まっすぐな落雷

@_naranuhoka_

まっすぐな落雷





まっすぐな落雷




 きっとどこの教室にでもある、薄汚れた壁に書き込まれた年月日の走り書き。

 引っ掻き傷のようなシャーペンのほそい文字は、西陽に照らされると銀色に光ってみえることがあった。

 ほんとうに自分がたった今、たった現在ここにいたということ。かつて同い歳だった誰かが鉛筆でささやかに、いまにも砂になって儚く飛び去りそうな年月日を刻印したのかと想像するとじんと胸がほとびた。

 気恥ずかしさと懐かしさ、激しい共感があたたかな雨となって胸のなかを濡らす。刹那的な感傷を、すでにいない見知らぬ誰かと分かち合っている、そのことにうっすら感動した。

 たったいまここにいて、十五歳で、わたしは春から高校に上がって、ここからいなくなる。でもずっとここにいて、確かに中学生で、十五歳だった。きっと十六歳や十九歳になれば忘れてしまう。

「1994.3.22」の下に、そっとシャーペンで「2011.3.24」と書いた。あのときの走り書きは、もう擦れて消えてしまっているだろうか、それともまだ残っているのだろうか。すっかり年表のなかの一ミリの一層として。


*****


 妙なのがいるな、とはtwitterで6年ぶりにリアルアカウントを再開したときから思っていた。

 特盛サイズとかいうわけわからん名前でやたらネタツイをしている学生。まあ、そういうのは正真正銘学生のときに何人も見てきたので、「へ~」と思いながらフォローもしていないのにミュートしておいた。やたら「**さんがいいねしました」「知り合いかも?」に出てきてうるさかったからだ。そして一応確認したけれど、学部もサークルもかぶりがなく、まったく知らない後輩だった。

 ミュートを外してフォローする契機は突然来た。美術部の先輩で現在も院にいる先輩が、裸でキャンプファイヤーをしている写真を投稿していた。真冬の仙台で。

 裸でキャンプファイヤーて、たぶん都内の学生だったらロケーションと人口密度的に実現不可だ。思いつきはするかもしれないけどこの人たち本当にやるのか、すごいな、と画像をタッチする。

 ふと、とても綺麗な筋肉の子がいるのに気づいた。頑張って拡大してガン見する。裸の男は三人で、そのうちのニ人は美術部の知り合いだった。もうひとり――このマッチョは誰なんだ。こんな男が自分の後輩にいるのか? マジか?

 正体はすぐにわかり、それが「なんかたくさんツイートをしていて知り合いはたくさんつながっているが知らない後輩」であることがわかった。後輩の友だち、であるっぽい。マッチョマンの正体は自分が「よく流れてくる人だなあ」とミュートした人だった。とりあえずフォローした。

 そして、そのあと卒業旅行か何かの画像をツイートしているのを見て、綺麗な子だなあと思った。三島由紀夫が克明に描写したがりそうな男前だった。もじもじしていたけれど、二十三時を回り、なんとなくテンションが上がっていた。ダイレクトメッセージで「こんばんは。岩間先輩の後輩です。インスタグラムよかったら教えてください」とメッセージを投げた。単純にこの見てくれがいい男の子が写っている写真をもっと見たいと思ったからだった。十分くらいしてすぐに返信が来る。

 当然面識がない人間同士なので「元美術部員です。この前グループ展に参加しました」「あ、美術部の方だったんですね」……やりとりはそれで終わるはずだった。けれど彼は詰めがあまかった。「美術部のOGの方なんですね。是非いつか遊びましょう!」とメッセージを締めくくったのだ。

 当然、完全な社交辞令なので流すのが一般の対応だ。けれどなんとなく、メッセージのボックスを閉じるのに間が空いた。

 いつか、なんか来るわけ無い。ここでやり取りを終われば。

 魔が差した。

 としか言いようがない。Twitterで知らない異性にダイレクトメッセージを送ったこと自体、ほとんど初めてだった。人恋しかったのかもしれないし、単に疲れていたのかもしれない。普段ならしない道の外し方を、ふと、してのけたくなった。ふと。

 ――どれだけ粗かろうが言質だし。ってか真に受け取られるのがいやなら知らない人間に美辞麗句なんて言わなきゃいンだよ。

 言い訳は完了した。爪を立てて返信を打ち込む。

「来月の三連休ちょうど仙台に行く予定立ててました。都合どうですか?」

間髪入れずに畳みかけた。そしてこれははったりだった。なんの予定も組んでいない。

 こいつマジか? ドラマの番宣に呼ばれた女優が「また遊びにきてくださいね!」とMCにエンディングで言われて翌日ロクヨンを持って「遊びにきたよ!」とスタジオに乗り組んでくる並みにやばくないか?こんな挨拶、空気読んで流せよ! ――そう思われていることだろうとは思ったけれど、彼の返事は「今のところ空いています」だった。

 やった、と口をほころばせたのもつかの間、次の言葉が喉に突きつけられてわたしは息をヒッと呑んだ。

「面白いことならなんでもします!」

口のなかに銃口を突っ込まれたかと思った。

 要するに、「知り合いの知り合いです、こんにちは。インスタ映えするカフェーでとりまお茶しばこ」的なスタンスは許されないようだった。いや、承諾した以上はそういう感じでも来てはくれるだろうけどその場合この男のモチベーションは限りなく低飛行であることはやすやすと想像がついた。


そして、三月二十二日。彼と仙台駅で待ち合わせた。

「行きましょう」

「うっす」

わたしたちは、塩竈で裸のポートレートを撮るために、落ち合った。

それがれっきとした石津光とのファーストコンタクトだった。


「面白いことならなんでもします!」。結論からいえば、問に対する答えは「石巻でヌードを撮る」に落ち着いた。

 脳みそではなく蟹味噌かポリウレタンでも詰まっている人間しか叩きだせない珍解答を出したのはわたしだったが、完行を決定したのは石津光だった。と思う。

 何しろ「面白いことならなんでもします!」だ。面白いことを人質にしないと、モチベーションを持ってわたしになど会ってくれないのかもしれない。ダイレクトメッセージのやりとりと石津光のTwitterホーム画面をなんども行き来しながら、うーんと唸りつづけた。

 だって川辺で極寒の東北、一月の夜中に焚き火して裸になっているような奴だ。得体が知れない。生半可な「面白いこと」ではこの男の食指は動かないだろう。

 そもそも、「裸でキャンプファイヤー」よりも前に、わたしは石津光の作品を見ていた。正確には彼が所属しているユニットの作品、パフォーマンスだ。

あれは去年の夏だったか、美術部の後輩のツイートで見たのだと思う。ダンボールで作ったテトラポッドを被った人が、列を成して仙台のアーケードや仙台駅のデッキを行進している動画だ。主旨がわからないなりに面白いと思った。震災色の強い現代アートではあるにしろ、メッセージがわかりやすすぎず、押し付けがましくもない。あとから人があれこれストーリーやメッセージを想像したくなるような作品だった。

 わけがわからない。でも、普通の学生が完遂できるようなことではない。テトラポッドは建築学科の学生の手によるだけあって、とても精巧で、途中でばらけて中の人が覗けてしまう、という無粋なアクシデントもなかった。

 やるじゃんわたしたちの後輩、と思った。

 youtubuでテトラポッドの行進の様子が上がっていたのであらためて確認した。これを院試を控えて炎天下にやってのける学生の食指を動かす、面白いこと。ぽっと思いつくはずがない。このままゼロアイデアの状態で石津光に擦り寄ったって、権力や影響力のあるクリエイターと近づくことで自分も何か持ったような気になっちゃう系莫迦女そのものだ。

 っていうか逆ナンしてなぜ初対面同士でアート活動やるんだよ、普通にゴリラ食堂とかモーツァルトとかでデートさせてくれ……とうんざりする気持ちがなかったわけでもない。仕方ない。気を惹くために「わたしもそっち側の人間だよ!」とものをつくっている人間っぽいアピールをしたので完全に自業自得だ。

――言っとくけどわたしの方が年季の入ったクリエイターだからな。本気のワナビーなめんなよ。

 そうは言っても得意分野はテクスト媒体一点集中型で、人と作るようなものではない。孤独にちまちま書くことくらいしかできない。結局物書きって、物書き以上でも以下でもないのだ。困った。

 石津光が卒業年度だったので、卒業に絡めて考えることにした。大学を出るとき、わたしは何をやり残しただろう?  F100のアクリル画、金髪、制服入水、バニーガール勤務、モデルっぽいこともやって、あと自宅でヌードだって撮った。割と思いつくかぎりやってきたつもりではいたけれど、まだあるだろうか?

そしてわたしが出した結論は「ピンク映画撮影」「骨折」だった。骨折は……まあ、でも、やったことないのは事実だ。

 映像関係は、やってみたいとは思ってはいても自分主体では何もできないので手を出したことがない。けれど、すきな短編で女子大生三人がピンク映画撮影を試みるというものがあって、「ちょっとひねくれた思秋期って感じでいいな」とは思っていた。とはいえ、めちゃくちゃぼやっとした感想でしかない。

わたしはツタヤカードを五年更新していない。映画館は一年に一度のペースでしか行かない。ついでに家にWi-FiもないからNetflixやアマゾンプライムビデオは縁遠い。そもそも映画は、そんなにすきな趣味ではない。たまに観る、だけ。知識もほとんどない。すきな映画は「プラダを着た悪魔」「千年女優」「アラジン」。こうなるともう、せめて映画撮りたいくらいにしとけよ、ってなラインナップだ。

「モザイクが要らないピンク映画を撮りたいなぁ。男の人の腰骨の接写撮りてえー」とかなり漠然とした青写真程度で考えた。完全にペッティングしたいだけの人の意見だった。

下心が全面にですぎているアイデアなので、あまり強く言えず、1アイデアとしてさらっと提案してみた。「へえ〜まぁ脱げないこともないです」みたいな感じで流れる。

……まあいい。脱げる器ってことだ。それだけで充分だと思った。

とはいえ問題もある。”彼女いたら裸の撮影は難しくない?”というものだ。というかそれは建前で、普通に好奇心で気になった。いたらどういう姿勢で落ち合うかも大きく変わってくる。

直球で訊くのは恥ずかしかったので「石津君が裸になることで傷つく人はいない?」と変化球で探った。「アナルは事務所NGです」とおちゃらけた回答しかなく、はぐらかされた格好になった。


 わたしが得意なことは、テクスト媒体全般。露出。耐久。あと金銭援助。苦手なことは運動、虫、日焼け、技術が問われるタイプの絵を描くこと、映像関係。

 石津光は建築学科で、普段はフットサルとかやっていて学科が同じ美術部員に誘われて【キラーギロチン】なる制作ユニットに所属している。得意なことは立体と映像、ただしカメラは持っていない。

 知らない人同士で会って、初対面、さて何をするのか? 肝腎のことがうやむやの宙ぶらりんの状態のまま、日々は容赦無くすぎ、具体的に決まらないまま雑談はたまにラインでする。やがて、キラーギロチンが石巻で行うグループ展を出すらしいというのをTwitterで知った。

 石巻といえば復興をテーマにしたリボーンアートの大舞台だ。大学四年のとき、わたしも美術部の先輩たちと見に行った。割に半島中を歩き回ったけれど、人が踏み込むことは普段少ないであろう森や海浜があるというのは知っていた。

〈石巻で裸撮ったらどうかな?〉

 勢いでラインした。

 グループ展があるから、という理由を察した上で〈結構人がいるので捕まると思います〉ときわめて現実的な温度で返信があった。川では裸になるくせに石巻市では裸になれないのか、とやつあたりまがいの腹立たしさが一瞬湧いた。違う。自分のアイデアの雑さを的確に見抜かれた気がして、恥ずかしかったのだった。別にあなたと大喜利をやりたいわけじゃないんで、と指摘されたような。

 でも、裸になるのはそう悪くない気がする。石津光は全裸キャンプファイヤーにおいて下着を着けたままだったし、何かから解き放たれたり脱せた感覚が少なかったのが心残りだったといつか交わしていた。そしてわたしも、焚き火の画像においてなんで下着つけてるんだろう、半端じゃないか? といいねをつけながらもこっそり思っていた。

 わたしはひよったりしない。外だろうが陽のもとだろうが見知らぬ男の前だろうが、脱げはするだろう。

 なんでとかじゃない。だってそっちの方が圧倒的に面白いに決まっている。

〈ヌード撮影自体は、いちどしたけどデータそのものには満足行ってなくて、ずっと真剣に考えてはいて、でも一発ギャグみたいな作品になったら勿体無いなあと思ってる。

男子校だったらあまり覚えはないかもしれないけど、机とか教室の壁に年月日の落書きってなかった? 2006.3.13 みたいな。

あれは、自分が本当に「今」高校生だったということを残したい(本当に高校生である、高校生だったということに疑わしさもあるから)という意味の落書きなんだろうなって思ってて、

それとはだかを残しておくことは似通ってるなって思ったんだけど、どうでしょうか。

とは言え寒いから現実的じゃないかもしれないけどね。初夏あたりがふさわしいのかな。〉

 肩透かしを食らった格好のまま会話が終わっていたので、就業中に言い訳のように返信した。単純な思いつきってわけじゃなくてちゃんとコンセプトも意味もある――苦しまぎれだけれど、物書きであるからしてそれらしい背景や物語性をあとからぶっこむのはいくらだってできる。わたししかできない、猿芝居のめくらまし。

すぐに既読はついた。

「その手の落書きは見たことはないけど、言いたいことはわかります。自分もどう形にできるか、考えてみます」

 助かった、と思った。

 わたしはまだぎりぎり、自分が相手にして手応えのある相手だと思われて土俵に踏みとどまったのだと思った。


 とりあえず会う日付は二十二日にした。他の日が先に予定が埋まったからだ。

「一日中空けられる?」

「大丈夫です。石巻まで行くの、バイクと電車どっちがいいですか?」

 訊かれて一気に気持ちが華やぐ。下心がバリバリあるので当然バイクだ。けれど、一方で思った。この子は見知らぬ女をバイクの後ろに乗せようというのだ、普通はそんなことしないのではないか? 警戒心がないというかあざといというか、読めない。

 冷静に経験則でわかる。何考えてるんだかわからない人というのは往々にして、わたしに興味がないだけでなんも意図していないからでしかない。わたしに下心があれば、もっと意図が透けて見えるものだ。自分があっからさまにすけべなのでそういうのはわかる。

〈オッケー。軽量な格好で行くね〉

〈冷えるし、着込んでから行ったほうがいいですよ。裸になるわけだし防寒具は余るくらいのほうがいい〉

 思わず手を止めた。すでに既読マークがつんと小さく見張り塔のようについている。

〈ヌード撮るの?〉

〈撮るつもりです〉

 わたしは慌てた。

 苦し紛れの提案をまさか実行する気だとは。

 のらりくらりかわすつもりだったわけじゃない。本気で、本気の、裸を撮影したい、してほしいという気はある。

でも。

 裸を見せる? 

