第35話 タクシー1
蒼汰は京都市役所の前でタクシーをひろった。
運転手に行き先を告げると、身体から一気に力が抜けた。安心感がふつふつとわいてくる。蒼汰は流れゆく窓の外の景色を眺めた。そこには日常の風景があった。
これで、あの地下鉄の恐怖から解放される。早く社に行って・・・山之内さんに会いたい・・・山之内さんに会いたい・・・
蒼汰はゆっくりと眼をつむった。
蒼汰の脳裏に、「地下鉄で襲われたけど無事でよかったね」と言って、明日香が笑う顔が浮かんできた。空想の中で、明日香が蒼汰に両手を差しのべてくる。そんな明日香の身体に抱きついて、豊かな胸に顔を埋めてしまいたい。そうして、明日香に背中を撫でてもらいたい。そうしたら、きっと僕は泣き出してしまうだろう。そんな思いが蒼汰の頭をよぎった。
タクシーは信号にも引っかからず、快調に京都市内を走り続けているようだ。身体に伝わる振動が心地よい。蒼汰は黙って眼をつむったまま、明日香に対する熱い思いと座席から伝わる振動を楽しんでいた。
しばらくして、蒼汰は眼を開けた。そして、奇妙なことに気づいた。窓の外の景色に見覚えがないのだ。
あれっ? ここはどこだろう? 一体、いま、どこを走っているのだろうか?
蒼汰はきょろきょろと周囲の流れる風景を見ながら、タクシーの運転手に尋ねた。
「運転手さん。ここは一体どこですか? まだ丸太町通りに入っていないのですか? 僕は丸太町までお願いしたはずですが?・・・運転手さん。いま、ここは?・・・いま、一体どこを走っているんですか?」
運転手は返事をしなかった。何も言わず前を見つめて運転をしている。
おかしい。蒼汰の心臓が早鐘のように鳴った。
「運転手さん。僕がお願いしたのは丸太町通りですよ。行き先が間違っていませんか?・・・ 運転手さん?・・・運転手さん、聞こえますか?」
運転手は黙っている。そのとき、運転手がラジオのスイッチを入れた。ラジオから小さく落語のようなブツブツ言う声が聞こえてきた。何だろう? 運転手がボリュームを上げた。
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
はっきりそう聞こえた。
蒼汰の顔からまたも血の気が引いた。身体が震え出した。
そのとき、運転手がゆっくりと後ろを振り向いた。制帽の下には顔がなかった。のっぺらぼうだ。急に顔の下部に裂け目ができた。赤い裂け目が大きく開いていく。歯と舌が見えた。口だった。そして、運転手のものであろう野太い声がタクシーの中にひびいた。その声は、ラジオと唱和していた。
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
「うわー」
蒼汰は声にならない叫び声を上げた。ドアを開けようと、ノブをガチャガチャさせたが、ドアは開かなかった。運転手は口だけの顔を蒼汰に向けたまま運転を続けている。すなわち、後ろを向いたままで運転を続けていた。その口からは、ラジオと唱和した声が続いている。
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
蒼汰は恐怖のあまり大声で叫んだ。
「キャアアアアアア」
タクシーの周りには何事もなかったかのように、他の車が流れている。蒼汰は周りのドライバーにこの車の窮地を伝えようと必死になってジェスチャーを送ったが、蒼汰に気づく車は一台もなかった。
運転手とラジオの声が大きくなった。
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
「返せ。返せ。ストッキングを返せ」
そのとき、交差点の赤信号でタクシーが止まった。
今だ。逃げるのは今だ。
蒼汰は必死になってドアノブをガチャガチャと揺すった。手が切れて血が出てきた。ドアは開かない。眼の前の横断歩道に表示されている、青信号の残り時間を示す秒数が刻一刻と小さくなっていく。
15、14、13・・・。
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