いつか零れ落ちるもののすべて
@_naranuhoka_
第4話
どうして合唱曲の歌詞はどれも荘厳で、仰々しいのに、歌いながら冷めたり笑ってしまうことはないのだろう。
夢、とか。宇宙、とか。友、とか。こういうのって全部おとなが作詞しているんだよな、と思うと、なんだか変な感じがする。おとなが歌うにはかがやかしすぎるけれど、十代のわたしたちが合唱するぶんには不自然さはない。もうこんなきらきらした未来像も夢も持っていないにもかかわらず。
「愛海。なにもう楽譜見てんの」
唱歌集の自分たちのクラスの歌のページをひらいていると、夕布子が教科書を持って迎えに来た。「超やる気ある人っぽいじゃん」
「ないわけじゃないけどそこまでじゃないよ」
合唱コンクールは中学の行事でも唯一好きだといえるものではあったけれど、三年にもなると、去年までのように単純にがんばろう、と心が浮き立つわけでもなかった。むしろ、こんな時期にあったんだっけ、とげんなりする。
本番は十一月の半ば。それまで約一か月半、クラスごとに歌を練習する。もちろん、学年ごとに競い合う。たった三クラスしかなくても、やっぱり金賞がほしい。
でも、夏休みが明けて文化祭も終わり、いよいよ受験生として本腰を入れて勉強を始めた矢先、昼休みや放課後の時間を拘束されるのはうんざりする。せっかく部活も終わって自由になったというのに。
「うちのクラスの指揮者はもう決まりだよねー」
音楽室まで歩きながら、夕布子がつぶやく。先週は一時間丸ごと使って合唱曲を選んだので、今日の授業で指揮者と伴奏者を決めるはずだ。
「誰?」
「ばか、茅原でしょ。それ以外適任者いなくない? 結局こういうのって経験者がやるじゃん」
音楽室では自由に座っていいことになっている。いつものように後ろの隅に夕布子と並んで席を取った。グランドピアノの周りでおしゃべりをしている女子や窓際で下敷きでチャンバラもどきをしている男子。そのどの輪にも加わらず、茅原は前方の席に着いていた。
「茅原って小学校の時も指揮者やってたもん。向いてるんだよ」
茅原は一年生の時同じクラスになって、今年また同じクラスになった。どちらの年も、前期に学級委員を務めている。典型的な優等生だ。ふちのほそい眼鏡をかけていて、野球部を引退した今も律儀に坊主頭を貫いている。
「伴奏は誰かな」
「愛海がやれば?」
にやりと夕布子がうわめづかいで笑う。思ってもみない返しに、「はっ」と反射的に声を上げたけれど、夕布子は大真面目な口調をつくって言った。
「一応まだピアノやってるんでしょ。あれ、やめたんだっけ? どっちにしろ何年間もやってたんでしょ。一回くらいやってみなよ」
「やだよ、三年なのに」
伴走者にすすめられたのは少しうれしかったけれど、うんざりしているのも半分だった。確かにもう十年以上習っているけれど、人よりさしてうまい自信はないし、伴奏なんていちどもつとめたことはない。なにより、三年のこの時期に練習を引き受けるのは、不利になる気がした。
「えー。よくない? あたしがピアノやってたら絶対伴奏やりたかったな」
「そうかな」
「だって伴奏やってる子ってなんか、いいじゃん。ほかの女子に差をつけてる気がする。正直嫉妬してる」
思わず噴きだしてしまった。でも、夕布子の言うことは一理あるかもしれない。みんなの前でグランドピアノに向かって演奏している女子は、みんななんだかいつにもまして澄ましているせいかきれいに見えるし、指揮者と合図して弾き始めるのもなんだかかっこいい。
「いいじゃん、推薦するから立候補してみなよ」と夕布子が肘でつつく。「ないない」と流すポーズを取りながらも、想像を取り消せなかった。それに、今年はわたしが票を入れた曲にきまった。歌いたくて選んだけれど、伴奏を弾くのも悪くないかもしれない。というか、そっちのほうがとくべつかもしれない……。
先生が入ってきて「席に着きなさーい」と生徒をうながす。その喧騒にまぎれこませるように「やっぱやってみたいかも」とつぶやくと、夕布子は「マジで?」とびっくりした顔になった。冗談だったのか、と顔が真っ赤になりそうだったけれど、「じゃあほんとに推薦しちゃうね」とつづいたのでひそかにほっとして、小さくうなずいた。