 間を置けば恥をかかせることになる。迷っている暇は一秒もない。

〈わかった。なんとかして一眼レフを手に入れるように努力する。とりあえず写ルンですは買っておくね〉

〈自分もつてをあたってみます〉

 そこでやりとりは一旦途切れた。

 ――まじで?

 こんなざっくりとした会話で終わっていいのだろうか。もっと細かく決めたほうがいいんじゃないだろうか。だってこんな、絵空事みたいなこと。

 今日電話して話し合わない? と言おうと思ったけれどやめた。ここまで来たのだから、本当に、「会ったことがないとりあえず出身大学は同じらしい、それ以外何の情報もない女」のままでいようと思った。

 電話すればきっとそれなりに盛り上がって、馴れあってしまう。それを石津光は望ましいと思わないんじゃないか、となんとなく思った。


 その週の日曜日、特に予定のなかったので銭湯に出かけることにした。

 四時に出かけたので空いているかと思ったら、老人でごった返していた。どうやら第二日曜日は毎月百円で入れるらしい。自分よりずっとかぼそく、壊れそうな裸体を晒す老婆を不用意にふれて傷つけないよう、いつもより動作をしずかにして着替える。

 身体を洗い、お湯に浸かる。濡れているのにくしゃくしゃの紙のようなお年寄りの身体を盗み見る。このなかでもっとも若く美しい人類は掛値無しにわたしなのだ、と思うとうっすら興奮した。

 顔にはたくさんの文句や欠点がすぐに乱射銃のように思いつくけれど、自分の裸にはそれなりに愛着がある。いちど舐めたソフトクリームの表面のような白い腿、伏せた皿のように丸い乳房、蒼ざめた血管が透ける皮膚の薄い腕、隠毛が無いせいで剥き出しになった性器の裂け目。

 もっとも気に入っているのは、横たわると鋭い山脈のように浮かび上がる腰骨だ。腹はかぎりなく薄べったくなり、湖にでもなりそうな平野がしずかに広がる。滞りなくなめらかな腹に手をおいていると、どこか神聖な気持ちになる。

 お湯がゆらゆらと揺らめく。水陽炎が肌に薄鼠色の淡い影を落としていた。


 ヌードを撮るにあたって、参考資料が欲しいと思い、兎丸愛美のインスタグラムやTumblrをざっとさらった。規制がうるさくなったせいで、前まで閲覧できたものができなくなったりしていた。

 大学生のときに自宅のアパートで「うちらも兎丸愛美になろう!」というコンセプトでヌードを撮影した際、協力者は同性の友達にお願いしていた。当時恋人がいたし、頼めばたぶんやってくれたと思う。けれど、裸をだしにプレイや前戯がしたいわけではない、と思い、肉体関係がある・あるいは今後ありうる相手には絶対に頼みたくなかった。

 ここに、問題点が立ちはだかる。

 わたしのなかの哲学としては、ここで石津光に裸を見せたら、今後わたしが彼に裸を見せるような関係になる可能性はこなごなにぶっ潰れるということ。

 いや何事も努力次第かもしれないけれど、わたしはそんな気持ち悪いことしたくない。ヌード写真を撮りあったあと寝たら、もうその写真は前戯の過程へと成り下がる。反吐が出るほど気持ち悪い。そんなもの芸術でもアートでもなんでもない、自然を巻き込んだ冒涜だ。すこしも笑えない。笑えないものをつくるくらいなら白紙の方がましだ。つまり、SNSでうっすらつながっているだけで満足しておけばいい、ただそれだけ。

 あーあと思った。こうなればまだ、正々堂々エッチな自撮りをばーんと送りつけてわかりやすく色仕掛けで誘惑していた方が誠実だったとも言える。いや別に、そこまで具体的なやらしい目的を持って素性も知らない後輩にダイレクトメッセージを送ったわけじゃないにしろ、普通な程度には若くて健康でバカなので、「……ワンチャンないこともないよね?」みたいなピンクで品のないことは、全く想定していないといえば嘘になる。

 ――異性の気を惹くためにぽっと口をついた嘘が、結果として異性としてみてもらう布石や導線をこなごなにぶっ壊してしまう、というのはとても皮肉で、いっそめちゃくちゃ面白いんじゃないだろうか。

 勢いだけの発言によって、イソップ童話の愚かで間抜けなキツネみたいな状況に陥っている。人知れず笑ってしまった。

 どっちにしたってわたしたちがどうこうなる可能性は、現実的に考えてきわめて低い。というか、無いと思う。「ヌード撮ろう」とか言ってる割に石津光からはわたしを少しでも性的に見ている気配が髪の毛一本分も感じられない。謙遜でも予防線でもなく、単なる事実として。

 それにメリットもたくさんある。「寒いからやっぱり初夏にしよう」「夏まで待とう」なんてなあなあにしているうちに半端に人間関係ができてしまうと、土壇場で裸を見せ合えなくなる可能性も高い。石津光はそれでも脱ぐだろうけれど、わたし自身がどうかまでは確信を持てない。「ところでこの人誰……」とうっすら混乱しているくらいの人間関係のうちに実践した方が、ちゃかしたりしないから写真の精度が上がる。そもそも裸の精度ってなんだ、と思うけれど、不純な感情は足手まといになりかねない。

 わたしは面白いことを世のなかの鼻っ面に叩きつけて楯突きたいだけだ。

 だったら脱ぐ。それだけ。

 文化祭前の準備にとても似ていて、あれこれ計画して資料や持ち物を集めて報告し合うのはとても楽しい。

 でも、ここがピークになってしまいそうでそれが恐ろしくもあった。

「心奪うときに身体使っちゃだめだろ」

 振られる間際、ほとんど意地だけで跨り、躍起になって服を脱がせようとしたわたしに元恋人がしずかに吐き捨てた。三年前。

 わたしはなんも、成長していないのかもしれない。誘惑するため、あるいは劣情を煽るために脱ぐわけではないにしろ、このまま石津光の前でヌードを晒すことは、なんらかの暴力になりかねない。



 撮影の決行日の週、お風呂から上がったあと、服を着ないで裸のまま鏡の前に立った。フランフランで55センチ幅の大きな姿見を買ったので、かなり見やすい。

 裸のポートレートを撮るにあたって化粧は……どこまでするべきなんだろう。ペディキュアは必須かな、と思ってとりあえず赤を載せた。あとはひたすらにボディクリームを塗って保湿しまくった。

首、鎖骨、乳房、腹、背中、面積の大きいところを中心に丹念に朝晩と保湿した。それこそ本命の相手との閨房を控えている女のように粛々と。

 けれどわたしはこれをセックスしない相手に披露するのだ。引き換えにセックスできなくなるのに。

 裸を撮る約束をした時点で、わたしは石津光に触れることを一切禁じられるのだ。だって被写体だから。

“どれだけ無防備な格好であろうと、どれだけ接写で撮ろうと、被写体にカメラマンは接触すべきではない”――一瞬とはいえ記者をしていたのでそれくらいの知識はある。カメラを楯に強姦してはいけない。

 もっとも無防備な、親しい人にしか見せるべきでないものをあられもなくさらしているのに、それを晒すことで近づくことができなくなる。なんて禍々しく矛盾しているのだろう。

 そんなのって、ほかにあるかよ。

 あまりにちぐはぐにねじ切れている。矛盾をパッチワークしたみたいに。

 万一、今後わたしたちが関係を持てば、その日の収穫はまたたくまにすべてが腐り落ち、手からどろりと零れ落ちてしまう。芸術は猥褻に、純真が打算に、好奇心は浅薄な口実に、このやり取りすべて男女の生臭い前戯の一貫に成り下がる。

 いつも思う。

 あらゆる状況のなかで、もっとも丁寧にたくさんの重い嘘をついている場面は結局のところ、性交渉のさなかなのではないか。

 没頭しているように見せかけてその実緩急を考えながら喘ぎ、計算しながら指を動かして手や足を配置して、あたえられた作為に対して作為的に表情も歪ませて応え、相手が野暮ったい失態を犯しても、気づかなかった振りをして見逃す。手に入れたい相手であればあるほどすごくすごく神経を研ぎ澄ましている。

 まったく素の状態で臨めるセックスというものがこの世にあるとすれば、二度と抱き合うことのないどうでもいい名無しの相手に限るのではないだろうか。

”性交渉の場面では常にお腹をひっこめて力を入れた状態でいる”――官能小説の女史が書いているのを読んで、身も蓋もなさにだらしなく嗤ってしまった。だからみんなやたらめったらすきじゃない人と寝るのかしら。でも、ホテルを出たら二度とすれ違うことがない相手だとしても、きっと嘘にまみれたセックスしか自分はできない。

 脳味噌が茹って沸騰するような、花が咲き乱れては儚く落ちるのを猛スピードで駆け抜けるような、極彩色のめくるめく嵐は自分を通過してはくれないのかもしれない。

 というよりも、そんなものは存在し得ないと思っている。惚れた人に忘我しきってへの字口になったみっともない顔を見せるくらいなら達ったふりをした方がましだ。結局何をされたところで自分の方がよほど的を得ているのだから。

 それに引き換え、裸を真っ昼間に撮影してもらうことの方がよっぽど嘘や混じりけのないコミュニケーションになり得るのではないだろうか。コンプレックスも自惚れも、何もかもあらわになっているうえ、嘘やつくりものは如実に写真のなかに映し出される。

 自分は頭がおかしいのだろうか。よくわからない。

 鏡の中で、化粧が剥がれたわたしがぼんやりとこちらを眺め返している。着衣の状態で被写体をするときは、「おっかない」「凄みがある」と評されることが多いのに、裸だといくら顎を引いて睨んでみても、どこか怯えのようなものが垣間見えた。とてもじゃないけど、「おっかない裸」とは言い難い。肉量や骨格の問題なんだろうか。よくわからない。胸の皮膚など簡単に素手で抉れそうに柔だ。柘榴を鷲掴みするように心臓を握り潰す想像が脳裏をよぎった。

 ――っていうか、「初対面同士で裸を野外で撮る」っていう文面の面白さに酔ってるだけな気もしなくも無いけどな。

 精液や経血を作品の絵の具の一部に使ってしまう美大の一年生と変わらない程度の発想、ではある。自覚はあるのだからそこには酔っていない。だから裸を撮るというのはアートと一発ギャグの間のすれすれに位置しているのだ。「とりあえず脱げばインパクトあるしなんとかなるだろ!」というスタンスでなあなあのまま敢行するのはかなり危うい。裸を安売りするだけ損をする。

 だとして、それを安全なところから指差して笑ってる人は、それを実行する勇気も覚悟も遊び心も何も持っていないに違いないのだ。

 と言ってもやはり野外で脱ぐことは現実的にできるものなのか、いまいちぴんとこない。いくらコロナで自粛していたり東北の郊外が寂れていたとしても、成人したおとなが一糸纏わぬすっぱたかでいたら、かなり目立つし、通報されたとしても全然、おかしくはない。こんなもん、どんな壮大なコンセプトがあろうが軽犯罪でしかない。

 石津光はどこまで本気なんだろう。

 いや、違う。彼は本気だ。問題はそこでは無い。

 石津光は、どこまでわたしが本気で「ヌードを撮ろう」と言っていると思っているのだろう。

 気がかりなのはそれだけだった。


 わたしが最初ピンク映画を撮ろうと提案したのは、ゼロからの急な思いつきではない。豊島ミホの「神田川デイズ」でこういう短編をヒントにしていた。

こういう話だ。

 ぬるま湯的な雰囲気を嫌い、「わたしたちは価値ある面白い映画を撮ろう」と映画サークルを飛び出した女子三人は、それまでになかったものとして女性向けのピンク映画を撮ろうとするのだけれど、「裸になれるかテストしよう」と監督をつとめるがリーダーを見て、「わたしたちはそこまで本気じゃなかった」「やっぱりできない」と撮影を中断させて、結局そのグループは空中分解してしまう、という話だ。

 とてもリアルだった。だってそうだ。友だちの前で、ものづくりのためという言い訳があったとしても裸になって演技をするなんて、ちょろっと思いつきでできることなんかではない。

 もし脱げなかったら、どうしよう。まさか。わたしはいちど文菜ちゃんの前で裸になっている。石津光は石津光で、裸でキャンプファイヤーをしている。むしろボクサーパンツを着衣していた石津光が、見知らぬ女の前で脱げるのか、ということの方がハードルが高い。

 ――その週に生理がきたらどうしよう。ありえないことも、ない。

 一瞬困惑した。でもきっと股間から経血を垂れ流しながらの撮影の方が最低過ぎて面白い。それにわたしは、人前でおしっこをしたことはあっても、人前で経血を流したことはない。思いついたら笑えた。

 あれこれ想定しているうちに、これをヒントに小説を書いたらどうだろう、と思いついた。百枚くらい。メインは一日のできごとだから、まとまりも悪くない。オール讀物の〆切はちょうど六月だ。

 いちど思いついたらいろんなアイデアが湧いた。ぶっ壊れたパソコン画面が虹色の滝を千々に走らせて入り乱れるがごとく、頭のなかがものすごい勢いで動き、くらくらする。

 さっそくパソコンのメモ帳をひらいてバーッとプロットを書く。うずうずする気持ちで胸が一杯になってプロットを組み立てる。脳味噌のなかみが熱を上げてガチャガチャ音を立てている、ああ、まさしくこの感覚だ。

 あの玩具の遊び方がわかったから早く帰りたくて待ちきれない、みたいな走り出したくてたまらない気持ち。生きているうち、何度こんな気持ちを味わえるだろう!

