第34話 地下鉄3
蒼汰は、今後は女性の右肩に左足を掛けて死に物狂いで自分の身体を持ち上げた。窓枠に手を掛けて窓の向こうのホームへと自分の身体を押し出した。
「ぎゃあああああああ」
肩に蒼汰の全体重を受けて、女性がまた大きく叫んだ。
女性の叫びが開いた窓からホームの中にも響き渡った。ホームの人たちがいっせいに何事かとこちらを見た。蒼汰は窓枠に両手を掛けて、身体を半分ホームの方に差し出した。眼の前にホームのコンクリートが見えた。もう少しだ。
電車内の乗客が蒼汰を引き戻そうとして手を伸ばしてくる。蒼汰はその手につかまるまいと思い切り両足をバタバタと蹴った。どちらかの足が乗客の誰かの手と顔を蹴飛ばし、もう片方の足が前に座っていた女性の後頭部を思い切り蹴り飛ばした。
「ぎゃあああああああ」
また女性の悲鳴がホームを切り裂いた。女性の後頭部を蹴った勢いで、蒼汰は一気にホームに転がり落ちた。ホームに並んでいた通勤通学客がいっせいに後ろへ下がる。遠くから駅員が人を分けながら走ってくるのが見えた。
蒼汰は立ちあがった。ひざが痛んだ。ホームのコンクリートで打ったようだ。だが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
蒼汰は、乗客を分けて走ってくる駅員とは逆の方向に走った。ホームの階段を懸命に駆け上がった。改札に電子定期券を押し当てて、よろつきながら朝の御池通りに出た。人ごみの中を恐怖に駆られて無我夢中でさらに走った。
気がつくと、京都市役所の前だった。京都市役所は御池通りにある。眼の前に地下鉄の京都市役所前駅の入り口があった。京都市役所前駅はさっき降りた烏丸御池駅の隣の駅だ。一駅ぶん走ったことになる。
蒼汰はハアハアと荒い息を吐きながら、京都市役所の建物の壁に背中をつけて、やっと立ち止まった。苦しい。口を大きく開けた。空気が肺になかなか入ってこなかった。ハアハアと犬のように舌を出してあえいだ。汗がとめどなく流れてきた。恐怖がまだ蒼汰の意識を支配していた。蒼汰は周りを見まわした。もう、あの読経のようなつぶやきは聞こえなかった。蒼汰をつかもうとする手もなかった。朝の日常の通勤通学の風景があった。
蒼汰は約30分間、そのまま動けなかった。さっきの恐怖が何度も脳裏によみがえってきた。それにひたすら耐え続けた。
ようやく恐怖が薄らいだ。京都市役所の中に入ると、自動販売機でペットボトルのお茶を買って、その場で一気に飲んだ。そして、トイレに行って冷たい水で顔を洗った。気持ちが落ち着いてきた。あの地下鉄の中の乗客たちはいったいどうしたんだろうか? 客観的に考える余裕が出てきた。
しかし、蒼汰はもうそれ以上考えないことにした。
とにかく、早く会社へ行こう。そのときになって、明日香のことが心配になってきた。明日香は駅に取り残されたはずだ。うかつだった。あまりの恐怖に、自分のことで精一杯だった。蒼汰は自分を恥じた。
山之内さんは無事だろうか?
携帯を出すと、明日香からの着信やメールがいっぱい届いていた。メールは蒼汰を心配する内容だ。明日香は無事に会社に着いたようだった。蒼汰は安心した。とりあえず明日香には「何とか無事です」とだけ短いメッセージをメールで送っておいた。さっきの出来事をメールで説明する元気はとてもなかった。
さて、京都市役所から会社に行かねばならない。京都市役所の前には、地下鉄の東西線の京都市役所前駅がある。京都市役所前駅から東西線で一駅行くと、さっき蒼汰が降りた烏丸御池駅だ。さらに烏丸線に乗り換えて、一駅行けば丸太町駅に着く。しかし、蒼汰はさっきの騒ぎの後で、もう一度地下鉄に乗る勇気は持っていなかった。
そうだ。山之内さんも心配していることだし、タクシーで行こう。
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