予想通り、指揮者と伴走者を決める流れになり、「立候補でも推薦でもいいから」と先生が言った。三年にもなると必要以上に騒ぎたてることもなく、指揮者に茅原が「やりたいです」とすんなり手を挙げた。途端、男子がひやかして騒いだので、もしかしたら男子の間ではもう話し合っていたのかもしれない。女子は女子で、やっぱりね、という空気が満ちていた。
そんななか、わたしは少し緊張していた。ほんとうに立候補していいんだろうか。このクラスには去年伴奏していた女の子がふたりいる。一年生の時も務めていたかは知らないけれど、やりたがる可能性は十分ある。さりげなく探っておくんだった。
「じゃあ、伴奏をやりたい人」
間をおいてから、はい、とふたり手が挙がった。関野さんと、隣に座る夕布子だった。夕布子は夕布子で緊張していたのかもしれない、と張りつめた横顔を盗み見て、思った。
「あたしがやりたいんじゃなくって、推薦します。夏目さんがいいと思います」
みんなの目が夕布子からわたしに移るのがわかった。恥ずかしくて、前に座る女の子のつむじだけを注視する。関野さんはわたしたちをちらりと振り向いてから。「わたしは立候補です」と言った。へえ、と女子の間で空気がふわりと揺れた、気がした。
「じゃあどちらかに絞らないとね。どうやって決めるかはみんなに任せるので自由に話し合ってください」
そう言って先生はなにやら譜面を広げ、自分の作業に戻ってしまった。あれって吹部の楽譜じゃん、とあきれつつ、「どうしよっか」とつぶやいた。ひとりごとのつもりだったけれど、当事者だからかみんなわたしのほうを見ている。気まり悪かった。
「とりあえず話し合おうよ。うちらで」
関野さんが席を立ってこちらに来た。男子ははなから興味がないらしく、関係のないことで騒ぎ始めている。女子は女子で成り行きを見守っているので、ちょっとやりにくい。関野さんはさして気にしていないのか、「どうしようねえ」と微笑んだ。「どうしようねえ」とおうむ返しに返すと、ほんのり場の空気がゆるんだ。関野さんが手を挙げた時、正直心が張りつめたけれど、そんなにライバル視するようなことでもないのかもしれない。きっと、ほかの子たちはさして対立など気にしていないだろう。去年のわたしも、複数人立候補者が出ても自分の関係のないことだからほとんど気にしていなかった。
関野さんはアイロンを当てたみたいにぴっしりとまっすぐにそろった前髪をつるりと撫でて「マナちゃんがやるのってちょっと意外かも」と言った。非難しているニュアンスはなく、単純な驚きらしい。少し恥ずかしくて、「まあ、最後にやってみたくて」とこたえた。隣から夕布子が「この子実は五歳の時からピアノやってんだよ」と口を挟んだ。すごいね、と関野さんが素直に目をまるくしたので、内心誇らしかった。
「わたし、これが三回目なのね。最後の年もやりたいな、って思ってたんだけど、マナちゃんは初めてなんだし、譲ってもいいよ。いちども合唱したことないのもつまんないしね」
あっさりと関野さんが身を引いたので、拍子抜けした。「えーよかったじゃん」と夕布子がわたしの肩をたたいてはしゃいだけれど、いざ自分に決まりかけると身がすくんだ。「わたしでいいのかな」といまさらつぶやくと、「なんとかなるもんだよ」と関野さんが微笑み、「先生」と声を張った。
「わたし辞退します。伴奏者は夏目さんでお願いします」
間があってから、おお、と小さなどよめきが起こり、女子が「マナがんばって」と励ましてくれた。へへ、と照れ笑いしつつも、内心不安だらけだった。あっさりと話し合いは終わり、合唱練習に移った。
授業の後、先生に楽譜をもらった。
「来週はわたしがやるけど、再来週からは演奏者と指揮者で合唱やるから、一通りさらってきてね」
はい、と紙を半分に折った。音楽室を出る時、「夏目、よろしくな」と声がかかった。
茅原だった。
十五歳になりました。あなたの暮らしている未来は、どうですか。五年前はそんなに遠くじゃない気がするし、わりと思い出に残っているけど、五年後なんてぜんぜん想像もつきません。三年後でも、一年後でも、実はそれは変わらないのだけれど。
