先輩後輩ロマンシス その3

 弾む足取り。跳ねるような声。時折振り向きながら進む背中から伝わってくるのは、雰囲気全部が柔らかそうな少女……葛代芹。

 手を掴まれるままに連れてこられたのは菜沙たちが通っている学校の最寄り駅。ただし、学校へ向かう表口とは反対側。裏口。いつも使っている表口は社会人やら学生やらが溢れている。大して、裏口は狭く改札も二つしかない。改札を抜けた先にある道幅も狭く、車が一台通れるかどうかの細道が面しているだけ。狭くとも駅前だけあり飲食店だとかは、多少なりとも所狭しと並んでいる。なんというか、ちょっとした飲み屋街、といった感じ。

 そんな改札前の細道から、一度逸れ、もう一度曲がった裏路地一歩手前。

 オブラートに包んで言えば年季が入っている。

 包まないのであれば、廃ビル寸前。

 振り返った葛代さんが苦笑い。菜沙の表情に色々出ていたのだろう。


「一応、ちゃんと営業中ですっ」


 そんな雑居ビルの二階が目的地だという。ビルの入り口の片隅には、普通に店の前を通っても気づかないような黒板の立て看板。『バー&喫茶 武士(モノノフ)』と書かれている。バーにしろ、喫茶店にしろ、ネーミングセンスを疑う店名。立地の悪さに加え、店名ダサさが隠れ家的魅力を薄めているのじゃないだろうか。

 人気のないビルに一歩足を踏み入れ、小さなエレベーター。二人が入っただけでも狭く感じる。ちらと、見上げたら最大定員数が四人。階選択も、丸くて古いボタン式。

 喫茶店なんてオシャレな存在とは無縁の生活。精々が、ファミリーレストランのドリンクバー。全国チェーンの喫茶店ですら、入ったことがない。それでも、菜沙がイメージする喫茶店とはかけ離れた寂れ具合に、一抹の不安。本当に向かっているのは喫茶店なのだろうか。なんだったら、このままエレベーターが故障して停止するんじゃないか。

 そんな不安を他所に頼りないエレベーターから躍り出るとそこには木の扉が正面に。大木からそのまま、切り出したかのようなシックな扉。ただボロボロなだけのビルとは違い、所々に見える傷ですら、木扉の魅力を増やすアクセサリー。レトロな魅力が垣間見える。

 カランカラン、扉に設置された鈴の音のカーテンを潜る。と、外観からは想像つかないほど小綺麗で、落ち着いた雰囲気の喫茶店がそこにはあった。細長く、奥まっているのも、隠れ家的な雰囲気を醸し出すのに一役も二役も買っている。


「ほぁぇー……んっ、んぅ」

「ふふっ、いいお店でしょ?」


 外観からは想像できないギャップに間抜けな声が零れ、咄嗟に口を噤む。聞かれていたみたいだけれど。

 入り口のすぐ傍には木で出来た小階段。そこを上がると木張りの床からテーブルや椅子までが、ダークブラウンで統一された店内。

 これまた、大きな木をそのまま切りだしたかのようなカウンターにはロッキングチェアが五席。壁際に二人掛けテーブルが二セット。四人掛けのソファー席が窓際に一セット。意外と広い。

 なにより目につくのはカウンター席の向かいの棚に並ぶ酒瓶。珈琲を淹れるためであろう道具と同じように並んでいる。それらがどこかアダルティックさを醸し出していて、子供には場違いな空気感。

 カウンターの向こう側で、グラスを磨いていた一人の女性。扉を潜ってきた、菜沙と葛代さんの二人にすぐに気付く。


「あら、芹ちゃん。どしたの。今日はシフト入ってなかったんじゃない?」

「今日は、普通に客ですよ客」


 どこか小洒落た空気感に呑まれている菜沙とは違い、勝手知ったるとでも言った風に入り口扉の横、段差を上がり、木張りの店内を進んで、端っこの二人がけのテーブル席に座った。菜沙も後を追って、葛代さんの向かいに座る。


「いらっしゃい。これお水とおしぼりね」

「あ、ありがとうございます」


 受け取った綺麗なグラスに入ったお水を一口。冷たさと同時に、溶けこんだレモンの香りが鼻を抜けて、清涼感だけが残っていた。


「にしても、お友達連れてくるのなんて珍しいね。初めて?」

「友達っていうか、先輩ですね……店長、私は水出しのアイス一つ」

「水出しね、了解。ふぅん、それにしても先輩かぁ。どっちかって言うと、同い年か年下に見えるけどねぇ」

「先輩、小柄ですもんね」


 なんて返せば良いのか分からず、タジタジ。葛代さんが店長と呼ぶ人の纏っている儚さ。美人にマジマジと見られて落ち着かない。なんて言うか、未亡人、みたいなオーラを醸し出している、菜沙の周りには一人も居ないタイプ。


