先輩後輩ロマンシス その13
一日の終わりを告げるチャイムが鳴る。吸音性能なんて皆無に等しいコンクリ作りの校舎だもんで、スピーカーから吐き出された音が床に、壁に、天井に跳ねて学校中に響き渡る。教師は教卓の上に並んでいた荷物を片付けて、そそくさと引き上げていく。
いつもは退屈なだけの授業も、一つの約束があるだけで、楽しみへのスパイスになるらしい。放課後が楽しみだなんて、いつ振りだろうか。
教師という制御棒を失った教室は、すぐに雑踏と話し声に包まれる。周りの席の友人と喋ったり、後ろの棚に部活動の荷物を取りに行ったり、あるいは携帯端末を取り出してそそくさと何かを確認したり。授業中から眠りこけたまま、未だ夢の中のクラスメイトも居る。
それらに殆ど興味を向けないまま、菜沙もまた携帯端末に視線を落として、街の各所に隠されているという装備の資料を眺めて、頭の中に叩き込み直す。一通りの装備は全て細かな仕様まで含めて暗記済み。ただ、先日の『焦げも残さず(オーバーレイ)』の火力を目の当たりにして、正式な装備を使うことのありがたみを知った。あれだけの装備が揃っていると、対処成功率は桁が変わってくる。
盗み見対策として、上下左右から覗き込んでも見えにくい液晶。加えて、羅列されているスペックが書かれている言語は、日本語でも英語でもない。日本の学生において識字率の低いドイツ語やらロシア語やらラテン語やらが、ページ毎に切り替わる仕様。読み辛いことこの上ないが、外で第肆額縁の情報に触れようとしたらこれくらいのデータマスキングは然るべき、なのだ。
面倒くささに眉をひそめながらでも読めるのは、促成学習装置のおかげ。一から、勉強をして身につけるなんて途方もない道のりをショートカット出来るのだから、改造人間万歳。
若い女性の担任が教室へとエントリー。けれど、クラスの喧噪は中々止まない。
「はーい。みんな、早く席について、静かにー」
なんて声を発するも、すぐに従う生徒は半分程度。歳が比較的近く、親しみやすい担任は生徒から慕われている……が、教師という立場上、親しみやすさが向上すれば、威厳は反比例的に下がっていくモノで。
「せんせー、聞いてくださいよー。こいつがさぁ」
なんて、大きなよく通る声。クラスの中心に居るような男子生徒が、友達に話すかのような声色で話し掛ける。
対する、先生は溜め息をひとつついて、座れ、と指先で指示。
「あとで、幾らでも聞いてあげるからとりあえずホームルーム始めるから静かにしなさい」
すぐに、とは言えないが、どの生徒も各々の放課後を迎えたい気持ちは同じなので、少しずつ騒がしさは収束していって、ようやくホームルームが始まった。
とは言え、特にイベント事もない時期。長引くこともなく、忘れ物がないように、だとか、型通りの話をして終わり。
「それじゃ、今日はおわり。気をつけて帰るのよ」
そう担任からの一声で締めくくられた瞬間だった。
スパァンッ。豪快な音とともに、開け放たれた教室の引き戸。それぞれが、立ち上がろうとした刹那、割って入るような絶妙なタイミング。
「なず先輩っ!!」
現れた少女と、目が合った。
一瞬で、菜沙を補足したその少女……葛代芹。ホームルームが終わった瞬間に現れた。沈黙が、教室を支配。いや、蹂躙。
「帰りま、しょ、う……」
徐々に尻窄んでいく言葉。ぐるっ、と教室を見回すと、全員がまだ席についている。先生も、クラスも、その視線の全てが葛代さんに向いていて、どんどん、小さくなっていくようで。
「あのぉ、ホームルーム、終わってません、でしたか……?」
小声で先生に問いかける葛代さん。呆気にとられていた先生は、瞬きを数度。
なんというか、いたたまれない。このまま、見て見ぬフリをするのは、先輩の沽券に関わる。
バッグとアタッシュケースとともに立ち上がり、葛代さんの方へと歩いて行く。当然、菜沙もまた、視線を集めるが、必要経費と割り切る。別段、注目されるのに苦痛なんて感じない。
