ヒトダスケ

明原星和

ヒトダスケ

 人を殺すことは悪いことなのか?


 答えはYesだ。


 では、人を助けることは悪いことなのか?

  

 答えはNoだ。                   


 では、人を助けるために人を殺すことは悪いことなのか?


 答えは……。







 


 真っ暗な部屋の中、ランプに灯された火の光が、ゆらゆらとベッドに座る男性を照らしている。

 色味のない灰色の髪と髭を生やした男性は、両の肘を膝につき、両手の指を絡ませて、そこに顎を置き、眉を少しだけ寄せて薄く息を吐きながら、うずくまったように座っていた。


 彼の名はジャック。

 イースト・ロンドンに生まれた男だ。


 ジャックは昔からよく変わっていると周囲に言われていた。生まれた時から優しく、正義感に溢れていたジャックは、困っている人は皆分け隔てなく救いの手を差し伸べ、時には自分を犠牲にしてまでも人助けをする、行き過ぎた善人だった。


 ジャックは人を助けるたびに快感のようなものを感じていた。その快感は、たとえ自分の身を犠牲にしてでも味わいたいと思えるほどに甘美なものだとジャックは思っていた。


 反対にジャックは、悪事に対して酷い抵抗感があった。


ポイ捨て・暴力・陰口。その他多くの悪事を働くことを酷く嫌い、また悪事を働く者を見るだけで、その者に酷い嫌悪感を抱いていた。


 善人の中の善人。それがジャックだった。


 しかし、そんな善人なジャックが、ある時罪を犯した。

 それはもう三十年ほど前の話。

 当時十歳だったジャックは、早くに父を亡くし母親と二人で暮らしていた。

 美人で明るく優しい母親との生活は、ジャックにとって掛け替えのない幸せな日々だった。


 そんな幸せな日々に、突如亀裂が走ったのだ。


 母親が強姦されたのである。それも一人にではなく複数人の集団に。

 犯行はジャックが学校に行っている時間に、自宅で行われたらしく、学校から帰宅しその事実を知ったジャックは、今までに無いほどに脳みそが揺らぎ、全身を破裂しそうなほど大きな鳥肌が覆った。そして、全身からこみ上げてくる強い嫌悪感を一気に吐き出すかのようにその場で嘔吐した。

 被害にあってしまった母親は、まるで魂が抜けてしまったかのように一切の感情がなくなり、ただ操られて動いているだけの絡繰人形のように、無感情に生きるようになってしまった。

 そんな母親を何とか回復させ、また前のように幸せな日々を送りたいと思っていたジャックは、母親を必死に励ましながら生活していた。


 そんな生活が何日か続き、ジャックの母親がふとジャックにあるお願いを口にした。


「ジャック……私を殺して……。お願い。私はもう……生きていることが辛いの」


 弱々しい声で発せられたその言葉は、ジャックにとてつもない衝撃と悲しみを与えた。

 あれほど明るかった母が。夫を亡くしてもなお挫けることなく生きることを決め、自分をここまで育ててくれた母が。こんな言葉を発するなんて。

 悲しみに暮れたジャックは、無感情な声を口から吐き出した。


「分かったよ。母さん」


ジャックは、母親を殺した。


キッチンから持ってきた包丁で、母の頸動脈を一閃して殺したのだ。


人を殺す。それは人として最も犯してはいけない罪だと教えられていたジャック。だから最初は母親を殺すことを躊躇っていた。しかし、そんな躊躇いも一瞬のことで、ジャックは母親を早く救い出したいという思いのままに凶器を振るった。


その時の光景、手の感触、感情を今でもジャックは鮮明に思い出すことができる。

目の前で飛び散る鮮血。生暖かい血の感触。肉を断ち切る時の手の感触。そしてあの時感じた不思議な感情も。


悪事に対して酷い抵抗感・嫌悪感があったジャック。そんなジャックが人を殺したら、ましてや自分の母親を殺したとあれば、それは今までにないほど酷い抵抗感と嫌悪感に苛まれてしまうだろう。そうジャックも思っていた。


しかし、ジャックは何も感じなかったのだ。


人を殺すことは悪いことだ。そう教えられた。

人を助けることは良いことだ。そう教えられた。

しかし、人を助けるために人を殺すことは?

