の最寄り駅で降り、予備校に向かう。ほかの高校の女の子たちが自習室でかたまって席についていた。暖房が強い。コンビニで買ったのか、おでんのつゆの匂いが充満していた。換気扇のスイッチを押したけれど、彼女たちは気づいてもいないだろう。入ってきたわたしに気づくと、おはよう、とちいさな声で挨拶して、おしゃべりに戻る。彼女たちのほかには男子が隅の方でイヤフォンを挿してアイフォンに目を落としているだけだった。

「そんでそのあとだっちんが話かけてきたから先輩も帰っちゃって~」

「まじ? あいつほんっとに空気読めないから」

 三年間同じ予備校で過ごしているけれど、彼女たちとはあまり仲良くしていない。高校が同じでもたぶん仲良くしなかっただろうな、と思う。一年生の時からかなりスカートの丈を詰めて、けらけらと甲高い声でしゃべる彼女たちが、初めて顔を合わせたときから苦手だった。三年間も予備校にいて、いまだに一年の範囲の数学で躓いているのを見ると、腹立たしさを感じると同時に溜飲が下がる。彼女たちがみんな私立大学志願だと知ったとき、だろうな、と鼻で笑いたいような気持ちと、がっかりした気持ちがないまぜになった。最初からこういう子たちは土俵を降りているのかと思うと、必死に机に齧りついて勉強している自分がばかばかしく思えることがある。

 センター試験まで、ほんとうに時間がない。二学期の始めにクラスメイトが一人一枚作ったセンターまでの日めくりカウントダウンも、あおるような文章がついていた。予備校の授業でも、もうめったに講師は冗談を飛ばさない。なにかあるごとにげきを飛ばし、とにかく内容の詰まった課題をこなさせる。帰ったら遅い夕飯を食べて、学校の課題をしなければならない。朝は早起きして、友だちと図書室で予習をする。

 毎日勉強だけをしつづけることに疑問を持つ時期はとうに過ぎた。ただもくもくと、同じ問題集や赤本を何周も解きつづけた。わたしだけが努力しているわけではないし、わたしなんかよりずっと根を詰めて一日中がりがり勉強しているような子たちもざらにいる。だから、もうやめたいと思うことはそんなにないし、もはや当然の習慣としてこなしているけれど、それでもきついものはきつい。時間がない。そのくせ、まだまだ本番までは時間はたっぷりとあり、ゴールが見えない。してもしても、みんなも頑張っているから二学期が明けてから驚くほど模試の偏差値が上がらなくなった。校内平均点もずっと上がりつづけて、じわじわと壁際に追いやられるように自分の得点との点差が縮まっている。

 あの日常盤君と二人で受けた模試の結果も却ってきた。点数は採点してあるからだいたい把握していたとはいえ、第一志望にしっかりと【C判定】と印字されているのを見て、担任から受け取った瞬間握りつぶしたくなった。さすがにもう高三にもなると、あからさまによろこぶような厭味なことをする人はいなくなったけれど、なんとなくみんな神妙な顔をして見ていた。常盤君のほうをさりげなく見やると、もう結果の紙はしまったのか、机の上はペンケースしかなく、ぼうと前を見ていた。模試で寝ていたくらいだし、筆記試験に重きはおいていないのだろう。

ひと月近く立って、常盤君と口をきいたことはあれ以来ない。

いちどだけ、朝の駅のホームで同じ電車の両で出くわしたから目顔で挨拶を交わしたけれど、それだけだ。混みあった電車で言葉をかわすわけでもなく、ましてや近くに座るわけでもない。降りる頃には常盤君の姿は見失ってしまった。

ときどき教室で常盤君を注意して見ていたけれど、いつもイヤフォンを挿している。もう隠す気はないのか、それともわたしがいままで気づかなかっただけなのか、五線譜の並んだ楽譜になにか書きつけていることもあった。

でも、十一月になるとときどき授業から姿を消した。不登校になったのではなく、たとえば生物や社会の時間に一人だけファイルと譜面台を持ってどこかへ行く。説明されなくても、音楽室で実技の練習をしていることはみんな察していた。男子にちょっかいを出されて、照れたように肩をすぼめ、そのまま教室を出て行った。音楽家、と言ったのだと時間差で聞き取った。

音大のような、そういう特殊な大学に行く子は学年にも何人かいるらしいけれど、わたしのクラスでは常盤君だけだった。大抵の子が、わたしを含めて普通の国立大学を志望していた。

わたしは北の地方の大学を志望している。そんなに遠くに行かなくても、と両親には反対されたし、打ち明けると友だちはみんな驚いた。それでも、行きたかった。うんと遠いところに、一人で。

友だちは志望大学通りだと大概関東か関西に散ってしまうけれど、かえってそのほうがよかった。みんなのことが嫌いだからだとかせいせいするとかそういうことを思っているわけではないけれど、みんなに驚かれると、受かったわけでもないのにどこか誇らしかった。

 早く大学生になりたかった。受験を終わらせたいというのももちろんあるけれど、とにかく自由になりたかった。大学生にさえなれば好きなことができると予備校の先生はわたしたちにはっぱをかけ、励ましてくれる。