「間違ってないよ……先生、さよなら。それから、みんなも」
「あっ、はい。さようなら、鳥居さん」
そのまま、小さくなっている葛代さんを伴って、廊下へと歩き出した。
「上級生に注目されるの、心臓止まるかと……」
深呼吸をしながら、横についてくる。ぴょこぴょこと揺れるゆるふわくせっ毛。背丈は変わらないのだけれど、まるで小動物のよう。
「別に、連絡だけくれて待ち合わせでもよかったのに」
「やっぱり記念すべき一日目、ですから早く会いたかったんですよ……もしかしたら、逃げられるかもっていう不安が少しだけ、あったり……いや、なず先輩が約束を破るように見えるってワケじゃないんですけど」
「まぁ、あんだけ食い下がられると、そう思っても仕方ないか……それにしても、昼休憩もそうだけど、度胸があるのかないのか、わからないわね」
「単に周りが見えてないだけですよぉ。なず先輩は、度胸あるというか、堪えてないというか」
昨日出会って、お昼を一緒に食べただけだというのに、随分と砕けた様子の後輩。けれど、不快感が一バイトも含まれていないのは、菜沙も気を許しているから。
校舎の外へと、二人揃って肩を並べて歩く。
「やっぱり、なず先輩と居ると注目、されますね」
ボソッと、小さく話し掛けられたので、首を傾げる。合わせて、ツインテールが傾く。
葛代さんの視線が、揺れるツインに釘付け。試しに、少しだけ、尻尾の先を揺らすと、追いかけるように瞳が動く。やはり、『少しだけ好き』ではないのでは。
ツインテールへの偏執は横に置いておいて、周りを見渡す。確かに、ちらちら、と見られているといえば見られている。
「気にするのなんて遙か昔にやめたのよ。変わってるのは自覚してるから」
「やっぱり、度胸ありすぎですよ……ちゃんと話せば伝わりそうなのに、どうして口下手なんですか?」
言われて、胸に突き刺さった鏃。下手な魔法だとか、魔術のとんでも攻撃よりも、ずっと重いダメージが入る。
「人が気にしてることを」
「あっ、ご、ごめんなさいっ。いたた、なずせんぱぁい」
気遣われた謝罪が、二射目となって飛んでくる。一本目の矢と全く同じ箇所に飛んできた、ソレは、継矢となって、最初の鏃を更に奥へと押し込んだ。仕返しに、指先でおでこをぐりぐりとつつく。これで、おあいこ。
「でも、私は他の皆とは違いますからねっ」
鼻高々、軽くなる足取り。誰が見ても葛代さんは浮かれていた。浮かれすぎて、このまま、風船のように飛んでいってしまうのじゃないか。
そんなわけ、あるはずがないのに、思わず手を握っていた。
飛んでいってしまわないように。
「なぁっ!?」
ネコのような鳴き声。同時、ブワりと、ゆるふわくせっ毛が膨らんだ、気がした。一瞬の逡巡の後、距離感を測り違えたと察して、握った手の力を緩めようとした。
「あっ」
ぎゅっ、と手が結ばれた。菜沙が手の力を完全に抜いても離れない。思い切り握り返されている。
「んふー」
菜沙の手を握り満足そうな葛代さん。何を言えばいいのか、ぐるぐると低速回転をしていたエンジンが、動きを止める。
何も言わずに、再び、手をゆっくりと握る。
目が合った。こくこく、と笑顔が何度も頷く。達成感に満ち満ちた表情が、なんとなくおかしくて、口元がゆるむ。
多分、鳥居菜沙は葛代芹という少女と居ると、頬の筋肉が緩んでしまう体質なのだろう。
菜沙の用と言えば、このまま支部に行って調整だとか訓練だとか開発部のテストに付き合うくらい。時間の指定はなく、好きな時に言って、好きな時にこなすだけ。というか義務として課されていない。
というのも、菜沙は正式に運用できる戦力として数えられていないから。独断専行、部隊も編成せず実質個人プレー……そんな扱いづらい駒を戦略に組み込んだりはしないということ。とはいえ、スペックだけはトップクラスの菜沙を遊ばせておく程の余裕はない。
結果、好き勝手に遊撃する……戸羽の便利屋として仕事をするというポジションに落ち着いた。
