#06 王室をとりまく思惑

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訪問先の女性病院は、思っていた以上に近代的だった。内科部長のパリーサは気さくに病院の説明をしてくれる。そこに内務官僚の娘という美女が現れ、リリアナへの敵意をあらわにする。キファーフのまわりには、複雑な恋と政治的思惑が絡み合っているようだ。


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 リリアナは病院を見に行く前に、ダナに頼みたいことがあった。食事のあと、アレックスとステイシーはシャーキルについていってしまったので、彼女はダナに自分のホテルの部屋に来てもらった。

 ほんの少し話しただけで、二人はすっかり打ち解けた。ダナもイギリスに留学していたことがあり、英語には不自由しない。もっともイギリスでは警護の目が厳しく、あまり自由にふるまえなかったらしい。

「久しぶりに英語で話せるのは楽しいわ。それで頼みって何かしら?」

 リリアナはクローゼットを開けると、前日シャーキルからもらった箱を取り出した。

「あら、これアバヤね」

「ええ。きのうお兄様たちからいただいたの。それで……どうやって着るのか教えてもらえないかしら?」

 ダナはほんのりと笑みを浮かべた。

「欧米の女性は体を隠すなんて古いと感じるかと思っていたけど」

「ええ、ここに来るまではそう思っていたわ。でも伝統にはその国ならではの理由があるとわかったの」

「そう」

「それにきょうインタビューのとき、スタッフの男性たちの視線が気になったわ。なるべく露出の少ない服にしたつもりだけど、やっぱり髪を出した女性って珍しいのかしら」

「そうね。近代化といっても、まだ都市部のホテルや観光地以外では外国人を見る機会が少ないから。民族服のほうが目立たずに動けるかもしれないわ」

「だからこのアバヤとヒジャブをつけてみたいの。アバヤはなんとなくわかるんだけど、ヒジャブはどうすればそういうふうにきれいに巻けるのかしら」

 ダナのヒジャブは髪をすっかりおおい、あごの下できれいなドレープがつくられている。適当に巻いただけでは、とてもそんなふうにできそうもない。

「わかったわ。私にまかせて」

 大きな目を輝かせて、ダナはヒジャブを手に取った。

 一見、すべて黒で同じように見えたアバヤも、それぞれの女性の好みで細かいところに工夫がされている。ダナのアバヤは袖口にレースをあしらい、前身ごろのあわせの部分は光る糸で王家の紋章が刺繍されていた。ため息が出そうなほど精緻な職人技だ。

 アバヤの下には何を着ればいいのかダナにたずねると

「特にきまりはないわ。外でアバヤを脱ぐことはないから何を着てもいいのよ」と、アバヤを脱いで見せてくれた。リリアナはそれを見て絶句してしまった。

 彼女は白いベアトップのつなぎといえばいいのだろうか。腰の部分がバルーン型にふくらみ、膝下で絞ってあるファッショナブルな服を着ていたのだ。服だけではない。腕にはゴールドと真珠をあしらったバングル。胸元にはチェーンを編みこんだボリュームのあるネックレスが下がっている。そして爪はきれいに磨いてあった。

「アバヤの下はみんなこんなかっこうなの?」

 リリアナが目を丸くして尋ねると、ダナはまたおもしろそうに笑う。

「人によりけりかしら。若い子はTシャツにジーンズということもあるし、たとえアバヤは脱がなくても、あらたまった席に行くときは、それなりにおしゃれをしていくわ。一番華やかなのは結婚式の披露パーティかしらね」

「披露パーティ? 男性がいる席ではアバヤを着ていなければいけないのでしょう?」

「パーティは男女別なの。だからこそみんな着飾っていくのよ。まわりが女ばかりだから、お互いに競争心みたいなものもあるし」

 それは世界どこへ行っても同じなのだ。リリアナはおかしくなるとともに、がぜん好奇心がわいてきた。

「アラブの結婚式披露パーティ……機会があったら見てみたいわ」

「取材の二週間の間に誰かが結婚したらね」

 ダナはそう言って笑った。

 リリアナはダナに手伝ってもらってヒジャブを巻きながら、キファーフのことを考えていた。明日はこれを着て砂漠に行く。女に砂漠の旅は無理だといった彼に、それは間違いだと証明してみせるわ。

「リリアナ、病院を見学したあとは、何か用事があるかしら?」

 従者が迎えに来て、二人で部屋を出たところで、ダナが言った。

「いいえ、特に何も。アレックスたちは何時に戻るかわからないし」

「そう。それなら私につきあってくれないかしら」

「ええ、いいわ。でもどこに?」

「いまは内緒。でもここから車で三十分くらいのところよ。病院の見学はせいぜい二、三時間よね。戻ったらホテルのフロントにことづけしてくれる?」

「わかったわ」

 二人はそう言って別れた。


 従者とリリアナがロビーへと降りていくと、キファーフがすでに入口の近くで待っていた。リリアナを見て少し驚いたように、目を細くする。

「もうアバヤを着てきたのか」

「はい、ダナに着方を教えてもらいました」

「そうか。着なれないと生地が足にからんだりするから、しばらくは気を付けたほうがいい」

「わかりました」

 リリアナは少しおかしくなった。彼が女性の服の特徴をよく知っているなんて意外だったのだ。

「病院はここから遠いのですか?」

「いや、車で十五分ほどだ。もう玄関前に車を待たせている。すぐに出発する」

 彼が言ったとおり、十五分後に、二人は近代的な白い建物の前に立っていた。中に入ると、ロビーは広々としている。リリアナは感嘆した。現代的な中にも温かみがあり、ホテルのロビーと印象が似ている。

