第54話 スーパーマーケット3

 生き物はぴょんと蒼汰の左足のパンプスの上に移った。左足のパンプスはスカートの下だ。上から見ている蒼汰からは、自分のフレアスカートで生き物が見えなくなった。しかし、左足のパンプスの上には生き物が乗っている重みがあった。


 スカートの真下に生き物がいる。蒼汰の背筋を汗が流れた。スカートの真下から生き物がいまにも蒼汰の下半身に飛びかかってくるように思えた。蒼汰は生き物の鋭くとがった大きな歯を思い出した。あの歯で下半身を噛まれたら・・ひとたまりもない。


 じっと立ち止まったまま、蒼汰は恐怖に耐えた。


 明日香を見ると黙って蒼汰のスカートの下を見つめていた。明日香が蒼汰の視線を感じたらしく、顔を上げてちらりと蒼汰の顔を見た。


 明日香の眼が『動かないで・・』と言っているのが分かった。


 しかし、蒼汰は動きたくても動けなかった。動くと、その一瞬を狙って生き物が下半身に飛びかかってきそうだった。スーパーの天井の蛍光灯の光を反射した、あの鋭い歯が脳裏をよぎった。あの歯で、いまにも下半身に噛みつかれそうだ。股間が寒くなった。下半身からスーと血が引いていった。蒼汰は足が震えそうになるのを必死でこらえた。生き物の姿がスカートに隠れて見えないので、その分、恐怖が何倍にもなって蒼汰を襲った。長い時間が過ぎたように感じた。緊張で蒼汰はのどの渇きを覚えた。汗が一滴、額から頬を伝ってスカートに落ちていった。


 ふと、生き物がスカートの下から現れた。


 もう上は見ていない。キョロキョロと周囲を見まわして、蒼汰の後ろに歩いてきたスーパーの男性店員の方へぴょんぴょんとはねていった。


 明日香が蒼汰を見ている。その眼がいまのうちに逃げましょうと言っているのが分かった。蒼汰は明日香の後についてレジに行き、明日香が手早く支払いを済ますのを待って、明日香に連れられてそっとスーパーを出た。


 スーパーを出ると、スーパーの駐車場の端まで歩いて行って、二人はようやく立ち止まった。蒼汰と明日香は二人一緒に大きく息を吐いた。


 安堵すると、生き物がスカートの下にいたときの恐怖が、蒼汰の心によみがえってきた。危なかった。怖かった。そう思うと急に蒼汰の身体が震え出した。震えを制御しようにも、どうにも止まらなかった。蒼汰はガタガタと歯を鳴らして、震え続けた。


 それを見た明日香が蒼汰の前に立った。明日香が蒼汰の後ろに両手をまわし、そっと蒼汰を引き寄せた。そして、強く蒼汰を抱いてくれた。


 蒼汰は明日香の胸に顔をうずめた。いい香りがした。明日香の胸の膨らみの中に頬を埋めると、安心感が込み上げてきた。そうやって、しばらく明日香に抱かれていると、蒼汰の震えがようやく止まった。すると、今度は涙が出てきた。蒼汰は明日香の胸に顔を埋めて、すすり泣いた。明日香が蒼汰を抱いたまま、やさしく背中をさすってくれている。蒼汰はしばらくそうやって泣いていた。明日香の胸のふっくらとした感触が蒼汰には心地よかった。


 蒼汰が泣き止むのを待って、明日香が蒼汰のあごに両手を当てて、蒼汰の顔を自分の胸から起こした。そして、口を開いた。ゆっくりした口調だ。明日香の胸の感触がいつまでも蒼汰に残っていた。


 「もう、大丈夫よ。神代くん。・・・どう、落ち着いた?」


 蒼汰が涙に濡れた顔でうなずくのを見て、明日香が続けた。


 「今のも妖怪だったわね」


 蒼汰はやっと声を出すことができた。心に平常心がよみがえってきた。


 「うん。妖怪だったね。・・・あんな生き物が現実世界にいるとは思えないよ」


 「でも、良かったわ。神代くんが女の子の格好をしていたので、あの妖怪はあなただと分からなかったみたいね」


 「うん、そうみたい。僕が女装をしていなかったら、間違いなくあの妖怪に襲われていただろうなあ」


 「何から何まで倉掛先生が言ったとおりね。大した先生だわ。それにしても、こんな街のスーパーにまで妖怪が現われるなんて・・・。とにかく、倉掛先生が言ったように油断大敵ね。どこに妖怪の眼が光っているか、分かったものではないわ。神代くん、はやくお家へ帰りましょう」


 「山之内さん・・」


 「えっ、なあに?」


 「・・もう少し・・こうしていて・・」


 蒼汰は再び明日香の胸に顔を埋めた。明日香は黙って蒼汰をもう一度抱いてくれた。スーパーで買い物を終えたお客が駐車場の端の二人を不思議そうに見て通っていった。

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