高々、一時間二時間ズレたくらいで、誰も文句は言わない。何だったら、明日でもいいくらい。
「葛代さん、良かったらお茶して帰らない?」
「勿論ですっ」
一も二もなく、賛成が帰ってくる。菜沙の知っている喫茶店はチェーン店を除けばただ一つ。自然、二人の足は同じ方向へと向いていた。
「二日連続で、いらっしゃい。よっぽど、憧れの先輩と知り合えたのが嬉しいみたいだね」
カランカラン。鈴が鳴る。心地良い、ジャズミュージックと程ほどの暗さ。そして、その全てに染みついた珈琲の匂い。まだ訪れたのは二度目。それでも、この店の居心地の良さは、クセになりそう。
「はいっ」
僅かの躊躇いもなく肯定が返ってくる。菜沙だけが気恥ずかしくなっているのが妙に悔しい。
「それにしても、貴女があの、有名な、ねぇ……」
「有名、なんですか? 好き勝手はやってますけど」
同じ学校に通っている葛代さんなら兎も角……隠れ家的喫茶店のマスターという縁遠い人から、知られているのでは話が違う。
「あー、なず先輩、そういうの気にしないタイプなんで」
「大体、予想はつくけども。色々絡まれたりしたのを、はね除けてたから」
「可愛い顔して物騒でヤだなぁ……席は好きなとこ座ってね」
マスターが、若干、後ずさっているのが見えた。とりあえず、昨日と同じ端っこのテーブル席に座って向かい合う。
すぐに、お冷やの入ったグラスが、コト、と、テーブルの上に双子で並ぶ。
「はいお冷や」
「ありがとうございますっ。なず先輩、やっぱり、超強いんですね。怖い三年生とか、不良とかを全部ボコボコの返り討ちにしたっていうのも、ほんと、なんですか?」
「ヤのつく自由業の人を伸したっていうのも聞いたけど……そんなに、喧嘩強いの? ツインテちゃん」
「あー……」
全部、心当たりはあった。そんなに周りにギャラリーが居たわけではない。それに、サクッと手早く済ませたので、話がそこまで広がらないかと踏んでいたのだけれど、見通しが甘い。
あまり、記憶には残っていない。というか、自慢をするのも恥ずかしい。
「……喧嘩とか、大層なものじゃないですよ。絡まれたから、適当にあしらっただけで……」
「完全に強者の発言だわ」
「そんなんじゃ、ほんとになくて……いや、弱いモノいじめしてるだけなのにお恥ずかしい」
菜沙は改造人間。それも、とびっきり上等な。
装備をつけていない素の身体能力であっても、この世界のあらゆる競技者にダブルスコアをつけて圧勝できる。その上、促成学習装置と訓練によって技術面も備わっている。
矢でも鉄砲でも脅威にならない。けれど、優越感とかそういったモノは湧いてこない。恥ずかしさが先立つ。
喩えるなら、子供がかけっこで競争している真横をスポーツカーで追い越して、『私の方が速い』と自慢するような、情けなさ、ばつの悪さ。だから、羽虫を払っただけ、蚊を退治しただけ。そう、小さな記憶として押しとどめることで、記憶の隅に追いやっていた。
「ま、まぁ、それは、もう、いいじゃないですか」
「芹ちゃん。ほんとにこの子が、ゴリアテちゃんなの」
「正真正銘、本人です」
「ご、ゴリアテ……ださっ……!?」
なんとか話題を逸らそうとする……が、聞き捨てならない単語。もしも、これが菜沙につけられた呼び名だとしたらセンスに欠け過ぎている。端的に言って、ダサイ。あまりにも、あまりにも。
「なず先輩、そこまで身長大きいわけでもないのにビクともしないからゴリアテ、って誰かが言い出したんだとか。というか他にもいろんな呼び方されてますよ?」
「……例えば?」
僅かの逡巡。精神衛生上、聞かない方が良いのかもしれない。なんて、思いながらも止められなかった。誰かに、どう思われる……それを気にするタイプではない。
ただ、意味不明な肩書きがつけられて、それが一人歩きしているのは気になる。『怖い人だ』と思われるのと、勝手につけられた呼び名で『あれがゴリアテか』という目で見られるのではワケが違う。前者は自己責任だけれど、後者は風評被害ではないか。