 母に模試の結果を伝えるのは億劫だし、結果には落ち込むけれど、けれど、今日もちゃんと勉強しよう。


 その週の金曜日に文化祭があった。ほかの高校では三年生が文化祭の花で飲食の模擬店を出せるらしいけれど、わたしたちの高校はおもに一、二年生が行う。三年生は部活がある子は手伝いに顔を出すけれど、実質お客さんも同然だ。

 わたしには、幼なじみの女の子が出ている吹奏楽部の演奏会を聴きに行くくらいしか予定なんかなかった。男子の何人かは先生の目を抜けてカラオケに行くらしい。学習室は鍵がかかっているので勉強もできないのだ。今日ばかりはみんな、だらだら回って遊んでいた。

 今年も美歩と回ろうと勝手に思っていたら、彼氏と一緒に回るらしい。がっかりしたけれど、三年にもなると一、二年生の粗雑な出し物に足を運ぼうともあまり思えなかったから、ほかのあてを探そうともあまり思わなかった。居る場所がなければ適当に空き教室を探してそこで本でも読もう、と思った。

 購買で適当に焼きそばパンと飲みものを買って食べ、吹奏楽部の演奏を聴き終え、演劇部の部に移る前にふらっと体育館を出た。ふと、少し離れた場所にあるトイレに寄り、外に出るとピロティのわきの人通りがない場所で人影が動くのが見えた。こんなところでなにかの展示があるとも思えなかったけれど、なんともなしに、つい追いかけてしまった。

「……なんで?」

 正体を知って、自然と笑ってしまった。

 常盤君だった。ベンチに腰かけて、チェロを抱えていた。わたしに見つけられ、動揺しているのか口をひらいているのになにも返事がない。

 この廊下は学習室につながっている。鍵がかかっているから当然だれも来ないし、ほとんど誰もこんなところに来ようとは思わないからいい死角だ。きっとここで演奏していたのだろう。

「誰も来ないと思ってたんだけどな」

 常盤君は気恥ずかしそうにわたしから目をそらした。初めて本物のチェロを見た。単に大きいから、と言うだけではなく、ずっしりとした存在感を放っている。つやつやと光沢があり、ニスがひかりを反射していた。ずいぶんすべらかそうで、収穫する前の瓜を思わせた。思っていたよりもずっと大きい。楽器の厚みは使い古した分厚い辞書を思わせた。年月をたっぷり封じ込めそうだ。この大きさだとベンチでは演奏しづらいだろうな、と思った。

「今日もチェロ持ってきてたんだ。文化祭なのに」

「いや……これは学校の。いつも音楽室においてるけど、邪魔だから、って先生が」

 合唱部が今日コンサートをするから、チェロも追い出されたのだという。引き取ったものの自分たちの教室は女子バレー部が喫茶店に使っているから置いておくわけにも行かず、チェロを持ったままここにずっといたらしい。

「学校にチェロ、あるんだね」

「昔は吹奏楽部じゃなくてオーケストラ部だったらしい。だから弦楽器もいくつかまだ残ってる」

 淡々と話す。「わたし、昔吹奏楽部だったよ。中学のときだけど」と話題をつなぐために言うと、うっそりとこちらを見上げた。

「楽器は?」

「ホルン」

「そっか」

 会話が途切れ、静寂が戻りそうになる。ベンチの隣に腰かけていい距離感なのか計りかねて、向かいの柱に寄りかかる。

「弾いてよ」

 わたしはチェロを指さした。

「え?」

「チェロ。聴きたい」

 この場で弾いていたのだから、いいよ、とやすやすと承諾されるものと思っていたら、常盤君は困惑したようにまばたきして口ごもった。無理なことを言ってしまったのだろうか。恥ずかしくなり、不安も煽られた。それらをごまかすために「さっきまで弾いてたんじゃないの?」と早口につづけると、どこか居丈高にすら響いた。

「弾いてたけど」

「じゃあいいじゃん」

 お願いしているのはこっちなのに、はらはらしているせいではすっぱでつっけんどんな口調にしかならない。常盤君は落ち着いた声で「べつに、いいんだけど」と言い、「でも」と言葉を翻した。

「そんなにおもしろいものじゃないと思うよ。夏目さんが思ってるほどには」

 ――あ。

 自分が、間違ったのだとわかった。きっと常盤君は、わたしがミーハー心で弾いてくれと言っているに過ぎないと判断したに違いない。常盤君は、自分が見世物ではないという自負がある。自分が、チェロ奏者であるということにも。

 音大を志望しているということを知っていながら、そんなことにも気が回らずに簡単に軽い口調で懇願した自分が恥ずかしかった。でも、だからといって物わかりのいいふうを装って引き下がるのも厭だった。わたしはただチェロを弾く人がめずらしくて聴きたいと思っているわけではないのだと、誤解を解きたかった。

 常盤君はもうほとんどわたしに心を閉ざしてしまったのか、楽譜をぱらぱらとめくる。存在を遮断されていることに傷ついたけれど、それを押し隠してああそうじゃあねとこの場をすばやく立ち去ることも出来ない。そうすればわたしはもう常盤君の演奏を聴くことも二度とないだろう。

