#07 偽りのキス

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リリアナが王宮の離れの客間で待っていると、キファーフが緊張した面持ちでやってきて、部屋の外に連れ出される。そして小さな部屋に押し込まれると、いきなり抱きしめてキスをされた。あとで理由を説明されても、リリアナはその熱さを忘れることができない。


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 リリアナが部屋に戻り、カメラを片付けていると、ドアにノックの音がした。わけもなくどきりとする。

「リリアナ、私よ」

「ダナ!」

 大急ぎでドアを開けると、ダナが供の一人もつけずにドアの前で立っていた。

「いまフロントに電話をしようとしていたところよ」

「そろそろ戻っているころかと思って」

 彼女のくったくのない笑顔に、一国の王女であることを忘れそうになる。

「病院はどうだった?」

「すばらしかったわ。設備もスタッフも。私自身、行ってよかったと思った。キファーフ殿下に感謝しなくちゃ」

「疲れていない?」

「ええ、大丈夫よ」

「それなら私につきあってもらっても大丈夫かしら?」

「ええ、もちろん。どこに行くか、そろそろ教えてくれる?」

 リリアナの言葉に、ダナはいたずらっぽい笑顔を見せた。

「母のところ」

「お母様って……それは王妃様よ、ね?」

 なぜかはわからないが、つい声が小さくなってしまう。

「ええ。両親は公務がないときは王宮の離れにいるの。けさちょっと具合が悪いと言っていたので、お見舞いに行こうと思って。ついでにあなたのことも紹介するわ」

「ええっ! そんな、まさか、ご病気かもしれないのにうかがうわけにはいかないわ!」

「そんな大げさなものじゃないわ。離れはあくまで非公式、プライベートなところだから、友達の家に遊びにいく、くらいの気持ちで来てちょうだい」


 ラフィーブ王宮を前にしたとき、リリアナはしばらく言葉を失った。左右対称の建物の中央にしずく型のドームがある。建物はくすんだれんが色だが、木々の緑が美しいコントラストとなり強烈な印象を残す。アラブ文化の粋を集め、さらに西欧の技術を融合させた壮麗な建築物だ。

 離れは宮殿に比べればこぢんまりとして装飾も地味だが、その分、親しみやすさがある。中に入ると琥珀色の石の床があたたかさを感じさせる。規則正しく並んだ柱はどっしりとして、その間を飾るアーチ形の装飾には細かなレリーフがほどこされていた。

 これが“離れ”なら、本当の王宮の中はいったいどれほど豪華なのだろう。テレビ局のオーナーである父の家、つまり自分が育った家もそれなりに大きくはあったが、王宮はまるで別世界だ。リリアナは深いため息をついた。

 案内されたのは客間らしく、ソファとテーブルが置かれている。

「お母様を呼んでくるから、ちょっと待っててね」

ダナはそう言って、リリアナを一人部屋に残して出て行ってしまった。猫足の椅子に座った王妃や国王の前で優雅に膝を折ってあいさつする謁見シーンを想像していたリリアナは、少しほっとした。

 離れはプライベートなところだと、ダナが言っていたじゃないの。シーク・マルルーク自身も気さくな国王で、よく町へ出ては国民に声をかけると聞いている。ダナが私を王宮の離れに入れてくれたのも、アレックスがシャーキル殿下の友人だからよ。だから私も兄の友人の家に来たと思えばいい。

 リリアナはそんな風に考えて緊張をほぐそうとする。しかしなかなかリラックスできない。

 ソファの下には大きなペルシャ絨毯が敷かれている。その上を歩くことがはばかられるくらい見事なものだ。地色はベージュに近いが、さまざまな色あいが混ざり合って複雑な光沢があり、そこにつたが絡み合ったような模様が浮き出ている。しっとりとやわらかそうな色に心惹かれ、リリアナは体をかがめ、指先でじゅうたんを撫でた。

 そのとき突然、部屋のドアが荒々しく開いた。リリアナはびくりとして立ち上がった。見るとドアのところに、カンドゥーラを着た男性が立っている。体に緊張がみなぎっていて、ただならぬ雰囲気だ。大またで男性が近づいてきて、リリアナは思わずあとずさりしそうになった。

「リリアナ! こっちへ来るんだ!」

 その声を聞いてリリアナは驚いた。

「キファーフ殿下! いったい何事ですか」

「説明はあとだ。とにかくこの部屋を出るんだ」

 腕をつかまれて強引に引っ張られる。混乱する頭の中で、きのうもこんなことがあったとふと気づく。しかし彼の真剣さは、きのうの比ではない。

 幅の広い廊下に出ると、曲がり角の向こうから集団のざわめきが聞こえる。キファーフは左右を見て、声の方向とは逆に向かい、小さなドアを開けるとリリアナを先にそこに押し込んだ。部屋の中は電気がついておらず、薄いカーテンから差し込む夕日だけが、明るさをもたらしていた。

 キファーフはすぐにドアを閉めると、おおいかぶさって隠すようにリリアナを抱きしめた。あまりにも唐突で、リリアナの息は止まりそうになった。

「いったい……」

 問いかけるようにリリアナが口を開くと、口にキファーフが手をあてて来た。だが、リリアナがさらにそのまま疑問を口にしようとした瞬間、あきらめたように手がはなれ、ふいにキファーフの唇がおりてきてリリアナの言葉はふさがれた。頭の中が真っ白になる。これはいったい現実なの? 何が起こっているというの? 心臓が早鐘のように打っている。時間は止まり、驚くほどしっくり寄り添う体と熱い吐息だけが残った。

