第5話

 高校の図書室は、どこか真新しいカフェのような雰囲気を漂わせていた。

 カウンターにいた司書の先生が、わたしに目を留めて微笑む。ぺこりと頭を下げ、おずおずと笑みを返した。生徒はほかに誰もいない。二、三年生はまだ授業中なのだろうか。

 一年生の授業は明日からだ。今日は丸一日オリエンテーションだった。回し作業で書類をたくさん受け取り、学年集会で先生たちが紹介され、校歌を練習し、校内を回った。図書室も、来た。予想よりもずっと広く、クラスメイトは無邪気に息を呑んでひそやかにざわついた。本棚が林のように立ち並び、中学では見なかった雑誌も置いてある。あとでまた来よう、と決めてホームルームのあとすぐに図書室に足を運んだ。女子がいくつかの輪を作って「メアド交換しよー」「帰る方向同じなの? じゃあ今日一緒に帰ろう」などと盛り上がっているのに後ろ髪をひかれながら。

 本棚の中に入り込む。高い本棚のあいだの通路はわずかに薄暗い。目につく本を時折手にとっては見るものの、すべて本棚に戻した。目当ての本は、もうすでに決まっていた。

「み」の段の「三浦綾子」から「塩狩峠」を選ぶ。市立図書館でもなんどか手に取ってきた。でもそのたびに、ひらくこともなく棚に押し戻してきた。

 でも、もういい頃だろう。一冊だけを持ってカウンターで貸出手続きをした。「一年生はあなたが一番乗りね」と初老の女性の司書さんが微笑む。先生とは似つかない司書の人で、どこかで安堵していた。

「塩狩峠」は、先生から最後におすすめされた本だった。


 電車の中で本をひらいていると、「おはよう」と遠慮がちな声が降ってきた。聞き覚えのない声に顔を慎重にもたげる。

 自分と同じ制服をまとった女の子がはにかんでいた。眉毛を少し過ぎた短めの前髪、色の白い頬に散らばる紅茶の葉のような薄いそばかすに、見覚えがある。

「同じクラスだよね。わたし、片平美歩」

「うん。夏目愛海です」

 本にさりげなく紐を挟んで閉じる。「何読んでたの?」と覗きこまれた。

「塩狩峠、って本」

「ふうん。難しそうだね」

 わたしもそう思って、身構えながら読み始めた。でも、実際には充分読みやすい文章だった。小学校には置いていない本だし、小学生の夏目さんにはまだむずかしいかもしれません。でも、先生のお気に入りの一冊です。もう少しおとなになってからぜひ手に取ってみてください――青い万年筆で書かれた文章を一語一句、お皿から果物を手に取るみたいにまるごと思いだす。市立図書館で手を伸ばすたび、もう少し経ってから、と気後れして押し戻していたらとうとう高校生になってしまった。

「昨日図書室で借りたんだ」

「もう行ったの? 早いね」

 予習するだけで手いっぱい、と片平さんが肩をすくめて笑う。中学校のときから先生に脅されていたけれど、この高校は課題が多い。予習するのも一苦労だった。

「朝、いつもこの時間の電車?」

「たぶん、そうなる」

「そっか。じゃあ毎日会うかもね。もしかしたら」

 いろんな高校の制服の高校生でぎゅうぎゅう詰めの狭苦しい電車はあまり好きになれそうにないな、と思っていたけれど、誰かと一緒だったらそんなに悪いものでもないんだな、と気づく。右手の吊革で電車の揺れに踏んばりながら、「下の名前で呼んでね」と片平さんが言った。春の陽射しを受けて、長い髪が栗色につやめいている。


 高校生活も、始まってみれば徐々に慣れていった。

 毎日の予習、お弁当、週末に出される大量の課題、クラスメイトとの探り合うような緊張感のある会話。最初はしんどかったし、これじゃ受験勉強してた時と大差ないのでは、と夜遅くまで起きて古文単語の意味を辞書で引きながら途方にくれたけれど、だんだんと要領を掴めばそう大変な作業でもなかった。自分が当たらないとあらかじめわかっていればさぼることもあった。

結局、帰宅部として高校生活を送ることに決めた。部活はいくつか見学に見回ったし、吹奏楽部は本気で悩んだけれど、やめておいた。新しく入った予備校の先生に、「高校生は勉強が第一。部活なんかしてる暇あったら予備校に来て自習しろ」と脅されたせいもあるけれど、本当にやりたい部活はなかったというのが一番大きい。

 文芸部は、高校にもなかった。高校のパンフレットの【部活・同好会の紹介】の文化部の欄に載っていなかったから覚悟はしていたものの、やはりがっかりした。自分で書くだけにとどめることにした。

 携帯を手に入れてから、ノートに手書きではなく携帯のメール作成を使って小説を打つようになった。鍵をかけて保存しておけば、間違って消してしまうこともない。それでも、夕布子にしか送っていなかった。高校の友だちには、とても言おうとは思わなかった。

 電車で会って以来、美歩ちゃんとは時々登下校を共にしている。お弁当もたいてい一緒に食べる。美歩ちゃんも帰宅部で、本を読むのが好きらしく、話も合った。乞われるままに何冊か本を紹介したけれど、「塩狩峠」はすすめなかった。