「常盤君」

 呼びかけると、「なに?」と邪険ではないけれどどこかさっきよりもしたしみのない声で常盤君がこたえる。目は楽譜を追ったままだ。

 どうしたら心をこじあけて、ひらかせることができるだろう。

「なんで、音大目指してるの?」

 詰問口調にならないように、意識して声を淡々と落とす。不躾な質問かもしれない、とあとから気づく。常盤君の目が楽譜の上に注がれたままなので、無視される、と心が逃げ腰になったけれど、きちんと返事が返ってきた。

「チェロで食べていきたいから」

 さっきよりはわずかに反応がやわらかくなった気がする。思いがけず直接的で明確なこたえだった。「チェリストになる、ってこと?」と矢継ぎ早につづけると、「まだそうとは決めてないけど」と苦笑いを漏らした。

「でも、音大に行かなかったら音楽家にはなれないから」

「……そっか」

 思うことはいろいろあったけれど、うまく言葉にまとめられず口をつぐんだ。すごいね、と安直に口にすることはできても、常盤君の心を少しでも動かすにはそんな言葉じゃだめだというのはわかっていた。

「わたし、中三までピアノ習ってたんだ」

「そっか」

「たいていの子たちって中学生になったらやめるじゃん、子供の頃からの習いごとなんて」

 こういう高校は特に、とつづけると、そうだね、とうなずく。話を流そうとしている相槌ではない。

「わたしも、受験生だから、って疑問も持たずに簡単にやめたの。才能があるわけでもないし、正直ピアノが好きってわけでもそんなにはなかったし、音楽関係の道で仕事をしたいとも思ってなくて」

 常盤君は、わたしがなにを言いたいのか掴みかねているのだろう、眉間に皺が寄っていた。でも、黙ってわたしの話に耳を傾けていてくれた。

「常盤君は、チェロをおとなになってもつづけたいって思ったから、いそがしくてもチェロをやめないで、進路もチェロにしたんだよね。わたしにはそういう、揺るぎない軸みたいなものがないから、うらやましい」

「そんなかっこいいもんじゃないよ」

 はは、と苦笑いが浮かんだ。でも、もうわたしを拒んではいないことがわかった。

「ただ単に、俺は人よりチェロが好きって気持ちが強かっただけなんだと思う。才能があるとかないとかじゃなく」

 べつに夏目さんにピアノの才能がないって言ってるわけじゃないけど、とかなり間をおいてから慌てて付け加える。はいはいと笑って適当に流す余裕もやっと生まれた。

「それに、音大とか美大とかは特殊だけど、大抵の人はもっとさきの場所で、自分のやりたいこととか、軸とか夢を見つけるんじゃないの。よく、わかんないけど」

「……そうかもね」

 わたしの軸。うすぼんやりとは言えないほどもう確かに自分で意識しているけれど、いまここで常盤君に白状するほどの度胸も単純さもなかった。

 でも、言った。

「今日はもうあきらめる。でもわたしはいつか常盤君の演奏が聴きたい」

 はっきりと口にしてみると、思ったよりも照れなかった。常盤君はわたしを見上げ、そのあとすぐ床に視線をすべらせ、「いいけど」と言った。授業で当てられたときに出す、喉仏をぐんと押し出したような低い声ではなく、変声したばかりの少年のような高さのある声だった。

 放送部が流すK―POPの曲がうっすらと聴こえてくる。


 文化祭の片隅で言葉をかわしたあとも、わたしたちが教室でなにか口をきくようになるということはほとんどなかった。十一月の最終週にようやく教室に暖房がつくようになり、みんなの熱気があたためられた空気に乗っていつも顔回りが火照るように暑かった。受験生だからか、女子の何人かが膝掛けを持ってきても先生は注意しなかった。

 センター試験までのカウントダウンが六十日を切った。クリスマスも三年生は補講があることにみんなブーイングしていたけれど、かたちだけだった。むしろ、クリスマスも高校に来てクラスメイトと顔を合わせる方がわたしは気が楽なような気がした。

 しきりに志望大学に反対していた母も、十二月になるとさすがに何も言わなくなった。月に二回の模試ではB判定とC判定だった。あせりそうになるのを蓋をして抑える。この時期に模試の結果に一喜一憂している場合じゃない。ほかのクラスの女の子が、十二月なのに判定が上がらないと言って廊下で泣いているのを数人が慰めているのを通りかかっても、くだらないとしか思えなかった。余裕がないのはわたしの方だ。模試の結果をもらってどこかだれた空気が漂っているなか、いつもクラスの中心にいる、成績優秀者の男の子のなにげない発言に思わずつっかかった。べつにわたしがばかにされたわけでもプライドを傷つけられたわけでもなんでもない。彼にしてもそこまで意識した発言ではなかったのだろう。

