第50話 百貨店2

 そのときだ。トイレの個室の足元に薄い影が動いた。


 最初は小さな点だった。その点はしばらく個室の床を動いていたが、やがて個室のドアの内側を上がってきた。そして、蒼汰と顔を合わせる位置で止まった。


 点が少しずつ濃くなっていく。そして、それに合わせて、点が次第に大きくなっていった。


 顔の輪郭が現われた。女だ。長い髪の毛が明確になった。口と眼と鼻が影の中に現れてきた。そして、それは昨夜のあの若い女の顔になった。さらに、胸が形づくられた。ドアの内側に女の上半身が影として現れてきたのだ。


 蒼汰を恐怖が襲った。しかし、あまりの恐怖に声を出すことができなかった。蒼汰は動けず、ただ呆然としてその影の変化を見つめていた。逃げようにも、その影がドアの内側に形成されていくので、ドアを開けることができなかったのだ。


 蒼汰が見つめる中で、今度は影がドアの内側に少しずつ盛り上がってきた。女の顔が、胸が蒼汰の方に盛り上がっていく。蒼汰が気付くと、女の全身の前半分が個室のドアの内側にレリーフのように浮き上がっていた。


 蒼汰はやっと我に返った。何とかしなければ・・・そうだ、お札だ。蒼汰は京大で倉掛が渡してくれた妖怪退散のおふだを探した。・・ない。・・おかしい。お札がない。そのときになって、やっと蒼汰は気づいた。


 しまった。お札は、トイレの入り口で山之内さんの足元に置いたバッグの中だ。女子トイレに入るということで気が動転してしまって、うっかりお札を置いてきてしまった。


 絶望が頭をよぎった。動けなかった。恐怖が蒼汰の全身を駆けまわっていた。


 女が両手を前に出して蒼汰の首にかけた。氷のように冷たい手だ。蒼汰の首にヒヤリとした感触が走った。蒼汰の顔と女の顔は数㎝の距離しかない。女の吐く息が蒼汰の顔にかかった。生臭い臭いがした。狭いトイレの個室の中で蒼汰は恐怖で身動き一つすることができなかった。


 山之内さんに知らせないと・・・気持ちは焦ったが、声がまったく出てこなかった。口だけがパクパクとむなしく動いた。恐怖で凍り付いて悲鳴を上げることもできない。手足を動かすこともできなかった。女の口が裂けた。ギラリと牙が光った。女の口が「返せ。返せ。ストッキングを返せ」というように動いた。声は出ていない。声を出すと、トイレの外にいる明日香に聞こえると分かっているのだ。


 蒼汰は首に掛った女の手を外そうとして、女の手首をつかんだ。冷たい! まるで氷をつかんでいるようだ。蒼汰は力を振り絞って、女の手を首から外そうとしたが・・女の手はまったく動かなかった。それを見て、女の眼が笑った。


 すると、女が蒼汰の首に巻いた両手に力を入れた。蒼汰の首が締まった。息が詰まる。苦しい。口をバクバクと開けたが、空気はまったく入ってこなかった。声を出そうとしたが・・トイレの個室の中にかすかにヒューという空気の洩れる小さな音がひびいただけだった。蒼汰は口から舌を出してあえいだ。口の端から、よだれが糸となって個室の床に落下した。


 苦しい。気が少しずつ遠くなっていく・・・


 そのとき、いきなり個室のドアが開いて、女の身体がドアごと向こうへ反転した。ドアの向こうに明日香が立っていた。


 「神代くん」


 明日香は倉掛にもらった、プラスチックケース入りのお札を持っていた。それを女の顔の前に突き出して叫んだ。


 「妖怪退散」


 女が断末魔の悲鳴を上げた。 


 「ギャアアアアアアア」


 女の全身から煙が出た。煙の中で女が苦しそうに両手、両足を振りまわす。女の髪が、ギリシャ神話に出てくるメドゥーサの蛇の髪のようにのたうちまわった。煙が女の全身を覆った・・・やがて、煙が薄れると、個室のドアの内側には何もいなかった。


 蒼汰は荒い息を吐いた。その息の下で、やっと声を出すことができた。全身から汗が吹き出してきた。


 「山之内さん。来てくれたんだね」


 「あぶなかったわね」


 明日香も額の汗をぬぐった。


 「倉掛先生が言ったとおりだったわね。妖怪は、神代くんが一人になるチャンスをじっと狙っていたのよ。たとえそれが女子トイレの個室の中であってもね。そして一瞬のチャンスを逃がさずにあなたを襲ってきたわけね」


 明日香は少し考えて、蒼汰に言った。


「神代くん、あなた、ここで女の子の服に着替えちゃいなさい」

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