いつか零れ落ちるもののすべて

@_naranuhoka_

第2話

 北風は子供のくちぶえのように甲高い音を立てている。窓をきっちりと閉めて鍵までかけていても、その高く澄んだ音は教室にいてもよく聴こえた。

 寒い。教室はカーディガン着用禁止だから、明日からセーラー服の下にニットを着込んでくるしかない。シャープペンシルを握る指が冷たくてノートを取るのも億劫だ。べつに大して大事な範囲でもなさそうだしいいや、と勝手に判断して両手をスカートの太腿の下にすべり込ませた。木の椅子は体温でぬくくなっている。

 窓の外を見やる。生い茂る銀杏の木が風で大きくしなっている。帰るのはかなり大変かもしれない。でも、風が強かったり雷が鳴っていたり、天気が悪いとどこかわくわくする。灰色の空は靄がかかっていて、大きな手でかきまぜられたみたいに渦巻いている。その様子はけむくじゃらな動物の腹を思わせた。

「なに見てんの」

 夕布子が隣からわたしを見ていた。「空」と言うと「そうだね」と口を歪めて笑う。社会のヨシキチは相変わらずぽそぽそした声で教科書を読みあげている。授業中に雑談をしているのはわたしたちのほかにもあちこちにいたし、それ以上にいねむりしている子や内職している子はたくさんいるけれど、どうでもいいとあきらめているのか、そもそも気づいてすらいないのか、ヨシキチが生徒を注意したことはいちどとしてない。五十代半ばで、年齢的には教頭と大差ないだろうに、ヨシキチは生徒から完全になめられきっている。「ああいう教師見てると、先生になろう、って気持ちが一気に冷めた」といつか夕布子が肩をすくめていた。なんど学年主任の先生に注意されてもスカート丈は膝小僧まるだしだし、髪を結ばないし、あからさまに色つきリップを塗ってずいぶんはなやかな見た目をしているけれど、小学生までは教師になることが夢だったらしい。「じゃあ次の夢は?」とたずねると「わっかんない。とりあえず女子高生」と言った。「そっちは?」とたずね返され、とっさに「女子大生」とこたえると「変わんねー」とくっと喉を鳴らして笑った。

 昨日、初めて進路希望調査の紙をもらった。要は志望高校を書け、というだけのアンケートだったけれど、みんな、赤紙でももらったみたいにぴいぴい騒ぎ立てた。わたしはさして悩むこともなく、上から順番に県内で偏差値の高い順に三つを埋めればそれでよかったけれど、夕布子はかなり親と揉めたらしい。「あたしは受験なんかでストレス感じたくないのに、一年頑張って上の高校目指せってしつこくてさ」と見せてもらった紙は、わたしのとは逆に志望度が下がるにつれて偏差値は上がり、第三志望がわたしの第三志望と同じだった。なにもコメントしなかったし、表情になにか感情を示したつもりはなかったけれど、夕布子は「生意気だって思ってるんでしょ、あたしだって受かるとは思ってないよ!」と顔を真っ赤にして紙を手元に引っ込めた。

 夕布子は昨日から白いカーディガンを着て登校している。ワンサイズ大きめのを買ったのか、ゆったりとしたシルエットで手も袖で半分隠れる。本当は黒か紺という校則があるけれど、やっぱり白い方が女の子っぽくて可愛い。

 白いカーディガンなんて着ていたら、教師はもちろん先輩に目をつけられる。そっちの方が学校生活では大きな脅威だ。でも、「もう受験でそれどころじゃないじゃん? 何言ってくることもないって」と夕布子はへらりと笑ってみんなに見せびらかしてうらやましがられていた。確かに、ハイソックスとプリーツスカートからはみ出た膝小僧に吹きつける風が沁みるように冷たくなってきた頃から、三年生はどこかぴりぴりとこわばった面持ちで学校に来ている、ような気がする。英単語の本を片手にぶつぶつ言いながら帰る、分厚いタイツを履いたがり勉風の三年女子を部活帰りに見かけて、「やだね、ああはなりたくなーい」と夕布子やほかの女の子なんかは悪口を言ってせせら笑っていたけれど、そう遠い未来じゃないんだよな、と思うと蚊帳の外から笑う気にもなれない。げんなりする。

 次の夏で十四歳から十五歳になる。その変化は、十三歳から十四歳に上がるのに比べて、とても大きいような気がする。正真正銘少女と呼ばれる時期も、もう半年も経てば終わるのだ。十五歳、と言うのは、どっしりと構えて安定した響きだけれどとてもどっちつかずな年齢のような気がする。小説でも、おとなっぽい十五歳もいれば、小学生に毛が生えただけのような子供じみた書かれ方をしているものもあってふわふわと像が定まらない。