模試の結果をしまいこみながら、地元の国立大学の名前を挙げて、俺も志望大学下げてのんびり勉強してえよ、と笑いを含んだ声で誰ともなく言って笑ったのだった。隣の席だったわたしは思わず突っかかっていた。その大学志望してる子がこの場にもいるのになんでそういうことをここで言うの、と思いついたことを早口でまくしたてると、ごめん、とびっくりしたように素直に謝られた。周りの子たちも、わたしの剣幕にびっくりしたように見つめていた。常盤君が窓際の席でこちらを見ているような気がしたけれど、恥ずかしくて確かめられなかった。

あとで何人かに「夏目ちゃんがああいうことびしっと言えるタイプだと思わなかった」「あいつ、自分が京大目指せるアタマだからって調子に乗ってるんだよ。ほんとむかつく」とたたえられたけれど、内心は複雑だった。わたしのおこなったことは正論ではあるものの、単なるやつあたりでしかなかった。きっとクラスの何人かはわたしがその大学志望者だと勘違いしたに違いない。それをくやんでいる時点で、わたしだって同類だ。受かったわけでもないのに、志望大学の偏差値でその人のことをはかろうとしている。受験勉強をしているとどうしても精神が擦り減って、そういう些末なところでプライドを保とうとしてしまう。わたしが彼につっかかる権利なんかなかったのに、えらそうなことを言ってしまった。

学校を出る頃には、朝にはやわらかかったはずの雪が硬く地のように締まっていた。白い息をまとわりつかせ、雪をブーツで踏みしめながら、来年にはもっと寒いところにいるんだろうか、と来世に思いをはせるように思う。

 

 年が明け、二度の模試を挟み、県立大学の講堂でセンター試験を受けた。何か月も前からカウントダウンの数字に友だちとぎゃーぎゃー騒いでいたせいか、当日は思っていたよりも緊張はせず、ひとまず大きな荷物を下ろせることにどこか安堵した。人生の、避けられない大きな関門を一つ乗り越え、終えた頃にはみんなくつろぎきっていた。一日目の終わりとは違って、あちこちではじけるおしゃべりの声も大きく弾んでいるような気がした。

 センターの採点結果を見て、ひとまず志望大学を変えないまま受験することになった。センターが終わってからは、みんながどこか静かになったような気がした。大きな嵐が去ったあとってこんなんだろうか、とも思った。

 二月の半ばにはすべての授業が終わる。その一週間後、わたしは前期試験を受ける。

 クラスメイトがそろって教室にいるのももうあとわずかだった。卒業式はあるとしても、授業が終われば自由登校になる。授業があるいまも、常盤君は学校に来たり来なかったりする。レッスンを受けているのだろうと誰かが言っていた。学校にいても、ほとんどの時間を音楽室で過ごしているようだ。

 席が近いわけでもないし、普段近しく話すような仲でもない。声をかけようと試みてもやはりいざ教室に常盤君がいると躊躇いが岩のようにあってとても話しかけに行けなかった。

 前期試験が済んでいないいま、おたがいとても演奏を聴ける状態にあるとは思えない。でも、わたしはあのやくそくを忘れたことはなかった。センター試験の最中も、ぼうと思いだして考えていた。

 卒業式の日、チェロを聴かせてもらおう。それで最後にしよう。

 でも、わたしはいつまでたってもそれを言いだせずにいた。


 とうとう授業が終わり、あとは自分で選択して勉強しなければならなくなった。どちらにせよ先生に回答の添削をしてもらいにたいていの生徒は登校しなければならなかったけれど、そういう問題じゃなかった。

 もう、卒業式にならないと常盤君と顔を合わせることはないのだ。

 最後の日は大雪だった。今年になって初めての記録的雪量になるから気をつけて帰るように、とホームルームで先生が言った。みんな、窓の外を横殴りで降る雪に目を奪われていた。まるで空中ごと洗濯機で激しく回しているように、雪が飛ぶように舞っていた。

 電車が止まっていると伝達があり、放課後もほとんどの生徒が校内に残っていた。わたしも教室に残って赤本を解いていたけれど、ふと、思いついて窓際の席に目をやった。

 常盤君の席は空だ。教室に残って勉強しているのはほとんど見たことがない。センターが済んだいま、実技に重きをおくのは当然のことだ。

 でも、わたしはべつのことを考えていた。三年の補講授業は三限までしかない。一、二年生はまだ授業中だ。いま音楽室が授業で使われていないとしたら、常盤君はそこにいるんじゃないだろうか。足がなければ帰ることはできない。

 思いついてしまうと、身体が一ミリくらい椅子から浮き上がってしまったみたいに落ち着かなくなった。ちらちらと目が教室の戸から離せなくなり、行くなら早いうちに、などとすでに考えてしまっている。いや、そんなことを思いついてしまった時点でわたしは常盤君のいるところへ行こうとしているのだ。

 ばかみたい。そんなのストーカー同然だ。親しいわけでもないのにきもちわるがられるにきまっている。冷静に自分をいさめてみても、でも、どこか浮世離れしたような常盤君ならわたしが突然押し入ってもさして驚かずに受け入れるような気がしてならない。そんなのはわたしの都合のいい思い込みでしかないのだろうか。