いまどこにいますか。やっぱり県外なのかなあ。高校もまだわからないのに、ほんとに大学生になってるのかなあ。というか、わたしはこれを何歳のときに読み返すのかもいまいち決めていないまま、書きだしました。学校の課題、ではないんだけど、いまの気持ちを残しておきたいような気がして。
なにを書いていいのかよくわからないけれど、とりあえず、最近よく思うことを適当に綴ることにします。
もらった楽譜は、それじたい難易度はそう高いものではなかったけれど、いままで古典クラシックしか弾いてこなかったわたしにはどう弾けばいいのかなかなか手こずった。お母さんになにげなく「そういえば合唱コンクールの伴奏やることになったよ」と言ったら、ほんのおしゃべりの一端のつもりだったのに、「ええー?」と不機嫌そうに眉をしかめた。
「三年のこの時期になんで引き受けるの。一か月以上はピアノやらなきゃいけないんでしょう。そのあいだにほかの子に抜かれないようにね」
わたしが見ないふりをしていたことをずばり指摘し小言を言われ、わかってる、と返しつつ、一気にやる気が下がってしまった。関野さんの親切心すら、あれはあの子の作戦だったんじゃ、と穿ってしまい、自分がいやになった。
折れ曲がってしまわないように、黒い色紙に楽譜を貼る。夕布子にそそのかされて軽い気持ちで立候補してしまったけれど、たいへんな荷物を背負ってしまったのかもしれない。茅原もじゃん、と思って一瞬ほっとしたけれど、指揮に練習の手間なんてないことに気づくと、クラスで自分だけが割を食っているような気がしてきて、むしゃくしゃして夜は練習をしなかった。むきになっていつもより遅くまで受験勉強をした。
お母さんが不機嫌になった理由は自分でもわかっている。最近成績が伸び悩んでいるのだ。内申点にはもう関係ないとはいえ、中間試験の順位はとうてい県内のトップ校を目指している生徒のものとは思えなかった。順位表を見た時、もちろんショックは受けたけれど、受験勉強に力入れて定期テストは手を抜いていたから、と自分を納得させていた。でも、その次の週にもらった模試の結果で完全に打ちのめされた。
D判定だった。いままで取ったことはなかったのに、この時期にD。中間試験の結果を見せた時はわたしの言い訳を呑んでさしてなにも言わなかったお母さんも、この結果には頭ごなしに叱りつけてきた。怒鳴られて成績が伸びるわけでもないのに、とふてくされていたけれど、お母さんも心配しているんだろう。わたしより成績の上下に一喜一憂している姿を見ると、げんなりしてしまう。ほんとうに神経を擦り減らしているのはこっちなのに。
いまは十月。さすがにみんなもそろそろ勉強を真剣に取り組んでいる。模試が返却された日、初めてB判定が取れたとよろこんでいた夕布子に、「おめでとう」の一言も出てこなかった。ただただ、心にどかんと大きな穴が穿たれたみたいに、ショックとお母さんに怒られることへの恐怖で体温が二度ほど下がったような気がした。
いったいどうなるんだろう。でも、このまま三月になって、試験を受けるだけだ。去年までは受験のことなんてなんにも想像がつかず、先輩たちはみんな受験しててすごいなあ、と恐れおののいていた。思っていたよりも難しいことではなく、ただ、勉強して成績を上げるのが大変なだけだった。
十一時に眠る。くちびるの端にできたにきびに軟膏を塗るのを忘れていたけれど、そのまま寝入った。
思春期、にいま自分が立っているのは保健で習ったからわかるけれど、ほんとうにそんなものあるんだろうか。でも、最近なんでもないことにいらいらしたり、なにも起こっていないのにものすごくかなしくなったり、と思えば次の日にはけろっと機嫌がなおったり、ずっとサーカスの長いぶらんこに乗って揺らされているみたいに心が落ち着きません。毎日自分が違う人みたい。おとなになってもこのままだったらどうしよう、とも思うけど、五年後のわたしにはそんなふうにもやもやすることが全然なかったら、それはそれでさびしいことのような気もします。