 三日かけてじっくり向き合い、読みきった。信夫というキリスタンの青年の生涯を描いた長編小説だった。明治末に実際に起こった鉄道事故をモデルにしているらしい。信夫が大勢の乗車を救うために犠牲になって死んでしまうところでは、やはり泣いてしまった。話の盛り上がりだから、というだけではない気がする。最近は、マンガでもドラマでも、人が死んでしまうところではすぐに涙ぐんでしまう。

 先生が息を引き取ったのは、わたしが高校生になって二か月と少し経った梅雨のことだった。

 新聞の訃報欄に載っていると母が教えてくれたのだ。よく先生の名前覚えてたね、と呟くと「あんたが司書の先生の話ばっかりするからそりゃあね」と言われた。

まだ四十代だった。母よりも若い。喪主は先生の父親だった。やはり、結婚はしていなかったのだろうか。子供もいなかったのだろうか。そのことを自分の中でどう受け取って胸におさめればいいのかわからず、あまり考えないようにした。

先生が、死んだ。病気のことを知らされてから四年半もの年月が経とうとしている。いつかはこんな日が、先生から遠い場所で先生の死を知らされる日が来ることは頭の隅では理解して、幼いながらにうっすらと数年かけて覚悟をしてきたつもりだ。でも、そんな覚悟などとうてい覚悟とはいえるものではなく、わたしのことを何一つ守ってはくれなかった。ずっと会っていないのと、もうこの世には存在しないのとではまったく意味が異なっていた。

先生はもういない。先生がどこかで本のページをめくることも、葉擦れの音に顔をもたげることも、誰かと微笑みあうことも、もう二度とこの世界で起こりえない。信じられなかった。もう、先生は今日中に真っ白な人骨だけになってしまうことが、温度も声も失くしてしまうことが信じられなかった。

ふわふわとした足取りで高校に向かったものの、その日は授業がほとんど頭に入ってなかった。あてられてもとんちんかんなことばかり言ってしまい、教師をあきれさせ、クラスのみんなには笑われた。美歩ちゃんにも「今日うわの空だね」と言われてしまった。

先生はもう、いなくなったのだ。あとはさらさらと、記憶がてのひらから砂のように零れ落ちていくのを見届けながら、一人で生きていくしかない。でも、どうやって。

 帰宅後、自室に上がり、制服を着替えないまま本棚に向かう。そこに置いていた菓子箱から封筒を一つ取り出した。中学生のときに綴った、先生に宛てた手紙だった。

 迷ったけれど、糊を剥がして封筒を開けた。二枚の薄い水色の便箋がたよりなくすべり落ちる。こすり合わせるようにひらくと、いまよりも丸さが目立つ文字でひっしりと文字が綴られていた。

 すきでした

 冒頭から読み始めるよりさきに、真ん中の方に書かれていたその文字が目に入った途端、胸が高ぶって思わず目をそらした。とても直視できず、目を通せないままたたんだ。いっそ破ってしまおうかとも思ったけれど、そのまま封筒に戻し、庭の焼却炉に持って行った。

手紙のことは、ずっと忘れていなかった。住所を電話帳で調べて封までしたものの、最後まで切手を貼って投函することはなかった。

二年前、自分が便箋になにを書き残したかはもうほとんど忘れてしまった。でも、書こうと思い立ったときの衝動は覚えている。シャーペンではなくペンで書こうと途中で思いついて書き直したこと。ほんとうは苗字ではなく名前で呼んでほしかった、そして、先生がわたしの前で「先生」ではない一人称を遣わないことがずっとさびしかった、と書いたこと。そのあとやっぱり消して、またすべて書き直したこと。

ドラム缶の中に投げ入れ、マッチを擦って落とすとピンクがかった煙がゆうるりと立ち上がる。ものが燃えるときの匂いの強さに、鼻がつんとした。目を開けたまま、手を合わせる。間をほとんどおくことなく、薄い紙は端から真っ黒い炭に変わっていく。

 これでさようなら。すべておしまい。そう、思ってはみても、うわすべりするだけだった。涙は出なかった。ただ、煙はいつまでも、朝顔のつるのようにほそく渦巻きながら消えなかった。わたしはまだ先生の教え子のままだ。そう思った。

さようなら。げんきでね。

今日は祭りがあるのだろうか、どこかで太鼓と笛の音がうっすらと聴こえてきた。


 ホームルームの時間を使って、初めての席替えがあった。いままでは女子に囲まれた席だったけれど、くじ引きで決まった席は廊下側の一番前、という運のない席だった。高校の黒板は横に長いけれど、板書が読みにくくって仕方がない。最低でもあと一か月はこの席なのかと思うとうんざりする。

 隣になったのは神田君というバトミントン部の男の子だった。わたしとあまり変わらない背丈だけれど、がっしりとした体躯の、ごつい印象の人だ。最初は柔道部なのだろうと勘違いしていた。隣になったときは、あ、どうも、と会釈をしたものの、口をきくことはほとんどなかった。後ろの席の野球部の男の子としゃべっていることが多いので、交流もないままこの教室のどんじりの席で過ごすんだろうなあ、とぼんやり思っていた。