「ツインテールをなぞらえて猫又とか、ツインヘッドシャークとかですね。もっと、よく分からないのだと、レジェンドオブダークネス、なんていうのもありますね」
「ダサイ通り越して情報量ゼロだわ……」
「他に聞いたことあるのだと、一つ頭のケロベルスなんてのもありますよ」
「それはもうただの大型犬じゃん」
心の底から、出た嘆息。猫又、ツインヘッドなんたらは百歩譲って理解できる。どうせ、ツインテールから派生してついた呼び名なんだろう。だが、最後の二つに至っては、もはや意味不明。なんにも掛かってない。
「呼び名、とは違いますけれど、学校でよく聞くのは『机投げ』の、話とか。アレってほんとなんですか?」
「あー……」
「机投げ? なにそれ」
マスターが首を傾げる。仕事をしないでいいのかと問いたくはなったけれど、客が他に居ないからカウンターに戻ることなく、菜沙達の会話に混ざれるのだろう。
葛代さんがあげた単語には、非常に覚えがある。自分でも常識外れ、と記憶に残っているエピソード。鳥居菜沙黒歴史チームの四番エースと言っても過言ではない、忘れたい行動。
その黒歴史があるから、学校では出来るだけ大人しくしようと振る舞っているといっても過言ではない。
それは去年、まだ高校進学したばかりの頃。相も変わらず、敵かそうじゃないか、という線引きの人付き合いが殆どだった菜沙は当然、上級生に目をつけられた。上下関係がそのまま学校カーストの権力に繋がっている学校という閉じた空間において菜沙は異物。
「その、典型的な嫌がらせで、私の机が窓から投げ捨てられたんです、けど……」
丁度、登校するのを見計らったかのように、教室から放り投げられた菜沙の机。
幼稚な嫌がらせそのものは菜沙からすれば可愛いもの。もっと、悪辣な連中と日夜、鉄人レースを繰り広げているから。
嫌がらせを受けたというのが、深夜に厄介な干渉者とダンスパーティーを繰り広げ危うく死にかけた徹夜明け。任務完了後に諸々の治療及び安静処置を受けた。が、余韻として昂ぶりの残り香が漂っていて……それが、思考を雑にさせた。
「落とされた机を持って上がるの面倒で……机を、こう、ポイッと教室に投げ返した、だけなんですよ。ちゃんと、窓から離れるようには言ったんですよ……?」
自分で言いながら、苦しすぎる弁明。思考回路がショートカットし過ぎたのが良くない。その時の菜沙は、上から落ちるか、下から昇るかの違いだけで、大差ないと判断した。
葛代さんは、苦笑いに留まっている。菜沙の噂とかをよく知っているから。が、マスターの表情は、引き攣っている。
「……ちなみに、何階?」
目が泳ぐ。喉が渇く。ここまで言って、階数だけ誤魔化すのなんて無意味。
もごもごと、口をハッキリ開かずに、出来るだけ聞こえないように願いながら、呟いた。
「四階、です」
からん。グラスの中の氷が、溶けた。テーブル中央に堂々と居座る、沈黙。気まずくて仕方が無い。
「……その日以降、嫌がらせは激減しました」
「そりゃ、そうだわ」
がくり、頭が垂れる。菜沙にだって、常識はある。普通、学校の四階の窓に向かって机を、片手で投げ返すような人間相手に嫌がらせをしようとは思わない。教室に戻った時には驚き通り越して絶句が満ちていた。実行犯及び取り巻きなんて、顔面蒼白。
怒ってなんかいなかったのに。
「とりあえず、何注文する? 面白い話も聞けたし、菜沙ちゃんには一杯だけサービスしたげる」
忘れたい過去を思い出し、若干ブルーになっていると、それを打ち消すような、ケロリといつも通りの調子を取り戻した声。
「えっ、いいんですか?」
「こういう時は『ありがとう』の一言で十分」
「あ、ありがとうございます」
パチリ、ウィンクを一つ。惚れ惚れする、綺麗さ。
「えぇー、店長、私はー?」
「あるわけないでしょ。自腹を切りなさい。昨日も菜沙ちゃんに払って貰ってるんだから」