十五歳。おとなのわたしからしたらてんで子供なのだろうけど、あらためて、ずいぶん遠くまで歩いてきたなあ、と感慨ぶかい気がする。十五歳なのに、十五歳の響きのおとなっぽさにいまだにうろたえています。わたしはまだ生理もきていないのに。
おとなになったわたしは、どんな女の人になっているんだろう。
なんとか一通り曲を通せるようになり、音楽の授業で初めて伴奏と合唱を合わせることになった。茅原が「俺がうなずいたら弾き始めて」と言ってくれたけれど、半拍遅れた。ごまかそうとしたけれど、茅原は苦笑して指揮をやめた。わたしのしくじりに空気がたわんで、緊張感がなくなった。みんな半笑いでわたしを見ている。へへ、と笑ってごまかしたけれど、顔が真っ赤になるのはどうにも抑えられなかっただろう。「茅原君、もうちょっとゆっくりのテンポに落そうか」と先生が言い、いたたまれなかった。
二度目はなんとか成功した。小学校の時にやった大なわとびの時のような緊張感だった。いまはたまたまうまくいったけれど、何回か茅原に頼んで練習しなければ、と悶々と考えながら譜面を目で追っていたので、みんなの合唱を聴く余裕もなかった。
せっかく自分が歌いたかった曲に決まったのに、これじゃあ何の意味もなかったかもしれない。重い足取りで音楽室を出ると、「夏目」と呼び止められた。さきに行ってて、と夕布子に目顔でうながし、「なに?」と振り向くと茅原が真剣な顔をして言った。
「来週から放課後の練習が解禁になるんだよ。さすがに最初は毎日やってもみんな文句言うから、月水金でやろうと思ってる。それでいい?」
「わかった」
なにげなくうなずいたものの、もう放課後練が始まることに内心辟易していた。茅原はわたしと同じ高校を志望している。生徒会活動もしていたし、毎年学級委員をやっていて、内申点は学年でもかなりいいはずだ。推薦で受験するのだと夏休みのオープンハイスクールで言っていた。推薦なら、一般入試よりさして勉強をがむしゃらに頑張る必要はないのかもしれない。面接練習と、作文課題があるだけだ。わたしはあまり内申点がよくないから、とてもじゃないけど推薦なんてねらえない。地道に頑張るほかない。
「頑張ろうな。最後の年だし、せっかくなら優勝狙おうよ」
ほがらかに、いかにも優等生然と笑いかけられても、わたしの頬はゆるまなかった。流されたかたちになった茅原は少しきまり悪そうに表情を戻し、「じゃあ、よろしくな」とわたしを追い抜いていった。走る時でも、茅原の背すじは物差しでも入れてるみたいにぴんと伸びていて、ほんとうに隙がない。
いまのわたしには、好きな男の子はいませんが、おとなになったわたしには恋人はいますか(あといままで彼氏いたことありますか)。
第二音楽室の窓際では、ソプラノとアルトで女の子が声を合わせて女子パートを歌っている。その声は水飴をひろびろと教室いっぱいに伸ばしているみたいに透き通っていて、離れたところで伴奏をしていると、歌ってすごいんだなあ、と改めて思う。自分があのなかで歌の一部として声を伸ばしていた時とはまた違う感覚だ。吹奏楽部も、引退してから演奏を聴くと、聴衆として聴いていると身体がむずむずして、あのなかで演奏している子たちが羨ましくて仕方なくなる。
「フォルテはできてるけど、メリハリがないかも。ピアノもきちんと意識してね」
音楽の授業以外の歌練習の時では、伴奏者が女子のコーラスのアドバイスをすることになっている。最初は偉そうなことを言うのに自分が一番恥ずかしかったけれど、いまはもう慣れてきた。それでも、反感が怖くてあまり注意めいたことはできない。誰からも文句を言われずにびしばし指導できる茅原ってほんとうにすごい同級生だな、といまさらのように思った。
どのクラスも平等であるように、放課後練習は五時半までと決まっている。みんな少しでも練習時間を増やすために、朝や昼休みも練習にあてがっている。もちろん、合唱が嫌いな生徒からはブーイングが出ているけれど、クラスで大きな顔をしている子たちは性別を問わず、優勝を狙ってやる気を出している。「超めんどくせえ」「帰ってドラクエしてえ」などという男子のぼやきは教室を空けるために机を後ろに運ぶ音にかき消される。