 だから、初めて神田君に話しかけられたときすぐには反応できなかった。

「夏目さんて面白いよね」

 昼休み、美歩ちゃんからノートを借りて見えなかったぶんの板書を写していると、隣から声がした。え、とびっくりして横を見ると、お弁当を食べながら神田君がこちらを見ていた。

「えっと……どこが?」

 中学生の頃は、「おもしろい」と言われることも多かったし、おだてられるままにボケたりギャグを飛ばすことも多かったけれど、この教室ではわたしはおとなしくしていた。友だちがまったくできていないわけではないけれど、帰宅部というのもあるせいか、美歩ちゃんと数人のおとなしい子ばかりといっしょにいて、クラスの中心とは程遠い場所で居場所をちまちまと編んでいた。そのわたしのどこを見て「おもしろい」と言うのか。

「よくここで片平さんと飯食ってるじゃん、そのときの会話とか、横で聞いててわりとおもしろい」

「勝手に盗み聞きしないでくださいよ」

 手を振ってぶつジェスチャーをすると、神田君はふっと表情をゆるめた。

「あと、こないだの世界史で先生とかけあってたのも漫才みたいでおもしろかった」

 思い当たって、視線が床にすべり落ちた。先生の命日の日だった。どう反応していいかわからず、あいまいに笑うだけにとどめた。

いつもなら出席番号順にあてられるのに、ぼんやりとうつろに空中に視線を投げていたせいか、急にあてられた。くだらない単語の言い間違いを聞きとがめられ、さんざんいじられたのだった。そのあとも先生のからかいにおかしなことを口走ったせいで教室は湧き、あのあと何人かの女の子に夏目ちゃんおもしろいんだね、と話しかけられたけれど、こんな日にこんなかたちでクラスになじみたいわけじゃない、と内心複雑だった。

「あんときは席離れてたけど、あの人天然なんだな、って思って。だから席替えで隣になって若干テンション上がったっす」

「そ、そりゃどうも」

 ほかのクラスの男の子が入ってきて、「神田、購買行こうぜ」と声をかけた。「おう」と神田君が立ち上がる。三段もあるお弁当箱はもう空になっていて、さっと包み直すと立ち上がって教室を出て行った。まだ食べるのか、とぎょっとする。

「ノートありがとう」

 美歩ちゃんのところに行くと、吉野ちゃんと話しているところだった。そういえば吉野ちゃんと神田君は同じ中学出身じゃなかったけ、と思いだし、「ねえ」と話しかけた。

「神田君と吉野ちゃんって仲いい?」

「え、神田? まあ、普通に口きくけど。どうした?」

「ん、さっき『おもしろい』って唐突に話しかけられたから、びっくりして」

「あ。そういやいま愛海と席隣かあ。普通にいいやつだよ。話したらまあまあおもしろいし」

 話は次の体育に写り、チャイムが鳴る前に更衣室に移動した。誰かが濡れた靴で歩いたのか、廊下のリノリウムがてらてらと光っている。

 

 本屋さんに立ち寄り、「塩狩峠」を探した。単行本で持っていたかったけれど、本屋さんにあるぶんは文庫しかない。入学祝いに祖父からもらった図書カードで購入した。

 好きな作家の新刊をぱらぱらとめくり、雑誌コーナーに移ろうとぶらぶら歩いていると、「あ」と目の前の人が声を発した。学ランの高校生――知っている人っぽい、と顔をまじまじと見たら神田君だった。案外、正面から顔を合わせるのはこれが初めてだった。部活帰りだろうか。

「奇遇っすね」

「そうだね」

「その本、買ったの?」

 顎でしゃくられ、うなずく。あまり「塩狩峠」の話題をしたくなくて「神田君は?」と話を振った。

「英語の、参考書買いにきた。塾で使うから」

「そっか。えらいね」

 じゃあ、と横を通り抜けて駅へ向かおうとしたら「待って」と呼び止められた。振り返ると、神田君が赤い顔をして突っ立っている。

「メアド。交換しませんか」

「え」

 突然の申し込みにたじろいでいると、あからさまに傷ついた顔で眉を下げる。雨に濡れた大型犬を思わせた。

「だめっすか」

「だ、だめってことはないけど。あの、じゃあ携帯出すんで待ってください」

 慌ただしくスクールバッグのファスナーをひらき、携帯を探す。ばたばたしていると、さっき買ったばかりの「塩狩峠」と脇に挟んだままだった財布を落っことしてしまった。神田君が笑いながら拾い上げ、「店出ますか。いったん」と店外に向かっていった。ベンチに座り、鞄の底の携帯をようやく見つけだす。