「ツインテちゃんは何にする?」

「その、同じのを一つ」


 店長さんの手元のメモにサラサラと綺麗な文字で、水出しと正の字が二画目までが並ぶ。


「ん、りょーかい。ちょっと待ってて」


 注文を聞くと、エプロンを翻してカウンターの内側へと帰って行った。触れれば泡となって消えてしまいそうな雰囲気とは違い、ハスキーな声とのギャップ。凄く印象に残る人。会話なんて殆どしていないのに、この店にまた訪れたいという気持ちが既に芽生え始めていた。

 視線を向かいに戻すと、ズイッと顔を近づけてきた葛代さん。思わず、のけぞる。近い。露骨な清潔感のある香りが鼻をくすぐる。制汗剤、だろうか。


「ここだけの話」

「あ、うん」


 手を口の横に添えて、あからさまに内緒話です、といったポーズ。しかし、店内には他の客の姿は見えない。そんなポーズを取る意味はあるのだろうか。


「私、実はここでバイトしてるんです」

「……そうなんだ」


 拍子抜け。そこまで驚く程の事ではない……どころか、先ほどの会話から、それくらいは見当が付く。


「むぅ、私の秘密を教えたのに、その態度は釣れないなぁ……」


 顰めた眉の形は、細く、整えられていた。肩を竦めて、椅子へと力なく腰を戻した。


「バイトが禁止されてるわけじゃないでしょ?」


 菜沙と葛代さんが通う高校は、別段、特別校則に厳しいわけでも無く、特別進学校という訳でもない。時折、ほんの何人かが、名の知れた大学に行ったり行かなかったりする程度の高校。部活動も、一部の体育会系の部活が地方大会準優勝しただけで大騒ぎするようなレベル。文武平凡、あまり特筆するべきところもない。強いて、特徴を挙げるとするなら、在校生が多いくらいのもの。


「そりゃ、そうなんですけど……実はここ、夜はバーにもなるところなんですよ」

「はぁ……」


 確かに、バイト自体は許可されているが、バーやスナックと言った酒をメインとして取り扱う業種は当然禁止。バレたら、辞めさせられた上で謹慎なり、反省文なりの処分は下る。とは言えど、菜沙は別にバラすつもりなんて無い。これから先の人生で、一度も使うことの無い豆知識を得た、くらいの感想。『へー』で終わってしまう話。


「これだけじゃ足りないか……」


 殆ど吐息、声帯が震えたのかも分からないほどの小さな声。それでも、視力も聴力も、並外れている菜沙はきっちりと拾う。

 五感全てが世界記録全てに対してダブルスコア以上をつけてナンバーワンに輝ける身体になるように、弄くり回されている菜沙。装備を抜きにしても改造人間である超人菜沙の耳には、ハッキリと聞こえた。

 人の枠を越えた聴覚が、カラカラ、氷が揺れる音も拾った。視線を向けると、カウンターから歩き出した店主。菜沙と葛代さんのテーブルまで来ると、店内の橙色の灯りを穏やかに反射させる銅でできた琥珀色のカップ。注がれているのは透き通る黒。


「水出しのアイス二つ。美味しいよ」


 置かれたのは二つの銅カップ……だけではなく、普通のコーヒーカップも二つ。中にはベージュの液体。カフェオレか、ミルクティーか。

 テーブルの上には、水のグラスが二つ、水出し珈琲のカップが二つ、謎のコーヒーカップが二つ……合計すると六つもの容器が並んでいる。


「これはオマケの普通のカフェオレ……それから」


 出てきたのは小さなカゴに入れられた、棒状の焼き菓子。プレッツェルか、クッキーのようにも見える。


「試作品のビスコッティ。そのまま食べてもいいんだけど、結構固いから、カフェオレに浸すと丁度いいの。甘いワインに浸して、少しずつ食べるのもいいのだけれど、二人とも未成年でしょ?」


 ビスコッティ。聞いたことあるような、ないような。首を傾げていると店長さんは軽く説明をしてくれた。曰く、ビスケットとは似て非なる焼き菓子。二度焼きして中の水分を飛ばした、オシャレな乾パンみたいな、イタリアの焼き菓子なのだとか。


「芹ちゃんが、初めて誰か連れてきたってことで、今日はサービス。ゆっくりしてって頂戴ね」

「あ、ありがとうございます」


 ぺこり、頭を下げる。ツインテールが揺れる。成り行きで来ただけとは言え、真正面から向けられた善意を無碍にするメンタルは持ち合わせていない。

 そのまま、流れるように伝票を置いてカウンターに戻っていく。サラリと入り込んできて、スッと引いていく。絶妙な距離感で残される残り香が心地良い。なんというか、魔性、という言葉が似合う人だった。


「葛代さん、ここのことは誰にも言ってないの?」


 ここでバイトをしている葛代さん。出会ってからのイメージで言うと、友人が少ないとは思えない。でも、誰かをここに連れてきたことがないみたい。それがどうして初対面の菜沙を連れて来たのだろうか。