「もう五時半になるから、一回全体で通して、今日は解散しよう」
茅原が声を上げると、みんな少しほっとしたようにぞろぞろと移動を始めた。どれだけ優勝への意欲が高くても、立ちっぱなしで一時間以上練習するのはしんどい。そういう点では、伴奏者は楽と言えば楽かもしれない。
「夏目、ちょっと残ってもらっていい?」
練習が終わり、みんなが荷物を持って教室を出て行くなか、茅原が声をかけてきた。「なに?」と一旦背負いかけたリュックを下ろす。秋ももう終わりだ。窓の外は、夕暮れをとっくにすぎてビロードのような濃い藍色がすっぽりと街を覆っている。グラウンドには誰一人いない。いたとしても、闇にまぎれて見えないだろう。
「指揮と伴奏の練習、最近できてないじゃん。基本中の基本だけど、やっておきたくて」
真面目な茅原らしい考え方だった。正直、もう手慣れたとのいうのもあって面倒だな、と一瞬思いはしたけれど、誰もいなくなった音楽室はいつもとは雰囲気が違って、文化祭前に夜遅く残る時の高揚感を思いださせた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
曲全体を通すわけではなく、最初と最後だけを三度ずつほど練習するだけだった。タクトを使っているわけでもないのに、茅原の手の動きはなんだか白鳥みたいに優雅でしなやかだった。
「茅原って指揮うまいね」
グランドピアノの鍵盤に長細い布を敷いて、重い蓋を下ろす。「まあ、三年目だからね。キャリアだけはほかのやつらよりはあるかも」とはにかんだ。
「なんでずっと指揮やってるの? たまには歌いたくない?」
茅原は黙ったまま後ろの机に置いていたリュックを取りに行った。ふたりっきりなのに無視? と面食らっていると、「俺、歌苦手なんだよ」と後ろでリュックを背負いながら言った。
「嘘。だって茅原、なんでもできるイメージあるんだけど。音楽の時も、どっちかっといえば褒められてない?」
「それは、姿勢いいからとかじゃないかな。俺、リズム取るのは得意だけど音感ないんだ。それ人に言われてからは、あんまり歌うの好きじゃなくなった。今年、ほかに誰か立候補者いたらどうしようってすげーびくびくしてた」
「そうだったんだ」
思いがけない言葉に、虚を突かれた。びっくりしすぎても失礼かな、と思って、あんまり表情に出さないようにした。それにしても、優等生で「いい人」の茅原が実は歌が苦手だったとは。
「合唱コンクール自体は好きだよ。指揮もすごい気持ちいい。でも、歌ってるみんながすっげー羨ましくて、くやしくなることも多いよ。口パクで歌ったりする、たまに」
ふはっ、と息を吐きだして笑おうとしたら「こら! いいかげん帰りなさい」と見回りに来た先生ががらっと戸を開けた。「はーい」と素直に出て、ふたりで玄関まで降りた。帰る方向一緒だったかもしれない、男子とふたりで帰るなんていくら茅原でも気まずいかも、と内心思っていたけれど、玄関には夕布子や茅原と仲のいい男子がたむろってしゃべっていた。
「お疲れ。勝手に待ってた」
「ありがと。帰ろう」
結局その場にいたみんなで帰った。男女グループで帰るのは初めてだった。女子の大人数で帰る時とはまた違う、胸の底がいつもより数段高いところにあるような、ふわふわとした足取りになった。茅原って意外とボケたりがさつな言葉遣いもするんだな、と男子とやりとりするのを聞いて、思った。みんなの影が街灯の下で大きな淡い団子状になってくっついたり離れたりしていた。
確かに楽しい日々も多いけど、なんか、若いっていいなあとかかがやいていたあの頃、みたいな広告とか本の帯コピーを見るたびに、おとなになったらつまんない暮らしになるのかな、とうんざりしてしまいます。いまも楽しいっちゃ楽しいけれど、こんな早い時点で人生にピークになるのはもったいないし、あっけなさすぎる気がする。
おとなになったわたしから見ると、いまのわたしはひかってまぶしい? 十代の日々はきらきらしていてたからもの?
