第52話 スーパーマーケット1

 明日香の住むマンションは西洞院通にしのとおいんどおり夷川えびすがわにある。西洞院通りと夷川通りが交差する場所だ。周囲は古い静かな京風の住宅地だ。交差点から西に下ると堀川通りに突き当たる。堀川通りを渡ると眼の前に二条城がある。京都を訪れる観光客と地元に住む人々の息吹が交わる場所といったらいいだろうか。


 近所には「ゴリラによる人間のためのバナナジュース」という看板を掲げるジュースバーなどユニークな店が多い。「ゴリラによる人間のためのバナナジュース」の店の中に入ると「うほ。」と書かれたプラスチックコップに入ったバナナジュースを提供してくれる。人気の観光スポットで、観光客や市民の憩いの場所になっていた。


 明日香の住むマンションは10階建てだ。住宅地の一角に突如現われた怪獣のように、マンションはそびえ立っていた。マンションから北に向かうと丸太町通りに出る。丸太町通り沿いのみろう出版までは歩いて30分ほどだ。明日香がこのマンションを選んだのは、その通勤の便利さからであった。


 明日香の部屋は5階の2LDKだ。蒼汰の住むマンションの部屋ほど豪華というわけではないが、きれいで落ち着いた京都らしい雰囲気を持った部屋だった。


 明日香は5階に上がって、自分のマンションの部屋に入ると、さっそく蒼汰を寝室に連れて行った。


 「神代くん。例の靴下とハンカチとストッキングを出してちょうだい」


 蒼汰がバッグから、それらが入った二つのビニール袋を取り出す。明日香はそれを受けとって、ベッドのサイドテーブルの引き出しの中に入れた。そして、鍵をかけた。蒼汰のマンションにも寝室に鍵付きの机があったが、明日香の部屋にも同様な家具があったのだ。


 明日香は、鍵が間違いなく掛かっていることを何度も確かめると、それでやっと安心したように蒼汰の顔を見て笑った。サイドテーブルは壁に作り置きになっていて、テーブルごと外に持ち出すことは不可能だ。


 「これで安心ね。鍵は私が持っているわね」


 明日香は蒼汰をリビングのソファに座らせると、山縣に電話をして京大の倉掛教授を訪問したことから先ほどの高島屋の女子トイレでの妖怪の襲撃までを事細かに報告した。蒼汰は女の子の服装をしているので何をしていいのか分からず、明日香の横に座って、ただ呆然と明日香が話すのを聞いていた。


 長い報告が済むと、明日香はコーヒーを二人分持ってきた。一つを蒼汰に差し出した。コーヒーを口に含むと、陶然とした感覚が蒼汰を包み込んだ。身体から力が抜けていく。蒼汰はやっと人心地つくことができた。思わずフーと安堵の息が口から洩れた。


 蒼汰の横で、明日香もコーヒーを飲みながら、あらためて蒼汰をしみじみとながめた。


 「しかし、神代くんが、こんなきれいな女の子になるなんてねえ・・・本当にびっくりしちゃったわ。しかし、あなた、私よりきれいじゃないの。神代くん、いっそこのまま女の子になりなよ。もう、女の子として一生を送ったらどう?」


 思いもしない明日香の冗談に、蒼汰は面食らった。


 「そんなあ。一生こんな女の子の格好じゃあ、山之内さん、僕は結婚もできないよ」


 そう言う蒼汰に明日香が意外な言葉を口にした。明日香の眼が異様に輝いている。


 「結婚ですって? 心配しなくても大丈夫よ。私があなたをお嫁さんにもらってあげるわよ」


 明日香がはじけるような笑顔を見せて蒼汰をのぞきこんだ。


 こ、これって、もしかしてプロポーズ??? 蒼汰の胸の鼓動が大きくなった。山之内さんにお嫁さんとしてもらってもらえる! 頭に血が上った。何と返事していいのか分からなくなった。蒼汰は押し黙ったまま、思わず真っ赤になってうつむいてしまった。


 夕方、明日香が食料品の買い物に出るというので、蒼汰も一緒に明日香についていくことにした。本当はいつ妖怪が襲ってくるか分からないので、あまり人前には出たくなかったのだが、さっきの女子トイレでの襲撃を考えると一人で明日香のマンションに残るのは危険だった。


 蒼汰は女の子の服装のままで、明日香に連れられて近所のスーパーに向かった。途中、児童公園があった。入口に黒のプレートに白抜き文字で夷川えびすがわ児童公園と書いてある。蒼汰は何気なく、公園に建てられている看板に眼をやった。「源氏物語 ゆかりの地 二条院候補地(陽成院跡)」という説明書きがあった。京都にはいたるところに歴史的な遺物が残されている。この児童公園もその一つのようだった。

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