 自分で思い浮かべるとき、十五歳はとてもおとなっぽく思える。イメージで浮かぶのは現にいま中学三年生の一学年上の先輩ではなく、去年の三年生であったり、小学生のときに観ていたドラマの中の女の子だった。一つしか変わらないはずなのに、自分たちはまるきりガキで、まわりは猿のようにうるさい小学八年生みたいな男子ばっかりだ。

 人のことをばかにできる立場じゃないかもしれない。わたしは生理がまだ来ていない。

友だちには、あまり打ち明けていない。去年から同じクラスでずっと一緒にいる夕布子にすら、教えたのはつい最近のことだった。ナプキン貸して、と顔を不安そうに曇らせて耳打ちされたとき、どんな顔をしていいかわからなかった。「まだなってないんだ」と正直に返すと、夕布子はびっくりした顔になって、そう、とだけ言ってほかの友だちに借りに行った。そのあとなにか生理の話題を蒸し返されたことはない。中学二年生ならまだなっていなくても平均の範囲内には一応おさまるだろう。でも、十五歳に上がってもまだ来なかったら、さすがにおかしい。でも、自分の身体にそのタイムリミットまでに初潮が来るとはとうてい思えない。

夕布子はわたしより頭一つぶん背が低いけれど、胸はおとなと変わらないくらい大きい。さすがにあからさまにサイズを訊いたりはできないけれど、体育の着替えではつい目が吸い寄せられる。自分の、子供のときとまったく変わり映えのしない薄ぺったい身体とはどうしてこうも違うのだろう。ちぶさとはどうしたって呼べそうにない平たい胸は小学生の頃から変わらず骨ばってぎすぎすしている。

 北風は沸騰したやかんのようにするどい音を立てつづけ、止みそうにない。きっと砂粒も飛んで、目にごみが入ったり口のなかをじゃりじゃりさせながら帰るはめになるんだろう、と思う。いろんなものをまき散らしてぜんぶどっか行っちゃえ、とシャープペンシルをぐっとノートの余白に突き立てた。下敷きを引いていなかったノートに思いがけず深く吸い込まれ、小さな穴ぼこになった。


 その日は強風のためすべての部活が中止になり、すぐに下校になった。夕布子を誘うと、「ごめーん、むりかも」と手を合わせて断られた。せっかく帰る時刻がそろったので、彼氏と帰るらしい。

 夕布子は先月から隣のクラスの新田君と付き合っている。一目惚れした夕布子が猛烈アタックをして、あっさり成就した。接点のまるでない、出身小学校も部活もクラスも違う男子とどうしたら付き合えるような関係になれるのか、わたしには想像もつかない。新田君は携帯を持っていないのでメル友で仲が深まったというわけでもなさそうだ。「気合と根性だよ」と夕布子は笑ってごまかして、くわしく教えてくれなかった。

 でも、夕布子なら気合と根性だけでできるんだろうな、と「彼氏ができた」という報告を受けたときもさして驚かなかった。それに、夕布子に彼氏ができるのはこれで三度目だ。ギャルっぽいけれどルックスは愛らしく、物怖じしない人懐っこい性格をしている。ときどきクラスメイトや先輩からも告白を受けていたようだ。家に連れていったとき、お母さんは夕布子の履いていたスカート丈の短さや私服の派手さにぶつくさ言っていたけれど、お父さんは挨拶をされただけなのに「可愛い子だな」とえらく気に入っていた。要はもてるのだ。

 結局、美術部のみっちょんとユキさんと帰った。河合さんは? とたずねられたので「夕布子、いま二組の人と付き合ってるんだよ。その人と帰ってる」と言ってもへえ、と受け流すだけですぐに話題はマンガやアニメに移った。誰? とも聞いてこない。もしわたしがクラスメイトが誰かと付き合っていると知れば、教えてもらうまでしつこく食いつくのに。

 夕布子はあからさまにこのふたりのことをばかにしている。「いまどきなんであんなへんなおかっぱにしてんのか意味わかんない、ちびまる子ちゃんかよ」「スカート長すぎて靴下と一体化してるじゃん」と悪口を言い、なにげなく「いかにも処女っぽいじゃん。ださ」と低くつづけて笑った。そして、わたしが無言でいるのに気づき慌てて「べつに愛海のことはださいって思ってないからね! そんなこと言ったら茉莉とか理穂りんのこともださいってことになるし!」と早口でフォローを並べた。夕布子には小学六年生のときに幼なじみの中学生相手に初体験を済ませたといううわさがある。話を聞くたびにどうせ女子のやっかみででまかせを吹聴されてるんだろうなあ、と同情はしても信じてこなかったけれど、案外ほんとうなのかもしれない、とそのとき思った。普段きわどい話題を男子に振られると顔を真っ赤にして本気で怒るけれど、夕布子が中二にして非処女でもべつにびっくりしない、気がする。やっぱりなあ、と納得してしまうかもしれない。

