11

「と、言うことですよ。ソルトレイグ公爵」


 ウィルバードの前で、ポールマー伯爵は泡を吹いて気絶していた。


「ああ、この部屋には入らないでください。特殊なアロマを焚いているので、中和剤がないと思考が麻痺しますよ」


 部屋の扉の外で茫然としているソルトレイグ公爵に告げて、ウィルバードは『ナターリア』から拳銃を受け取る。もちろん彼女はナターリアではない。知り合いの女優のリズである。頼んで、ナターリアに変装してもらった。


「彼、なかなかかっこいいけれど、とんだ坊やなのね」


 口で「ばあん」って言っただけで気絶しちゃったわとリズが笑う。アロマで思考が麻痺しているところへ、気の動転するようなことをさんざん言われ、拳銃を前にすれば、たとえ冗談のような発砲の真似でも事実と勘違いしてしまうものだ。

 ウィルバードはあらかじめソルトレイグ公爵を呼び出し、ナターリアに扮したリズとポールマー伯爵のやり取りを聞かせる。警察にも顔のきくソルトレイグ公爵がポールマー伯爵を許すことはないだろう。

 アザリーはベッドから起き上がって、扉の外にいるソルトレイグ公爵に頭を下げた。


「ごめんなさい、おじさま。ミリアーネの婚約を台無しにしてしまったわ」


 ソルトレイグ公爵はまだ茫然としているようだったが、ゆっくりと首を横に振った。


「いや、むしろ感謝するところだよ。こんな男を、わが公爵家へ迎え入れるところだった。ミリアーネにはかわいそうだが、あの子も馬鹿ではない。理解するだろう」


 ウィルバードはアロマを焚いていた火を消すと、喚起のために窓を開ける。もしもポールマー伯爵が二人に襲いかかるようなことをすれば部屋に飛び込むつもりでいたが、それは杞憂だったようだ。この男はどこまでも小心者の、性根の腐った男である。


「リズもありがとう。悪かったね、妙なことを頼んで」

「あら、いいのよ。またお芝居でも見に来てね」


 化粧はそのままだが、演技を解いた彼女はもうナターリアには見えなかった。女優の演技力というのは恐ろしいものである。

 アザリーはソルトレイグ公爵と話があるというから、ウィルバードはリズを送り届けたあと、そのまま邸へ帰ることにした。


(俺のリトル・ラビットは、さすがにもう眠っているかな?)


 出かけに「絶対危ないことはしないでね」と、あのルビーのように美しい赤い瞳を不安そうに揺らしていたラビット。もしかしたら心配で起きているかもしれない。早く帰ってあげないと。


「ショーン、急いでくれ」


 執事のショーンに告げると、彼は心得ているとばかりに頷いて、御者へ急ぐように告げる。

 ウィルバードは窓の外の夜闇の中に愛らしいラビットの姿を思い描いた。





 ヴィラーゼル伯爵家。

 三階の端にある細い階段を昇れば、そこにあるのは小さな屋根裏部屋だ。

 装飾のない扉をあければ、部屋の中は、壁一面に棚がおかれて、床にも古い本やアンティークの椅子や壺などが所狭しとおかれている。使わなくなったものをおいているのか、ほとんど倉庫のような扱いだ。

