5
チョコレート色の癖のある髪をした男性が、一輪の赤い薔薇を片手に優しく微笑む。
――大好きだよ。
その声はまるで、砂糖菓子のよう。
彼の手がそっと頬に触れて、距離が近づく。
ラビットと彼の距離があと少しでゼロになる――、その手前で、ラビットは目を覚ました。
目を覚ましたラビットは、ぼんやりと高い天井を見つめた。
妙な夢を見たせいか、自分が今いる場所が一瞬わからなくなる。
高い天井には小さな花柄の壁紙が貼られていて、それは四方の壁も同様である。背中に触れるのは、ふかふかのベッド。ヴィラーゼル伯爵家のラビットの部屋で間違いなさそうだ。
ラビットは首を横にした。枕の隣には女性用の銀色の懐中時計。表にはユリの彫刻がされている。マルク子爵令嬢ナターリアの時計だ。
「あの夢……、君が見せたの?」
時計は答えない。けれども、ラビットはあのチョコレート色の髪の男性を知らないから、きっとそうに違いない。
「もしかして、あの男の人がマルク子爵令嬢の恋人だった人なのかなぁ? 結婚するって言っていた」
なんとなくだが、そんな気がする。するとチョコレート色の髪の男性は、ナターリアが他界してさぞ悲しんでいることだろう。
ラビットは時計を引き寄せ、中を開けてみる。ネジを巻いておいたから、時計はカチコチと時間を刻んでいた。ぼんやりと浮かぶ時刻は朝の四時半。だいぶ早くに起きてしまったようだ。
二度寝しようと目を閉じて見ても、なかなか寝つけない。昔は眠れないときにはウィルバードがそばで手を握ってくれていたけれど、思えば、二年前――ラビットが店をもらった十五歳のときから、ウィルバードがラビットの寝室を訪れることはなくなった。
メイド頭のドリーは、お嬢様は年頃になったのだから当然ですというが、そういうものなのだろうか。寝つきの悪い夜などは、たまに淋しいと思ってしまって、年頃はともかくとして、別に自分は「令嬢」じゃないのになと口を尖らせたくなった日もある。
ごろごろと寝返りを打ったラビットだが、やはり寝付けなくて、むくりと起き上がる。
(ロードはまだ寝てるだろうけど、ショーンは起きてるよね)
執事のショーンはとても早起きだ。彼は朝早くに起きて、散歩も兼ねて庭を見回り、ダイニングで早い朝食をとる。伯爵家を管理する執事というのはなかなか忙しいらしく、みなが起き出してくる頃だとゆっくり食事がとれないのだそうだ。そして朝食を終えると、シガレットルームで一服して、ほかの使用人が起きてくる時間に仕事を開始する。
この時間ならばきっと、散歩を終えてダイニングで朝食を食べている頃だ。
ラビットはベッドから抜け出すと、夜着の上にガウンを羽織って部屋を出た。
中央階段を下りてダイニングへ向かうと、案の定、ショーンが一人、パンとコーヒーの質素な食事をとっている。料理人たちもまだ起きてきていないから、賄もないのだ。
ラビットがダイニングへ入ると、ショーンは小さく目を見張ったのちに微苦笑を浮かべた。
「眠れないんですか?」
「うん」
ラビットがテーブルにつくと、ショーンは蜂蜜を多めに落とした紅茶を入れてくれる。
パンを食べるかと訊かれたが、朝が早すぎて食欲がないのでいらないと首を横に振った。
「変な夢を見たせいで、目が覚めちゃった」
「おやおや、どんな夢ですか?」
「知らない男の人にキスされそうになる夢」
答えた瞬間、ぶはっとショーンがコーヒーを吹き出した。
テーブルクロスに広がった黒いシミに、やってしまったと額を押さえつつ、「それは旦那様にはおっしゃらないほうがいいですよ」と言う。
「どうして?」
「どうしてもです。たぶん、機嫌が悪くなりますよ」
「それはやだなぁ。うん、わかった」
理由はわからなかったけれど、ウィルバードの不機嫌は避けたい。ラビットが頷けば、ショーンは汚れたテーブルクロスを剥ぎながら、ほっとしたように息をつく。ウィルバードが機嫌が悪くなったときに八つ当たりされるのは彼も同じだ。
「しかし、そういう夢を見るということは、ラビットもお年頃ということなのでしょうか」
ショーンはまるで父親のような目をしてしみじみという。彼は三十五。もし結婚して子供がいれば、ラビットくらいの娘がいてもおかしくない年だ。
ラビットには時計の「声」が聞こえるというのは、ショーンは知らないことであるから、さすがにナターリアの時計の見せた夢だとは言いにくい。曖昧に笑うと、ショーンは「できれば恋人は連れてこないでくださいね」と言われた。
ラビットに恋人はいないし、連れてくる予定もないが、ラビットは気になったので首をひねりつつ訊ねる。
「どうして?」
「旦那様が不機嫌になるからですよ」
また不機嫌。ウィルバードには不機嫌になるポイントがたくさんあるらしい。
「うん、わかった」
「できれば、恋人も当分作っていただきたくないのですが」
「それもロードが不機嫌になるから?」
「そうです」
「ふぅん」
それはあれだろうか。男親が娘の恋人に会いたくないとかいうやつだろうか。ウィルバードには子供がいないから、ラビットが損代わりなのかもしれない。それならば仕方がない。
「わかった。ロードが結婚して子供ができるまでは恋人は作らないでおくね」
世話の焼ける養い親だなぁと思いながらラビットが言えば、ショーンにすごく複雑そうな、何か言いたそうな顔を向けられた。何か間違ったことを言っただろうか? きょとんとすると、なんでもありませんよと頭を撫でられる。――そのとき。
「……そこで何をしている」
地を這うような低い声が聞こえてきて、ラビットは思わずびくっと肩を揺らした。
振り返ると、ダイニングの入り口にウィルバードの姿がある。ダークグレーのガウンを着た彼は、腕を組んで、扉のそばに寄りかかるようにして立っていた。
「あ、おはよう、ロード」
「おはよう、俺のリトル・ラビット。ところでこんなに朝早くにショーンと何をしていたのかな?」
「眠れないから話してた」
「ふぅん、眠れないならどうして俺を起こさなかったのかな?」
「え、だってロードはまだ起きる時間じゃないから」
「へえ。それで君はショーンと二人で話していたの? 二人っきりで? 誰も起きていないこんな時間に?」
どうしてだろう、ウィルバードの機嫌がすこぶる悪い。寝起きだからだろうか? ショーンを振り向けば、疲れたように肩を落としていた。
「旦那様、ラビットは夢見が悪くて早くに目が覚めてしまったそうで、ここで紅茶を飲んでいただけですよ」
「夢? ラビット、怖い夢でも見たのか?」
「ううん。知らない男の人にキス――」
「ラビット!」
ショーンが慌てたような声を上げて、ラビットは自分の手で口を押えた。しまった。言わないほうがいいと言われていたのについうっかり。ウィルバードを見上げると、彼はぴくぴくと口端を引くつかせていて――
「そうか、わかった。ラビット、君は今日、店に行かなくていいよ」
にーっこりと微笑んだウィルバードの背後に、とぐろを巻いた大蛇が見えたような気がして、ラビットはまるで小動物のようにぴしっと凍りついてしまった。
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