 案内をしてくれるのは、三十代前半と思われる女性医師だった。アメリカと同じようなパンツ型の白衣に、髪はヒジャブで隠されているせいか、高い頬骨が強調されている。アラブ人独特のくっきりとした二重まぶたに聡明そうな額。いかにも優秀な医師に見える。内科部長のパリーサだとキファーフが紹介してくれた。

 最初、キファーフとリリアナが医師の控室に入っていったとき、彼女はキファーフの顔を見るなり「あら、キファーフ、久しぶりね」と言った。

あまりの気さくさにリリアナは驚いた。きっと彼女もよい家柄の出身なのだろう。

「ここでは医師もスタッフもすべて女性だとうかがいました」

 病院の中を歩きながら、リリアナは彼女に質問する。

「ええ、そうよ。これほどの規模の女性専用病院は、国内に一つだけ。珍しい病気や重病の女性患者はほぼすべてこちらに送られるの」

「ラフィーブでは医療は無料ということですが、それだけの高度医療を受けても同じなのですか?」

「ええ。ラフィーブは石油産業のおかげで豊かな国だけど、医療費を無料にしたのはシーク・マルルークの大英断と言えるでしょうね。それ以前は貧富の差が激しくて、それほど治療がむずかしくない病気で命を落とす人が多かったの。いまでは死亡率は先進国並みにまで改善されているわ」

「パリーサ、手術室かICUを見せてもらえるか?」キファーフが言う。

「いまは使っていないからいいわよ。どうぞこちらへ」

「あの、ここで写真をとってもいいですか?」

「ええ、患者さえ写らなければ。ラフィーブ自慢の設備をアメリカでPRしてほしいわ」

 リリアナは大型のバッグを床に置いて、中からデジタル一眼レフカメラを取り出した。女性しか入れない施設があると聞いていたので、ステイシーから撮り方の特訓を受けてきた。腰をかがめるとアバヤの裾が床についてしまいそうになる。

 着心地もいいし、人目を気にしなくてすむけれど、仕事をするときはちょっと不便かしらね。リリアナは裾のあちらを持ち上げたり、こちらをたくし上げたりしながらカメラをかばんから出した。

「あら、きょうはどこかの取材が入っていたの?」

 パリーサではない女性の声がした。リリアナが声のほうを向くと、背が高く、鼻筋のとおった美女がこちらを見ていた。アバヤを着ているから病院のスタッフではないだろう。

「アマスーメ。きょうは何のご用かしら」

 パリーサがその美女に向かって言った。

「ご用って……私は毎週、ここに慰問に来ているじゃないの」

「ああ……そうだったわね」

 アマスーメと呼ばれた女性はリリアナのほうに視線を向け、ぶしつけなまでにじっと顔を見つめる。その強い視線にリリアナは思わずたじろぎそうになった。

「アマスーメ、こちらはミス・リリアナ・マッキンリーだ。アメリカのスターTVの記者で、病院の取材としたいというのでここを紹介した」

 キファーフがそう言うと、アマスーメが視線を彼のほうへと移す。その目の表情は、リリアナに向けられるものとはまったく違う。目の端がやわらいで、少し媚を含んでいる。しかし彼女はすぐに視線をリリアナに戻した。

「どうぞよろしく。リリアナ・マッキンリーです」

リリアナが言うと、アマスーメは何も答えず、ただじっと彼女を見つめたまま少しあごを上げた。

「あの……」

「間に合わせで民族服を着てみても、どれほどこの国の文化が理解できるかしらね。アメリカのテレビ局が来ることは父から聞いて知っていたけれど、スタッフに女性がいるとは思わなかったわ」

「シャーキルのインタビューは彼女が担当した」

「そうだったの。アメリカでは女性の社会進出が進んでいるものね。近代化の推進役であるシャーキルの考えでしょうけど、私の父はあまりに急激な近代化には賛成していないわ。外国人が大挙して来るようなことになったら、ラフィーブの伝統が侵されると考えているようよ」