 夕布子がどうしてつまらない優等生でしかない地味なわたしに目をつけて仲良くしているのか、よくわからない。出席番号が近いわけでもないし、わたしは吹奏楽部で夕布子は男子バスケット部のマネージャーだ。でも気がついたらおしゃべりの輪によく夕布子がいて、自然とふたりでいることが多くなった。スカートのウエストを折って短くするとき外側にじゃなくて内側に折る方が皺が寄らないことも、夏服の半袖ははじっこをちょっと折る方が二の腕がきれいに見えることも、夕布子から教わった。去年、いまだに母に髪を切ってもらっていることを知ったときは顔をしかめて「美容院行った方がいいよ」と自分の行きつけのお店の紹介カードをくれた。もし夕布子と仲良くならなければ手足の無駄毛はかみそりで処理することも、私服には中学校指定の白いソックスなんて合わせないことも知らないで、「処女っぽい」と夕布子に後ろ指を指される側だったかもしれない。どう控えめに見ても夕布子や彼氏のいるはなやかな女子よりも、みっちょんやユキさんに近い女子であるわたしを、夕布子が「ださい」と言ってばかにして笑ったことはいちどとしてない。気まぐれで編み込みをしていけば「かわいい!」と一番に褒めてくれるし、バスの座席や体育のストレッチのペアを決めるときもこっちが声をかけるよりさきに「組もう」とわたしを確保したがる。男子にもてる夕布子をひがんで悪口を叩く女子もいる反面、きれいで垢抜けた夕布子としたしくなりたがる女子はたくさんいるのに、わざわざわたしを選びつづける。幼なじみでもないわたしを。

 みっちょんやユキさんとのアニメ話にそれなりに盛り上がりながら、家路についた。一番話が合うのは二年間ずっと一緒にいる夕布子だけれど、みっちょんたちといるときはそれはそれでゆるくて気が楽だ。そんな彼女たちと対照的な夕布子と話が合って楽しいのは、それは夕布子個人だからで、夕布子のような女の子と高校で会っても仲良くはしてもらえないような気がする。でも、みっちょんやユキさんのような、クラスのすみっこでちんまりと過ごして、一年に三度くらいしか男子と口をきかないでいるような女の子とはさして苦労せず仲良くできる自信がある。そんな自分が厭だ。ほんとうはずっと夕布子や、夕布子のような立ち位置の女の子のそばにいたい。

でも、そういうことを考えるとき、自分の性格の悪さに心底うんざりする。おとなしい女の子たちのスカートの丈の長さや前髪の野暮ったさを陰で笑う夕布子なんかより、ずっと自分がいやしい人間であるように思えてしまう。

眠る前、なにも着けていない自分の胸に手をふれてみた。いくら鶏肉や牛乳をたくさん摂取してみたところで盛り上がりはなにもなく、ただ、綿のような感触の薄い皮膚にまもられた骨の硬い感触と鼓動が伝わるだけだ。夕布子は誰かに自分の胸をふれさせたことがあるんだろうか、とそんなことを考えてしまって、夕布子の顔が思い浮かぶ前に急いで寝返りを打った。そんなことより、わたしの身体がわたしでない人にあずけられ、ふれられることなんてこのさき起こりうるんだろうか。わたしは自分の身体のどこから経血が流れてくるのかも、よくわかっていない。まさぐって探していいものなのかもわからず、ただ赤いしるしのないショーツを毎日取り替えているだけだ。


期末試験の範囲が発表されたので、それにしたがってワークに付箋を貼っていると夕布子が「なにしてんの」と覗きこんできた。「範囲わかりやすいように付箋つけてる」と言うと、興味なさそうにうなずいてぱらぱらとめくったりした。

「げえ、数学こんなにあるの。あたし中間のあとひらいてすらいないよ」

「夕布子、それはマジでやばいから今日からでも進めた方いいよ」

 部活はまだあんのに、とぶつくさ言いながらワークをわたしに返す。髪を耳にかけるとき、手首で何かがしゃらりとひかり、袖口に吸い込まれるのが見えた。

「え、なにつけてるの。腕」

 夕布子はまばたきし、視線を横に流した。迷っている。じれったくなり「見してよ~」と拗ねた口調で言うとおずおずと左手をわたしに差し出す。袖をまくると、銀色のブレスレットが手首に巻かれていた。小さなピンク色の花のかざりが鎖のあちこちについていて、さりげないデザインだけどとても凝っていることがわかる。