うん、なんて言わないでほしい。それってすっごいさびしいことだと思う。
お母さんと喧嘩した。わたしが図書室で本を借りているのがばれたのだ。
「この時期に小説読んでる暇なんてないでしょ。明日必ず返してきなさい」
わたしはうなだれ、嵐が通り過ぎるのをただ待つようにじっとしていた。いつもは学校に置きっぱなしにしているけれど、「置き勉する人がいますが全部家に持って帰りましょう」と担任の先生から注意があったのだ。本も置き勉に入るのかは微妙なところだけれど、先生と目が合ってしまい、二冊ともリュックにしまったのだった。
図書室で本を借りていいのは週に一回、と自分を律して学校の休み時間の合間を縫って読んでいる。褒められた話ではないのはわかっているけれど、こればっかりはもうどうにも抜きには生活できない。もっと言えば、日曜日の一時間だけはいまも小説を書いている。それが知れたら今後は一切お母さんの監視のもとで勉強することになってもおかしくない。
「伴奏するとか言いだしたり本読んだり……ほんとに勉強に身を入れてるの? 全然成績も上がらないし、このままじゃ落ちるわよ」
「すみません」
「口ばっかり。いまも反省してる顔だけして早く終わればいいって思ってるんでしょ。だいたいもう十一月なのにまだA判定出てないって大丈夫なの? 志望高校下げないといけないんじゃないの? 今日だって帰り遅かったし、どこをほっつき歩いてたやら」
言い返したいことなら山ほどあったけれど、黙って耐えた。自分に非があるのはわかっていた。次の試験はきちんと結果を出すように、と言われてやっと解放され、本を持って自室に引っ込んだ。
ああめんどくさい。きっと茅原なんかは指揮をやったところで親にぐちぐち言われることもないのだ。すぐに勉強に取り掛かる気にはどうしてもなれず、かといって本を読むまでひらきなおる気にもならず、リュックから楽譜を取り出した。
良い歌詞だ、と去年三年のクラスが歌っているのを聴いて思ったはずなのに、いま目で追うと壮大すぎて身を引いてしまいたくなる。未来はまだ遠く、さきは見えないけれど、明日に向かって走りつづけよう。目をきらきらさせながら全力疾走する同級生たちに置いて行かれて、とぼとぼと歩いている自分の姿が思い浮かんだ。走っても、怠けて寝ていても同じ明日は必ず来るのだ、否応なく。そして同じぶん、わたしたちは年を取る。
そのときのわたしはいったいどこを歩いているのだろう。ほんとうにいま歩いている道は、違う場所につながっているんだろうか。来年から高校生になるのだろうけれど、ちっとも想像がつかない。
十五歳の時点のわたしの夢は、作家になることです。
書いていて自分でも少し恥ずかしいんだけど、おとなになってこれを読み返したら顔が真っ赤になるくらい恥ずかしくなったり、黒歴史、と笑ったりするのかな。友だちにも小説を書いていることは内緒のままで、夕布子にしか言っていないし、卒業文集の〈将来の夢〉の欄にも書くつもりは到底ありません。小説を書いていることも、作家になりたがっていることを知られることは、すごく恥ずかしい。
でも、本気でなりたい。こっそりいまも書きつづけているけど、十二月になったらさすがにやめた方がいいんだろうな。勉強の合間に書くの、楽しくてしかたない。
もしこれを読んでいる時点で夢がかなっていたらどうしよう。うれしすぎて本気で失神するかもしれない。なにかの機会があればこの手紙も使ってほしいな……なんてね。
いまも文章を書くことはつづけていますか。書くことはわたしを救っていますか。いまわたしのお気に入りの小説は、いまでも好きな小説のままですか。ときどき読み返したりしていたら、うれしいな。
膝小僧がひんやりした空気でつめたい石のように硬くなっている。
合唱コンクールまで一週間を切った。どのクラスも練習に励んでいる。とくに三年生は練習に熱がこもっていると音楽の先生に褒められた。そう言われるとかえって煽られているような気がして、どのクラスもお互いにますます力を入れるようになる。
「すみっこの男子ちゃんと口開けて―! ひらいてないの前からだとめっちゃ見える」
