10

(危ないこと、していないといいけど……)


 ラビットはナターリアの懐中時計を柔らかい布で磨いていた手を止めて、ふと窓の外を見た。

 窓の外はすっかり暗くなっている。ソイトレイグ公爵家のパーティーはすでにはじまっているだろう。


「……マルク子爵令嬢とポールマー伯爵の思い出なんて聞いて、いったい何をする気なのかな」


 ウィルバードに頼まれた「協力」。それは、ナターリアの時計から、ポールマー伯爵との思い出を聞き出すことだった。

 ナターリアの時計も、ウィルバードがポールマー伯爵にナターリアの報復しようとしていることに気がついたのか、とても協力的だった。

 ナターリアはいつもこの時計を身に着けていたようで、たいていの記憶はたどることができた。ただ一点、彼女が死んだときのことはわからなかった。そのとき彼女はすでに時計を大学内で紛失していたようだ。ウィルバードはその瞬間がわかれば一番良かったけどと言いながらも、ラビットが時計から探りだした情報に満足したようだった。


「お嬢様、旦那様は本日遅くなるでしょうから、お待ちにならずに先にお休みになってくださいね」


 ドリーが就寝前のハーブティーを持ってやってくる。ラビットは子供のころ、寝つきが悪かったために、ドリーは今もリラックス効果のあるハーブティーを就寝前に用意してくれるのだ。


「ありがとう」


 ドリーからティーカップを受け取りながら一つ頷く。だが、きっと今夜は眠れないだろう。ウィルバードが危ない目にあっていないか心配で、彼が無事に帰ってくるまで、到底休めそうもない。

 ドリーもそれをわかっているだろうから、ラビットが休んでいるかどうか、たびたび様子を見に来るに違いない。

 ラビットはハーブティーを飲み干すと、ドリーがティーカップを持って下がるのを待って、ちょっと考えた。

 ベッドに入ったところで眠れない。


(……あそこなら、見つからないよね)


 ラビットは幼いころ、暇なときにはこの邸を探検して遊んでいた。そのときに見つけた屋根裏部屋。ヴィラーゼル伯爵家は三階建てで、三階は使用人たちの部屋になっているが、そのさらに上に小さな屋根裏部屋があるのをラビットは知っているのである。

 部屋を見つけて、一度だけ中に入ったことがあるが、ウィルバードはラビットに、埃っぽいから、ここにはもう入ってはいけないよと言っていた。駄目だと言われたから今日まで言いつけを守っていたが、危ないことをしようとしているウィルバードに、ラビットだって怒っている。ちょっとくらい困らせてやりたい。屋根裏部屋に隠れていたら、帰ってきたウィルバードは心配するだろうか。


「ロードが悪いんだもんね」


 ちょっとした好奇心と悪戯心。ラビットは薄く笑って、ベッドの中に枕を入れてドリーが容姿を見に来たときのために眠っているように見せる偽造をすると、そーっと部屋を出た。





 アザリーはソルトレイグ公爵家の客室のベッドに横になりながら、『彼』が来るのを待っていた。

 ウィルバードの計画通りなら、『彼』は来るはずだ。

 部屋の中には甘い香りがくゆっている。ウィルバードに言われて炊いているアロマだった。少しだけ頭の芯がぼんやりするが、事前にウィルバードから手渡されていた「中和剤」を飲んでいるので、意識ははっきりしている。

 やがて、がちゃりと部屋の扉が開く音がした。

 アザリーは首を巡らせて、そこに現れた男に口端を持ち上げる。ポールマー伯爵が、ひどく緊張したような表情で立っていた。


(本当に来たわ)


 今日のパーティーの前に、アザリーは彼に手紙を書いていた。内容は軽い脅しだ。ミリアーネとソルトレイグ公爵に、ナターリアの件を話すと書いたのだ。そのときにカマをかけて、ナターリアはあなたが殺したと知っているとも書いた。ウィルバードは、ポールマー伯爵は絶対に食いついてくると言った。

 もしアザリーがナターリアの件を喋れば、ポールマー伯爵の計画はすべてが水の泡に消える。それどころか、ナターリア殺害について疑われれば、彼の今後の進退にもかかわる。証拠不十分で投獄はされないにしても、人の口に戸は立てられない。投獄されなくとも社交界で生きていけなくされれば、ポールマー伯爵にとってそれは投獄されることと変わらないだろう。


「ずいぶんとひどいことをするんだね、アザリー。偽造婚約がばれれば、君だって社交界で肩身の狭い思いをするだろうに」


 なれなれしくアザリーを名前で呼んだポールマー伯爵がゆっくりと近づいてくる。

 おそらく彼は何かを用意してきているはずだ。銃はないだろう、音で気づかれる。同様にナイフも、殺人として捜査されるのでないだろう。おそらくずるがしこい彼が用意してくるのは、毒薬と偽の遺書。自殺に見せかけるはずだろうというのがウィルバードの予想だ。


 ――可能性としては、薬品をかがされて気絶させられた後に毒薬を飲まされる、ってところかな。


 ウィルバードはあっけらかんと言ってくれた。だが、アザリーは腹は立たなかった。どんなことをしてもナターリアの報復をする。これはアザリーが決めたことだ。

 ポールマー伯爵が近づいてくる。

 そのとき、部屋の端――窓際から、くすくすくすくすと軽やかな笑い声がした。


(ナターリア……!)