 安全な高い場所で黙って見てろ。明日を掴んで立ってやる。あんたらとは生まれた星が端から違う。一生スーパーの特売チラシの裏みたいな人生送って喜んでろ。

 跪け。盲になるくらいの眩い千の閃光、スコールのように地を叩きつける才能の雨霰、遥か天上で官能的に蠢きつづける虹色の彩雲。

 ちゃちなまがいものなど爪の先にも掴みたくない。能のない奴にいくらでもそんなちんけな子供騙しは呉れてやる。瓦礫の底から覗く、眼球まで染まりそうな溢れんばかりの青空だけが欲しい。世界が壮大な額縁であることを、わたしがわたしに証明したい、ただそれだけのこと。

 自分たちの設定をそのまま拝借するのはあまりに恥ずかしかったので、多少いじくってはみたけれど、大まかなあらすじはほとんど現実と変えていない。要は脚本を書く感覚が最も近い。

 ――ノンフィクション書くためにあとづけで行動を起こすってことか。

 やっと石巻で裸になることにしっくりと腹落ちした。すっかり順番が入れ替わっている。行動はあくまでも挿絵。

 作為、打算、いかさまのいんちき、やらせ。別に良い。どうせ一から百までつくりもんのやらせだとしても実行するような人間、わたしくらいしかいないから。面白い原稿が取れる確証があるならやらない理由がない。

 何年も日記だの小説だの随筆を書いていると、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが日記通りで、どこからどこまでが小説なのか、ときどき時系列も事実も夢幻もめちゃくちゃに入りみだれることがある。

 歳下の男に度胆を抜かされてばかりいてどうする。少しはわたしが舵取りをしなければ。

 予想を裏切って翻弄する側であり続けることを、わたしはわたしにだけは誓ってやる。


 撮影にあたって持ち物リストを作成した。そう日まで余裕があるわけではない。

 裸になろうとするわりには根がガリ勉なので、なんでもリスト化して整理することが好きだ。こういうところが色気がないというか、遊び心がないな、と我ながら思う。まあ、いい。色気など要らない。雑味は無くせるものなら無くした方がいい。

 カメラはなんとかオリンパスを貸りられることになったので、とりあえず、「携帯で撮り合う」という悲しい事態は避けられそうでほっとした。

 天気予報を見るかぎり、石巻はその日の最高温度は十一度しかなかった。東京も、雪が降ったり夜は冷え込んだりとせわしない。

 雨っぽかったら健康を第一にして無理しないことにしよう、と通話で相談した。

 とはいえここまで腹を括って出鼻をくじかれると、本当に困る。最初は「あっじゃあこの人に今後裸を見せることはありえないってことね……ふーん……」とよくわからない理由でショックを受けていたくせに、いざ猶予が生まれると肩透かしを食らった格好になり、気持ちがどうにも間延びしてしまう。

 電話で最後に確認した。

「こういうことわざわざ口にするのも無粋だけどさ」

「なんですか?」

 わたしはいつも、勿体ぶった言い方しかできない。辟易しながらも続けた。

「できればあんまり延ばしたくないよね。どう考えたって三月にやるのは適切じゃないし、やるとしても初夏のゴールデンウィークあたりになるまで待つのが無難だけどさ、延ばすとデメリットもあって、」

「はい」

 ちょっと緊張したけれど、相手に表情は見えていないので落ち着いたトーンを心がける。

「そのとき恋人がもしいたりしたらこの計画自体、頓挫するよね?」

 はは、と短く石津光が笑う。彼が続けたのは、わたしが想定していた台詞とは異なるものだった。

「僕は、そういうこと気にするような人とはたぶん付き合わないので大丈夫です」

 虚を突かれて計算が吹っ飛び、一瞬返事ができなかった。一拍おいて、わかった、とこたえる。

「じゃあこれは不問にしましょう」

 恋人がいようがいまいが、ものをつくることにおいては本当に何も関係ない。面白いもの、刺激的なもの、退屈しないもの、突拍子も無いもの、胸が躍るもの、魅力的なもの、目を離せなくなるものを生むのに、性別とか年齢とか持ちものなんてなんも関係ない。やる気がある奴だけ来ればいい。

 わかっている。逆の立場になれば、これがどれだけ鬱陶しい念押しだったかわかる。けど、我慢が聞かなかった。

 わたしだって、恋人がいたとしてもたぶん敢行した。好奇心に敗れて不埒に敢行してしまう側の人間だ。じゃなきゃいまごろ、こんなところにはいない。

「場所ももうちょっと考えないとね。石巻ってわりと遠いし、被災のあった三月の石巻である必要があるのか、腑に落ちきってない」

「それは僕も思ってました。石巻以外も考えたほうがいいですね」

 ――十一度って。東京でさえ、まだマフラーがないと寒くて凍えながら歩いてるっていうのに。

 わたしたちは、本当に脱げるんだろうか。三月の、気温が高いわけでもない東北の沿岸部で。


 三連休の初っ端はいいスタートではなかった。やまびこが強風で止まっていた。予定より一時間ほど遅れてようやく仙台に着いた。

 相変わらず、仙台を歩いていると昔の恋のことばかり思いだす。各それぞれ、というわけではなく、ひとりのことしかもはや思いださない。酔っぱらうとすぐにわたしの手をひっ掴んでタクシーに乗り込んでいた男。ウィスキーによく似たこっくりと深い冬の香水。酒飲みと付き合っていたのはただその一回だけだ。

 記憶の残骸ばっかり拾い集めて、結局何回も仙台に帰ってきてしまう。ばかの一つ覚えのように。

 金曜日も土曜日も綺麗な晴天で宮城なりに気温も上がっていた。問題は最終日だ。

予報では曇りときどき雨だった。かなり最悪だ。

「前日にまた決めましょう」――木曜日に通話した時点で、雨かもしれない可能性については分かち合っていた。けれど、雨だったらどうするのかは、全く決めていない。バイクに乗せてもらうことだけは確実に無理だろう。

 仙台滞在二日目の午後、大学の同期のあみちゃんと会った。ヌード撮影とはまた別に、わたしにとってかなり大きい予定だった。

 あみちゃんはわたしと学部が同じ同級生で、母校のミスコン2016年の優勝者でもある。

 あみちゃん個人が、ということではないにして、ネクラで卑屈でぶすな女子大生にとってミスコンに出ているような女は当時、言うまでもなく敵だった。超超超超敵だった。実家暮らしで幼稚園から慶應生、みたいな人くらい敵だった。視界に入れることすら拒んでいたので、あみちゃんのミスコンのツイッターとかは、当然知り合いだから気にはなったけど見ないようにしていた。どうかしているのは自覚していたけれど、過剰な自意識を守るためだったので仕方がない。

 文学部の同期で、名字が近かったから授業もいくつかかぶっていたし、口をきいたことくらいはある。でも、どうしても、ミスコンの優勝者、という色めがねをはずせなくて、かかわりを持てないでいた。めちゃくちゃ可愛くて、良い噂しか聞かなかった。見かけるたびに目で追っていた。でもそういう人はわたしみたいな人とは仲良くなりたいとか絶対思わないだろうな、と思って遠巻きにしか見ていなかった。

 卒業するときにはさすがにそこまでの自意識は溶けつつあったので、思い切ってあみちゃんに「写真一緒に撮ってください」とお願いして撮ってもらえた。「わ~、七海ちゃん久しぶり!」とまっすぐにわたしを呼んでくれて、感動した。

 名前を呼んで、話しかけて、「仲良くしたい」「しゃべってみたい」と伝える。こんな簡単なことなら、と思いそうになって、慌てて蓋をしめたが、すでに遅かった。わたしは気づいていた。どうせ自分は選ばれないから、と言って誰も選ばないで閉じこもるのは、とても傲慢で、わがままで、損しかしていなかったということに。

 卒業したあとになって「せっかくあんなに可愛い女性と同学年で同学部でいたのにな。勇気出して話しかけて、仲良くなっておけばよかった」と深刻に後悔していた。ミスコンアンチを一転、もはやめちゃくちゃファンになっていて、あみちゃんが載せる、数少ないあみちゃん本人が写っている写真はどんなSNSでも拡大して見ていた。

 学生の頃はギトギトに尖っていたので、女の子のことを「可愛い」「めっちゃ好き」みたいなノリでいちゃつきたがる女子のことは(うわっビジネスで百合をやっている気持ち悪い人種だ)とうがって見ていたのだけれど、歳をとってまるくなり、あかちゃんとか月とか宝石とか花を「綺麗」「ずっと視界に入れていたい」と思うのとなんも変わらないのでは、と思うようになった。それまで、女子が女子のアイドルの追っかけをする気持ちすら、いまいちピンと来ていなかった。

 おしなべて美人というものは自分を傷つけるもの、と思い込みすぎていたせいでもある。もはや外見どうこうじゃなくて中身がぶすだった。すべて、あとになってわかったことだ。

「本当は話しかけてみたかったけどもじもじしているうちに卒業してしまい、心残りでした。次の三連休に仙台に行くのでよかったらお茶しましょう」

石津光にダイレクトメッセージを送ったあと、ちゃっかりあみちゃんにも後日メッセージを送って、約束をとりつけていた。研究室の同期に自慢するくらいには浮かれてしまった。

 どきどきしながら待ち合わせた定禅寺のカフェに向かう。卒業して二年ぶりに会う、しかもちゃんと話すのは大学一年の春ぶりで、初めて遊ぶ相手なので、とても緊張した。それはあみちゃんも同じだったようで、「すごくどきどきしました」とはにかんだ。みっちり話すこと三時間、まばたきするのが惜しいと思った。

「明日さ、後輩の男の子と初めて会うんだけど、石巻で裸を撮る約束をしてるんだ」

 誰にも言っていなかったのに、あみちゃんにだけ明かした。前日まで迫っていたこともあり、不安や緊張が押し出したのだと思う。かつ、たぶんこの子はどれだけ突飛な常識はずれなことを言っても、水平なまなざしを曲げないだろう、と信用できたからだった。

 あみちゃんは過度に驚きすぎることも「ええっ」と顔をしかめて引くこともなく、「そうなんだね」としずかに、でも大きくうなずいた。それまで、仕事の話とかコスメの話とかしていたのに、突然意味不明なことをわたしが言い出したせいで単に反応に困っただけかもしれない。でも、裏表のない相槌だった。

「でも明日、予報だと雨かもしれなくて、今日は今日で晴れてるけど風が強いから本当にそんなことできるかわかんなくて、でも初対面だからそういう突拍子もないことができるっていうのがあるから、できれば明日、敢行したくて」

 人の前で吐露するのは初めてだったので、しっかちゃめっかちゃな説明になった。それでも、あみちゃんは「そうだね、天候には十分気をつけてね」と言った。

 とても嬉しかった。「頭おかしいんじゃないの」「ばかなの?」「いい年して痛々しい」――二年前、高校の制服を着て塩釜の海に入ったとき、そういう類いのことを真正面からぶつけてくる人もいないわけではなかった。それもかなり頭がいかれているけれど、大幅に超えて「初対面の男女がわざわざ被災地でヌードを撮影する」というのは、すべての観点から見ておかしい。気が狂っている、といえばまだポジティブな解釈で、炎上系ユーチューバーやバカッターとやっていることはなんも、なんも変わらない。どれだけ高尚な背景を練り上げようが、所詮人に見つかれば猥褻物陳列罪だ。

 だからこそ誰にもこの荒唐無稽な計画を明かせないまま仙台に来たのだけれど、あみちゃんは、考えられるかぎり一番やさしい対応をしてくれたのだった。

「明日、楽しんでね」

 あみちゃんが手を振りながら三越へ入っていった。学生のときの思い込みや葛藤やひくつなもの、昏く糸を引いていた翳りがかたまりになってさっと溶けた。いろんな感傷が駆け巡る。わーっと声を上げて走り出したい気持ちになったけれど、黙々と、目頭をあっつくたぎらせたまま、アーケードをずんずん歩いた。