「赤外線通信できる?」

「一応」

 ぎこちなく、アドレスがかわされる。神田君は神妙な顔で携帯を操作し、「登録できた」とつぶやいた。

「じゃあわたし、電車あるから」

「あ、また学校で」

 ぎこちなく手を振っている神田君に見送られる。男の子と手を振り合って別れるなんてほとんど初めてだった。


 予想はしていたけれど、予備校に着く頃に携帯を確認すると神田君からメールが届いていた。なんとなく気恥ずかしくて、すぐにはひらく気にならなかった。予備校で課題と予習を済ませ、講義を受けてメールは見ないまま帰宅する。夕陽が水田を染め上げ、若い稲が灯された炎のように一つひとつ揺れていた。

 一人ぶんの夕飯を居間に並べて頬張る。高校生になってからは夕食の時間に間に合わないことが増えた。ダイニングで取る家族そろっての食卓がべつだん気詰まりと言うわけでもないものの、母や祖母がテレビを見ている横でごはんを食べるほうがくつろげる気がする。

 お風呂に入って髪を乾かしている頃には、神田君のメールに返信をしていないことなどすっかり忘れてしまっていた。歯を磨きながらバラエティをちょっとだけ見て、自室に戻って明日の時間割をそろえているとき、やっと思いだした。あ、とひとりごとがもれた。時計はもう十時半を回っている。

 結局なんて中身だったんだろう、とメールをひらく。【さっきは急に声かけてごめん。これからもよろしくお願いします】と妙に堅苦しい文章だった。女子相手に送るから気を遣っているのが透けて見える、とってつけたような絵文字が神田君のメールの不慣れさを表しているような気がした。受信から何時間も経っているからもう無視していると思われているに違いない。わざわざ返信を送るほどの内容ではないかもな、と思いつつもメールを送った。無視してしまうと明日からも隣の席なのに気まずいような気がした。

【いまメール気づいた! 遅れてごめん こちらこそよろしく】

 送信し、教科書を詰め込んでから眠りについた。神田君の下の名前って守っていうんだな、とそんなことを思いだした。


 たびたび、隣の席から話しかけられるようになった。どれも他愛のないことだ。「夏目さんって体育なに選択してるんすか?」「修正液持ってたら貸して」「気づいてた? 廊下側の壁に相合傘の落書きあるよ」――そのたびに「卓球」「持ってないや」「だいぶ昔のだね」と芸もひねりもない反応しか返せなかった。自分でもずいぶんしょうもないな、と思っていた。こんなんじゃじきに話しかけられなくなるんだろうなあ、という予想に反して、神田君はずいぶん愛想よくちょっかいをかけつづけてくる。内心、なんでこんなつまらない女子かまいつづけるんだろう、と不思議に、というよりも不可解に思った。後ろの席の佐川君の方がよほど楽しそうに話が弾んでいるし、左隣の羽村さんはノリがよくて男子とも仲がいい。向こう側の方がよほど広がりがあるのに、一番隅のわたしに気を遣ってかしょっちゅうしゃべりかけてくる。おっとりと垂れた目尻は、なんとなく、祖父の家で飼っている日本犬を思わせた。かっこいいとは思わないけれど、男子の中ではムードメーカー的存在なのか、いろんな人と楽しげに笑っているのをよく見かけた。単に人好きな人だけなのかも、と思った。

メールでもよくしゃべった。ひと月足らずで、家族構成や買っている金魚の名前、好きな食べもの、よく見るテレビ番組なんかをおたがいに把握する仲になった。ただし、知ってはいても、訊かれたらこたえるだけだし、こたえたら向こうにも訊かなきゃ失礼かな、とたずねてしまう。それだけの道理で、べつに仲が深まったとは思わなかった。クラスでは一番、というよりも唯一かかわりのある男の子、くらいにしか思わなかった。

 でも、ある日吉野ちゃんに「愛海、ちょっと来て」とにこにこしながら手招きされた。

「なに?」

「最近神田と仲いいでしょ。メールとか」

 いきなり神田君の名前が出てきて面食らう。なんでそんなことを、とうろたえて口ごもっていると、「隠さなくていいから。こないだたまたま神田と帰り一緒になったときさ、訊かれたんだよね」と笑った。

「なにを」

「夏目さんって彼氏いるのって」

 カレシ、という単語が耳に飛び込んできて、いよいよ自分の顔が真っ赤になるのがわかった。このシチュエーションでわたしが赤面するのはまずい、とはわかっていても、顔に血がわっと集まってくる。

「なんてこたえたの、吉野ちゃん」

「『たぶんいないんじゃない? がんばれ』って」

 がんばれってなにそれ、と声を尖らせると「照れなくてもいいじゃあん」とにやにや指さされる。「まあそれ以上は私の口からは言えませんけど? 守秘義務があるので?」

「からかわないでよ」と怒ってみても、ますます目の下がふっくりとふくらんでにやにやされるばかりだ。肩をぽんと叩いて、言う。

「まあ、愛海が決めることだよ。どうなっても」

 知らないよ、とそっけなく言いつつも、もう自分の席の方を見られなくなってしまった。恥ずかししきまり悪いことこのうえないのに、どこかいまの状況がいやではない自分がいることにも気づいていた。むしろもっと吉野ちゃんに神田君のことを訊いてほしいとすら思っていた。