「かわいい。これどうしたの」

「一か月記念にもらっちった」

 きゃは、と小首をかしげて笑う。ちゃかしていても、照れているのが頬の赤さでわかる。ほんのりピンクに上気した夕布子の顔は、友だちだからというのを差し引いても、どぎまぎするほどかわいらしかった。悟られまいとブレスレットに目を戻す。

「お洒落だね、新田君」

「だよね。記念日だからってこんなんくれたの崇が初めてだよ」

 さらりと下の名前を口にし、そっと手首を傾けてブレスレットを隠す。新田君は夕布子の華奢な手首に自分が贈ったアクセサリーが巻かれているのを見て、どれほどいとしいと思うのだろう。

「あー、早く期末終わんないかな。クリスマスにプリ撮ってマック食べようってやくそくしちゃった」

 ふふ、と笑みをもらし、ほかの子が「ゆーこぉ、こないだの雑誌、返すね」としゃべりかけてくるとすばやく笑みを塗り替え、「遅いわ! これ夏号じゃん! 季節感!」と騒ぎ立てて「ギャルの夕布子」に戻った。

 雑談に入ろうと思えば入れたけれど、わたしは付箋を貼る作業を中断せず、もくもくとワークに貼ってはしまいこんだ。ユキさんが前の席から歩いてきて「マナちゃんさっきの数学のノート、写させて」と頼んできたので、ノートを渡す。

 夕布子のもらした、内でかみしめるような、濡れたノートに前のページのペンが透けるようなほのかさで浮かんだ淡いあわい笑みを思いだす。チャイムが鳴り、席に着いた夕布子と目が合い、ふっとはずみでそらしてしまった。すぐ隣にいるのに夕布子のことを考えていたのが恥ずかしくなった。でも、夕布子は口をひらいた。

「愛海、明日空いてる? お昼から図書館で数学教えて」

「いいよ」

 うなずくと、ほっとしたように前を向く。わたしも英語の教科書を取り出して、予習に目を落とした。


「だから、ここで二等辺三角形の定理を使うんだってば」

「え? 錯覚じゃないの?」

「平行線っていう定義が出てないからそれ使うのは無理」

 わかんないよ、と夕布子がくちびるを不機嫌そうにとがらせる。図書室の二階にあるせまい自習室はほんとうはおしゃべりは禁止だけど、誰もいないから好き勝手にしゃべっている。暖房が弱いせいで、寒がって誰も来ないのだ。コートを着込んだまま、夕布子に数学を教えつづけた。

「あっわかった、こことここが同位角で――」

「それ使わなくてももう証明終わってるよ。『よって△AEDと△BFEは合同である』、以上」

 あきれたように言うと、「なんだ」とつまらなさそうに書いたものを消す。かれこれ一時間近く教えているものの、終わったのは三つの証明問題だけだ。合間にわたしが解いている英単語の書き取りのほうが進度がいいかもしれない。

 わたしもそんなに得意な方ではないけれど、それ以上に夕布子は理数科目が大の苦手だ。一年生の分野も基本知識が抜けているところがちらほらある。理科のワークも持ってきているようだけれど、今日は数学だけで手いっぱいかもしれない。

「じゃ、次も証明ね」

「えーっ、もう疲れた。休む。本読む」

 そう言って机から離れ、手をポケットに突っこんで階段の方へ向かう。夕布子が席を離れるならわたしも行くしかない。ふたりで本棚へ向かう。

「あ、江國香織の新刊出てる。借りとこ」

「愛海ってマジで本好きだよね。だから頭いいのかな」

「本読む」と言って勉強から離れたくせに、夕布子は手をぷらぷらさせながら本棚のあいだをうろうろするだけで興味なさそうにしている。夕布子が好んで読むのは携帯小説だ。ときどき好きな小説を薦めれば読んでくれるけれど、「長かった」と疲れた顔をしているので、あまり読書は好きではないらしい。

「愛海って自分で書いたりはしないの?」

 なにげない問いに心臓が跳ねる。「何を?」ととぼけたふりをして返すと「物語」とぱっちりとみひらかれた二重まぶたがわたしを捉えた。「だって、愛海ってめちゃくちゃたくさん読んでるじゃん。自分でも書いてみたり、しないの」

 今日の夕布子は普通の透明な薬用リップをつけている。でも、ふんわりと桃の香りが薄く漂っていた。

「書いてるよ」

 ぽつりと言葉が漏れた。考える余裕はなかった。

 どうしてだろう、ほかの人にもいままでなんどか訊かれては「まっさかあ、無理無理」と笑って打ち消してきたのに、夕布子の前ではそう白状していた。言葉にした途端ぽっと顔に熱が灯る。「え、マジで? すごいすごい!」と思った以上にはしゃぎだす。