練習でも、パート練習よりも全体を合わせて歌うことに力を入れるようになった。ピアノもオルガンもない多目的室が練習場所にあてられたので、伴奏のわたしだけが指導することになる。おとなしい男子たちは声を張り上げるわたしに一瞬いやそうな顔をしたけれど、素直に口を開けた。いちいちいらっとするけれど、こまかいことに気を取られている時間はない。ここまで来たら、自分が伴奏をするのなら、やっぱり一位を取りたい。優勝して、うれし涙を流したい。
「じゃあ、もう一回最初から通します」
コンクール直前というのもあって、みんなもう文句は言わない。でも、歌が苦手な人だっているだろうし、塾や用事があって時間が押している子だっているかもしれない。それでも合唱コンクールで優勝という大きな目標に向かってしっかりとまとまっているクラスのなかで自分だけがはずれるのはとても勇気がいることだ。そういう人のことを想像すると、自分や茅原がすごくいやな政治家になったみたいな気分になる。
CDから耳にすっかりなじんだ曲が、ピアノで弾くよりよそよそしい音で流れてくる。女子のやわらかいけれどしっかりと厚みと芯のある風が吹くようなソプラノが、狭い多目的室のなかできんきん響く。体育館で歌ったら三声が気持ちよく重なって心地のいいハーモニーになる。それを茅原が全身を揺らして指揮をしている。まるで砂鉄みたいにみんなの目がひゅん、と茅原の指のさきに集まるのは、見ていてはっとした。指揮者って楽しいんだろうな、とくやしくなる。伴奏だって、みんな耳を澄ませて集中して聴いているに違いはないのだろうけれど、それを全身で感じることは難しい。
人の前に立つということがどういうことか、茅原を見てわかったような気がした。伴奏よりも指揮者の方が楽しいのかもしれない、と短絡的なことを一瞬思ったけれど、思っただけだった。わたしは、自分の物語の力で、みんなの――もちろん、このクラスのみんなの、という意味ではないけれど、心をきゅっとあつめて、自分の力で操りたい、と思った。もし自分が書いたものの力で、みんなが笑ったり泣いたりしたら、どんなに気持ちがいいだろう、と思うと胸がぎゅっとくぼまって落ち着かなくなった。なんの題材も構成もないのに、いますぐ書きたくて書きたくて仕方がないような気がした。
透き通った歌声が、いくつにも枝分かれしてきれいな一つの織物のように教室一杯に広がっている。勝ちたいな、と本気で思った。みんなに勝たせてあげたい、そう思った。
もし、わたしの人生が思うようにはいかなくて、書くこともやめてしまっていたら、どうしよう。
そっちの未来の方がリアルなような気がして、不安になる。でも、どんなふうになっても、自分にがっかりするのはすごくいやなので、わたしはわたしを応援しようと思います。だから、わたしも頑張らないといけないな。まずは第一志望の高校に受からないとね。
勉強ばっかりでほんとうにしんどくてつらくて投げだしたくなるけど、自分の人生のため、と言い聞かせて取り組んでいます。成績も伸び悩んでいるし、関係ないけど中三なのに胸がぺちゃんこで、まわりとくらべてめちゃくちゃつらくなって泣きたくなって、あーもう死にたいなあ、と思わずつぶやくこともあるけど、ほんとうに死ぬことだけはぜったいないとわかっています。
まだ、先生のことは覚えていますか。おとなになったら忘れてるのかなあ。どっちがいいんだろう、いまはわかりません。
中学では結局恋はしませんでした。バレンタインに本命チョコをあげたり、友だちとこそこそ恋バナしてきゃあきゃあ盛り上がったり、なによりも好きな男子にどきどきしながらしゃべりかけて仲良くなる、みたいな中学の思い出がないままおとなになるのはなんだか損をしてるみたいでくやしい。でも、仕方ないのかもしれない。先生のように素敵な男の人が全然いないことが、なんだか誇らしいような、とてもかなしいような、複雑な気持ちになります。
おとなになったわたしの隣には誰かいますか? 恋人、という意味だけではなく、仲良しの友達は、遠くの街でもできましたか?