悪いことなのか? 良いことなのか?

分からない。分からないから何も感じない。


母親を救うために母親を殺したジャックの感情は、抵抗感や嫌悪感に苛まれることもなく、快感に満たされるわけでもなく、ただただ無であった。


人を助けるために人を殺すことは悪いことなのか?


その疑問に、あの頃からジャックは悩まされている。




コンッコンッ




突然、部屋の扉をノックする音が小さく響いた。

ジャックが「どうぞ」と小さな声で呟くと、扉が鈍い音を立てながら開き、一人の女性が部屋の中に入ってきた。


彼女の名はメアリー。ジャックの学友で昔よくつるんでいた女だ。

ジャックは今日、彼女からあるお願いをされて、わざわざ町の外れにあるこの廃屋にやってきていた。


「ごめんなさい。遅くなっちゃって」

「いいよ。気にしなくて」


 学生時代、メアリーはそれなりに美人だった印象があるジャック。しかし、今目の前にいる女性は、当時の面影を一切残さないほどにやつれており、あれほど艶の良かったきれいな髪も今ではボサボサに固まってしまっている。

 メアリーは部屋に入ると、ベッドに座っているジャックの隣に腰掛けた。そしてそのままメアリーは昔の思い出話をし始めた。

 しかし、とても思い出話をしているとは思えないほど、部屋の空気は暗かった。

 笑いが起こることはない。起きてもほんの少し口角を上げることだけ。

 話が盛り上がることはない。部屋に響くのはただひたすらに乾いた声のみだ。

 楽しいと思うことも決してない。そんなことを思えないほどにメアリーは絶望していたから。


 一人、思い出話を続けるメアリーをジャックは、優しい顔で見つめていた。

 会話が終わると、しばらく沈黙が続いた。

 その沈黙を破るようにジャックが短く言葉を吐いた。


「そろそろ……いいかな?」

「…………えぇ」


 一瞬の間を開けて、メアリーは首を縦に振った。


 彼女からのお願い。それは「私を殺してほしい」というものだった。


 かつてジャックは、母親を殺した際に抱いた疑問の答えを知るために、メアリーに母親を殺したこと、その時抱いた疑問のことを話した。

 当時のメアリーはジャックの話を本気にせず、聞き流していたが、あまりにも熱心に何度もそのことを話してくるジャックをメアリーは次第に気味悪く思い、いつしかジャックとメアリーの関りはなくなっていった。


 そこから現在に至るまで、まったく連絡を取り合っていなかった二人だったが、ある日突然メアリーからジャック宛に手紙が届いた。突然届いたメアリーからの手紙に最初でこそ驚いたジャックだったが、その驚きもすぐに消え、二人は文通をするようになっていった。

 文通をする中で、ジャックはメアリーが最近強姦の被害を受けてしまい、生きることに何も希望を持てなくなっていたこと。手紙をジャックに送ったのは、かつて話してくれたジャックが母親を殺したということが真実なのかを確かめるためだということを知った。


 そして彼女は手紙の中で、もし母親を殺したことが真実ならば、私もあなたの母親の様に殺して楽にしてほしいと書かれてあった。


 そのお願いをジャックは二つ返事で了承した。

 母親を殺したときに抱いた疑問の答え。

 いくら考えても導き出せないあの疑問の答えにもしかしたら同じように人助けのために人を殺し続けていれば、いつかたどり着けるのではないか?

 ジャックはそう考えたのだ。


 そして今、ジャックは目の前に座っているメアリーを殺そうとしている。


 メアリーを救うために、殺す。


 メアリーのお願いを叶えるために、殺す。


 メアリーに「ありがとう」の意を込めながら、殺す。


 あの時抱いた疑問の答えを知るために、殺す。


 ジャックはゆっくりと、持参した包丁をメアリーの首筋に置いた。




 さあ、ヒトダスケを始めよう。



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ヒトダスケ 明原星和 @Rubi530

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