「いつか読ませてよ。愛海が書いた小説」

 ふっとゆるい笑みを口元に浮かべて呟く。「うん」と本を胸に抱え直した。いままで誰にも読んでもらおうと思わなかったし、このまま隠しつづけるんだろうと思っていたけれど、夕布子にはいつかほんとうに読んでもらう未来が待っているような気がした。

 わたしたちは絶対に高校が離れる。それはもう、ごまかしのきかないれっきとした事実としてわたしたちの目の前に横たわっている。そのときに、「友だち」というつながりだけではなく「読者」というつながりが残っていたら、おとなになってもずっと仲良くしていられるかもしれない。そんな幼いことを考えて、でも、読んでもらうためにいま書いているものはすぐにでも完結させよう、とひとしれず決めた。


 実際に夕布子に自分が書いた文章を読んでもらったのは、期末が終わってすぐの土曜日のことだった。

 家に招き、ノートを一冊わたした。説明するのが恥ずかしくて、どうしても「書いた小説、読んで」と言えず、くちびるを横にむんと引いたまま、ん、と突き出した。当然、夕布子は「えっなになになに」と困惑していたけれど、ページをひらくと「あ。小説」と小さくつぶやいて目を落とした。それだけのことに、恥ずかしくて目をふせた。

「完成したんだね」

「うん」

 夕布子は黙って目で文字を追い始めた。落ち着かなくて、ベッドに寝転び、マンガを読んだり夕布子が買ってきてくれたキャラメルコーンをつまんだりジュースをすすったり「いま何ページ?」などと夕布子にちょっかいを出したりそわそわしつづけた。でも、夕布子が真剣そのもののまなざしでにらむように読み進めているのを見て、目をつむってぎゅっと枕を抱えこみ、うつぶせでじっとしていた。ストーブのごぉっと火が燃える音と加湿器の蒸気が吐き出されるシュッシュという音、時折ページがめくられる音だけがしていた。

 二度目のトイレに立ち、あと一時間でわが家の夕飯の時間になっちゃうな、と内心どきどきしながら時計を見ていると「終わった」と夕布子がぱたりとノートを閉じた。

「お、お疲れさま」

家に来てから五時間が経過していた。夕布子は読むのに時間がかかるだろう、とは予想していたものの、思っていたよりもずっと長時間だった。なんて切り出せばいいんだろう、と迷っているうちに「トイレ行くね」と立ち上がったので、見送る。

手持無沙汰の状態で、ストーブに当たりながら待っていると、さむさむ、と言いながら夕布子が戻ってきた。わたしの隣に体育座りをする。ストーブの近くではなく、ずっと窓際のテーブルで読んでいたので、夕布子の肩は室内にいたはずなのにびっくりするくらい冷えていた。

「おもしろかったよ」

 わたしは夕布子の目を見つめることができない。うん、とだけうなずく。

「あたし普段全然小説とか読まないけど、愛海のはおもしろかった。時間かかっちゃったけど文章すごい読みやすかったよ。一回も休憩入れてない」

 それは、わたしもそばで見ていたから気づいていた。途中から、自分だけがキャラメルコーンを減らしていることに気づいて袋の口を夕布子のほうに差し向けたけれど、夕布子は結局いちどとして手をつけなかった。

 それくらい本気で、わたしが書いたものに向かい合ってくれているんだ。そう気づくと、すごく恥ずかしくなった。うれしくて、申し訳なくて、意味不明なことを叫びながらめためたにベッドにのたうちまわりたかった。でも、そんなふうにごまかすのは夕布子に失礼な気がして、じっと耐えていた。

「作家になってよ。愛海」

 夕布子は笑みすら浮かべず、真面目な表情でわたしを見つめている。

「書く人になれるよ。愛海なら」

 ろくに返事も返せなかった。顔の周りの空気があつくてしかたなかった。

ちゃかしてごまかし、この空気をこわしていつものような雰囲気に戻すこともできたけれど、そこまでうそつきじゃなかった。「ん」と照れくさい顔のままうなずいた。

「あ、ごめ、もう帰んなきゃ。今日徒歩なんだよね。雪だから」

「うそ、じゃあお母さんに車で送ってもらう。暗いしあぶないよ」

 慌てて立ち上がったわたしを「あ、いいのいいの」と意外と強い力で引っぱって止めた。

「三十分くらいで着くしだいじょうぶ、それに愛海のお母さんあたしのことあんま気に入ってないっぽいじゃん。こんなんだし」

 皮肉を言う口調ではなく、淡々とただ事実を指摘する言い方だったのでとっさに否定できなかった。なにか言わなければ、と思っているのに気のきいた言葉はなにひとつでてこない。わたしが突っ立っている間に、夕布子は手際よくムートンコートを着込んで、ぐるぐるとマフラーを巻いた。