 国語の評論を解き終え、わたしはとうとう立ち上がった。こうしたくてしかたなかったはずなのに、いざ廊下に出て歩きだすと、のろのろとしか歩けなかった。怖かった。常盤君が音楽室にいても、いなくても、どっちみち手酷く傷つくような気がした。廊下は冷え切って、生徒はほとんどいない。思わずカーディガンの袖に手を引っ込めた。

 二階に降り、音楽室へ向かう。授業をしていたら歌声か先生の声が聴こえるはずだけれど、なにも聴こえない。誰もいないだけなんだろうか、と近づいていくと、細い糸のように音が耳に届いた。チェロの音だと、音楽をさして知らないわたしにも、わかった。

 分厚い木のドアに手をかける。チェロの音は流れを止めない。演奏中に入ったら邪魔じゃないか、と気づき、せめていまの曲が終わるまで待とうかとも思ったけれど、手に力をこめすぎてドアがきい、と高い音を開立てて内側に吸い込まれるようにひらいた。その瞬間、演奏の音が息を呑むように止んだ。

 観念してドアをしっかりと押し、中に身体を滑り込ませた。後ろ手でドアを閉める。顔をそろりと上げると、常盤君がどこかあきれたような顔でわたしを見ていた。それでいて、入ってきたのがわたしであることに納得しているようにも見えた。

「どうしたの」

 演奏はしばらくできないと思ったのか、チェロを壁に寄りかける。寒いと思ったら暖房がついていなかった。つけようと思えばつけられるはずなのに、常盤君はわざわざダッフルコートを着込んで、着膨れていた。

「暖房、つけないの?」

 質問にこたえられず、指をさす。「楽器が湿りやすいから、つけてない。音楽室の暖房、一回つけると威力強すぎるから」と冷静な返事が返ってきた。

「雪、ひどいね」

「まあ、そうだね」

 いま、チェロを弾いてもらおうかとも思った。こんな機会はもうない。明日からはたぶん、学校には来ないだろうから。

「今日は弾けないよ。雪で楽器が湿って、本調子じゃない」

 まだなにも言っていないのに、先回りされた。「なんでわかったの?」と驚いてたずねると「なんとなく」と澄ました顔で言われる。どうしてだか見抜かれたことにうれしさを感じてしまい、くやしくなった。

「常盤君ってどこの音大目指してるの?」

 訊いたところでわかるわけでもないけれど、たずねてみた。「東京芸大」とあっさりと口にする。わたしですら、芸大の最高峰のレベルであることは知っていたから素直に驚いた。

「すごいんだね」

「夏目さんは?」

 遠慮がちにたずね返される。たぶん、そんなに興味があるわけでもないんだろうな、と思いつつ「北海道」とこたえた。

「ずいぶん遠いところだね」

「東京だって遠いよ」

「そうだね」

 この、広いだけでなにもない街は日本のどこへ行くにも遠い。きっと常盤君も離れるのだろうとは予想していたけれど、やはり、漠然としたさみしさがにじむように湧いた。

「今日が無理なら、チェロ、卒業式の日、弾いてくれる?」

 いましか口にできない、と思い飛び降りるような気持ちで口にした。常盤君は「ああ……」とくぐもった喉声で首をかたげた。

「俺、卒業式出ないと思う」

「……なんで?」

 二度も断られた悲しみと発言内容への驚きと混乱がないまぜになり、くちびるが不恰好にゆがむ。

「俺、その日三次試験だから。東京にいる」

 予想もしていなかった。最難関の音大だから、きっと受験も特殊なのだろう。

「そっか」

「だから、出ないよ。一次はもう終わって、二次試験は簡単な筆記だからさすがに落ちないと思うし」

 淡々と、矜持も自信も表面に感じさせない、ただあたりまえのこととして口にする。ああ、と思った。この人は本当に、わたしたちとは違う世界にいたのだ。同じ教室にいながら、いままで、ずっと。

「春休みでもいい?」

「え?」

 言葉の意味がわからずぽかんと口を開けた。「チェロ、聴きたいなら春休みに弾くけど」と言った。

「……いいの?」

「やくそくはやくそくだし」

 しかたないから、というニュアンスが言葉の奥にひそんでいたけれど、じわじわと頬が持ち上がるのがわかった。「そんなにいいものでもないよ」とわたしの表情を読んで苦笑する。

「いつかはまだ決められないけど、音楽室でいい? 先生に言って開けてもらう」

「うん」

 うれしくてしかたがない。どうしてこんなに聴きたかったのかもよくわからないけれど、でも、飛び上がるほどうれしい。本当はもっと大げさに喜びたかったけれど、単に興味本位で言いだしたのだと思われたくなくて、ぐっとこらえた。

「じゃあ、そろそろ練習に戻るから」

 チェロを抱え直す。名残惜しいような気持ちは露のようにあったけれど、「わかった。戻るね」と言って音楽室を出た。教室に残ってだらだらと赤本を解いているクラスメイトたちにいまかわしたやくそくを言ってまわりたいと思ったけれど、自分の中にとどめておいた。


 卒業式当日、宣言通り常盤君は欠席だった。先生が簡単に説明したけれど、みんなは一人のクラスメイトの不在にさして興味がないようだった。後期試験はまだ済んでいないし、前期試験も終わったばかりだけれど、みんなそれぞれ浮かれている。