トイレから戻ってきた美歩ちゃんがどうしたのー? と訊いてきたので吉野ちゃんがなにか言う前に「なんでもないよ」とこたえた。昼休みぎりぎりまで吉野ちゃんの席にとどまった。

 神田君からメールで【俺と付き合ってもらえませんか?】と届いたのはその二日後のことだった。


 本屋さんの前でアドレスを交換して以来、ほぼ二日にいっぺんの頻度で、何通かメールのやりとりをしていた。大抵、夜の九時半から十時頃に神田君からメールが届く。その頃には予習や課題も済んでいるので居間でドラマを観ながら、自室のベッドに寝転がりながら、やりとりをした。相変わらず、直接話しかけられるときは気の利かないつまらない反応しかできないものの、メールはなんどかつづけているうちに慣れてできるだけ途切れないようなこたえかたもおぼえた。日をまたぐまでつづけることもあった。

 楽しかったかどうかは、正直よくわからない。でも、二日空けてメールが来ないとあきられたのかと思って落ち込んだし、ときどき自分からメールを送ってみることもあった。神田君のふざけた文章に声を上げて笑うこともあった。神田君もまた、メールでの会話の方が饒舌だった。

 告白されたのもメールのやりとりの最中だった。特に、恋バナめいた話題をしていたわけでもない、と思う。普段通り、取るに足らない雑談をしてふふ、とくちびるをゆるめていたら、送られてきたのだ。夏目さんのことが好きです。俺と付き合ってもらえませんか、と。

 驚いた。驚いたけれど、なんとなく、こうなるような予想はうっすらとしていて、その線路を何食わぬ顔をしてとろとろと、でも確実に歩みを進めていたような気がする。神田君とアドレスを交換したあとの、一か月半の間。

 うれしいと思う気持ちもある反面、とうとう来てしまった、という思いが胸をじわじわと巣食っていた。厭なのかどうなのかもよくわからなかった。でも、いつかは来るとは気づいていたような気がする。げんに、動揺はあったもののさして「どうして?」という純粋な驚きはほとんどなかったような気がする。最初から完成図がわかっているパズルを組み立てていたような。

 メールを読み返しながらしばらくぼんやりしていたけれど、あんまり待たせても不安がらせてしまうだろう、と思いすぐに返信を作成した。

【わかった。よろしくね】

 ほとんど無意識のうちに文章をつくった。これってこれから交際が始まるってことだ、と一瞬頭にかすめはしたけれど、深くは考えなかった。送信ボタンを押す。 

 数分後、興奮したようなテンションの高いメールがたくさんの絵文字をぴかぴかひからせながら届いたけれど、すぐには返信を打とうとは思わなかった。台所に行って井戸水をくんで飲む。いつもよりぬるく、喉を這うように伝っていった。


 そして、わたしは神田君の「彼女」となった。

 軽い気持ちで、線路のつづきを歩むだけの感覚で承諾してしまったけれど、わたしは翌日にはもう後悔していた。

 嫌い、ではない。いい人だと思うし、話していてそれなりに楽しい。でも、好きというわけでもない。

 次の日、さすがに顔を合わせるのは気恥ずかしかった。わたしより先に来ていた神田君は、わたしが登校してきても予習をしているノートから顔を上げなかった。スクールバッグをフックにかけ、椅子についたところでようやく、のろのろと顔を上げてうす、と低い声で会釈された。わたしは声を出さずに頭を少し下げた。それが精一杯だった。「昨日は……」などと切り出されたらどうしよう、とひやひやして教室に入ってきたものの、向こうがわたしと同じように気まずそうにして無愛想な態度をとられると、それはそれで居心地が悪かった。

 お弁当を食べながらいつものように話しかけてきた。でも、意識しすぎていつも以上にうまくこたえられなかったし、そっけない声になってしまった。美歩ちゃんが来てくれればいいのに、と思ったけれど、最近はわたしのところへは来なくなってしまった。どうやらいまは、席の近い吉野ちゃんのところで食べているらしい。もしかしたら吉野ちゃんが言い含めてわたしのところに行かないようにしているのだろうか。わたしも吉野ちゃんのところへ行って食べたかったけれど、付き合うことを承諾してしまった以上、いまさら友だちのところへ逃げることもあからさまなような気がしてできなくなってしまった。ほんとうは逃げだしたくてしかたなかった。食べ終えた神田君が席を立って教室を出て行ったときは、心底ほっとしたくらいだ。

 なんでなんだろう。いままで普通に接していたのに、彼氏彼女になった途端、気まずくて気まずくてしかたがない。隣の男の子はわたしのことを好きなのだと思うだけでぐっと身体の底が重くなった。余計な荷物を背負ってしまった、これが、人の好意なのか、と思った。おかしい。こんなの絶対「両思い」でも「恋」でもない。うれしいとか甘酸っぱいとか、そういうふわふわとした感情とは程遠い。せめて早く席替えしてほしい、とすら思った。

 吉野ちゃんにも美歩ちゃんにも、神田君に告白されてOKしたことは報告しなかった。吉野ちゃんにはいつか神田君伝えで知られるのでは、と毎日話しかけられるたびにびくびくしていたけれど、なにも言われなかった。きっと神田君は誰にも言っていないのだろう、とクラスの男子の様子を見ていても思った。