「贔屓ですよぉー!!」
「贔屓じゃない。凄い話を聞いたんだから、ささやかなお礼ってだけ。悔しかったら、芹ちゃんも武勇伝の一つや二つ作ってきなさい」
「ぐぬぬ……」
武勇伝なんて言う大層なモノではない。やっていることは、虎の威を借る狐。自分の努力で手に入れたものではないズルだから、誇れない。
とはいえ、これ以上この話を引き摺っても、自分の古傷が開くだけ。話題には触れずに、注文。
「じゃあ、その、ブレンドを一つ。ホットのブラックで」
「私は、マンデリン。同じく、ホットアンドブラックでお願いしまーす」
「りょうかい。あと、苦い珈琲のお供に、ケーキなんて、どう?」
「むっ……!! でも、今月はお財布がダイエットしてるから……」
小洒落た隠れ家的喫茶店であるから、値段はお世辞にも安いとは言えない。一杯分の値段が、駅前のチェーン店の二杯分に相当する。その分、美味しいので菜沙的には問題なし。
「ケーキ二つ、お願いします」
悩んでいる葛代さんの代わりに頼んでしまった。察しがいいマスターは、サラサラと手元の伝票に書き足してカウンターに戻っていった。
「お代は心配しないでいいわよ。私が誘ったんだから」
マスターが戻っていって、二人きり。固くなっていた言葉も、すぐに解れる。本当に葛代さんの前だと、自然体で話せている、と理由の分からない嬉しさがこみ上げた。
申し訳なさそうな表情を浮かべるから、遠慮される前に釘を一つ。
「こういう時は、先輩を立てなさい」
「うっ……あ、ありがとうございますっ」
ズルいジョーカーを切る。こう言われて断れる人間はごく稀。奢られるという事に、先輩を立てるという免罪符がつくのだから。
それから、他愛のない話をした。趣味とか、学校の愚痴とか、謎めいているマスターの話、だとか。それから、葛代さんが最近追いかけているゲームの話なんかも聞かせて貰った。ファンタジー世界の貴族物をベースにした作品にハマってしまったらしい。
穏やかな話ばかりではなくて、刺激的な話だってした。菜沙に関してどんな噂が飛び交っているのか、だとか。真偽がどうだ、とか。
話題があっちへ行ったり、こっちへ行ったり。ウインドウショッピングでもするかのようにフラフラと。
気が付けば、数時間も話し込んでいて、珈琲や軽食を幾つも頼んでいた。軽食に関しては、昼食を殆ど食べられず、小腹が空いた所為でもある。
ただ、なんでもない話をする。たったそれだけの無意味な時間。それを楽しいと思える感性が自分の中に残っていたことが、意外だった。
「ほ、ほんとうによかったんですか?」
「全然、問題ないわよ。お金には余裕があるもの」
「例の秘密のお仕事、ですね」
「そういうこと」
店を出る。結局、支払いは全額菜沙持ち。マスターには、甘やかしすぎと、笑われてしまった。
生憎と、菜沙は学生らしい金銭感覚を持ち合わせていない。と、いうのも第肆額縁での仕事には報酬が発生する。オーバーテクノロジーを駆使して、非常識反則モンスター達と戦う、蟹工船よりも危険な仕事。代償として、普通の人間ではなくなるというデメリット付き。
それだけ、リスクのある仕事なもので、なんだかんだ一介の学生とは思えないような稼ぎがある。それに加えて額縁は様々な企業や組織から資金援助等を受けるために、便利屋紛いなことを行っていたりする。
例えば、どこかで開発した軍事用サイボーグが暴走したとか、どこかで生まれた生物兵器が止められないとか……そういう表には出てこない不祥事を、突出している額縁が出張って鎮火したりすることもある。その時は、臨時手当も貰える。
一応、その行き場のないお金を、菜沙用装備の強化に充てて欲しいという、ワガママのための賄賂というかお願い代に使っていたりするので貰っている額に対する貯蓄は少なめ。その資金の一部が、街中への装備配置へ一役買ってるのだと思う。どうせ死んでしまったらあぶく銭になってしまうのだから、少しでも生存率を上げるのに使った方が有意義。