「内務次官であるきみの父上がどう思おうと、国王とシャーキルの政策に変わりはない」

「ええ、もちろん。父も私も国王に忠誠を誓っているわ。でも……まさかあなたがアメリカ人女性をみずからエスコートするとは思ってもみなかった」

 キファーフの顔が引き締まる。

「アマスーメ、よけいなことだ」

「西欧との交流が増えて外国への抵抗感が減ったとはいえ、あの事件を覚えている人はいまでも多いわ。特にあなたにとっては……」

「よけいなことだと言っている」

 決して激しくはないが、威圧的なキファーフの声に、アマスーメは黙った。ちらりとリリアナを見て、またすぐにキファーフへと視線を戻す。

「わかったわ」

 アマスーメはあっさりと引き下がる。しかしキファーフの顔は厳しいままだ。

「相変わらずね、彼女は」

 アマスーメが行ってしまうと、パリーサがあきれたように言う。

「あんなことをしても逆効果なのに」

 キファーフは何も言わずにふたたび歩き出した。


 ひととおり病棟を見て歩くのに三時間ほどかかった。リリアナも少し疲れたが、それ以上の充実を感じる。ここを見せてもらってよかった。商業会議が女性禁制だったことに感謝したいくらいだ。

「ミス・マッキンリー、私は三十分ほど院長と話をしてくる。戻るまでパリーサと話をしていてくれ。彼女はこの病院を熟知しているから、疑問に思ったことは何でも聞いておくといい」

「ありがとうございます。とても助かります」

 パリーサは控室でコーヒーをいれてくれた。

「コーヒー豆だけでなく、いくつかスパイスもいれるのよ。少し香りが違うでしょう?」

「ええ、ふだん私たちが飲んでいるものより、香りが複雑で、とてもおいしいわ」

 リリアナはすなおにそう言った。美しく彩色された細い口のポットでいれるのも、エキゾチックな風情がある。コーヒーの香りに、歩いた疲れが癒される。パリーサも暖かく包み込むような雰囲気がある。それに甘えて、リリアナはさっきから気にかかっていたことを聞いてみようと思った。

「あの……ラフィーブの対米感情は、今でもあまりよくないのでしょうか」

 パリーサは一瞬、目を大きく見開いたが、すぐに納得した顔になった。

「ああ、さっきのアマスーメの態度でしょう? 彼女の言ったことは気にしないほうがいいわ。一般論をいえば、対米感情は悪くはないと思う。シャーキルが留学していたし、今でも留学先として人気はあるから。ただ官僚の中の保守派は、例の事件を、観光客誘致などに反対する理由に使うことが多いのよ」

「例の事件というと、ラフィーブからの留学生が、アメリカで殺されたことですね」

「ええ。不幸なことに、それが王室とも関係が深い家柄で、キファーフの親友だったの。それで保守派はなんとかキファーフを自分たちの側に取り込もうとしている」

「そういうことだったんですか」

 殺されたのがキファーフの親友……それなら彼がアメリカ人女性に敵意を持っていても不思議はない。それでも彼はこうして取材協力をしてくれる。国王やシャーキルのために……。リリアナの胸は締め付けられた。

「アマスーメの父親は内務官僚だから、国内ではそれなりの力を持っているわ。それで娘のアマスーメとキファーフを結婚させたがっているの。それはアマスーメも望むところでしょうし」

 キファーフが結婚と聞いただけで、リリアナの心臓が跳ね上がった。彼が結婚……べつに驚くことでもないのに。

「でも本人は結婚には乗り気ではないようね。いろいろな利益がからんでくるのが面倒なのかしら。彼は砂漠にいるのがいちばん好きだと、ダナが言っていたわ」

 砂漠の王子、それこそ彼のイメージだ。彼がらくだに乗って、夜の砂漠を歩いている姿が頭に浮かぶ。月明かりを浴びた彼は、どんなに美しいだろう……。

「ミス・マッキンリー。もう出る準備はできているか?」

 リリアナははっとした。目の前に当のキファーフが立っていた。自分の想像に気づかれたようで恥ずかしくなった。

 パリーサが先に立ち上がる。

「リリアナ、お会いできてうれしかったわ。また機会があったらお会いしましょう」

「ええ、ありがとうございます。ここを見られて幸運でした」

 そしてリリアナはふたたびキファーフと連れ立って車に乗り込んだ。


 ホテルに着き、キファーフはリリアナをフロントの前まで連れていった。

「病院の取材は収穫になったか?」

「ええ、大成功だったと思います。提案してくださって、ありがとうございました」

 ヒジャブで顔が少し隠れている分、さらに青い大きな目が際立つ。キファーフはつい見入ってしまった。

「あの……」

 いぶかしそうな彼女の声に、はっと意識を取り戻す。本当にさっきからいったいどうしたというのか。

「ミスター・マッキンリーたちが戻るのは、おそらく八時過ぎになるだろう。きみのこのあとの予定は?」

「ダナがどこかへ連れて行ってくれるそうです」

「ダナが? どこへ行くのかは聞いていないのか?」

「ええ」

 外国人女性、特にマスコミの人間に、一人で町をうろついてほしくはない。しかしダナが一緒なら心配はないだろう。

「それでは私は、これから行くところがあるから、これで失礼する」

 そう言って立ち去ろうとすると、リリアナが大きく顔をほころばせた。

「今日は本当にありがとうございました」

まるで大輪の花が開いたような笑顔だ。キファーフの胸の中で、やわらかな火がともったかのように暖かくなる。急に足が重くなり、そこを立ち去りがたく感じたが、キファーフをその引力を振り払った。

「いい取材ができたならばよかった」

 それだけ言うと、踵を返して玄関へと向かった。

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