第20話 探索8

 そのとき、明日香が手に持っていたサイダーの空ビンで、麦わら帽子の頭を思い切り横に払った。


 鈍い音がした。


 麦わら帽子の身体が宙に浮いた。低い放物線を描いて、麦わら帽子の身体がサイダーやジュースを入れてある白い木箱にぶつかった。白い木箱が跳ね上がった。サイダーやジュースのビンが空に舞った。氷が宙に吹き上げられて、きらきらと光りながら落下した。氷が溶けてできた水が、宝石のようにあたりに飛び散った。屋台の屋根になっていた薄汚れた布が留め金から外れた。布は大きく中空にはためくと、ゆっくりと下に落下した。落ちた屋根の布の下で、麦わら帽子がもがいていた。


 蒼汰は廊下に押し倒された姿勢のままで茫然とそれらを見つめていた。


 「神代くん。今よ。逃げるのよ」


 明日香の声が響いた。その声で蒼汰は我に返った。麦わら帽子に背を向けて廊下に起き上った。


 背中で麦わら帽子が布から這い出す気配がした。


 あわてて振り返ると・・・麦わら帽子が布から這い出して、立ち上がっているところだった。


 麦わら帽子は立ち上がると、こちらに顔を向けた。そして、こちらに向かって走り出すように姿勢を低くすると、ニヤリと笑った。歯が光った。麦わら帽子の歯が蒼汰の脳裏に恐怖の残像として焼き付いた。あんな鋭い歯にかまれたら、ひとたまりもない。


 麦わら帽子が追ってくる恐怖が襲ってきた。その恐怖が蒼汰を走らせた。蒼汰は明日香の手をとって一緒に走った。


 後ろから麦わら帽子が走って来るように感じて、蒼汰は足を止めることができなかった。


 二人は無人の廊下を走りに走った・・・周りはどこまでも和室のふすまが続いていた。


 しばらく走って後ろを振り返ると・・麦わら帽子の姿はなかった。蒼汰は明日香と立ち止まった。後ろを向いて様子を伺った。物音一つしない無人の廊下がまっすぐに続いているだけだった。それを見て、蒼汰は安堵の息を吐いた。そして、明日香と二人で無人の廊下にしゃがみこんでしまった。


 二人はしばらく荒い息を吐いた。呼吸がようやく落ち着くと、蒼汰は立ちあがった。明日香も立ち上がるのを待って、今度は明日香の手をとって一緒に歩き出した。走る気力が、もう残っていなかった。


 しばらく歩くと、右手に坪庭が見えてきた。


 6畳ほどの空間に数本の木が植えられ、苔むした石灯篭が置いてある。小さな池もある。手水鉢があった。苔が乗った石の道が奥に続いている。手前には石灯篭に隠れて井戸が見えた。坪庭から鹿威ししおどしの乾いた音がひびいた。


 ひょっとしたら、坪庭から外に出られるかもしれない。


 「山之内さん。庭へ。庭へ逃げよう」


 そう言うと、蒼汰は廊下から坪庭の敷石の上に降りた。ゴツゴツした石のヒンヤリとした感触が足の裏から靴下を通して伝わってきた。明日香も黙って廊下から敷石の上に降りたった。坪庭の周囲は高さ5mほどの白壁が取り巻いている。四角く区切られた上空には青い空が見えていた。


 そこへ、廊下の端の角を曲がって、何か黒いものが猛烈な勢いで飛んできた。その勢いで、井戸の釣瓶つるべが落下した。ガラガラと音がして、井戸の底から大きな水音が聞こえた。黒いものが坪庭に面した廊下の縁で止まった。


 黒髪を振り乱した女将の頭部だった。廊下の端の角から首が伸びて女将の頭部につながっている。


 女将が坪庭の二人をにらみつけた。


 「返せ・・・返せ」


 そう言うと、女将の顔が大きく口を開いた。鋭い歯が見えた。赤い舌が出てきた。赤い舌が、まるで蛇の舌のようにチョロチョロと動いて唇をなめた。女将の頭部が二人に向かって伸びてきた。


 「ウワー」「キャー」


 女将の頭部をよけようとして思わず後ろに下がった蒼汰と明日香は、背中から井戸の中に落ちていった。

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