 ホテルで明日の天気のスクリーンショットだけニ十三時過ぎに石津光に送る。返信の確認ができないまま、0時半に寝た。

 いま彼はひとりで寝ているのだろうか。裸体撮影を控えている晩、男の人はしてから寝るもんなんだろうか。

 最低なことがぱっとひらめいて、すぐ寝入った。明日の写真は、二十代の遺影になりますように。そう思った。


 ホテルで迎える朝はいつもよりてすがすがしくて、澄ましていて、ぱんと張ったシーツのように清潔に張り詰めている。

 目を覚ます。朝六時半だった。薄暗いホテルのなか、携帯を引っ掴む。電源を落としていなかった。

 耳を澄ました。雨音はない。

 いろんな通知を確認しているうちに、石津光からラインが入った。すぐに既読をつける。

「おはよう。今晴れてるよね?」

「行けなくはないですね」

 通話して、とりあえずバイクは断念して仙台駅で落ち合うことにする。コンタクトレンズを入れて歯を磨く。ヌードになるので、どのくらいの密度でメイクをほどこせばいいのかわからず、あまり色味は載せないことにした。顔色が悪く見えない程度にチークを載せ、口紅を引く。野外撮影なので、光があつまるようにハイライトも軽く馴染ませる。

 やるのかやらないのか、わからない。天気予報を信じるとしたら、たぶん脱げない。でも。

 ここまで来たら脱いで、オリンパスの中身をぎゅうぎゅうにして、東京に帰りたい。

 できるだけ痕がつかないよう、下着を着けるのは出る直前にした。

「着きそうになったら連絡します」と言われたものの、そわそわと落ち着かなくて、結局仙台駅に向かった。雨。日傘で頑張ってしのぐ。改札を撮ったり気味悪いメガネの男に話しかけられたりして、作りものの桜の前で石津光を待った。

「七海さん」

 第一声がなんだったか、憶えてない。

 呼びかけられてはっと左を向いたら男の人がいて、わたしに話しかけたのだと、時間差で気づく。

 まさしく石津光だった。

 写真を見ていたし、ラインで何度か通話していたのでどういう人かは想像がついていたけれど、初めて肉体を持って立ち現れて、あ、この人なんだと思った。

「おはよう。で、どうしようね」

 返事を聞かないで路線図のある券売所へ向かう。石巻、登米、塩釜、本塩釜……後ろをついてきた石津光がむむむと唸る。

 自分が決めないと出発できないっぽいな、と悟り、「わかりました」と改札を指した。

「本塩釜に行って、船に乗って桂島に行きます」

「了解です」

 仙石線に乗るのは学生のとき以来だった。最初に乗り込んだやつが小鶴新田で止まるやつで、昔何度も似たような失敗をしたなと思った。

 天気が悪いからなのか時勢のせいか、東北でいちばんの都市とは思えないほど電車に人が乗っていなかった。窓いっぱいに灰茶色の住宅街が流れだす。普段地下鉄ばかり乗っているので、なんだかこの景色はとても馴染み深くて、懐かしかった。

「やー、どうなりますかね。もうすでにやや降ってましたよね?」

「うーん。でもまあとりあえず行くだけ行ってみよう」

「あれ、雨じゃないですか?」

「嘘」

 嘘じゃなかった。白く細い線が針のように落ちてくるのが車窓越しに見てとれる。みるからにさむざむしい風景だった。

「曇天だねえ」

「午後からは晴れるみたいなんで、そっちに期待かけましょう」

 かなり怪しい。そもそも船が運行するかどうかだって怪しい。なんのせすべてが自粛の風潮だ。天候もあまり味方しているとは言えず、一昨日は強風で新幹線が運休したり大幅に遅れていた。

 知らない人と初めて会った上に、予想外な天候のせいで予定が狂いそうであるということ。これを、どう乗りこなせばいいというのだろう。歳上とはいえ、そこまで知恵が回るわけじゃない。平然とした顔は作っていたものの、心の中では懸念がぐるぐると不穏に渦巻いていた。

 わたしの思いつきに最後まで乗ってくれた後輩に、恥をかかせたり落胆させてはいけない。何かは、爪痕がほしい。

 本塩釜駅で降りる。空は眩しく白くて、呑気さは無い。水分ではない何かをいっぱいに張り詰めたような晴れ方だった。マリンゲートまで歩き、十一時発の船に乗った。

 制服を着て海に入ったときとおんなじ島だった。釣りに行くのであろう何人かの乗客はいたけれど、あまりいない。

「先に言っときます。カメラいじってたり提げてるときの自分は撮らないでください」

「なんで」

「ありふれててダサいから」

 簡単に絵になるし、実際似合ってるけどな、と思ったけれど喜ばないだろうなと思って言うのをやめる。確かに、わたしも学生の頃パンケーキ食べたりしているところの写真はあんまり人に見せたくないと思っていた。ような気がする。見た目が70点くらいの可愛い子とかげんきな女の子しかそういうことをして写真に残したらだめな気がするから、という極めて卑屈な理由ではあった。

 石津光が「これどうやって使うんだろ」と呟いて買ったばかりのカメラを膝に乗せてあれこれ操作しているので、船のなかでは撮影できなかった。船が作る波飛沫が濃い白で、白馬の鬣のように猛々しく渦巻いている。

 窓に額をくっつけて覗いていたら、石津光がシャッターを切ったのが気配でわかって、くすぐったくてしぐさが芝居めいてしまう。

 単に他に被写体がいないからだとしても、自分が見ていないところで撮ってもらえるのは嬉しかった。


 島を降りる。すっかり晴れていた。

「なんか……いけそうだね」

「いけそうですね」

 とりあえず人のいないところへ、と歩きだす。「あ、地図が圏内だ」と石津光が後ろで呟いた。三年前に来たとき、適当に探して全部なんとかなったので、わたしは地図を全然見ていなかった。どうせ読めないし、いかんせんめじるしも何もない島なのだ。

「あ」

 ねこをあやしつつ民家を抜けると色鉛筆で引いたような水平線と砂浜が覗いた。降りていく。

「人いないねえ」

 ひらけた海についた、というだけでどうしようもなく心が沸き立つ。船から見ていたときはお世辞にも綺麗とは言えない、底を透かさない深碧色だったけれど、波打際は砂を白く透かし、押し寄せてはまた引いていくのを繰り返す。

「なんか、ここ脱げそう」

「脱げますかね」

 ただ、海浜であるからして誰かが来たら丸見えで逃げ場がまるっきりない。奥に目をやると、ラグーン状に砂浜が大胆にカーブして、崖で背面がちょうどよく視界を塞いでくれる箇所があった。

「向こうなら、人が来てもすぐには見つからないよね。奥まってるし」

「行ってみます?」

 脱ぐかどうかはわからない。海は背景としてあまりにも開けすぎて、なんにもない。それとは何も関係なしに、緩やかに曇天の紗幕が一枚ずつ剥がれて、陽が蜂蜜色に濃度をグラデーションをかけてゆく。

 海が陽射しを受けて瞬きと閃きをぱちぱちと繰り返し、満ち引きを淡々と繰り返す。低く、次第に深く。

 ぼうっと見惚れてしまいそうになるのをこらえて、言った。

「脱げそう」

「え、」

 振り返って視界に石津光を入れてしまうと脱げなくなってしまう気がして、海に向かって言った。石津光にさきに脱がれてしまうと、そこで満足して”ふたりのうちどちらかは脱いだ”ということを言い訳にして脱ぐことが億劫になってしまうのが厭だった。

 どう考えたって、女の身体をしているわたしのほうが脱ぐ抵抗やリスクは大きい。本当に自分は石津光の前で脱げる弾なのか。どうなんだ。口上とは言え、脱げる器の男を引き連れているのに言い出しっぺの自分がやらないでどうする。

 よし、とアウターを脱いでレジャーシートの上に放る。裸足になって、セーターとスカートになった。

 足の裏に砂の柔らかさを感じて、自分の重みでゆっくりとしずむ。それは懐かしさを伴うほど官能的な速度で、それだけでなんだかもう、いっぱいだった。冷えるからやめた方がいい、と思ってもつい性分でスカートの裾を雑にめくりあげて海に入ってしまう。三月。水は予想通り、つめたかった。足から冷えが腰まですぐに這い登ってくる。

 無邪気を装っていても体温はすこしでも温存しておいたほうがいいな、と計算は働き、すぐに上がり、「脱ぐ」ともういちど宣言した。こわい、と思ったけれど、石津光と目を合わせる。おそらくわたしと同じくらい石津光の顔はこわばっていた。 

「遠慮するのは絶対やめてね。どれだけ近づいてもいいし、どんな角度から覗かれても平気。すきなだけじろじろ見てね。じゃなきゃなんのために脱ぐのかわからないから。失礼だなんて、思ったりしないから」

 逃げ道をなくすために言うまでもないことをさきに口にした。石津光がカメラを構える。怖くてもう、そっちを向けなかった。

 すっと息を吸う。リングに立つファイターのような気持ち。あるいは、全校生徒の前で作文を読み上げるために舞台上へ登壇する女生徒のような気持ち。

 セーターをインナーごと、一息に脱ぐ。

 陽射しをじかに受けて腹がほのかに温い。肋骨に均等な縞模様が浮かんでいるだろうか。

 決してなかみが詰まっているわけではないので、ブラジャーのなかと身体に隙間があったけれど、人前で直すのもためらわれて、そのまま脱ぎきった。スカートもさっと下ろして放る。

 あまり凝ってもしょうがないので、装飾と面責が少ない黒の総レースにした。シャッターを切りながら、石津光は「ほぼ水着ですね」と冷静に言った。

 予想はしていた。そりゃあ、ビキニとほとんど変わらないに決まっている。色も色だし、グレーのスポーツブラくらい振り切らないと「よくみたら下着だが背景で水着にしか見えない写真」にしかならないにきまっている。

「脱いだ甲斐がないなあ」

 赤や青も選択肢にあった。発色の点で良さそうだと思ったのだけれど、ほかの作為が写真からにじみ出てしまうのがわずらわしくて思いきって黒にしたら裏目に出た。思いっきり陽の下にいるので、たぶん、レースの繊細な柄はすべて光で飛んでいる。

 とはいえ下着姿を撮っていてもしょうがない。水着にしか見えないなら、なおのことそうだ。

「脱ぐ」

 いちいち宣言しなければ、脱げなかった。反応を待っていると身体がこわばってしまいそうで、石津光が返事をする前にブラジャーを後ろ手で外した。「えっ」と石津光が素で声を漏らしたような気がしたけれど、自分の聞き間違いかもしれない、わからない。ショーツからも足を抜いた。

 裸になってしまえば、なってしまえる。そう思った。脇や首すじ、脚の間、汗を書いて熱がこもっていた場所にすうすう潮風が柔く通って気持ちいい。普段風が通ることがない場所だから、知っている感覚ではあるのに初めて覚える快適さだった。

 振り切るように伸びをした。石津光はカメラを覗いているので、どんな顔をしているのかまるでわからない。

「気持ちいい」

 肩、鎖骨、背中、腹……紫外線を恐れず陽のもとでまっさらな状態でいるのは、物心ついてからの記憶ではこれが初めてだ。身軽だった。服から、という即物的な解放もばかにできないものだなと思う。

 脱いでやった、という気持ちで振り返る。おそろしくて自分の裸を見下ろせない。石津光は「あー」とか「うー」とか言っていた気がするけれど、相手の反応を推し量る余裕など吹っ飛んでいた。

 体質上陰毛がまったくないのが残念だった。あるのとないのでは、生々しさが全然違う。どうせなら生々しさがあるヌードを残したかった。男性と違って女性器は側面に位置しているから、陰毛がないと途端に女児のようにつるりとして、どこか無機質になる。

 とはいえ無毛だからと言って恥ずかしさがないわけではない。そこにあるべきものがないということ、という点でもそうだし、「撮影にあたって剃ってきた」と思われるのはもっと恥ずかしかった。かと言って自分から言及するのもはばかられる。

 もともとは裸になるときのために脱毛しているというのに、皮肉なものだ。

当然、石津光も何も言わなかった。常にレンズを覗き込んでいるので、剃り跡もない無毛であることに驚いているのかどうかもわからない。撮られていない瞬間、つい腕や手を乳房のあたりに持っていきたくなるのをぐっと堪える。そういう素振りを見せるほうがよほど恥ずかしい。

 裸になったって、自分とか社会とか、そういうものから切り離されているわけじゃないなと思った。でも、こっちの方が、圧倒的にすっきりと軽くて、自然な感じがした。

 それに、危惧していたほど寒くもなかった。そうだ、三年前撮影したときは水に浸かったから冷えたのだ。初夏の海と春先の空気で言えば、後者の方が生温い。

 ほかにもう脱ぐものがひとつもない。それがこんなに気持ちがよくて清々しいなんて、脱ぐまではわからなかった。服を着ている石津光の方が落ち着きを失くしていて、裸の自分の方が堂々と立ち振舞えるなんてどうかしている。

木に座ったり、しゃがんだり、腕を伸ばしたり岩に寄りかかったり思いつくかぎりポーズを取る。うろうろしていると被写体ではなくてただ裸でいる人になってしまって心細かった。

