第33話 地下鉄2

 蒼汰は地下鉄の満員の車両の中で、吊革につかまりながら周りを見わたした。そして、奇妙なことに気づいた。


 周りの立っている乗客の全員が・・・何故か蒼汰を見つめていたのだ。そして、乗客たちは低い声で何かをつぶやいていた。さっきから聞こえていたのはこの声だったのだ。それはまるで読経のようだった。奇妙なリズムが繰り返されている。蒼汰は耳をすませた。


 「返せ。返せ。ストッキングを返せ」


 確かにそう聞こえた。


 一瞬にして蒼汰の顔から血の気が失せた。吊革につかまりながら、蒼汰は眼を大きく見開いてもう一度周囲をながめまわした。身体がガタガタと音を立てて震えた。


 周りの立っている乗客の全員が声を合わせて「返せ。返せ。ストッキングを返せ」とつぶやきながら無表情に蒼汰を見つめているのだ。前の座席を見た。なんと、座席に座っている乗客たちも全員が蒼汰を見上げていた。同じように「返せ。返せ。ストッキングを返せ」とつぶやいている。


 つぶやきの奇妙なリズムに合わせて、乗客たちが頭を揺らし始めた。乗客全員がいっせいにリズムをとるように、頭を右に左に揺らしながら「返せ。返せ。ストッキングを返せ」とつぶやいている。そして、そのつぶやきが少しずつ大きくなっていく。それに合わせて、乗客たちの頭の揺れも大きくなっていった。


 「返せ。返せ。ストッキングを返せ」


 「返せ。返せ。ストッキングを返せ」


 「返せ。返せ。ストッキングを返せ」


 蒼汰の胸が恐怖で押しつぶされそうになった。蒼汰は震えながら、もう一度周りを見た。


 蒼汰の前も後ろも右も左も、女も男も、社会人も学生も・・そこにいる乗客の全員が蒼汰を見ながら一斉に同じ方向に頭を大きく揺らして、「返せ。返せ。ストッキングを返せ」と叫んでいる。


 地下鉄の車両の中は、そのつぶやきの大合唱になった。まるで、年末に行われる第九の混成大合唱のようだ。大合唱で地下鉄のゴーという騒音がかき消されている。大合唱のつぶやきに合わせて、乗客の頭がいっせいに右に左に大きく揺れる。


 蒼汰の近くの乗客の何人かが、蒼汰に向かって手を伸ばしてきた。蒼汰は右手で吊革につかまりながら、かろうじて左手で乗客たちの手を振り払った。


 殺される・・・助けて・・・誰か助けて・・・


 蒼汰は声にならない悲鳴を上げた。恐怖が蒼汰を締め上げた。身体の震えが止まらない。


 そのとき、電車が次の烏丸御池駅についた。明るい駅の照明が窓の外に流れて、ゆっくりと電車がホームに止まった。


 蒼汰の脳裏に考えが浮かんだ。しめた。この車両から逃げるなら、この駅に止まっている間しかない。


 とっさに蒼汰は前の座席に座っている女性のひざに右足を掛けた。20代の女性は蒼汰を見つめ、頭をふりながら一心不乱に「返せ。返せ。ストッキングを返せ」とつぶやいている。蒼汰はかまわず、右足に全体重を掛けて、女性のひざの上に身体を乗り上げた。


 「ぎゃあああああああ」 


 女性がこの世のものとも思えない叫び声を上げた。蒼汰は女性のひざの上に両足をそろえて立った。不安定なひざの上で蒼汰の左足がガクッと回転した。とっさに蒼汰は女性の髪の毛をつかんだ。身体のバランスをとるためにひざの上で何度も足踏みをした。


 女性がまた大声で叫んだ。


 「ぎゃあああああああ」 


 蒼汰の靴に踏みにじられて、女性の紺のタイトスカートが腹近くまでめくれあがっていた。スカートの奥に赤い下着が見えた。


 蒼汰は女性のひざの上に両足で立って、左手で女性の髪の毛を固く握って身体を支えた。そして、右手で地下鉄の窓を内側から開けた。 

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