 そのとき、うしろのドアノブがかちゃりと音を立て、ゆっくりと扉が開く気配がした。キファーフが唇を離して、リリアナの頭をうしろから抱え込む。離れたばかりの唇から「下を向いているんだ」というささやきが聞こえた。

 何がなんだかわからないまま、リリアナは言われたとおり頭を下げ、顔をキファーフのたくましい胸にうずめた。心臓の鼓動がドアの外にまで聞こえてしまいそう。

 キファーフが彼女を抱きしめたまま、顔だけゆっくりとドアのほうへ向け、低く威厳に満ちた声で言葉を発した。

 それに対してドアの男が答えるが、アラビア語なのでリリアナには意味がわからない。ただ最後に、男の下卑た感じの小さな笑い声が聞こえた。

 ドアがぱたりと閉められて、部屋に静寂が訪れた。しかしキファーフはまだ腕の力を抜こうとしない。

「あの……」

「しっ! もう少し我慢しているんだ」

 そのまま五分ほど過ぎただろうか。キファーフがようやく腕をゆるめた。リリアナが話しかけようとすると、口の前で人差し指を立ててそれを制する。そして立ち上がってゆっくりとドアの前へ行き、少しだけ開けて外のようすをうかがい、また戻ってきた。

 さっきまでの緊張は解けて、顔に安堵の表情が浮かんでいる。

「あの……いったい何が……」

 リリアナが小声で聞いた。

「……きょうこの離れで、非公式の長老会が開かれる」

「長老会?」

「ラフィーブに属する部族の長たちが集まるんだ。官職ではないが、その影響力は無視できない。地方を治めるうえでは、彼らの協力がどうしても必要になる」

「でも……なぜ隠れなければならなかったの?」

 キファーフは苦々しい顔をした。

「伝統的な価値観がしみついている老人たちだ。男女が同じ場所で会うべきではないと考えている長老たちも多い。王宮の離れで外国人女性と出くわしたりしたら、大騒ぎになったはずだ」

「そんな……」

「まさかダナがきみをここに連れてくるとは思わなかった。この部屋に押し込んだのはとっさの判断だったが、驚かせてすまなかった」

「いいえ……」

そう言いながらそっと手を当てたリリアナの唇は燃えるように熱かった。たぶん顔も赤くなっているに違いない。

 おそらくキファーフは最良の手を打ってくれたのだろう。しかし気持ちが落ち着いてくると、さっきのキファーフの唇の感触がよみがえり、さらに全身が熱くなってきた。

「さっきドアが開いて、誰かに見られたと思うわ」

「ああ。長老の従者の一人だった。先に各部屋を見回って、危険がないかどうか確認していたのだろう」

 でも……こんな狭い部屋に人影があったら、逆に騒ぎになるんじゃないの? 彼女の疑問を察したのか、キファーフがリリアナの目を見て言った。

「彼は私が誰か知っている。彼らにとって、外国人女性が客間にいるのは許せなくても、王室の人間が侍女を相手に火遊びをするのは許せるんだ。一昔前の道徳観念だが。きみがアバヤを着ていたから助かった」

 リリアナは顔に血が上っていくのがわかった。つまり彼は、侍女を小部屋に引っ張り込んで、いっときのお楽しみにふけっているふりをしたのだ。

「それなら、別にキスまでする必要なかったのに……」

「ああでもしなければ、きみは黙らなかっただろう」

「は?」

「ジャーナリストで、しかも女性だ。入ってきた男にインタビューでも始めたら困るからな」

 キファーフの目にからかうような光があり、リリアナはかっとした。そして次の瞬間には手が出ていた。ぱんという高い音とともに、手が熱くなる。

「それは……あまりに失礼でしょう!」

 リリアナは泣きたくなった。彼の力強い腕で抱きしめられたとき、心臓が止まりそうになった。そしてあの熱い唇の感触……。彼にとっては、冗談で片付けてしまえることなの? 

 涙がたまっているリリアナの目を見て、キファーフの顔が引きしまる。

「……理解してもらえるとは思っていない。しかしこれが最良の方法だったと、私は信じている。もしきみが長老たちに見つかっていたら、下手をすると取材はすぐに打ち切り。アメリカに強制送還になったかもしれない」

 リリアナは言葉を失った。そうだ。ここはアメリカではない。私の価値観だけでものごとを測ってはいけないのだ。

「わかりました……」

そう言いながらも、胸の鼓動は少しもおさまらなかった。

 キファーフが何も言わずに深くうなずく。だが、その目の奥に熱いものが見えるのは、気のせいだろうか。

「ミス・マッキンリー、きみがここにいたことは、私とダナしか知らない。シャーキルにもきみの兄上にも話してはいけない。きみはダナと病院を見学に行き、まっすぐにホテルに戻った。ここで起きたことは忘れて欲しい」

「……ええ」

 あのキスも、なかったことになるの……? リリアナの胸はずきりと痛んだ。

「これから裏門に出て、そこから車でホテルまで送らせよう」

 キファーフはリリアナの腕を今度は優しく取ると、そっとドアを開けて誰もいないのを確かめ、彼女をかばうようにして歩き始めた。


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