「じゃあね」

「うん」

 玄関で見送る。ぱん、と真っ赤な花の散った傘を射して雪の中を歩いていく。ザッザッと雪を踏みしめる音は、すぐに聴こえなくなった。角を曲がって、姿が見えなくなったところで戸を閉めて中に入る。お母さんがエプロンで手をふきながら「あれ、夕布子ちゃん帰ったの」と声をかけてきた。

「夕布子ちゃん、どこの高校行くんだろうねえ」

「知らない」

「知らないってあんた、友達でしょうに」

 お母さんの横をすり抜け、ダイニングに入る。家族のぶんのお茶を汲んでいると、ごはんをよそっていたばあちゃんが「今日はでかいと雪降るわ」と呟いた。

 窓の外をもくもくと大ぶりの綿雪が降っていた。まだ夕布子が家についていないで歩いているだろう頃、「いただきます」と手を合わせて鮭のムニエルを箸でつついた。


 冬休みが明けたら受験生ゼロ学期だぞ、と先生たちに脅されたせいもあって、お正月もそれなりに勉強した。一月には、志望高校が同じみっちょんと塾で初めての模試を受けることになっている。

 いちどだけ夕布子から電話がかかってきて、「元旦に福袋買いに行かない?」と誘われたけれど断った。一応そばにいたお母さんに「夕布子と福袋買いにジャスコ行きたいんだけど」と言ったら「朝早いしお母さん年始からは車出せないわよ」とぴしゃりとはねられた。低く抑えた声ではあったけれど、電話口の夕布子が黙りこくってそれを聞いているのはわかっていた。そろそろと声を出す。

「……ごめん。無理っぽい」

「わかった。ごめんねー」

 完全に気を遣わせてしまっている。神社に初詣行こうよ、と誘おうとしたけれど、「じゃあまた学校でね」と電話は切れた。

 塾で模試を受けることや、みっちょんをはじめとする県内のトップ校を目指している十人ほどのグループで成績を競っていることは夕布子には話していなかった。期末試験の結果ではグループ内の三位で、一組の沢谷にあんまんをおごらせたことも、言おうとは思っていたけれど、結局話しそびれた。いままでで一番順位が悪かったと落ち込んでいた夕布子にそれを話してどんな反応を引き出そうとしているのか、よくわからなくなったからだった。

 来年もまた同じクラスになれるかはわからない。でも、クラスが違うという差はとても大きい。三年生になったら、よけい同じ高校を志望している子たちと結束が強くなるだろう。オープンハイスクールだって、私立の滑り止めすら違うから、夕布子と行くことはない。

 こうやって、少しずつ離れていくんだろうか。

 そう思ってみても、さして自分が傷ついていないことにもきちんと気づいていた。わたしは、置いていく側だからだ。どうしたって。それに、進路はどのみち、みんなひとりでたたかうものだ。たとえ進む高校が同じだとしても、それに変わりはない。

 

 新田君とは、冬休みの間に別れてしまったらしい。

「なんか、高校違うんだねって話になったら、急にぎくしゃくしちゃって。進路違うのは告る前からうすうすわかってたけどさ、あからさまに言われたらこっちも冷めちゃって」

 くちびるをとがらせて、どうでもよさそうにつぶやく。なんと言っていいかわからず、「バレンタインどうしよっか」と空気が読めないことを言ってしまう。にらまれるかと思ったけれど、「当然友チョコオンリーじゃアホッ」とあきれたように笑っただけだった。

「あーあ。当分恋とかしないで受験勉強頑張ってみようかな」

「いいじゃん」

 そんでわたしと同じ高校行こうよ、とつづけようとして飲み込んだ。冗談にしてもたちが悪いことに、あとから気づく。

「愛海は好きな人とかいないの? ほんとはいるんじゃないの?」

「いないよ。三年になったらそれどころじゃないだろうし」

 ふうん、とつまらなさそうに鼻をぷすんと鳴らす。「傷んでいたから」と髪をばっさりと短くした夕布子は、うなじがすっきりと出て、長かったときよりもかえって女らしい。同い年の女の子にそんな印象を持ったことに人知れずどきどきした。でも、これでまた夕布子のことを目で追う男子が増えただろう。

