蟻地獄
紫鳥コウ
蟻地獄
ありとあらゆる発想を、人類史上初の発明だと盲信する、あの折――その頃のぼくにとって、彼女の存在ほど薄気味悪いものはなかった。しかしその――季節外れに転校してきた――彼女に対して誰よりも優しく接することが、ぼくの愉楽であった。
教室の後ろの席で、誰とも関わることなく本を読んでいる彼女の肩越しから声をかけ、「そんな難しい本を読めるなんてすごいね」と言うことの優越感――ぼくひとりだけが彼女の本質に迫ろうとしているという、あの特権意識。すると、彼女はぼくの言葉を無視することなく――ぼくの承認欲求を満たすような物言いで、
ぼくが、彼女の家に遊びに行きはじめたのは、彼女が転校してから半年くらい経った頃――つまり、この村を
その、彼女の母方の実家というのは、連山へと向かう道沿いにある、立派な庭のある一階建ての木造建築で、外からでも目立つ土蔵の瓦屋根は、竹林とこの村の時の流れを背負っていた。彼女は、母と祖母と暮らしていた――母は隣町で高校教師をしており、祖母は田畑を慰めるのが趣味だった。故に、日中のこの家は、彼女だけの屋敷と化していた。
ぼくたちは、仏間の隣にある彼女の部屋で――ほとんど一言も発することなく――漫画や小説を読んで夕方まで過ごした。当時のぼくにとっては、彼女の家にいるというその事実こそが重要なのであり、そこでなにを行うかということについてはどうでもよかった。
誰もが忌避し遠のける存在を、自分だけは追いやらないという心づもりは、人生をまだ十いくつしか経験しておらず、あらゆる面において均等で画一的な年頃のぼくたちにとっては、ひとつの個性――それも英雄的な――として認定されるに足りるものだったから。
彼女が好んだのは、戦国期から幕末にかけての大名や武家の物語であった。ぼくは当時、せいぜい、信長だの秀吉だのしか知らなかったが、彼女は、川中島の顛末や、家継の夭折や、五稜郭の戦や……そんなことを、あの年頃にして知悉していた。しかし知識をひけらかすことはなく、こちらからなんとはなしに訊いたときにだけ、簡潔な答えを返してくれた。
が、彼女にはひとつだけ、冷ややかな熱を
「忠心からの自刃と懲罰のための自刃とねえ……あと、なんて言ったかしら。そう厭世……。とにかく、勝家のそれは、忠心のためのものだと思うの。なんのためらいもなく、奥さんと子供をね……」
こうしたことを語るときの彼女の、あまりにも大人びた口調は、
そんな彼女の異質さの徴候は、個性をひけらかして同年代のなかでひとつ抜きん出た存在になりたいと望むぼくを
あれは、雪がちらちらと舞う十二月の或る日のことであった。
ぼくはその日もまた、彼女の流暢な弁舌を浴びていた。もう何度となく彼女の豹変を見ていたこともあって、その奇怪な風景には慣れかけていた。が、その日の彼女は、目の奥から足の先まで、すっかりと冷え込んだ色を現していながら、「ねえ、庭で遊びましょう」と言い、一考する隙も与えず、素足のままぼくを庭まで連れ去った。
染み汚れた畳が松の樹に立てかけられていて、彼女はそれをふたつの石灯籠の中間に置いた。畳の上からでも、湿った苔の感触を悟るくらい、ぼくの神経は鋭敏になっていた。「しばらく座っていなさい」とぼくは命じられて、当の彼女といえば、土蔵の方へと消えていった。
ぼくは、かじかんでいく手足のせいで、身体が固まってしまっていた。のみならず、ここから逃げることで、取り返しのつかない復讐を受けるのではないかという妄想によって、理性が呪縛されていた。
それから、十分くらい経ち、身体の感覚が消えゆくにつれて敏感になってゆく直感が、ぼくの後ろに何者かが立っていることを報せた。が、その何者かは、じっとその場に立ったまま動こうとしなかった。
すると、たちまちに雪雲は裂けて、爛れた夕陽が顔をだし、ぐちゃぐちゃになった蜜柑のような色に辺りは染め上げられていった。ぼくの目の前にはだんだんと、ぼくの影が延びていった。そしてそれを追うように、ぼくの首の部分に突き刺さっている、刀のようなものの、もうひとつの影が浮かんできた。……
それを見たぼくは――おや、どうやら妻がぼくを呼んでいるようですね。少し失敬。
蟻地獄 紫鳥コウ @Smilitary
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