 我に返らないように、恥ずかしいと気づいてしまわないように、できるだけポーズとポーズの行間をなくすように努めた。かつ、「やばい」「どうしよう」とか、そういう当たり前のことを発してちゃかさないようした。裸のわたしがフリーズしたりテンパっていたら、きっと撮っている方にも如実に伝染してしまう。

やばくてとんでもない馬鹿をしていることはそんなもん最初からわかっている。いちいちそれでもわざわざ船に乗ってここまで来たのは、単に悪ふざけして盛り上がるためなんかじゃない。

 代償のぶん、きっちりむさぼるために来た。

「裸の人が目の前にいることに慣れてきた?」

 遠慮しないで、と言ったわりに石津光が一向に距離を置いたところからカメラを構えてくるので、タタタと駆け寄って近距離でカメラを覗き込んでみせた。「むりです」「慣れはしないです」とか可愛げのあることを言うかと思っていたのに、いや、と石津光はカメラから顔を外さずに言う。

「僕、そもそも女の人の裸にそこまで何か、思わないんで」

 一瞬、心が拒否の反応で横隔膜のように脆弱に撓み、さっとさりげない速度でひび割れる。

 いや違う、これは、と自分が自分に言い訳して何とかごまかそうとするのを別の自分が食い止めている。心が急角度で翳るのに追いつかないまま、「それはありがたいな」とまったく思ってもいないことを口にした。

 実際ありがたいのだった。わたしは別に、裸をだしにこの男と前戯をしたいわけではないのだ。その意思が明確に伝わっていたのかはともかく、同世代の異性とやりたいことを分かち合えた。それだけで充分とも言える。リビドーは原動力として働くことはあっても、それそのものは作品の足手まといでしかない。単なる悪趣味だ。

 裸なんて撮ったら穿った目を持っていなかったとしても、性的な題材とすぐ結びつく。わかった上でそれでも題材に選んだのだから、露悪になってはいけない。それこそマスターベーションの残骸、鼻をかんだあとに丸めたティッシュペーパーにしかならない。

 結局わたしは異性を欲情させなければ自分の身体を肯定できないのかな、とわかりやすい解釈をしてみたけれど、しっくりこなかった。そういうことではない。そういうことではないにしろ、「そう言うつもりで脱いだわけじゃないんだけどな」と苦笑する準備を一ミリもしていなかったとは言い切れないことがわかって、自分で自分がつまらなかった。

 あーあって思う。脱いでも脱いでも、わたしはわたしなのだ。

 砂浜でぺたんと寝転がった。朝から何も食べていない腹が、限りなく平坦に薄べったく広がっているのが感覚でわかる。砂の照り返しもあって太陽が眩しかった。

「満ちてきてます。荷物濡れますよ」

「えっ」

 気づけば入江が本当にラグーン状態に切り離されそうになっていた。とはいえ、濡れながら渡れなくもないだろうけれど。

早く、と焦れたように石津光が荷物を持つ。どうせまた脱ぐので下着をつけないままセーターをひっかぶる。頑張って入江から逃げだした。

「お腹すいたね」

「そうですね」

 さっきまで裸にいた砂浜を振り返る。崖で目隠しになると思っていたけれど、結局丸見えだった。

どちらにせよ、人はいない。島だから、と言うだけではなく、被災地だからだ。堤防や道路の手すりは真新しい白で、古びた景観とちぐはぐで、痛々しいほど白さが浮いて全然なじんでいなかった。

「どっか、食料買えますかね」

「あるでしょ。だって人が住んではいるんだよ? あと銭湯的なものがないかも聞いてみよう。寒いから」

「確かに銭湯入りたいです」

「このあと銭湯に入れる!っていうモチベーションがあるのとないのでは全然違うじゃん。裸にあたって」

「そうですね」

 とはいえ、民家を歩いたときにほとんどお店はなかった。人の気配もなく、猫を3匹くらい見かけたくらいだ。本塩釜のイオンでおにぎりか何か買うのだった。

「あ、店あるよ」

「え」

  内海商店 コンビニ と大きなフォントで看板が出ていた。ほっとしたけれど、店内は電気がついていない。戸に手をかけると、開いた。

「すみません」

お昼時だったので食事中だったのだろう、おじいさんが口をもごもごさせながら出てきた。

「この辺って銭湯ありますか」

「へ?」

「銭湯。お風呂です、お風呂」

「え?何?」

おじいさんと石津光が会話ではない会話を繰り広げていると、おばあさんがチョチョチョと奥から出てきた。

「お昼だったら、そこで休んで行ってくださいな」

コンビニといっても商店で、奥に机と椅子がおいてあるのだった。高校に通っていたとき、そばにある駄菓子屋がちょうどこれと似ていた。

「ありがとうございます……」

「コーヒー出してあげるから休んでいって」

そういって奥へ入っていく。生鮮食品はないので、カップ麺を選んだ。お湯を入れてもらう。

「よかったね」

「そうですね」

コートを脱いで、座布団の置いてある椅子に腰掛ける。お歳暮っぽい油類や柔軟剤なんかが置いてあった。食べ物は賞味期限が長いお菓子とカップ麺、飲み物だけ。きっと村の人は畑を持っているから、基本は自給自足なのだろう。

ずるずるとうどんをすすっていると、とおばあさんがコーヒーとほうれん草の和え物を運んできてくれた。

「ゆっくりしてってね。新聞記者の方?」

「いや、えっと」

「よく島にも取材で来るのよ。どこから来たの」

「仙台です」

「あれ、おばあちゃんも昔女学院で仙台にいたのよ」

その5年以外、80年間島に生まれて島で暮らしているという。「うつが全部、なげれてしまったでしょ」と言われ、なんのことかと思えば「家が全部流れた」と言っているのだった。それはそうだ。この島も津波と揺れで一溜まりもなかっただろう。

「食べててな」と言いながらアカペラで震災のとき作詞したという歌を歌ってくれた。真剣に聴き入るべきなのかどうなのかわからず、うどんを啜る。わたしの実祖母より8歳ほど年上のおばあさんは、赤ちゃんのように小さな顔をしていた。

わたしも石津光も、故郷は東北から遠く離れている。震災にまつわる思い入れは、東北の土地に由来する人に比べればあると言い切ることが難しい。

「震災復興の研究室に行きたいから東北大学に来ました」

――なんでうちの大学来たの、と仙石線のなかで訊いたら石津光はそう答えた。そうなんだ、すごいね、と浅い返事をするのもおろかしくて、そうなんだね、のあとは言葉を継げなかった。

わたしは震災のこととはなんも関係なしに、「数学で受験できるから」「都会すぎないから東京よりはなじめそう」という理由で来た。神戸や名古屋や福岡で代替できない理由ではない。

 恥じることではないし、後ろめたいとも思わない。でも、この人と同じくらいの熱意で東北や震災に対する熱量がないことを、すこしだけ悔やんだ。


 十三時に店を出た。ハイキングコースに沿って島を歩く。

 完全にすっかりと晴れていた。天気や自然にもてあそばれた気分だ。雨が降っていた名残なんてすこしもない。日傘が日傘として役立っていた。影がくっきりとアスファルトに落ちる。

「森に行きたいね」

「どうやって入ればいいんだろうね」

 墓場にたどり着いたり梅の木の下で撮ったりしていたけれど、石津光はあからさまに脱ぎたそうだった。「人来ないし脱いでいいですか?」と道端で言いだす。無理ではないけど、とりあえずあまり絵にならなさそうだったので止めた。

黙々と進む。「ハイキングコース 近道→ 」というマンガみたいな看板があったので、近道らしき道を進む。いい具合に木が茂り、翳っていた。片側は森で、片側は崖だ。道のどちらを向いても海が見える。

「森の中にいながら海の音を聴くのって贅沢だね」

「そうですね」

 赤い椿が点々と落ちている。かなり絵として映えそうだ。そうだった。この島は、椿が咲くのだ。ニ年前も、高校の制服を着て同じ道を歩いている。

「ここでやりますか?」

「待って、奥に鉄塔があるから、人工物の対比ができるよ」

薄暗い道を抜けると、急に開けた。鉄塔の前の柵に荷物を置く。人が来てもぎり、鉄塔の脇の小道に逃げ込めるだろう。

「おっしゃー」と言って石津光がバッと服を脱ぎ捨て始めた。日傘を放ってカメラで撮る準備をする。

「裸になれないときのために、おしゃれしてきてね」と指示したので、ジャンパーの下にジャンパー、パーカー、そしてオーバーオール、トレーナー、ジャージのズボンと、やたらと重ね着していた。

上半身裸になる。

わ、と思った。石津光が二十二歳であることをバンと思いきり突きつけられる。ぱんと気持ちいいくらい胸も肩も二の腕も内側から張り詰めて膨らみ、発光しているかのようだ。陽射しに縁取られて、白く飛んでいる。

「シャー」

声を発してやたらと勢いよく下着を下ろす。わかってはいても、この瞬間ははっと心臓が飛び出た。閨房において男の人がのっそりとためらいなく脱ぐ瞬間とは、何もかも違う。九州出身らしく眉は毛並みがふさふさと凛々しいのに、割に体毛は薄かった。

鍛えているので胸筋が影をはっきりとコントラストに味方につけていて綺麗だった。元気、とか若さ、みたいな身も蓋もない底の抜けた明るいイメージともすこし違う、なんというか陽も翳も引っくるめて生命力にみちみちている。

晴天つづきで燦々と金の陽光を浴びながらすくすくと育ったというよりも、激しい雨風や雪にも黙々と耐え凌いで幹を厚くして己を守りながら天に向かって自分の陣地を押し広げようとする樹木のようだ。天真爛漫さではなく、何があっても押し進んでやろう、みたいなしたたかさを感じる。ひとびとを風や雨から守ってくれる、神話の挿絵のようなやさしい大樹というよりも、ここで束の間の憩いを取ろう、と油断しきって寄りかかったら、弓のように反り返って撥ね飛ばされそうな獰猛な針葉樹。

シャッターを切る。石津光が素っ裸に陽を浴びて唸りながら気持ち良さそうに伸びをした。大型犬の咆哮のようにも見えた。性差によるのだろうか、とても肉厚的で、身体の至るところに水溜まりのように影が落ちている。

「とりあえず煙草吸っていいですか」

「あ、うん」

吸う人だろうな、とはうっすらと予想していたらやっぱりそうだった。煙が空に白くたなびく。

それよりも、左脚の太ももの側面にまっすぐ走っている大きな傷口から目を逸らせない。胸にもいくつか生傷が走っている。

「先に言っておきますが、僕の裸結構インパクトあると思います。自傷行為が趣味です」

身体に自傷の痕があることはヌードを撮ることを決定したのち、割と早い段階で知らされていた。けれど、海に行ったときに腕や足をまくっていた際は傷は何もなかったので、あれ、と思った。「もう薄くなったけど、驚かせないよう念のため言っただけなのかな」と解釈していた。

 明らかに、数年前のもの、などではない。痛々しく血が固まりかけていて、指ですこしいじくればすぐに開いて膿や血が滲むだろうことが見て取れた。

裂け目からこちらを威嚇するように鮮やかな血がこちらを覗いている。脚だけではなく、胸や腕にもあった。

「荷物入っちゃうから、場所変えよう」

「はい」

 誰も来そうにないので思いっきり道の真ん中に立ってもらってレンズを向ける。撮られ慣れていないというわりに、こちらが持て余すより前にポーズをあれこれ変えてくれる。カメラを使ったことがないなりに、撮りやすい人だと思った。這いつくばったり、地面にカメラを置いてみたり、近づいたり、好きに撮った。裸になっていたときと同じくらい、裸の被写体と剥き合うということは体力を消耗するのだな、と思った。自分は脱いでいない、ということに対して、それでおあいこにしているつもりなのかもしれない。

 写真のセンスも、パースの取り方もわからない。まっすぐ撮るとか逆光に負けないとか、そういうのしかできない。

 とにかく一所懸命撮る。今日しか撮れない。

 けれど、どうしても、カメラから目をはずして直接石津光を見ることには強い抵抗があって、憚られた。やはり裸というのは思っている以上に衝撃が大きい。

下を剃っていたので、そのぶん彫刻めいて粗野な生々しさが剥ぎ取られてよかった。かといって、性器が剥き出しに晒されているので、生々しさがないわけではない。肌が綺麗で体毛が薄いので清潔な感じがした。

枝を拾ったり、胡坐をかいたり、藪の中に入ったりした。さっき自分は躊躇なく裸になったけれど、それは場所が海で、虫も障害物もほとんどないからできたことだったのだな、と思った。わたしなら藪を掻き分けて入り込むことはできなかったかもしれない。

「森で暮らしている人っぽくていいね」

原始的な写真が撮りたいと言っていたので、これほどいいロケーションはない。カメラに収めればまさに、原始の暮らしだ。葉や木陰で局部がいい具合にカモフラージュされている。斑点のように影が落ちて、裸でいることがとても自然に見えた。