「ねえ愛海」

「なに?」

「三年間同じクラスでいられる確率って、一パーセントしかないんだって」

 どういう計算のもとで出た確率なのか、根拠はあるのかよくわからなかったけれど、「そうなんだ」とうなずいた。「だいたい学年に五人いるかいないかくらい、らしい」と付け加える。その数字は何となくリアルな気がした。一パーセントと言われるとなんだか低すぎる気がしてぴんとこないけれど、きちんと統計を取った数字なのかもしれない。

「あたしら、クラス離れても、しゃべったり遊んだりしようね」

「そんなの、」

 普段、べたべたとあまったるい友情めいた言葉をあまり口にしない夕布子がそんなことを言いだすので、悪いと思いつつ照れよりもまずたじろいでしまう。でも、夕布子は笑ってごまかすようなことはせず、ただどこか張り詰めた顔をしていた。緊張しているのかもしれない、とすら思った。

 わたしなんて、夕布子に見つけられてやっと日向に出てきたようなつまらない女子でしかないのに。

「……クラス、分かれても読んでよ。受験勉強の合間にも、書くかもしれないから」

 ぶっきらぼうな口調で、それだけ言った。夕布子はやっと笑顔を浮かべて、「あたしは愛海の読者一号だからね」と頬にえくぼをつくった。


 その日は教育委員会の偉い人が来るとかで午後放課だった。「神社行こうよ」と言うと、「いいね、初詣今年なんだかんだ行けてないんだ」とあっさりついてきた。

 ふたりのどちらの家とも逆方向だったけれど、中学校からそう遠くないようだったので、この町で一番大きな神社に向かうことにした。

 雪を長靴で踏みしめる。夕布子は傘を引きずって細い線を伴走させている。「バレンタインブラウニー作ってよ。愛海のお母さんのブラウニーめっちゃ好き」「今年はさすがに自分で作るから生チョコとかだと思う」「えーっそんな地味なのだめだよ、今年もお母さんに頼んでよお」などとくだらないことを言いながらふうふうと白い息を綿菓子みたいにふくらましては後ろに飛ばす。通学路から離れた近道を選んだので、中学生は誰も歩いていない。「さっむい、スカートの下にジャージ履いてくるんだった。もう彼氏いないし」

 手袋の手をこすり合わせながらけけ、と笑う。「高校生はそんなことしないらしいよ、電車でそんなんしてる女子高生誰もいないってお兄ちゃんが言ってた」と言うと、「げぇ。タイツだけってことお? 無理無理無理、いまよりスカート短くしたいのに!」と雪を蹴る。

「夕布子の行きたい高校、制服可愛いもんね」

「そそ、それがなかったらやる気なんか出ないよ」

 大きな鳥居がやっと見えてきた。「おじぎって入る前? あと?」「えっあたしもう鳥居の下くぐっちゃってるよ」などと騒ぎながら参道を進み、、手と口をよくわからないまますすぎ、水の冷たさに後悔しながら、参拝に向かう。当然、ふたりとも五円玉なんて持っていなかったから、十円を賽銭箱に投げ込んだ。ふたりで揺すっているのに、がらがら、と情けない音で鈴が鳴る。「二礼二拍一礼、これは知ってる」と夕布子が手慣れた手順で参拝するのを、一泊遅れで真似をする。意外な一面に内心驚いていた。

 手を合わせて目をつむる。来年の高校受験で合格しますように。内申点が上がりますように。インフルエンザとノロウイルスになりませんように。それから――夕布子と来年も同じクラスになれますように。

 目を開ける。夕布子はすでに目を開けてこちらを見ていた。恥ずかしくなって「見ないでよ」と文句をつけると、「ずいぶん真剣に祈ってるから、乙女だなあ、って」と笑った。

 階段を下りる。「なに祈ってたんだよお、十円でずいぶん真剣にさあ」「いろいろあんの」と言い合いながらもと来た道を戻った。「あ」と夕布子が足を止めた。

「なに?」

「おまもり買いたい。学問の神さまのやつ。買うなら今年っしょ」

 それもそうかもしれない、と思い、神主の人がいるおまもり売り場に立ち寄った。升目のある木の箱にぎっしりと詰まっている。学問のおまもりは水色と桃色。花の刺繍があって、これならリュックにぶら下げていてもださくはなくて、可愛い。でも、値段を見て思わずうめきそうになった。

小学生のとき毎年交通安全のおまもりをランドセルにつけていたから、てっきり二百円くらいで買えると思っていたら、ちょっと息を呑んでしまうくらい値が張る。安いもので六百円だった。月のお小遣いは二千円だから、そうほいほい出せる金額でもない。そもそも財布を持ってきていなかった。