冬を目前にした体育館はしんと冷えて、みんなどこか身体を固くこわばらせている。タイツではなく白いソックスで足を出している一年生を見ていると、若いなあと思う。わたしが履いているのは八十デニールの、裏起毛のタイツだし、風邪を引いたらよくないからと母がしまむらで買ってきたハラマキまでおなかに巻いている。
「みんな頑張ろうな」
茅原が呼びかけると、小さくみんなが声を上げた。隣のクラスがくすくす笑っている。緊張するというよりは、今日で最後なんだな、と思うとこころぼそかった。暗譜しているけれど、念のため楽譜を持ってきている。すっかりぼろぼろになったので、ところどころセロハンテープで補強しているけれど、譜面の裏には夕布子が呼びかけて女子がメッセージを書いてくれていた。黒地には読みづらかったけれど、本番もおまもりに持っていこう、とじんわりと胸が熱くなった。
三年生の部になり、移動した。わたしたちのクラスはくじ運がいいのか悪いのか、トリを務める。ステージのわきの壁に列をつくって他クラスの合唱を聴きながら、ほとんど泣きそうだった。緊張しているのと率直な歌詞のメッセージ性に胸がふるえるのと同級生が一生懸命優勝目指して歌っている姿に感動して、胸のなかがぐちゃぐちゃだった。見ると、クラスメイトもみんななんとも言えない表情で合唱に聴き入っていた。涙もろい夕布子はもうすでに目を赤くして袖で目元をぬぐっていた。
「早いよ」
ちゃかすつもりでどつくと、「無理、歌いながら泣いちゃうかも」と低く抑えた声で返ってくる。冗談ではないのかもしれない。ぬぐってもぬぐっても夕布子の目はゆらゆらと濡れてひかっていた。
「最後だもんね。このクラスで合唱するの」
「やめてよ、そんなこというの、泣くじゃん」
泣き顔で夕布子が言う。まわりの女の子たちも、神妙な顔をしていた。
「最後に三年二組のみなさん、よろしくお願いします。指揮は茅原一宏さん、伴奏は夏目愛海さんです」
列の一番最後につき、みんなが壇に上がりきってからグランドピアノに座る。ふと、関野さんと目が合った。ふわっと微笑みが広がる。わたしも笑い返して、茅原に目を向ける。うなずきあって、ゆっくりと茅原の手が弧を描きだし、冷えた鍵盤をゆっくりと弾いた。
再来週からもう十二月で、来週には初雪が予報されています。四か月後にはすべて決まっているのかあ。怖いけど、みんながんばってるもんね。おとなになったわたしが、いままでで一番つらくてたいへんだったことはなんですか? わたしは、小学校の時のマラソン大会と、いまの受験勉強かなあ。
おとなが言うほど十五歳の日々はきらきらひかっているものだけでできていないし、正直いままでの人生の中では一番いまがキツイけど、生きれば生きるほどつらくなるんだろうな。
でも、げんきでね。夢をかなえてください、とまでは言わないし責任を押し付けるみたいでずるいけど、生きたいように過ごしてくれていたら、すごくうれしいです。
もう二度と十五歳のわたしが目を覚ますことはないけど、来年には十六歳のわたしが生きているんだね。ほんとにはたちとか三十歳に自分がなるとは思えないけど。
この手紙を読んだ未来のわたしが、十五歳のわたしに励まされてたらちょっとやだけど、こんなこと思ってたことあったんだなあ、と思いだしてほしいです。十五歳のわたしが確かに存在していたこと。それだけ、覚えていてほしいかも。
じゃあ。おやすみなさい。
追伸 今日合唱コンクールが終わりました。毎日少しずつ書いていたこの手紙も、今日を区切りにやめようと思います。小説も、読むのは十二月までにするけど、書くのはとうぶん休みます。正真正銘受験生だー。
未来に向かって走れ、きょうの涙は明日にきらめく星粒になる。
優勝はできなかったけれど、今年の合唱曲は歌わなかったぶん、おとなになってもずっと覚えているような気がします。
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