石津光の顔や身体のうえで、生きているかのように葉の影がうごめく。まるで自然に犯されているような艶かしさがあった。

「いいね。綺麗」

 裸になった直後は照れなのか強い道徳心からの反発なのかとにかくたくさんしゃべっていたけれど、慣れたのか、撮られるがままになっていた。表情もこわばりがほとんどない。

 それにしてもこの人は肝が据わっている。忘れかけているけれど、わたしたちはこれが初対面だ。

 覆いかぶさるようにしてシャッターを切る。カメラを楯にして、良いようにしていることを後ろめたいとはすこしも思わなかった。

いま撮ったものよりさらに良い瞬間をおさめたい、その一心だった。


 来た道を戻る。わたしは裸になったとき以上に疲弊していた。石津光のエネルギーにあてられたのか、単純に紫外線を気にせず日の下で動き回っていたからなのか。

 十五時半。おばあさんが船の最終は十七時だと言っていたから、そんなに時間に余裕があるわけでもない。

「あと一箇所撮ったら撤収だね」

「時間的にそうですね。島に残されたら結構やばいし」

 さっきまであんなに影が濃かったのに、いつのまにか陽が和らぎ、曇りかけている。さっきは撮影のゴールデンタイムだったのだ。

急いで別なハイキングコースを歩く。森で撮ってみて、自分も森を背景に、あるいは森の中で脱ぎたいと思っていた。

 下着をつけていない乳房がカシミアセーターの中でふにゃふにゃと泳ごうとする。制約がないだけでこんなにも楽だ。

「なんかいい場所ないっすかね」

「ねー……どっちにしたって人なんかいないんだけど」

船でわたしたちと何人かは降りているので観光客がいないはずはないのだけれど、今のところ島民としかすれ違っていない気がする。

意味もわからず獣道に入ったり、急な勾配の階段を登って無駄に体力を消費しているうちに、竹林に入った。だだっ広いのにところどころ石碑がある。お墓だったらやばいな、と思ったけれどそうではないみたいだった。

建物の跡地だと石津光が教えてくれた。庭があった痕でもあるのだろう、椿が咲いていた。

ここにあった建物は九年前の津波で流されたのだろうか。高台ではあるけれど、切り立った崖を覗くとすぐ港が下にある。ここも津波を引っ被って、全てが押し流された痕跡地なのかもしれない。

「なんか、脱ごうかな」

時間もそうない。ここで「う~ん、いまいち映えないし人来そうだしやめよう」とぐだぐだ言ってまた動きだしたらもう船に乗る時間になりかねない。「撮りますか」と石津光も平らかな岩の上に荷物を置いたので観念してリュックを下ろし、アウターを脱いだ。

田舎の農村部出身のくせに、わたしは虫や爬虫類が大の苦手だ。草の生い茂った土壌はいかにも豊かで、何が蠢いていてもおかしくない、生の気配にむんと満ちていた。できれば肌でふれたくない。けれど裸にはなりたい。レジャーシートを敷き、服を脱いだ。ブラジャーもショーツも着けていなかったので、信じられないくらいスムーズに裸になってしまう。

 あー、と思う。海で裸になるのはまだ、理由がある。日本はともかく、ヌーディストビーチという文化もあるし、水着なんてほぼ裸だ。

でも、ここは明らかにもともとは誰かが生活していた場所で、薄暗く、もう影が地面に落ちていない。けれど、鳥肌が立つほどの寒さではない。

潮風で髪が軽くなぶられる。中途半端に積み上がった石段に腰を下ろした。ひんやりと冷たい。

「人いますよ」

「え?いないよ」

「そこ、船にほら」

振り返る。見下ろすと小さな舟が一艘あり、おじさんが乗って作業していた。表情まで見えそうな距離ではあるけれど、幸いにもこちらには背を向けている。

「いいよ。見てないし」

「そういう問題ですかね」

人に見つかる云々は、もはやほとんど懸念事項から吹っ飛んでいた。むしろ「いいもん立ちあえて良かったね」と思いそうな開き直りすら芽生えている。

虫が怖くて不用意に木や草木に寝転がることができない。石が体温を奪い、腰がだんだんと冷えていくのがわかる。

乳房のさきが、冷えを敏感に感じ取って何かを拒むように小さくこわばっていく。隠すことができないこの場において、異性の目がまったく気にならないわけではないけれど、見映えが悪くなるな、と思うだけだった。裸になるのは二回目なのでさっきよりは変なあせりはない。

道路に出て腰掛けた。海が鈍く灰色にのったりと揺れている。寒くなったのでセーターをかぶった。

「僕もここで撮りたいです。僕はあそこの竹林で撮ります」

「いいね」

勇気が無くて選ばなかったけれど、わたしもいい背景だと思っていた。石津光は潔く服を脱いで一瞬で素っ裸になって、果敢に竹藪の中へ飛び込んでいく。

暗いけれど一眼レフが勝手にフラッシュを焚いてくれるので真っ黒に塗り潰されてしまう、ということはなかった。

 疲弊で顔からふいに表情ががくりと抜ける瞬間があった。射精したあとみたいでやけに色っぽい。くたびれている男を見るたびにそう思っている気がする。

すっくり立つと、やはり太腿の大きな赤い傷に目が行ってしまう。

「その傷いつのやつなの」

 訊くべきなのかどうかで言ったら、本人が言及しないかぎり言い出さないほうがいい。そう思って最初に裸を見たときには特にふれなかったけれど、堪えきれずに訊いた。訊かないほうが不自然だから、というふりをして。

「二週間前とかですね」

 ぎょっとした。わたしたちがヌードを撮ることはその時点で決めていたはずだ。

「かさぶた取るのがすきだから。カッターとか使うのはだせえから、歯とか指で、傷つけてます」

腕やふくらはぎはともかくとして、胸や太ももは角度的にそれは難しいんじゃないのかな、と思ったけれど、それ以上訊くのはためらわれて、そうなんだね、と言った。

 石津光の言い方に、脅しや誇示するニュアンスや後ろ暗さ、負い目は感じられなかった。自傷ではなく自分の身体をキャンパスや粘土や絵の具代わりに弄っているんだろう、と解釈したけれど、本当のところはよくわからない。なんにしろ、石津光とは面と向かって話すのが初めてなのだ。

 この人がどれくらい昏い翳りを持っていて、そうだとすればどれくらいその性質に自覚的で、人と分かちたことがあるのか、そうではないのか、それともすべてわたしの過大解釈で、彼にしてみれば傷を伴う遊びで暗いところなど何もないのか、その逆に人間関係の築きがないわたしに対する配慮であえてカジュアルなニュアンスで伝えているだけで本当は深刻なものなのか、何も推し量ることができない。

「あっちでも最後撮ります」

 そう言ってわたしを置いて竹林から勢いよく出ていく。鍛えているからなのか、それとも人並みに肉づきがあれば本来そうなるものなのか、筋肉の躍動で尻が綺麗な球体だった。長いコートの裾を踏んづけたりしながら、急いでついていく。

「海をバックにして撮ろう。フェンスまで行ける?」

一瞬舟を気にする素振りを見せたけれど、石津光は口応えせずにフェンスでポーズを取る。

「良いね」

 筋肉を見せびらかすみたいに腕を力んでみせる。曇天ではあるけれど、それはそれで暗い翳りが肉体を立体的に見せている。

「男の人って、自撮りしたりしないよね。ねえする?」

「しようと思ったことないですね」

だよね、と返す。

「僕、あんまりコンプレックスないんですよね。見た目に」

 ぽつっと言う。まあそうだろうなと思ったけれど、わたしが思う「コンプレックスを失くしたい」とは全然違って、単に興味関心がそこにないだけなのかな、とも思った。

 だとすれば歯軋りしたいほどすごく羨ましい境地だった。境地も何も、最初からそうなのだとしても、わたしはそこに辿り着きたくてぐちゃぐちゃに暴れまわっている。会う前からそういう人なのかな、となんとなく嗅ぎ取っていた。

 自分があまりにも過敏だから、他人が容貌に対してどれだけ執着や愛着があるかはなんとなくわかる。石津光は終始おそろしくその自意識の気配が薄く、ほとんどないといっても良かった。

「自分のこの顔も、すきでも嫌いでもないです。気に入ってないとまでは言わないけどどうでもいい」

 黙ってシャッターを切る。カメラを向けているとき、わたしは聴衆ではあるけれど、相槌を打つ役割は担っていない。

「僕は、世間的には容姿に恵まれた方だとは思いますけど、顔を褒められても嬉しくないです。練習してうまくなったオナニー褒められた方がうれしい」

 際どい単語に一瞬ぎくりとして気をとられる。石津光の表情に昂りはなく、ただ海でもわたしでもないさきを見ていた。

 努力しないで、得るつもりもなく持っているものを賞賛されても薄ら寒いだけ、というふうに聞こえて、もううまく言葉を返す自信が無くて口をつぐむ。

綺麗な顔でいるのは宝石を持って生まれたのと同じなのにね、と思ったけれど、到底口にできるはずもなく、黙ってシャッターを切った。そんなのはわたしの傲慢な持論でしかない。

 わたしが石津光に興味を持ったのは、彼の見てくれがちょっとびっくりするぐらいに綺麗だったからだ。その事実はあまりに皮肉が効いている。浅はかで尾籠な魂胆をつまびらかにすれば、石津光は落胆して眉を顰めることだろう。もし会う前に明かしていれば、余計落胆させて会うモチベーションもまったく別なものに変質していたに違いない。

 もちろん、綺麗だから、だけじゃない。そんな人いやんなるほどいっぱいいて、でもすれ違ったあとわざわざ腕を掴んで視界に割り込もうなんて思えない。本気でものをつくっている人だから、会いに行こうと思った。

 でも、見てくれの要素はけして消せない。そうじゃなかったらそこまで踏み込んで石津光に会おうとはしなかったはずだ。

気づいたことがある。

 ダイレクトメッセージを送ってラインのやりとりをして、それから実際にあって島で写真を撮りあっている今まで、いちどとして石津光はわたしの容貌についてジャッジするような言葉を口にしていない。そりゃあ「細い」くらいは言われたけれど、どうしようもなく規格外の形をしているので単なる事実でしかないし、わたしもそれについてはいまさら何も思わない。ふれないほうが不自然なくらい、わたしの軀は肉も脂肪も必要なぶんまでごっそりと削ぎ落とされている。冗談抜きでジャコメッティの「歩く人」みたいに、骨格に沿って最低限、皮膚がぴたりと寄り添っているだけの歪な身体だ。綺麗と思う人か醜いと思う人かしかあらわれない、振り切れた見てくれをしている。

 事実確認程度の感想くらいしか彼は口にしていない。会う前も、会ったあとも、服を着ているときも、服を脱いだあとも。

 わたしは、実際に初めて会って石津光を視界に入れたとき、反射のように「写真見て知ってはいたけど、立体で見ても綺麗な顔してるな」と思ったけれど口にしなかった。

 失礼にあたるとかこの人は別にルックスを売りにしていないとかこの関係性でそういうことを今言ってもしょうがないとか、そういう云々よりも打算だった。半端に色気を出して撮影の障害になるのはあまりにも勿体無い。そう計算して引っ込めた。

 普通に「松島か塩釜ぶらぶらして海鮮丼とか食べよう」みたいな約束で会っていたら、口がすべっていたかもしれない。わからない。

 そとっつらで評価なんかしたくもないし、されたくもない、というのは、元から宝石を嵌め込まれて生きている人由来の逆説的欲求なのか。わたしが過剰に外面への評価を求めているからそう穿ってしまうのか。

 どっちだっていいけれど、石津光はポーズでもなんでもなく、水平な気持ちでただ、脱げる器を持っている人間を撮りに来たんだろう。わたしが女だからとか突然逆ナンしてきたからとか、そういうこと関係なしに、撮るために来ている。

 うまく言えないけれど、それってものすごいことなんじゃないのか。そう思った。

 わたしは、服を着た状態の石津光の前で裸をさらして、自体の不自然さや羞恥は感じたけれど、「こわい」とはいちどとして感じていない。女性が男性の前で裸になるにあたって、それは、もしかしたらすごく稀有なことだったのかもしれない。

 風が冷えてきた。「撤収します」と石津光がのろのろと立ち上がって、着替えて煙草を吹かした。吸わなくてもやっていけるのに吸わなきゃやってけない人の顔をしていた。

 裸のときのほうが似合っていたな、と思いながらカメラを向ける。もう陽が射しそうになくて薄暗かったけれど、廃墟の痕地にはしっくりきた。

会社のラインの通知だけ確認して、「船に乗ろう」とリュックを背負う。石津光も黙々と荷物を詰め始めた。しげしげと眺めやる。

 裸を見せ合ったのに、うぶげの克明なふるえすら肉眼で捉えられるくらいそばに寄ったのに、この人に近づいたとはとても思えない。

 撮っていないあいだも、写真に関係することもしないこともあれこれたくさん言葉を交わしたけれど、でも、会う前と会ったあとで、別に距離が取っ払われたとは思えなかった。

 ヌードを撮るにあたって、参考になる記事を探しているうちに雨宮まみの記事に当たった。四十歳になるに当たって、自宅にカメラマンを呼んでヌードのポートレートを撮影してもらったときのことをコラムに書いていた。

 最後に、性的な意味を抜きにハグをしていて、それがとても自然に「しましょう」となったのが、読んでいて腑に落ちた。なるほど裸を思い切って見せて撮影するというのはそういうものかもしれないな、金輪際二度と石津光に裸を見せることはないとしても、撮ったあとそうしたくなったらしてみようかな、とうっすら思っていた。

 でも、実際に裸を見せ合って、もちろん打ち解けたは打ち解けたけど、でもそれははじめからそうだし、裸を見せたから劇的に変わった、とかじゃない。雰囲気も、抱きつける感じではなかった。