 この計画を知っているアザリーですら錯覚するほどに、ナターリアとよく似た笑い声。


「誰だ!」


 ポールマー伯爵は叫んだが、カーテンの影から現れた女を見て息を呑んだ。


「な……! ナターリア……!」


 そこには、「ナターリア」がいた。彼女の大好きな黄色のドレス。艶やかな黒髪に、眼鏡をかけた、知的な目元。違うのは、彼女の肌はまるで血が通っていないかのように白いことと、そして血を塗ったように赤い唇だ。

 アザリーですらぞくりとする。彼女はナターリアだ。彼女に間違いないと、自然と涙があふれてくる。


「ナターリア……」


 違うとわかっている。それでもその名を呼ばずにはいられない。

 ゆっくりと、『ナターリア』がアザリーのベッドサイドへ近づいてくる。

 アザリーを守るようにベッドと、ポールマー伯爵の間に割って入る。

 ポールマー伯爵が、がたがたと震えはじめたのがわかった。

 甘い甘い香りがくゆる。『ナターリア』が嫣然と微笑んだ。


「わたしだけを愛しているって、言ったのに」

 歌うように、『ナターリア』が言う。

「毎年、誕生日には年齢と同じだけの赤い薔薇をくれるって、言ったじゃない」

「き、君は死んだはず……」

「ええ、バルト川の水は、冷たかったわ」


 彼女はベッドの縁に腰を下ろすと、ポールマー伯爵を見上げた。


「冷たくて、苦しくて、皮の底に沈みながらあなたのことばかり考えていたわ」

「馬鹿な! 君は薬で眠っていた。そんなこと、わかるはず……」

「川に落ちるときに目を覚ましたのよ。気づかなかった? 何度も、あなたの名前を呼んだのに」

「出鱈目を言うな!」


 ポールマー伯爵は怒鳴ったけれど、その声は震えていた。


「ナターリア、君は死んだ!」

「そう、あなたが殺したの」


 ポールマー伯爵の顔が真っ青になっていく。


「わたしのことを愛していると言ったのに、あなたはその口で、わたしに別れを告げたわ。君はもう用済みだ。愛していると言ったのは君の友人に近づくための口実にすぎない。……ねえ、そう言ったのは、嘘よね? 本当はわたしを愛していたのでしょう? ねえ?」


 気だるげに『ナターリア』が腕を伸ばす。

 ポールマー伯爵は、その手が自分に触れる前に叩き落した。


「僕は君を愛していなんてない!」

「愛していると言ったわ」

「違う!」


 ポールマー伯爵は叫び、『ナターリア』から距離を取るようにじりじりと後ずさる。『ナターリア』は立ち上がった。


「ねえ、どうしてわたしを殺したの?」


 ポールマー伯爵を壁際に追い詰めるように、一歩、また一歩と足を踏み出す。


「愛していたのに」

「やめろ」

「死んでもこうして会いに来るほどに、愛していたのに」

「やめろ……!」

「ねえ、愛しいあなた。わたしと一緒に、死んでくれるでしょう?」

「やめろ!」


 とうとう壁に追いやられたポールマー伯爵は、両手で自分の頭をかばった。


「来るな! 来ないでくれ! 僕が悪かった! だって金を渡しても君があきらめてくれないから! 公爵に、ミリアーネに会いに行くというから、だから……!」

「だからわたしを殺したの? たった金貨三十枚で縁を切れると、本当に思った?」

「来るな!」


 ポールマー伯爵の悲鳴のような声が響く。『ナターリア』はドレスのポケットに手を入れると、中に入れていたものを取り出した。それは、小さな拳銃。


「ひ!」

「わたしには、あなたを殺す権利があるわ」


 拳銃を両手で持って『ナターリア』は銃口をポールマー伯爵の額に向ける。


「やめてくれ!」

「だって、わたしを殺したのはあなただもの」

「ゆ、許し……」

「あの世で一緒に幸せになりましょうね」


 血を塗ったように赤い唇を弧の形にして『ナターリア』は撃鉄を起こし――


「ばああんっ」

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