 中はひんやりとしていて、ラビットはぶるりと肩を震わせた。

 ここに隠れて、ウィルバードを少し困らせてやろう。危ないことはしないでというのに聞いてくれないウィルバードが悪いのだ。

 それにしても、いろいろなものがあるものである。使わなくなったものであっても、さすがヴィラーゼル伯爵家。高そうなものもたくさんある。


「この壺とか割ったら怒られるよね……」


 ラビットは物を壊さないように気をつけながら棚に飾られている置物や絵皿などを眺めて回った。

 ところどころすす汚れているようなものがあるのが不思議だった。まるで昔、火事でもあったかのように。


「……?」


 ラビットはふと誰かに呼ばれたような気がして振り返った。

 そこには誰もいない。けれども、確かに誰かに呼ばれたような気がした。

 ラビットは反対側の壁の棚に近づくと、引き出しの一つを開けてみる。するとそこには、古びていて光沢のない一つの懐中時計が納められていた。

 ラビットは懐中時計を手に取ると、蓋を開けている。ネジを巻いていないから、時計は完全にとまっていた。


「……僕を呼んだのは、君?」


 この時計は「死んで」いるのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

 なんとなく、ラビットがネジを巻いた、そのときだった。


「――ー!」


 脳裏を染めた「赤」に、ラビットは思わず頭を押さえてうずくまる。

 赤い。熱い。ラビットの思考を染めたのは、揺らめく炎たちだ。炎はラビットを取り囲み、じりじりと追い詰めるように勢いを増していく。

 もう少しで炎がラビットに襲いかかる――、その前に、ラビットの思考から炎が消えた。

 ラビットは肩で息をしながら、時計に視線を落とした。


「君は、火事にあったの?」


 時計は答えない。けれども「彼」は生きているから、その火事からはどうにか生還したようだ。

 ラビットがネジを巻いたので、カチ、コチと秒針が動く。

 ラビットが時計を握り締めたまま立ち尽くしていると、かたんと小さな音がした。振り返ると、扉の所にウィルバードが立っている。

 彼は薄く微笑んで、「困った子だね」と言いながらラビットに近づいてきた。


「ここには入ったらだめって言ったのに」

「ロード……」


 おかえりなさい、という言葉は途中で消える。笑っているウィルバードの目が、笑っていなかったから。

 ウィルバードはラビットの手から懐中時計を奪い取った。


「これに触れてはいけないよ」

「……どうして?」

「時計の『声』を聴くことができる君は、余計なものを見てしまうだろう? それとも、もう見てしまったのかな」


 ラビットは笑顔なのに笑っていないウィルバードの目を見上げて、ごめんなさいとつぶやく。

 ウィルバードは息を吐いて、ようやく目を和らげてくれた。


「まったく。君には見せたくなかったのに。何を見たの?」

「……火事、みたいなもの」


 ラビットが答えると、ウィルバードは懐中時計を棚に収めて、彼女の手を引くと屋根裏部屋から連れ出した。連れていかれたのはウィルバードの部屋だ。彼は自ら紅茶を入れて、蜂蜜をたくさん落とすと、ラビットに手渡して、自分の紅茶にはブランデーを注いだ。


「飲みなさい。落ち着くから。気づいていないだろうけど、ひどい顔をしているよ」


 ウィルバードがラビットの頬を撫でながら言う。どうやらあの火事の記憶がよほど恐ろしかったらしい。気がつかなかったが、ティーカップを持とうと伸ばした指先が震えていた。

 ウィルバードはソファに座るラビットの隣に腰を下ろす。

 なだめるように頭を撫でられると、バタついていた心臓が少しずつ落ち着いてきて、ラビットはティーカップに口をつけた。


「あの時計は火事にあったの?」

「そうだね」

「あの時計は誰のもの?」


 ウィルバードはブランデー入りの紅茶を飲みながら目を伏せる。


「あの時計はね、先代のヴィラーゼル伯爵――、俺の父の時計だよ。君の見た記憶はおそらく、十七年前――、俺の両親が死んだときの記憶だ。父と母は、領地の邸で死んだ。誰かが火をつけた――、俺はそう思っている」

「殺された……ってこと?」


 ラビットが肩をこわばらせると、ウィルバードに引き寄せられる。彼はラビットを膝の上に抱き上げて、背中を撫でた。


「そうなるのかな」


 十七年前なら、ウィルバードは十二歳だったはずだ。そういえば、ウィルバードは十二歳で爵位を継いだと聞いたことがある。それは彼の父が亡くなったから、否が応でもまだ少年だった彼は、伯爵家を背負うしかなかった。


「ロード……」

「そんな顔をしなくても大丈夫だよ。今更感傷的になったりはしない」


 ウィルバードはそういうけれど、彼の表情は暗い。何年たとうとも、大人になろうとも、そう簡単に忘れられるような出来事ではないだろう。


「ラビットは以前、どうして俺が危ないことをするのかって言ったよね」

「え、あ、うん……」


 唐突にどうしたのだろう。

 ラビットが首をひねると、ウィルバードは彼女の白い髪をもてあそびながら続ける。


「探しているんだよ。俺の両親を殺した犯人を。誰かに恨みを買うような人間を追いかけていれば、そのうち、たどり着けるような気がしている」

「……だから、人の復讐を手伝うの?」

「そうだね」

「危ないのに?」

「危なくても」


 ラビットはむっとする。

 ウィルバードはブランデー入りの紅茶を飲み干すと、からになったティーカップにブランデーを注いで、それも飲み干してしまった。

 ラビットには伝えるつもりはないけれど、もし、彼女を拾ったのも、時計の声が聞こえるという彼女の特殊な能力が、両親を殺した犯人捜しの役に立つと思ったから――と言ったらどうだろう?

 もちろん、今ではそんな気はない。ラビットとすごすうちに、彼女を危険に巻き込もうという気はなくなった。幼かったウィルバードは、両親を守ることはできなかったけれど、ラビットは絶対に守ってみせる。彼女を拾って十年。忘れかけていた家族の温かさを思い出させてくれたのは、ほかならぬ彼女だ。彼女がいない人生は考えられない、もう、手放せない。


「……ロードは早く結婚したほうがいいと思う」


 むかむかしながらラビットが言えば、ウィルバードはティーカップに口をつけたまま動きを止めた。


(奥さんと子供がいたら、今みたいに危ないことはしないでしょう?)