 拒まれたら怖いな、とかびっくりされそう、という危惧もあったけれど、なんとなく、「そういうものだからそうして見た」という二番煎じからとってつけるように抱きついたとしても、不自然でしかないように思われた。

 あんまりしゃべったり笑いあったりしなければできたかもしれないな、と思いつく。わたしたちはお互いに、頑固で気難しくてひねくれているわりに、懐っこすぎるのだ。

 雲が濃淡を変えながら風で大陸のように移動している。

 わたしたちの一世一代のあそびも、もう終わりが刻々と忍び寄っていた。


 ぎりぎりかと思ったけれど、そんなこともなかった。港の付近をぶらぶらしたけれど、風が強すぎてまた待合室に追いやられる。

「これめっちゃ良くないですか」

Bluetoothをつないでカメラからスマートフォンに移したらしい。覗き込むと予想はしていたけれど裸のわたしが乳房を丸出しにして岩を背に立っていた。うわ、と顔に血があつまる感覚があったけれど、そういう反応をしてしまうと本当にそういうプレイであるっぽくなってしまうので静かに「良いね」と返した。

 五時の最終便で本塩釜に戻った。西陽が眩しい。海の表面が、絵の具をなんども叩きつけた油彩キャンパスみたいに、肉感的につのが立っていて、不思議だなあと思った。

 そこまでは覚えているけれど、さすがに疲弊が一気に来て、いねむりしながら帰った。隣で石津光がずっとカメラをいじくっていた。携帯じゃなくてカメラってところが良かった。

 本塩釜駅に着くと、ちょうど仙石線が出たあとだった。ホームのベンチで、すきな建物の話を聞いた。全然知識がない分野の話を聞かせてもらうのがすきなのでうれしかった。

 銭湯に行きたかったけれど、明日出勤せねばならないことを思うと、少しでも早く帰って寝たかった。行くまではぎりぎりまで仙台どころか石巻に居たいと思っていたけれど、島をぐうるりと回っているので、全身に重い毛布がかぶさっているように重たい。

「お腹すいた! 何食べる?」

「中華でいいなら北京餃子行きます?」

「行きたいけど遠いから仙台駅のところにしよう」

「わかりました」

 仙石線がホームにしずしずと遠慮がちにすべりこんでくる。相変わらず人がほとんど乗っていない。ぼうっとしているうちに次の西塩釜に着いて、このままだとあっというまに仙台駅に到着してしまいそうだな、と思って口を開いた。

「わたしがDMしたとき、石津君、『いつか是非遊びましょう』で会話締めくくったじゃん」

「そうでしたっけ」

「当然社交辞令だとは思ったけど、言質として利用しない手はないと思って、『仙台行くから会おう』って返したんだけどさ、それははったりで、全部あとからチケットとか手配したの」

「えっ」

 そうなんですか、と石津光が素で驚いている。やっと自分のカードでおどかすことに成功して、すこしだけ嬉しかった。この男はいつもわたしよりうわてで、翻弄されてばかりいた気がしたから。

 なんだかすでに今日のことが思い出に移ろいかけている。そうだとしてもわたしたちじゃないとできなかったことだ。

「にしても楽しかったね」

「いやー遊び倒しましたね、いい一日でした。カメラこんなに楽しいと思わなかったです。これから旅行が充実しそう」

 最初にこんな面白もの撮ってしまったら、あとはもう、単なるスナップ写真にしかなりかねないかもしれないよ。と意地悪なことを思った。口にはしない。単に、これから石津光に撮ってもらえる人のことを僻んでいるだけだ。

 それに、わたしが使っていたカメラは借り物だから、早く返さなければならない。何を撮ったかは到底言えないけれど。

 楽しかった一方で、終わってしまったな、というのも同じ重さでさみしくぶら下がっていた。

 互いに裸を晒し合って、一日がかりで撮影し合った。初対面で島に渡って全裸を撮り合う、もうそれだけで手一杯だ。それより濃厚な一日の過ごし方なんてあるだろうか?

 最初の一発目で、わたしたちは「裸を見せ合う」「裸を撮り合う」という切り札を思いっきり使ってしまった。それこそ「モザイクのいらないピンク映画を撮る」とか、言い訳の余白のあることだったらまだよかったかもしれない。

 初手はいちどしかない。そこでこんなとびっきりの飛び道具を使ってしまったら、そこでもう頭打ちなんじゃないだろうか。

 つまりは、もうわたしたちには会う理由がなくなってしまう。いや、「仙台行くからごはん行こう」くらいは言えるだろうし、石津光も無下に断りはしないだろう。

 でも、そういうことじゃない。今日くらい、ぎらぎらとエネルギーを光らせながら、タンクローリーに溢れるくらいの熱量を詰め込んでやってくることは、きっともう二度と無い。

 人身御供を差し出しあった。つまりは初っ端でクライマックスをやってしまったのだ。わたしたちは。

 今日で二度と会わない。そう約束すればわたしたちの関係は、一万年前に琥珀のなかに閉じ込められた昆虫のように、これ以上ないってくらいかがやきを放つ宝石のひと粒になりえるだろう。今後、彼が誰と出会って、わたしがどこの誰と付き合っても、押し流されることなく、残りつづけるだろう。

 そうだとして、そんな暴力的ぶった切り方、現実世界の人間関係でありえるのだろうか? 初対面で裸を撮影し合うことこそ架空の小説めいてはいるとしても、それはすでに事実として横たわっている。

 小説に使わせてもらおうとひらめいてしまったので、絵的であることばかり追求してしまう。わたしは別に、自然を背景にした二十四歳の自分の裸体のデータ画像ばかりが欲しくてこれを決行したわけじゃない。これは単なる奇行に終わらず小説のプロットとして使える、と気づいた時点で、実行は挿絵となって背景に霞んだ。物書きにとって、このアクト全部が前座でしかない。メインディッシュはその後に起こすテクストだ。

 何を自分が考えて、思うのか。脱ぐ前と脱いだあとでわたしたちの関係は変わるのか、変わらないのか。石津光は小説を超えてぶっ飛んだ人間なのか。はたして物語として破綻せず成り立つのかどうか確かめるためだけに来ている。

「今日さ、晴れてよかったね。仙台に出発する前の時点で、裸になれない可能性の方が高いなって思って心配してた」

「そうですね。単に街で撮ることにならなくてよかったです。次の作品のインスピレーションにもなったし」

 ふっと、自分との乖離に笑ってしまう。ああそうだろうな、と思った。この人は別にわたしとデートしにきたのではなく、ものづくりをしにきている。

 わたしは別にそれでもいいやって思ってたよ、と心の中でだけ思う。自分がある程度には綺麗だからこれが実現できたのだと浅ましい自負があったのだけれど、実際のところわたしが醜かろうが歳をとっていようが男だろうが爆乳だろうが太っていようが刺青が縦横無尽に肌を埋め尽くしていようが、この後輩のモチベーションには何も関係なかったのかもしれない、と密かに思う。一瞬八つ当たりめいた苛立ちは掠めたものの、自分と同じくらい自意識に溺れていてすけべな人間だったらこれから書く原稿はものにはならないだろう、とも思う。そもそもこんなこと実現しなかったはずだ。

「そうだよね。石津君は、そうだろうな、ってわかってた。ただね、ひとつあるとすれば」

そこで言葉を一旦切った。もったいぶっているのではなく、電車の騒音がうるさくて、自分の言葉が掻き消されてしまいそうだったから、確実に届けるためにすこし待った。

「ここでクライマックスって感じがする」

はしょりすぎたかな、と思って反応を待った。石津光は黙ったあと「それって、僕、関係ありますか」と言った。うまく伝わってないっぽいな、と思って苦笑いしたけれど、くわしく説明するのはやめた。どうせあとで全部書いて渡すのだから。

 わたしたちが今日考えたり思ったりしたことは、まったく違う。それが、浮き彫りになるとしても書き起こす。書くことでこの男と縁が切れようが、傷つけようが、突き放されようが、軽蔑されようが、おかまいなしに。

「ヌード撮りましょう」と言われたとき、自分から言いだしたくせにうっすら傷ついたことを思いだす。あのとき、「まだ寒いよ、だって三月だよ?」「会う初っ端でヌード見せるの?」などと慌てる気持ちがまさって気づかなかったけれど、その裏でショックも受けていた。

 こんなにあっさり提案してくるということは、石津光のなかでわたしとの“今後”は存在しないんじゃないか。そう気づいたからだった。

 人間関係をこれからも築く気があれば、裸なんて見せ合うべきではないからだ。言い出しっぺのくせに「あったかくならないとできないけど」などとうそぶいて引き延ばすニュアンスを出したのは、石津光にとって、わたしは突発的なゲストではなく、長期的な人間関係を持ちたかったからだった。別に、交際に頑張って持ち込もうとか恋愛感情をなんとしても沸かしてやるぞとか、そういうモチベーションではなく。

 それとはまた別に、わたしは真剣に石津光に敬意を払っていた。

 この人は、保険をかけないで、一発目から百点を叩き出すために、何もためらいなく手段を選べる人なんだ。皿にあるくだものをすっと掴むみたいに、ためらいなく、なめらかに。

 すごい。わたしには、できない。自分も同じくらい、真摯に満点を叩き出すための努力を厭わない側の人間だとうそぶいて脱いだけれど、そのなかに「わたしだって覚悟はある」と石津光に見せつけてやろうとする意地がなかったかと言われれば、わからない。

 ありていに言えば、これを実行しようがしていまいが、ヌード撮影の小説や架空の随筆を書くこと自体はできた。脱がなくても会わなくても想像で綴ることができるからこそわたしは物書きをしている。それでも、リスクを背負って脱いだのは、なんでなんだろう。

 悪事の共犯者だとばかり思っていたけれど、この人は、そうじゃないのかもしれない。

 ミューズ。

 ぱっと思いついてしまって顔が赤くなるのを感じる。ファンになった、とか恋するかと思った、とかおためごかしを口にするよりもよほど素で嬉しがられてしまいそうで、小っ恥ずかしくてとても言えそうにない。

 でも一番しっくりくる。

 後悔しているわけでは絶対にない。

 やってよかったと心から言えるし、これからもそうだ。でも、この人に結局、「かなわないな」と舌を巻いているばかりいる気がして、ああそうだ。

 悔しかった。そして、悔しいと思える相手に出会えたことを、心の底からよろこんでいるのだった。


 降りたあと、まだ十七時台だったけれど仙台駅の地下で中華料理食べた。たくさん餃子を食べる。頭の中で、十九時台にこまちで出れば二十二時過ぎには東京の自宅に着くな、と計算した。

 すこしずつ思考回路が現実に戻っていく。

 明日から仕事だ。そして、また、楽しみもないまま日々が過ぎるのを待つ薄鼠色の緩急のない暮らしに戻る。こんなふうに、休みの日になることを積極的な気持ちで待ち望んで迎えたのはとても久しぶりの感覚だった。

 だから、「遺影」などとぶって安易に冠せたけれど、わたしの場合、冗談でもないのだった。

「仕事って楽しいですか」

「わたしはメインの仕事は足掛けだから、すこし特殊かも。時間外はあんまり仕事しないし。原稿書くほうが大事」

 へえ、と石津光が麻婆焼きそばをかっこむ。養いたい、みたいな商業でテンプレート化された欲求が湧いてくるかと思って一応待ってみたけれど、そういうわけでもなかった。普通に、元気だなとだけ思った。そもそもあまり歳下であることを意識していないし、石津光も途中から「僕」じゃなくて「俺」と言ったり、ためぐちをきいたりしていた。

 本で、気になった箇所をメモしている、という話を聞いて、そんなの二十二歳男性として完璧じゃんと思ったけれど言わないでいた。

 たぶんこの人は、そういうことを異性に言われても浮かれたりしないで、消費されたと思って心を閉ざしてしまうだけだろう。わたしならめちゃくちゃよろこんでしまうけれど。

 ああ、悉くこの男とわたしは違うなと思う。恋愛対象としてだったら、「相手を間違えたな」と苦々しく悔やむのだろうけれど、わたしは嬉しくってたまらなかった。対比。小説において、これほど必要なものが素で揃っている。わたしは作為で塗り固めた人間で、この人はずっと、そこから遠いところでわたしなどではないうんと遠くを見ている。関係性として歪もいいところだけれど、この際どこまでも傲慢に作品の駒として見るとしたら、こんな有難い逸材はない。

 物語性を影みたいに背負いすぎている人には、そもそも物語が必要がないということをこれほど徹底的に知らしめてくれる人もそうそういない。どこまで自分は道化に徹せられるだろう、それをためすために早く原稿に起こしたくってたまらない。その衝動はわたしにとって他のありとあらゆる欲求よりも駆り立てる。

「ホテルに荷物あるんだった」と言うと、ついてきてくれた。デッキを降りる。すっかり仙台駅は藍色の夜の帳が下りていて、寒いくらいだった。横着してインナーも下着もつけずに直接セーターを着ているので、風が襟口からすうすう夜風が入って肌を容赦無く嬲る。

 いま、今日で、関係性をぶちぎれば、今日のことは輝きを増すんだろうか。

 初対面の今日、裸を見せ合った以上、クライマックスはここで、たったいまに引き際を決めてしまえば、完璧だ。思い出として。

 だとしても。思い出やできごととしては一級品でも、それは人間関係だなんて到底呼べそうにない。

 わたしは一体何のためにこの人に会いに来たんだろう。

 このカメラのなかには、落雷の瞬間を捉えたような、びかびかにひらめくまばゆい写真データがこれでもかと詰まっている。誰もが跪くに違いないくらい、千の光のまたたき。

 ずしりと持ち重りして首にぶら下がるこれを、思いきりぶん投げれば、また会う口実にはなるのかもしれない。まさか。こんなこと何度もやったって、意味が無い。今日の今日初めて出会った、だからできたことだ。

“会ったらすきになるかもしれないと思ってたけどやっぱりすきになった”

 思ってるんだか思ってないんだかわからないけど、そういうたぐいのわかりやすい思わせぶりな台詞を吐き捨てるのはたやすい。思っていないのだからどんな返事がよこされたとてわたしが手負いになることもない。

 それなりに映えるだろう。これがわたしたちのラストシーンだとすれば。

 けど言えば、この一環すべてが粗末なペッディングに成り下がり、石津光は落胆するだろう。そして、裸、いや芸術やものづくりを口実に間接的な愛撫に参加させられたことに心から辟易し、わたしを軽蔑するだろう。今後の人間関係だって、もう、なし崩し的に終焉するかもしれない。最悪、今日のことがなかったことにされかねない。

 本当にそうだろうか? そもそも思い出をつくるためにひと月も前からやりとりして、今日やっと落ち合って船に乗ったんだろうか?