 メールでも、だんだんわたしはやりとりをするのが苦痛になってきた。かわしている内容はいままでとなんら変わりがないはずなのに、どうしてもそっけない、どこかなげやりな文を打ってしまった。神田君もそんなわたしの態度になにかを察したのか、無理に会話をつなごうとはしなかった。ちょうど初めての期末試験が二週間後に実施されるというのもあって、自然とメールは間遠になった。教室でも、神田君は後ろの佐川君としゃべることが多くなり、いつのまにか隣の女子の羽村さんとも仲良くなったのか隣で大きな笑い声が弾けていることもあった。神田君は、ほとんど半分完全にわたしに背を向ける格好になっていた。それを横目に本を読んだりごはんを食べていて、正直つまらないと思ったり、腹立たしさを感じることもあったけれど、この状況を楽だと感じている自分の方がずっとまさっていた。神田君がもしかしたら自分の気を惹こうとしてそういったやつあたりめいた行動に出ているのだとはあまり思い当たらなかった。考えないようにしていた、の方が正しいかもしれない。

 期末試験期間に入る頃には、わたしたちは完全に口をきかなくなってしまっていた。


 試験の結果は散々だった。

 中間試験の時点でも、あまり芳しいものではなかった。でも、今回の試験でがくっと成績が下がった。いや、これがわたしの実力なんだろうか。総合順位は学年の半分より下回っている。この学校では自分は劣等生に入るのだと思うと、膝がふるえた。

 神田君のせいにはしたくない。正義感からではなく、軽い気持ちで踏みこんでしまった神田君とのことが自分にこんなにも深く影響を与えていると認めたくなかった。夏休みは真面目に勉強しよう、と苦い思いで成績表をしまった。

 隣を盗み見ると、神田君はほそい短冊のような成績表をぷらぷらと手でもてあそんでいる。男子といるときはおちゃらけることも多いようだけれど、案外成績は悪くないのかもしれない。授業で当てられたところは大概正解しているし、性格上、成績が悪かったらネタにして笑いにするような気がする。でも、神田君からそんな自虐をきいたことはないので、もしかすると今回の期末はわたしより順位が高いのかもしれない。そう思うと、いっそにくたらしいような気がした。

 悲壮な声やはしゃいだ声で教室が騒々しい。明日からは補講期間に入るので、四限で授業は終わる。もう、ほとんど夏休み状態だ。実際、期末試験が終わったその日のうちに夏休みの課題指定が書かれたプリントが配られた。

 掃除の時間になり、椅子を上げて机を後ろに下げる。自分の班の担当の体育館横トイレに向かおうと廊下に出たところで、「ちょっといい?」と低い声で呼び止められた。意図的ではないにしろ、思わず肩が跳ねた。

「……なに?」

 もはや神田君の顔を見ることもできない。露骨とも言えるわたしの態度に傷ついたそぶりを見せるわけでもなく「あのさ」と口火を切った。「今日一緒に帰れる?」

 その言葉を聴いた途端、顔が赤くなるのがわかった。黙りこくっていると、「用事ある?」と淡々と、でもほとんどしたしみも温度も感じさせない、あくまで事務的な口調で神田君がつづける。これじゃ誘いじゃなくて詰問だ、と思うとなんだかみじめな気持ちになった。

「ないよ」

「じゃ、駅まで送っていくよ」

 じゃあ、とさっさとわたしから離れていく。

高校から一番近い小さなさびれた駅はここから五分とかからないけれど、きっとその駅のことは自転車通学の神田君は知らないだろう。その次の大きな駅までは歩いておよそ三十分かかる。

 気が重い。掃除の間、同じ班の女子に話しかけられても、あまりうまくこたえられなかった。「ちりとりして」と言われ、ほこりがほうきで集められるのを意味もなく注視していたら変な顔をされた。いつものように雑に掃除は終わり、先生が簡単に見回りに来て、挨拶をして終わった。

教室に戻るのが億劫で仕方なかった。嘘でも用事があるといって断るんだった。ほんとうは神田君だって、その方がよかったんじゃないだろうか。

 教室に入ると、神田君の席にはもう荷物はなかった。ここで待たれていたらどうしよう、と思っていたのでほっとしたものの、どこで待っているのかはわからない。とりあえず荷物を持って玄関に向かう。そこにも神田君はいなかった。なげやりな気持ちで校門まで大股で歩いていると、脇からチリン、とベルが鳴った。ばねじかけの人形のようにびくっと立ち止まると、自転車小屋から神田君が自転車を引いて出てくるところだった。

きまり悪くて「びっくりした」と呟くと、「ごめんごめん」と思いがけず明るい声で神田君が苦笑する。「荷物かごに入れなよ」と言われたけれど、断った。

 並んで校門に向かう。後ろからクラスメイトが来たらどうしよう。このさきに知っている子がいたらどうしよう。びくびくとうつむき気味に歩いていたけれど、追い抜いていく人もすれ違う人も、誰もわたしたちに興味などないみたいだった。高校だし、カップルくらいめずらしくもなんともないのだ。気にしているのは自分だけなのだと思い知らされ、恥ずかしくなった。