 クラス委員の男の子に、常盤君のメールアドレスを教えてくれないか、と頼んだ。人付き合いの薄い常盤君のことだ、もしかしたらクラス委員すら把握していないかもしれない、と思ったけれど、ちゃんと知っていた。

「夏目って常盤と仲良かったっけ?」

「ううん、ちょっと用事があって」

 ごまかすとそれ以上詮索されなかった。登録したメールアドレスはアルファベットが意味をなさずに並んでいた。少なくとも英単語ではなさそうだ。よくわからなさが常盤君らしい、と思いくすりと笑った。

 式後、あちこちでみんなが写真を撮っていた。頼まれればわたしも何人かの携帯に収まった。自分自身の携帯では仲のいい数人しか撮らなかった。卒業すればスマートフォンに替わる。写真を入れておいても、あまり意味がないような気がした。こういう考えだから、この高校ではあまり友だちができなかったのだろうか。

 廊下は騒がしく、たくさんの人が意味もなく外に出ている。人気のある男の子が二年生の女の子に囲まれていたり、普段はみんなの前ではくっついているのを見たことがないカップルが堂々とツーショットを撮ってもらったりしていた。

 部活の送別会があるわけでもないので、手持ち無沙汰になり、教室でぼんやりと過ごしていた。生徒としてここに座るのもこれが最後、と思ってみても、明日からも後期試験の小論文を添削してもらいにここに制服を着てくるのだと思うと感傷はさして生まれなかった。クラスメイトともそこで会うし、最後の打ち上げもある。

 試験は午後だと言っていた。いまごろ緊張した面持ちで弾いているのだろうか。それとももう済んで、芸大を後にしただろうか。

【アドレスは市川くんから聞いた。試験お疲れ様。聴かせてもらうのはいつにするかは常盤君に任せます 愛海】

 どきどきというよりも、先生に課題の未提出を謝りに行くときのようなひやひやとした緊張に近かった。三度推敲して、えいと送信ボタンを押す。返信は三十分後に来た。

【十二日の午後でいい?】

 わかった、と送り、駅に向かう。ホームに居合わせたクラスの女の子たちと電車に揺られて帰った。美歩に、彼氏から第二ボタンをもらったと見せられ、常盤君がもし出席していたらわたしはボタンをもらっただろうか、と想像しかけて、心の中で打ち消した。


 私服姿を見るのは初めてだった。制服だったらおもしろいな、と思っていたけれど、黒いパーカーにジーンズというラフな出で立ちだった。後期試験の時期も終わり、前期試験の結果も出たいま、高校に制服で来るのは気が引ける。何を着ていくか散々迷って、大学に着ていくためにおろした、真新しい白いモヘアのニットと水色のスカートを合わせた。

「わたし、北大受かったよ」

 そう報告すると、「おめでとう」とさすがにはっとした表情で返された。「こっちは来週結果が出る」

「自信は?」

「まあ、ないとは言えないけど」

 一校しか受験してないし、となにげなくつづき、絶句する。「自分でもまずいかなあ、と思う」とまったく心配をしているとは思えない表情でさばさばと言った。受かるんだろうな、と漠然と思った。

 パイプ椅子をピアノの横に持ってきて、譜面台を立てる。わたしは二列目の正面の席に座った。ボートのように大きなケースからうやうやしく取り出された楽器は、いつにもましてかがやいて見える。調弦をしながら、常盤君は言った。

「三曲だけ弾く。それ以上は、やらない」

「譜面、わたしがめくろうか」

「あ」

 そのことを忘れていたらしい。「楽譜、ピアノとかとは違うから読めないと思う」と渋ったけれど、「なにかで合図してくれたらめくれるんじゃないかな」と思いつきを言うと「じゃあ目で合図するからそのときめくって。だいたい暗譜してるからタイミングは多少ずれてもかまわないから」と言った。結局、椅子から立ち上がり、常盤君のすぐ斜め前に立って譜面台の隣で演奏を聴くことになった。

「こんなふうに聴くことになるとは」

 そう言って笑うと常盤君もわたしに合わせて軽く笑みをもらしたけれど、右膝にチェロを載せ、かまえると表情が変わった。

 す、と弓の端を弦に添えて、右手がなにかを切り裂くみたいにゆっくりと真一文字に引かれる。その瞬間、音楽室の空気ごときりりと引き締まって部屋が縮まったような気がした。

 お腹の底を突き上げ、ふるわすような重みのある低音がするすると流れ出てくる。思ったよりもずっと大きな音で、まずそのことに驚く。鼓膜だけではなく、身体ごとにずんと重く、深く、響くような音色。

まるでいままさに織り立ての布がするすると目の前いっぱいに引きだされてくるかのようによどみがない。常盤君の目が鋭く楽譜をにらんでいる。あっけに取られた。同じ高校の、同年齢の男の子がこんな演奏をすることに、ただただ驚いた。弓を弦に繊細な動きですべらせる様子は、一心に彫刻を彫っているようにも見えた。