 ひとり身だからふらふらと危ないことばかりするのだ。両親を殺した犯人を捜したい気持ちもわかるが、もっと自分を大切にしてほしい。


「大丈夫だよ。僕ももう十七歳だもの、きっと一人でも生きていけるから、ロードの結婚の邪魔なんてしないよ」


 ラビットのような孤児が同じ邸にいたら、ウィルバードの未来の奥さんが嫌がるかもしれない。そのときは潔く出ていくとラビットは言いたかったのだが、気がつけばウィルバードが不機嫌そうに眉を寄せていた。

 ウィルバードは大きく息を吐き出すと、「なるほど」と言った。何がなるほどなのだろう。ラビットの言いたいことを理解してくれたのだろうかとラビットが思ったとき、両手を取られてソファの背もたれに抑えつけられて、ラビットは目を白黒させた。


「ロード……?」

「気長に待とうと思っていたけれど、俺のリトル・ラビットはどうやら予想のはるか上を行く鈍感な子のようだ」


 これでも結構、わかりやすく接していたつもりだったのだが――、とウィルバードがラビットに顔を使づけながら言う。


「ロード、酔ってるの……?」


 ウィルバードはブランデーを飲んでいた。酔っているときの彼は面倒くさい。ラビットはそれを知っていたが、今日はいつもの「面倒くささ」とは違う気がする、


「そうだね。酔っているかもね」

「だ、だったら、早く休んだ方がいいと思うよ……?」


 ウィルバードが息もかかりそうなほどに顔を近づけてくる。狼に追い詰められた兎というのはこういう気持ちだろうかと、ぼんやりと考えてしまったラビットはまだ冷静なのだろうか。それとも混乱して思考がどこかに飛んでいきそうになっているのだろうか。それすらも、よくわからない。


「一緒に寝る?」

「ね、寝ないよ。だってもう子供じゃないもん……」

「何も一緒に寝るのは子供だけに許された特権じゃないけどね、例えば、恋人とか、妻とか……」

「ロード、やっぱり酔ってる!」


 ウィルバードはラビットの首元に顔をうずめてくすくすと笑う。


「酔っていることにしたいなら、そうしてくれてもかまわないよ。酔っているから、人肌が恋しいんだ」

「ロード!」

「ラビットが悪いんだよ。いつまでたっても気づいてくれないから。君は鈍感すぎる。だから、もっとストレートに表現することにしたんだ」

「言っている意味がわからないよ」

「じゃあ、これならわかる? 俺は君が好きだよ」

「僕もロードが好きだよ?」

「………。なるほど、これでも伝わらないのか」


 ウィルバードがやれやれと息をつく、

 いい加減、手を放してくれないだろうかと思った矢先、ラビットはころんとソファの上に押し倒されていた。


「ロードっ」


 上から見下ろしてくるウィルバードが、人の悪い笑みを浮かべている。


「だってラビットがわかってくれないから。俺は君が好きだと言ったのに」

「だから、僕もロードのことが好きだって……」

「ラビット、俺はね、君のことが女性として好きだと言っているんだよ。結婚したいと言ったら伝わる?」

「え……?」


 ラビットはルビーのような目を丸く見開く。

 ウィルバードはラビットの頭を撫でながら、


「やっとわかってくれた?」


 わかったかと訊かれれば、わかったような、わからないような。突然にそんなことを言われても困る。


(あれ? でも、だったらこの状況って、まずい……?)


 ウィルバードはラビットが好きだという。そしてラビットは今、彼に押し倒されている。うん、まずい。

 ラビットは急に慌てふためいて、わたわたしながらウィルバードから逃れようとしたが、背の高い彼にのしかかられているこの状況でラビットが逃げ出せるはずもない。

 ラビットは焦っているのに、ウィルバードはようやくラビットが言葉の意味を理解したのだとわかって、ひどく満足そうに笑っている。


「ロード、放してっ」

「いやだよ。君にはもっと強引に迫らないと伝わらないとわかったからね。もう手加減しない」


 ひうっとラビットの喉が鳴る。

 ウィルバードは優しいから、きっとラビットが本気で嫌がるようなことはしないと信じでいるけれど――、でもやっぱりちょっと怖い。


「何をしているんですか」


 ラビットがいかにしてウィルバードから逃げようかと混乱した頭でぐるぐる考えていると、唐突に第三者の声が割り込んできた。

 ウィルバードが忌々しそうに顔を上げ、ラビットはほっと胸を撫でおろす。この声はショーンだ。

 ショーンはつかつかとソファに近づくと、ウィルバードを押しのけて、彼の下にいるラビットをひょいと抱え上げる、


「ラビット、酔った旦那様は面倒くさいから、近づいてはだめだと言ったでしょう?」

「ショーン……」


 ウィルバードが恨みがましい視線を送るも、さすが長年彼に仕えているショーンは平然としたものだ。

 床におろしたラビットを背にかばうようにして、冷ややかに主人を睨みつける。


「気長に待つんじゃなかったんですか」

「……待っていても手に入りそうにないことに気がついたんだ」

「まあそうでしょうね。ラビットにとってあなたは『男』ではなく兄や父のようなものでしょうから」


 ウィルバードが苦虫をかみつぶしたような顔になると、ショーンは満足したようで、「早くおやすみなさい」と言ってラビットを部屋から追い出した。

 ラビットは素直に従ったが、その夜、ウィルバードの言葉が頭から離れなかった彼女は、結局朝まで一睡もできなかったのだった。

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