「期末どうだった?」

 わたしの歩調に合わせ、神田君がたずねてくる。その声はいたって普通で、教室でわたしの隣で無表情に机の木目を見ていたり、廊下でぶっきらぼうとも言えるしゃべりかたをしていた神田君とは別人のようだった。「あんまよくなかったから」と正直に言うと、ははっと笑い声すら上げて「じゃあこの話題はやめようか」とからりととした口調で言った。なんなんだ、とわたしは面食らった。

 もちろん、駅までの長い道のりを無言で歩きつづけたり、いかにも義務感で話しかけられるのに応じるのも苦痛だけれど、でもなにもなかったかのように以前の調子でしたしく接せられると、それはそれで反発したくなる。腹立たしさがぽこぽことあぶくのように胃の底で小さくはじける。

 それでも、愛想よく話をされると、こちらもまた不機嫌な声は出なかった。教室はクラスメイトの目があるからうまく話せなかったのかもしれない。二人で歩きながら話していて、気詰まりだとかうっとうしいとはまったく思わなかった。信号を二つほど渡った頃には、ボケたり突っ込みを入れる余裕も生まれた。神田君が素で楽しげに笑っているのを見ても、もうむっとする気持ちは湧いてこず、ただ素直にうれしかった。その気持ちに嘘はない、と思う。

でもそれだけだった。わたしたちは――少なくともわたしはこれ以上さきにはどうしたってついていけない、と思った。わたしが神田君の隣ではなく自転車を挟んだ側を歩いているのも計算のうちだったし、けっして必要以上に距離を縮めようとはしなかった。かごに荷物を入れなかったのも、とっさの判断とはいえ自分の領域を神田君に預けるのに抵抗があったからだ。

 こんなふうに二人並んで帰るのも、そう悪くはないのかもしれない。これからはメールも以前どおり弾んで、教室でもまた口をきくようになるかもしれない。でもわたしはけっして神田君と手をつなぎたいとか下の名前で呼ばれたいとは思えないし、万が一神田君に提案されても断るしかない。休日に遊びに誘われてもそれにこたえられることはきっとない。一緒に帰ることまでがわたしの限界だった。これ以上は、とても神田君相手にはゆるせそうになかった。恋人関係になることは承諾できても、恋人同士がするようなことはとうてい受け入れられそうにない。どうやっても。

 それに気づいてしまうと、駅までの道のりはもうただただ苦行でしかなくなった。表面上は愛想よく振る舞っていても、早く一人きりになりたくてしかたがなかった。解放してほしかった。

 だから、駅前で「じゃあ」と神田君が自転車にまたがっていま来た道を引き返していったとき、心の底からほっとして、身体じゅうが弛緩してほとんど泣きそうなくらいだった。ああこんなに緊張してこわばっていたのか、とそのときやっと気づいた。

 しんどかった。もう、決意は固まっていた。

 別れる。交際なんてものはもう破綻している。でも、わたしが一方的に思っているだけではわたしたちの関係は解消されない。いままでどおり、ベルトコンベアーの上を進むみたいにしていては変わらないのだ。

 わたしの手で道をこわし、自分で神田君に伝えるほかない。あたりまえのことに、打ちのめされてしばらく駅のベンチに腰かけてぼんやりとしていた。二本電車を逃してしまい、ため息をなんども漏らしながら駅の改札口をくぐった。


「別れる」と決めてからも、すぐには行動に移せなかった。

 今日中にメールを打った方がいいことはわかっていても、やはり自分が手を下すこと恐ろしくてしかたなかった。人を傷つけるということがこれほど勇気のいることだなんて知らなかった。神田君のことを考えるだけで心が擦り減り、砂の入った人形にでもなったみたいにずっしりと内臓が重く感じられた。

 早い方が神田君にとっても最善なのはわかっていたけれど、席が隣である以上、すぐに別れ話を切りだすのは躊躇があった。だからと言って席替えをするのを待っていたら夏休みを挟んでしまう可能性がある。毎日教室に登校するだけで胃が痛かった。比喩ではなく本当に胸が狭くなり、くるしくなった。

 神田君は、時々話しかけてくる。でも、いつ「一緒に帰ろう」と言われるかと思うととてもじゃないけど愛想よくこたえる気にはなれなかった。教室ではそっけないぶんメールでは必要以上に気さくに応じている自分の二面性に心から自己嫌悪した。結局、わたしは自分が悪者になるのが厭なのだ。たとえ神田君と恋人同士であることに耐えられないとしても、神田君には嫌われたくないとどこかで思っている。このまま都合のいい部分だけを見せていい顔をしていたいという気持ちで振る舞っている。そこには一滴だってあまやかな気持ちは含まれないというのに。

 じりじりと、影が伸びるようなスピードで日々は過ぎた。教室での態度とメールでの態度の乖離は日を追うごとに激しくなっていく。でも、神田君はそれについてはいちども言及しない。単にわたしが照れているのだとでも思っているんだろうか。だとすればなんておめでたいんだろう。いい人だけど、やっぱり子供だな、なんて見くびった思いすら抱いた。