チェロって、こんなふうに音が鳴るんだ。

そして、ある瞬間にわたしの目を見た。慌てて譜面に手をかけ、ゆっくりとめくる。なんて強い目だ。あんな目で、楽譜の一音一音を射抜くように追っているのか。

 演奏中、ずっと目を見ていなければならないというのは想像以上に気恥ずかしかったけれど、真剣そのものの常盤君を前にしていたらそんな思いも彼方へ散っていった。弦から弾き出される音の重み、弦を押さえる節くれだった指の確かででもするどい動き、矢でも射るように外側に引くときにわかる、右腕の盛り上がり、ときどきこくりと動く喉仏のささやかなひくつき。そして、すぐそばで鳴る、身体じゅうの血液に共鳴するような音楽の渦。滝の中に身を置いているかのようだ。演奏者のすぐそばで聴いているからなのか、自分と音楽の境目がだんだん曖昧になる。

 どうして常盤君にこんなにも執着していたのか。聴かせろとしつこくまとわりついたくせに、わたしは音楽にあまり興味がない。ピアノを長い間つづけていたのも惰性でしかない。母親にやめれば? と言われたタイミングが中三だっただけで、それが小五でも中一でもわたしはあっさりとやめただろうし、もし言われなければ高校生でもつづけていたかもしれない。

 わたしにとっての〈揺らぎない軸〉は音楽じゃない。文章を紡ぐことだ。でも、それを夕布子以外の誰かに話したことはない。高校で一番仲のいい美歩にも、将来何をしたいか、何を目指しているかは打ち明けていない。

 恥ずかしかった。誰かに知られるのはすごく恐ろしいことに思えた。友だちがそれを知ってばかにしたり笑うとは思わないけれど、物書きになりたいと明言することは、女優になりたいとか歌手になりたいというのと同じくらい、わたしには勇気がいることだった。

 だから、音大に行くことを隠さないで、誰かに問われても照れもせずにこたえる常盤君がすごく自分の中でとっかかりをつくった。もっと正直な言い方をすれば、つっかかりたかったのかもしれない。なんでそんなに自信あるの、と。

 もちろん、自信のあるなしではないだろうし、常盤君が思い上がっているからそう振る舞っているわけではないことくらい、わたしにもわかっている。事実として、音大を目指しているから、隠していない、それだけの理屈だ。そこになにかプライドや思い上がりが透けて見えることはない。そこまで想像力に欠けた子供でもない。

でも、なんで、とずっと訊きたかった。音大を目指すようになったきっかけやいつから視野に入れ始めたのかだとか、覚悟はどうやって生まれたのか、迷ったことはないのか、そして、チェロを職にしようとしている理由はなんなのか。いろいろなことを、つまびらかにして聞いてみたかった。そして、自分のことも肯定したかった。才能が必要な世界に飛び込もうとしている自分を。

 ひどく身勝手でひとりよがりな動機だった。きっと常盤君も、わたしなんかにまとわりつかれてずっと困惑していたに違いない。でも、惹きつけられてしょうがなかった。目が離せなかった。この人はわたしと同じなんじゃないか、と傲慢な共感をおぼえていた。

 本当は、わたしと常盤君とでは全然違う。わたしは、自分の夢をかなえられなかったときの保険や逃げ道ばかり探して目を伏せている。自分を信じて音楽の道に大学を絞った常盤君とは真逆だ。わたしはそこまでの勇気も、自信もない。

 身近にはほかにない劇的な進路選択に勝手な偏見を持ってドラマを見出しているだけかもしれない。でも、なんでもよかった。わたしはいままさに、常盤君の音楽の中に身を沈めている。いっそ透明な存在になって、自分をこの音楽にぴったりと浸したい。

 それなのに――わたしは、どこか、この状況を持て余しているような気がした。聴くのが一曲だけだったら、陶酔して気づかないままだったかもしれない。でも、わかってしまった。

 あんなに焦がれて、欲しかったものがこんなにすぐそばで、息遣いのわずかなみだれすら伝わる距離で目の前一杯に差し出されているのに、わたしは受け取りきれずにいるような気がした。わからない。わたしが音楽に疎い人間だからなんだろうか。それもあるだろうけど、でも、そうじゃない。

 わたしには、できなかった覚悟をした人の前では、わたしはただ立ち尽くすしかない。ただただ、自分を通りすぎていく、まばゆい閃光を放つ嵐を茫然と見届けることしか、できない。

「これが最後」

 そう言って、間をおいてからそろりと、つまさきから音を立てずに地に足を下ろすような繊細さで音が流れ出た。知っている曲だった。曲名はわからないけれど、懐かしさが水面に広がる波紋のように静かに、でも途切れずに胸に響き渡る。

 音楽っていいな、とふいに思った。吹奏楽部に入っていたくせにわたしには音楽は必要ないと思っていたし、好んで音楽を聴くこともない。好きな作曲家どころか、好きなバンドや歌手もいない。