「え、思ってたよりぜんぜん可愛い! しかもこれならお揃いにできるね」

 夕布子がにこにこしながら簡単におまもりを手に取る。わたしは隣で黙りこくっていた。

「え、どうする? ピンクのほうが可愛いけど、愛海ピンク好きだしあたしが水色にしようか」

 楽しげに見せてくるのを心苦しく思いながら、「ごめん」とさえぎった。「買えないっぽい。お金ないや」

「え、でもさっき賽銭投げてたじゃん」

「あれは公衆電話使うとき用。いつも財布は持ってきてない」

「あー……」

 持ち上がっていた頬がすとんと下がり、夕布子が目を泳がせる。神主さんは黙ってわたしたちのやりとりを聞いていた。

「あたしだけ買うのもなぁ」

 つまらなさそうに呟きながら、手に持ったおまもりを手放せずにじっと見つめている。「お金あるなら、夕布子だけでも買えばいいじゃん。可愛いし」と言うと、「でも……」と煮え切らないこたえがもごもごと返ってくる。買ったほうがいいと思っているからすすめているというよりも、買うなら買うではやくしてほしい、という気持ちで口走った。夕布子が渋ったので、自分の意図が透けて見えていやな気持ちになった。

お金を持ってきていないのは悪いと思ったけれど、迷っている夕布子にだんだんいらいらしてくる。午後放課と言ってもそのぶん宿題はいつもよりたくさん出ているし、それ以外の受験勉強にも手を出したい。自分から誘っておきながら、もう意識は勉強のことに向いていて、早く済ませて帰りたかった。

「だって、愛海とお揃いで持ってたかったんだもん。ひとりで持ってても意味ないよ」

 そう言っておまもりを棚に戻した。切実な声に、誰かの大きな手で頭をぐんと押さえ込まれるような気がした。初めて、財布を持ってきていないことを申し訳ないと思った。

「すみません、やめておきます」と神主さんに頭を下げて、くるりと踵を返した。慌てて追いかける。

「いいの?」

「うん」

 夕布子は下を向いて雪を踏む。防水ではないブーツに雪が浸みて、色が濃くなっていた。

「……修学旅行で京都行くじゃん。そのときおそろいのおまもり買おうよ」

 静かに声をかける。夕布子はほんのりと笑った。

「また同じクラスになれるといいな」

「なれるよ。だってわたしも祈ったもん」

力を込めて言うと、夕布子は破顔してわたしの腕を巻き取った。あはは、とうれしそうに顔をそらして笑う。

「あたしね、それは祈るの忘れてたわ」

「ええっ」

 なにそれ! わたしだけなの、恥ずかしいじゃん! と腕をぼかすかぶつ真似をする。てっきり夕布子もそう祈ったからそんなことを言いだしたのかと思ったのに、自意識過剰みたいで無性に恥ずかしいし、くやしい。踊るようにそれをかわしながら「もっといいことを願っておいたよ」と満面の笑みで笑う。

「愛海が作家になれますように、って」

 とっさになにも返せなかった。「きゃーっ言っちゃった」とぶりっこ声をわざとらしく出してさきを走るのを、早足で追いかけて腕を取る。

「え、どういうこと」

「そういうことぉ」

 おどけた口調を選びながらも、夕布子は顔を真っ赤にしていた。「友だちだからおもしろいって言ったんじゃないんだからね、あたし、ちゃんと愛海のファンだよ」と怒ったように呟いた。強い言い方だったけれど、どこか拗ねるような響きだった。

 胸がきゅうっと鳴って狭くなる。どうして、この子と一緒にいるとわたしの方が受け取るものが多いのだろう。わたしなんか、べつに、そんなたいそうな人間じゃない。

 でも――それだけじゃないのかもしれない。夕布子がわたしのことを見上げてくれるのなら、夕布子が見るわたしの像を、こわしたくない。

どうしていいかわからず、絡みつくように腕にしがみついた。「なんだよお」と身をよじりながらも、わたしを振り払いはしなかった。むすっとした顔をつくって前を向いている。その頬は桃色に染まっていた。

「わたし、頑張る。まだぜんぜんわかんないけど、作家になりたいっていま本気で思った」

「最初から本気でいろよ」

「まあ本気だったけど、遊び半分って気持ちもあったっていうか」

「なんだよそれ!」

 けらけらと笑いながら、ひっついたまま神社をあとにした。夕陽が射して、雪の積もった歩道を赤く照らし出していた。

 わたしたちが選ぶ道は、いつだってまばゆくかがやいている。たとえそれが、今後交わる点を持つことがなくても、それは絶対に変わらないはずだ。

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いつか零れ落ちるもののすべて @_naranuhoka_

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