 終業式になり、とうとうこの日が来てしまった、と半ばあきらめた気持ちで臨んだ。二学期になれば席が替わる。夏休みはなんとかごまかして、会うのは断りつづけるほかない、とそんな小狡いことばかり考えていた。

「夏目さん、掃除終わったら校門まで来てくれる?」

 ホームルームまでの時間、ざわついた教室の中で神田君の抑えた低い声を聞きとがめている人は誰もいないようだった。躊躇いつつも、やはり角が立つのが怖くて「いいけど」と同じく低い声でこたえる。それって一緒に帰るってこと? と確かめたかったけれど、さすがに教室の中でそれを口にするのは抵抗がある。それに、そんなことをわざわざ訊き返すのも厭味なような気がした。

先生が戻ってくるまでの短い時間、神田君は他人のような顔でまっすぐ前を見ていた。隣どうしで秘密を共有しているという、普通の両思い同士なら心躍るような状況のはずなのに、どちらもまるで存在ごと見えていないかのように振る舞っていることに、口を歪めて笑いたくなった。一緒に帰るだなんて無理だ。神田君の隣を歩きつづけるなんてとても耐えられない。今日は近い方の駅の電車から帰ると言ってさっさと分かれようと決めた。

 でも、わたしの不安など杞憂でしかなかった。

 掃除が終わったあと校門に向かうと、すぐそばに自転車を止め石垣に寄りかかるように待っていた神田君はわたしの顔を見るなり「別れよう」と言ったのだ。

 予想もしていない言葉にぽかんとした。ずいぶん間抜けな顔だっただろう。神田君はわたしから目をそらし、「そのほうがおたがいにとっていいと思う」と淡々と、でも悲痛そうにつづけた。

 ――なんで。

 疑問符がぐるぐると頭の中を埋めつくす。彼氏彼女の関係は神田君の方から断ち切られて破棄された。思ってもみない好都合なことだと、よろこぶべき状況のはずなのに、安堵の感情すら生まれてこない。ただただ、胸にぽかりと穴が穿たれたような気持ちだった。あるのは、なんで、という疑問と困惑だけだった。

「俺だけじゃないでしょ。そうした方がいいって思ってたの」

 ふっと自嘲するように笑う。わたしはなにも言葉を発することができずに固まっていた。でも、神田君は確かめる必要などないことくらいわかっているのだろう、「じゃあ」と自転車のスタンドを蹴り、またがった。立ち尽くしたままのわたしにためらいつつも、振り返ることもなく漕いでいってしまう。

 どうして、という思いが穿たれた穴にぽっかりと浮かぶ。恥ずかしさや悔しさや申し訳なさや悲しさがそこから湧いてくるかと思ったけれど、ほとんどなんの感情も選べなかった。どれも合っているけれど、でも全部違った。

 蝉時雨が遠くに感じられる。立ち漕ぎしてぐんぐん進む神田君の背中は、もう白い点になって遠ざかっていく。

 うつむいた。もう、恥ずかしくて顔を上げられなかった。

 自分に想像力が欠けていたことをまざまざと思い知らされた。わたしは見つめようともしなかったのだ。神田君にもいろいろな葛藤があって、それらを抱えてわたしに接したり、振る舞っていたことも、どんな思いを持って毎朝教室に来ていたかも。神田君だって考えたり感じたりすることは、滝のようにあったはずだと、少しでも思いをはせたことなどなかった。わたしは最初から、水面に映る自分の姿にばかり気をとられていたのだとようやく気づく。

 きっと、神田君だって駅が二つあることくらいわかっていたはずだ。そのうえで、遠い方の駅までわたしを送っていった。それは、その時点までは少なくとも、わたしのことを信じていたからだ。そして、わたしのことを好きだったからにほかならない。それをただ神田君の幼さや大雑把さだと思い込み、わたしの思惑など知らないおめでたい人だなんて見下して笑っていた。わたしはなんて、ばかだったんだろう。そして、なんてひとりよがりだったんだろう。

長い期間、まめにメールの往復に付き合ったさきになにが待っているのか、考えればすぐわかるはずなのにわたしは見えていないふりをした。そうして、待ち受けていた告白に簡単に承諾したのも、断って神田君を傷つけるのが怖かったからだ。流れに沿って神田君の好意にうなずくほうが楽だと判断したからだ。傷つきたくなかった。傷つけたくもなかった。でも、そのせいで一番傷つくのは誰かだなんて、何一つとして考えてもいなかった。

 歩きだす。濃い群青をした夏の空には、入道雲が蚕のようにずっしりと横たわっている。ローファーを履いた足が、鉛のように重く、泥の中でも進んでいるみたいだった。これが失恋だなんて絶対に思いたくない。でも、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。心臓の皮をひきちぎられたみたいに、つらくてしんどくて仕方がない。

 もう、誰のことも好きになんかなりたくなかった。夏の熱気をたっぷりと吸い込んだアスファルトをにらみつけながら、心の底からそう思った。

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