 でも――いままさに音楽にふれて、巻き込まれて、その渦の中心に立ち尽くして、わたしはごうごうと口を大きく開けて、泣きだしたかった。どうしたらもっと身をゆだねられるのだろう。河の中へ身を沈めこむみたいに、もっと音楽のなかへ入り込んで酔いたい。溶けあうように一体化したい。足の底からこみあげてくる、身体をこじ開けるような荒々しい衝動を好きなだけまき散らしたい。でもそれは、叶うことはない。わたしは奏者ではない。常盤君によって次々流れ出す音の奔流に圧倒される聴衆に過ぎない。

 夢中になって本のページをめくりつづけるときの感覚にも似ていた。はやくこの先を知りたい、と心が走りだしてしまいそうな焦燥感と、まだ終わってほしくない、と祈りにも似た思い。目が合い、ページをめくる。これが最後なのだと、わたしにもわかった。行き止まりが見えると、急にさびしくなった。泣こうと思えば泣けそうな感覚はあったし、涙を流した方がこの場をドラマティックに演出できることはわかっていたけれど、身体の中に熱がこもってじわじわと熱するだけで、表出はしない。

ゆるやかな曲だからか、常盤君のまなざしはするどさを消し、穏やかに楽譜を追う。眠る子供をゆっくりとあやすみたいに。

 潮が引くように演奏が終わった。出かかった涙はついぞ頬を流れることはなく、喉が熱を持って内側から肉がふくれあがるみたいにふさがってくるしかった。

「ありがとうございました」と常盤君が頭を下げ、楽譜を閉じ、あっけなく譜面台をたたむ。激しい夕立にたちつくしていたような、あっという間の、短い時間だった。待ってよ、とすがりつこうとは思わなかった。最初に三曲しかやらない、と念押しされたから、だけではない。ただ黙って、片付けるのを見つめていた。

「ありがとう」

 泣きたいのをこらえて腹に力をこめると、怒ったような声が出た。怒っているのかもしれない。わたしとはうんと違う、遠い世界に行くことをこんなわかりやすいかたちで突きつけられて、紙で切りつけられたみたいに胸が痛かった。きっと、この学校にいながらこの男の子はわたしの目には映らないものを見つめて追いつづけていたのだろう。この人がいいと思うものがわたしの目に映ることは一生ない、そう思った。

「演奏ももちろんすごくよかったけど、きれいだったよ。チェロ弾いてるときの常盤君」

 常盤君は照れたように目を伏せ、肩をすくめた。

「すごい緊張したよ。受験と同じくらいかもしれない」

「うそ。そんなふうには見えなかった」

「でも、これだけ近くで聴かれると、やっぱり緊張するよ。夏目さんに見定められてるみたいで」

 思いがけない言葉に言葉を呑んだ。どれだけ近くにいても、目を見つめつづけても、わたしは観客席にうもれた聴衆のままなのに。

「常盤君はすごいおとなになるんだろうね」

「そうかな」

 常盤君はうっすらと微笑むだけだった。きっといまわたしの言った言葉も、もうひらかない小説にはさんだ栞くらいにしか思ってないんだろうな、と思った。

この男の子にはかなわないな、とやっとみとめられた。


 一緒に玄関に向かうと、自然と駅まで並んで歩く格好になった。最寄りの駅は高校から五分足らずの場所にあるけれど、午前中の本数の少ないいま、へたをすると二時間近く待たなければならない。どちらともなく、その先の駅へ向かった。雨だった。ふたりぶんの傘のぶん、間がひらいていた。

 雨脚はさして強くなかったけれど、数少ない会話の行間を埋めるには十分だった。慣れないヒールを履いた足で、溶け残っていた雪をすっと踏んだ。

 もっとなにか話したいという気持ちはあったけれど、でもなにも言葉にまとまらず、言えなかった。紺色の傘の奥で、横顔がちらちら見えていた。

 結局、大した言葉をかわすこともなく駅に着いた。切符を買い、改札をくぐる。わたしとは電車がちょうど逆方向だ。だから、ホームも一緒だった。しゃべれないのにだらだらと一緒にいなければならないのもかえって気詰まりな気がして、でも黙ってあとを追い、ホームの階段を降りる。

 電子掲示板では、わたしの乗る電車があと数分で来るようだった。あらためてお礼を述べようと「ねえ」と呼びかけたら、電車がすべりこんできた。本当に、タイミングが悪い。

「今日、ありがとう。聴けてよかった」

「こちらこそ」

 手を差し出すと、おずおずと握手された。湿った、大きな手だった。猫が逃げるようにするりと離れる。

「じゃあ、またね」

 手を振り、電車に乗り込む。ボックス席に座ると同時に電車が閉まった。走りだす。手を振ろうと思ったけれど、あっけないほど簡単に、景色は流れていった。常盤君が電車の中のわたしを見ていたかはわからない。

 おとなになって、なんど今日のことを思いだすんだろう。うつむいた視界で、ヒールの先が雨で濡れそぼっていた。わたしも常盤君の目に映りたかった、でも観客席にいるのではなく、聴衆ではないわたし自身を見つめてほしかった、ただそれだけだったのだと、ふと、思いついてしまってぎゅっとトートバッグを抱きしめた。いまごろになって涙が頬をぽろぽろと伝った。

 数日後、芸大に受かったと、メールで報告された。

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いつか零れ落ちるもののすべて @_naranuhoka_

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