「信用してないとかじゃないんですけど、ここに学生が溢れてお喋りしてたら、なーんかしっくりこないのもあって教えてないんです」

「あぁ……」


 なんとなく、言わんとすることは分かる。

 穴場。隠れ家。知る人ぞ知る。

 言葉で表すのならそんな感じの喫茶店。一部の常連や、ツウと呼ばれる人たちが落ち着いた声で、珈琲を味わっているのが似合う。学校帰りに学生が溢れてお喋りしているのは、店の雰囲気とは合わない。


「じゃあ、どうして私を……?」


 葛代さんがこの店の空気感を大事にしているのは伝わった。けれど、菜沙を連れてきた意図はますます分からない。


「それはそのぉ……なず先輩が、ここで本読んでるのとか、似合いそうだから?」


 少しばかりむず痒い褒め言葉。ただし、泳いでいる視線がそれだけが理由では無いことを雄弁に語っている。


「これはとびっきりのトップシークレットなんで……正直、話すのは気が引けるのですけど……」


 気を取り直して、とでもいった風に姿勢を正した葛代さんは、ムムム、と眉間に皺を寄せる。あまり、期待をせずに、耳を傾ける。


「マスター。実は、生粋の男性なんですよね。中も外も」


 言われ、ポカン。いち、にの、さん、で言葉を咀嚼した菜沙。カフェオレにビスコッティを突っ込んだまま固まった。


「…………うそ」


 全く期待していなかった秘密だけに、想像の斜め上、埒外の方向性から飛んできたボールが後頭部に直撃。


「ただ、好きな格好をしているだけ、らしいです……流石に、自信なくしますよね」

「うっそぉ……」


 開いた口が塞がらないとはこのこと。

 いや、いきなりどうしてそんなことを……と、いう真っ当な疑問よりも、驚きの方が勝った。

 一応、辛うじて女という染色体の末席に連なっている菜沙から見ても、女性としての魅力に溢れていた店主の性別を誤認していたとは。人並みの以上の五感を持ってしても気付けないかった。なんという完成度。


「本当に、あの格好、ただの好みというか趣味なだけで、偶々似合うから着てるだけ、らしいんですよね……信じらんないんですけど」

「えぇー……ほんとうに……?」


 オウム返しすることしか出来ない。人より目は良い。耳も良い。なんであれば、人間の感覚器官に割り振られた数値の最大値が百だとしたら、後付けのズルではあるけれど、ほぼ全てが満点どころか、満点以上をとれる。それでも、見破れなかった。

 百歩譲って、何らかの理由があって手術している等の事情があるのなら、気付かないのも致し方なし。と、開き直れるけれども実態は違うらしい。本当に好みの延長線上での格好、立ち居振る舞い。

 事実を知ってみれば、確かに……と、言われる部分が多少なりとも存在するが、それを気取らせない自然さが並外れていた。


「ですよねっ。これは流石に、そんじょそこらの秘密とは違うと思いますよね……!!」

「まぁ……」


 驚きはした。本当かどうか今でも疑っているくらい。けれど、葛代さんが嘘をついている風には見えない。


「あーあ、なず先輩に、とびっきりの秘密を幾つも知られちゃったなー」


 水出し珈琲に突き刺さったストローを、黒が駆け上る。葛代さんという少女を知っているわけではないけれど、珈琲はそのまま、ブラックだったのが意外だった。なんというか、ガムシロップをいくつも入れて、身体もそのまま砂糖で出来ていそうな女の子だと思っていたから。

 菜沙も、また、同じようにブラック珈琲を啜りながら、言葉の意味を探る。


「知ったっていうより、葛代さんが勝手に言っただけじゃ……」

「くぅ……これでもダメなら、フェチとか性癖とかバラすしか……」


 本人はボソボソと喋っているつもりなのだろう。菜沙が、ただの学生であれば聞こえていないくらい、小声。ただ、それに対して言及していいものなのかが悩みどころ。

 対面に居るというのに、盗み聞きをしているような居心地の悪さが、珈琲に溶けずに浮かぶ。

 どうして、脈絡もなく、秘密とやらをバラすのか。一つでは足りないなら二つ。それでも足りなければ更に追加するかのように。

 友人付き合いが狭く浅いタイプの菜沙でも、一連のやり取りが一般的な女子高生の会話ではないことくらい分かる。

 何か目的があって、秘密をぶつけてきている。秘密をバラす際に聞こえたのは

『足りない』『これでもダメ』

 あぁ、と納得。どうして、葛代さんが殆ど初対面の菜沙に秘密を明かすのか。


「もしかして、秘密を私に伝えて、おあいこ……とか考えてる?」


 半分推測。残りのもう半分は勘。呟くと同時、石にでもなったかのように、葛代さんが、ピシリ、固まった。

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