雑居ビルの、ボロボロの狭いエレベーターに乗ると、僅かに軋む。深夜に乗ると、閉じ込められてそのまま幽霊にでも襲われてしまいそう。
ごうごう、と音を立てるエレベーター。少しの揺れとともに、一階へと到着。そのまま外へと。話し込んだいたから、外はもう絵の具をぶちまけたかのような、目に痛いほどの朱に染まっている。
「うーむ」
人気の無い狭い路地を、二人揃ってゆっくり歩く。今日が終わってしまうのを一秒でも引き延ばすように、ゆっくり、と。
「どうしたの?」
隣でうんうん、と首を捻って、ふわふわの髪が揺れていた。何を悩んでいるのだろう。
「沢山話して、いっぱい知らなかったなず先輩を知るほど、もっともっと知りたいって気持ちでいっぱいになるんです」
気恥ずかしいのは菜沙だけ。正直、素直、真っ直ぐな葛代さんの言葉は、斜に構えがちな菜沙によく突き刺さる。
遠くに聞こえるだけだった自動車が走る唸り声、人々から溢れ出す雑踏が、徐々に近づいてくる。
「私も、そう、かな」
染み一つ、皺一つない、言葉だったから、出来るだけ誤魔化したりせずに返そうと思って、絞り出した。
「んふー」
素っ気ない、たった一言。相槌のような言葉だったにも関わらず、意外と耳聡い葛代さんは、笑顔で膨らんでいた。まるで、焼きたての白パンのよう。
「嬉しいですっ。嬉しいんですけど……」
「けど?」
幸せというイースト菌で膨らんだまま、また態とらしい悩む素振り。菜沙に中にある『葛代芹』という空白ばかりのページ。そこに、身振り手振りが大きいタイプ、と一行追記しておく。
「こんなことなら、もっと前に、話し掛けておけばよかったなぁ……って」
「あぁ……でも、仕方ないわよ」
「怖い噂しかないから、ですか?」
「えぇ」
知る由も無かったけれど、菜沙に向けられた噂や陰口の類を耳にしていれば、誰だって関わろうとは思わない。
人通りの多い、通りに出る。ここまで来れば、見慣れた制服もちらほら。仕事帰りの疲れ切ったサラリーマンや、ヘッドホンとギターケースを背負った若者だとか、バラエティに富んだ人々で溢れていた。
「でも、実際話したら、全然怖くなくて。どうして、噂なんて鵜呑みにして怖がってたんだろう、って。そのくせ、気になる気持ちはずっと片手に持ったままにしてたんです。こういうの後悔先に立たずって言うんですよね……」
ノスタルジーを感じさせるほどに朱色の西の空。紺色の天幕を引っ張ってきた東の空。
その間に、挟まれながら、二人、混ざることもなく進んでいく。
「あっ、私、こっちですから」
気が付けば、別れる場所まで来ていた。どちらともなく止まる足。あまり聞き心地がよいだけの、無責任なことを言いたくない。
目的を為すまでは絶対に死なないと誓っている。けれど、その意志が死なない事とイコールになり得ないことを知っている。
けれど、昼に伝えた言葉は幾分も濁っていない。むしろ、純度を増していくばかり。
「それじゃ、なず先輩、また明日!!」
「えぇ、気をつけて」
これから知っていけばいい。葛代さんもそれを分かっているから、最後には笑顔で挨拶を返してくれた。
遠ざかっていく背中。頭に浮かぶ、支部に向かうか、帰るか。二つの選択肢。
どちらもが、一瞬で、かき消えた。
こんなにも踏み込めるタイプじゃない。柄じゃない。キャラじゃない。
自身に対する、マイナス評価が並ぶ。
それらは全部、たった一つ、衝動が塗り替えた。
「芹!!」
遠ざかる背中が、その場に縫い付けられる。
そして、波打つ柔らかな髪が翻る。
「これから、よろしくね……!!」
驚きで固まった表情は、数秒の後、柔らかく解れていく。
そして、葛代さん……芹もまた、返事をしようと口を開いた。
その、瞬間。
柔らかな髪も、笑顔を、声も……出るはずだった言葉も。
全部が、全部。
鉄の塊に、押し潰された。
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