第9話 春の水

 暖かな風に冷たい水がみ出してくる。ゆるりと山は春めいて、僕の心もほんのり浮かぶ。

 この春こそはと決めていた。けれど彼女をうかがえばはにかむ笑顔がそこに在り、しゅんと気持ちが落ち着いた。

 たった一度言葉を交わし、食事の約束取り付けて。ただそれだけのことに何を舞い上がっていたのだか。あの微笑みは僕へのものじゃない。卑屈ひくつな気持ちが心をおおう。


 あの、と彼女の声がする。振り返ればあの微笑みが待っていて。明日ですよねと確認されて、うなずくことしか出来なかった。けれど彼女は笑みを深くして、楽しみですと去っていく。

 友人たちとはしゃぐ後ろ姿がまぶしく映る。些細ささいなことに一喜一憂、恋とは何と厄介な。


 水音みずおとが、明るい春を告げていた。

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