 疲れすぎてよくわからない。事実が既成されるよりさきに小説を書いたりするから、頭がこんがらがるのだ。

 ――っていうかどうせあなたは、わたしが脱ぐか脱がないかなんてどうでもよかったんだろ。きゃあぴい騒がず自分を撮影してくれる人間がいれば、男だろうが女だろうが、友達だろうが恋人だろうが他人だろうが、どうでもよかったんじゃないですか。

 学生相手にあまりにも大人げない拗ね方だとはわかっていても、悪態をつきたくなる。石津光がそうじゃないとまでは言い切れないけれど、わたしはそれなりに、服だけではない重いものを剥いでさらしたつもりだった。

 参りました、の一言くらい引きずり出したかった。脱ぐくらいじゃだめだ。肝が据わっていること、覚悟があること、そういうことでいまさら他人を評価するような段階は、とっくに超えている。

 これは前座。これからが本番。

 あーあ、と思いながら息を吸った。

「今日のことより面白いことを思いついたらまた連絡するね」

 別にわたしと馴れ合いたいわけじゃないんだろうな、と察したから自分で自分の首を絞めるようなことをわざと言った。かと言って「じゃ、それぞれの地でつくることにたゆまず挑みましょう」などと潔くさよならをして立ち退く勇気もない。どっちにしろSNSはつながっている。

 迷った末に、こういう言い方になった。ほとんど自分に言い聞かせていた。

思いつかなければこの人は対峙してくれない気がした。島で裸を撮ることよりも面白いこと。

 もうそんなのまったく思いつかない。技術的にも金銭的にも時間的にも、わたしたちにできることなんて限られている。

 わかってるけど、ひきずりおろすまでだ。小説もいつもそうやって無理やり書くことを何もないところから血みどろで産み出している。

「あと、東京来ることあったら逐一教えて。まああんまりないだろうけど」

「いや、結構あります。その時また言います」

 どうだか、と思ったけれど、素直に「待ってる」と言った。

 新幹線の改札口まで送ってくれた。これから研究室に行くという。

 ひらひら手を振りながら、手の甲にキスするの忘れた、と思った。初手でできなかったことは二度とできない。

 まあいい。わたしたちのあいだではそういう、絵にしかならないくだらない作為は邪魔になるだけだ。

 マスターベーションにうっとりと耽って天然の神酒に酩酊して何が悪い。

 頭のなかにあるものを取り出して見せられるようにできるのは、才能があるから以外、何があるっていうんだろう?


 新幹線から降りてすぐに寝る。月曜日、信じられないぐらい筋肉痛であらゆる関節が動くたびにみしみし唸った。早朝会社のなかでこっそりSDカードの中身を見てラインアルバムを作成する。七百枚。カメラの充電はすべて使い切っていた。

うまく撮れていなかったらどうしよう、と思うとこわくて一枚一枚見ることができず、とりあえずすべてをアルバムに横流しする。

やっぱり、昼の陽が高い時間に藪のなかで撮ったものが圧倒的に良かった。自分も撮ればよかったかな、と一瞬思う。

 表情はわたしを見ているようで見ていない。石津光の、片方だけ時々一重でアンバランスになるところが、印象が定まらないから色っぽくていいなと会ったときから思っていた。不吉なアンバランスさは、何かをしでかしてくれるんじゃないかと、悪い期待でぐずぐずと胸を引っ掻くような不穏な翳り。

 撮っている間は思わなかったけれど、胸の傷は島の手つかずの景色とよく合っていた。そこまで計算してこさえてきたのだとしたら、いっそ天晴れというべきだ。

 この人には服は窮屈なんじゃないだろうか。そう思うくらい、裸であることが必然的に見えた。骨の硬さよりも、それを覆っている肉や筋肉の山なりに目が行く。「一番若いときの肉体を記録しておきたい」――石津光の言う通り、おそらく成人男性としていよいよ完成する寸前の、みちみちとはちきれそうな熱量をいっぱいに蓄えていた。なんだって失うときが一番輝く。若さも、美しさも、楽しさも、喜びも。

 いっそ神々しいくらいの、剥き出しの命だった。前向きな、活力に溢れたメッセージ性があるとかじゃないけど、気迫のある写真であることに間違いなかった。下手に「かっこいい」「綺麗に撮れてる」なんて口にさせないような、濃厚な生の気配。

 その日の二十六時過ぎに、「七海さん」という名前で今度はわたしの分のラインのアルバムがいくつも送られていた。朝、よろこんでひらく。

 五百枚近い写真があった。「うまく撮れてなかったらすみません」などとハードルを下げていたくせに、どの写真もこわいくらいに良かった。一枚一枚、染色した美しい刺繍布を広げて干すようにして、ひらいては保存していく。

 石津光よりは被写体として撮られ慣れていると思っていたわりに、裸の写真のなかのわたしはどこか神妙に張り詰めていた。表情は笑っていても、身体が作り笑いを拒むようにすこし力んでいるのが見て取れる。ポーズはどこかぎこちなく、球体関節人形のように手足が突っ張って不自然だった。そのくせ突飛な躍動感が急に現れて、普段の生活感や社会性がまるで想像つかない人として写っている。まるで島に捨てられたマネキンが落雷でうっかり命を吹き込まれて島を動き回っているみたいだった。関節を曲げればぱきぱきと音を立てそうだ。

 声を出して、喉をぐんとのけぞらして笑ってしまいそうになる。

 こんなもの、どう考えたってとっておきだった。家を出る時間になったので、手を一旦止める。いつもより空いた電車のなかで、保存したものを一枚一枚また眺め渡した。人に覗かれたらまずいかな、と思ったけれど、見飽きない。

 こうして高画質の写真の中で見る自分の裸は、初めて見るのにすべて見覚えがある。

 母譲りのまっすぐで長い首、そこを降りるとすぐに付け根で筋張って逆ハの字に迫り出した胸鎖乳突筋にぶつかる。痛々しく薄蒼い皮膚がひたりとはりついて浮き彫りになった鎖骨と胸板から、急に取ってつけたように三角錐のかたちをしてふくれた乳房が現れる。あまり柔軟な手応えは伝わってこず、肉感がない割にはぱんと内側から蒼くみなぎっているのが見てとれた。そこだけ不自然にぽこんと半球が小さく浮かんでいて、果実めいている。

 平べったく丸いふくらみから下はまたすぐに肉を削いだ肋骨がはりはりと浮かんでいて、斜めに縞模様をつくる。乳房の終わりから臍にかけて肋骨と肋骨の間、すっと縦線が影を落として軀の中央はここだと知らせていた。臍の下には水疱瘡の痕が孤島のようにぽつりと浮かび、さらに下にいくと性器のはじまりを刻む溝がすっと走って、脚の間に消えていく。陰毛がほとんどないせいでつるりとした股間は、そこだけ皮膚の色が濃いから幼児のようではないけれど、淫靡ではなくやさしいカーブがすっとそこに走ってくだものを連想させた。中身が妖しく熟した無花果や艶かしく人を誘う柘榴ではなく、桃や梨のお尻に似てシンプルな窪みだった。

 不自然なほど腰骨が尖って体に鋭利な角度を作り、脚がまっすぐに落ちていく。こわばっているせいで、腱が薄っすらと浮かび白く光っていた。

 臍と乳首で正三角形を作っていて、意外なほど高い位置に腹が存在している。その代わりとして臍と性器は遠く、広々と三角州が広がる。平らに見えてうっすらと臍が底地で盛り上がり、きわめて平坦ではあるけれど泉のように水が湧き出そうなふくらみがあった。

 くびれは未熟で女性らしい丸みや曲線は極端にとぼしく、すこしでも腰をねじると直線と直線をつないで腰骨が皮膚から飛び出そうなくらい尖って透けて見える。

 ――わたしに興味無いわりには随分綺麗に撮ってくれたんだな。

 とはいえ可愛いなどと到底言えず、どっちかっといえば不穏さの方が目立つ。海で撮ったものは、かなり陽当たりがよく肌も蜂蜜色に艶めいて裸であることが浮いていない。けれど、原野で撮ったものは曇っていたこともあって一気にトーンが陰に切り替わる。肌の色は、普段着替えの際に鏡で見る自分のいつもの肌の色をしていた。灰色がかった惑いの透ける蒼白さ。逆光の写真も多く、海や椿に焦点が飛んでしまった写真なんかは、肋骨が鳥籠のように容赦無く浮かび上がり、硬さごと伝わってくるような、手応えがあった。いまにも、静かに呼吸するごとに肋骨が軋みながら撓んだりすぼんだりするのを繰り返すさまが浮かぶようだ。写っている人間の息遣いが写真から溢れている。

 こうしてみると自分の身体はかなり骨ぼねしく、どうにも痛々しい。ぞっとするまではいかないけれど、病的、あるいは人の裸として不自然なくらいぎゅっと圧縮されている。

 綺麗とか可愛いとか色っぽいとか無理に当てはめても無残に振り落ちてしまいそうな深い気迫がある。裸なのにエロティックな雰囲気はなかった。他人が見たらまた違うのかもしれないけれど、自分の女体すべてまるごと写っているにもかかわらず、グラビア感はゼロだった。ポートレイトとしか呼びようがない。

 そもそも、裸体自体を評価されたくって撮ったわけじゃないからそれはそうなのかもしれない。石津光にも、この写真を見せる第三者にも。

 爪楊枝を折ってつなげたような、肉という肉がごっそりと削げて関節のかたちごと哀しく浮かび上がった腕。頭の上に上げていると、余計細さが悪い方向で際立つ。

 しぐさごとにぱきぱきと厭な音が聞こえてきそうな痛々しさに目がいくのに、顔はカメラではなく斜め横に視線を投げかけて、自然に笑んでいる。表情と身体の印象はちぐはぐなのに、どうしようもなく素のわたしを切り取った写真だと思った。

 撮った相手がわたしや裸に欲情していないことがよく伝わってきて、やはり石津光に撮ってもらったことは正解だったと思った。わたしのやりたいことが伝わったのかどうかはわからないけれど、真摯に裸の人間と取っ組み合った結果がこの写真たちなのだった。

 あの時も、今後も、この男と寝る必要などどこにもない。ひらきなおるようだけれど、心からそう思った。

 いろんな人に見せたい。わたしのことをすきな人、わたしがすきな人、知らない人。裸であることに度肝を抜かせたいとかびっくりさせたいとかましてや劣情を煽るためでもなく、切り取られた生身のわたしを見てほしいと思った。

 できたらでいい、それを見ていとしいと思ってほしい。

 遺影。若くて、二十四歳で、乳房も尻も重力に逆らって上につんと形を保ち、未成熟で、たった今生きていて、いまはもう島にいないわたしの遺影だ。

 何の文句もつけられないくらい楽しかった。このさきの景色を見たいと思わないこと、会社の仕事が行き詰まっていること、曖昧な結婚願望から逃れられないまま25歳に上がってしまうであろうこと、黙々と日々本を読むことしか楽しみがないこと、書いても書いても原稿が終わらないこと、まったく一ミリも変わっていないし、前進もしていない。「やっぱり明日から頑張ろう!」とか少しも思えない。

 でもいい。あの日、とんでもなく楽しくて、目の玉がでんぐり返ししそうなくらい眩い刹那の積み重ねだった。確かにそうで、これからしぬまで、自分たちが退屈しないようにせっせとくす玉に金銀の花や鳥を象った切り紙を詰めるのだ。くす玉を割れば一瞬でそれまでの時間費やしたものが彩り豊かな嵐となって吹っ飛んでいってしまうとしても。

 その瞬間に立ち遇うためなら、なんだって努力は厭わないだろう。浅はかだろうが、くだらなかろうが、無意義だろうが。

 胸のなかをごうごうと吹き荒れる悪い嵐を、わたしはどうしたってなかったことにはできない。そういう側に生まれついたのだから。

 どうせやるなら高度で凄惨なマスターベーションをしてのけたい。最低なことには変わりないのなら。

 Wordを縦書き設定にした。わたしたちが作ったものは、何も、写真だけではなかったことを、完膚なきまでに分からせてやるために。

 どうか。

 これからわたしの口から溢れる言葉のすべてが、切実に、誠実に、響きますように。

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まっすぐな落雷 @_naranuhoka_

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