6
どうしてこんな目にあっているのだろう。
ラビットはウィルバードの膝の上で横抱きにされていた。かれこれ二時間はそうしている。逃れようにもがっちりと腰に腕が回されていて、膝から降りることはおろか、少しも離れることもできない。
「えっと、ロード。僕はいったいいつまでこうしていればいいの……?」
「俺の機嫌がなおるまで」
ぴしゃりと言われて、ラビットは首をすくめる。ウィルバードの機嫌がなおるのはいつだろう。いくらラビットが小柄でも、小さな子供ではあるまいし、いつまでも膝の上にのせていて足がしびれたりしないのだろうか? それを言えばさらに機嫌が悪くなるような気がするから言えないけれど。
「それで、夢の中で俺のリトル・ラビットにキスをしようとした不届きものはどこのどいつかな?」
「し、知らないよ。だって知らない人だったもん」
「なるほど。ラビットは夢の中で知らない男にキスされそうになったわけだ。で、その男はラビットのタイプだったの?」
「タイプ?」
つまり、好きな顔だったのかということだろうか?
ラビットはチョコレート色をした髪の男の顔を思い出してみる。夢の中だからか、男の顔は多少曖昧だが、目鼻立ちの整った青年だったはずだ。だが、好みの顔かと訊かれるとよくわからない。ラビットが夢の記憶を頼りに悩んでいると、ウィルバードが息を吐いた。
「わかった、もういい。君の頭がその男のことでいっぱいだと思うだけでイライラしてくる」
「……ロードが訊いたのに」
ラビットは口を尖らせた。
ウィルバードはラビットの小さな鼻をむにっとつまんだ。
「見ず知らずの男に簡単に触れさせてはいけないといつも言っているだろう?」
「夢の中のことを言われても」
「夢の中でもだ。どうせ見るなら俺の夢を見なさい」
夢なんて、見ようと思って見られるものでもないのに、なかなか無茶を言ってくれる。
「ラビット、変な男にキスされそうになった罰だよ。午後から買い物につきあいなさい。新しいジャケットを買おうと思っているんだ」
だから、夢の中のことなのに――とは反論できず、ラビットは渋々こくんと頷いた。
ウィルバードの馴染みの仕立て屋は、ラビットの時計屋からほど近いところにある。
半分ガラス張りの扉を開けると、ちりんという鈴の音を聞いた主人が顔を上げた。
この店は主に紳士服を扱っている店で、ウィルバードの父の代から贔屓にしているそうだ。
「冬用のジャケットを仕立てたいんだが」
「かしこまりました。ちょうど、いい生地が入ったところでして、いくつか持ってまいりましょう」
主人はにこにこと愛想よく微笑みながら四種類の生地を持ってきた。どれもカシミアと呼ばれる軽くて暖かい生地らしい。
黒とグレートモスグリーン、そしてえんじ色の生地が並べられるとウィルバードはラビットにどれがいいかと訊ねてきた。
ラビットは生地をじっと見つめて、えんじ色のそれを指さした。モスグリーンの生地は、ウィルバードが着たらおじさんっぽく見えるような気がする。えんじ色は逆に若そうに見えるから――、と理由を言えば機嫌が悪くなるのはわかっているので、ただ「これがいい」とだけ伝えた。
「これだそうだよ」
ウィルバードが微笑むと、主人は「昔から仲がよろしいですね」と言いながら、採寸のために彼を別室へ案内した。過去の寸法はすべて控えているそうだが、都度採寸するのが店主のこだわりらしい。ウィルバードはまだ無縁そうだが、中年になってくるとお腹も出てくるというし、その方がいいのかもしれない。
ウィルバードが採寸しているあいだ、手持ち無沙汰のラビットは店の中を見て回ることにした。それほど広くない店内には、所狭しと様々な記事が並んでいる。すべてオーダーメイドなので、デザインの見本としての服はあるけれど、販売している既製品は一つもない。値段も張るため、訪れる客も自然と上流階級に限られて、絶えず来客があるような店ではなく、いつ来てもどこか閑散としている。
棚の中にチェック柄の生地を見つけたラビットが、ウィルバードに似合うかもしれないと手に取ろうとしたとき、ちりんと店の扉の鈴が音を立てた。振り返ると一人の紳士がシルクハットを脱ぎながら入ってくるところだった。
ラビットは目を見開いた。
(あれ、この人……)
チョコレート色の癖のある髪。柔らかみのある端正な顔立ち。今朝見た夢が脳裏に蘇る。間違いない。夢に出てきた男だ。ナターリアの時計が見せた夢。
男は服を仕立てるつもりなんか、棚の中の布地を見て回る。ラビットがちらちらと男を気にしていると、奥の部屋からウィルバードが戻ってきた。
「お待たせ。どうかしたの?」
「あ、ううん。別に……」
ラビットは誤魔化したが、ウィルバードはチョコレート色の髪の男に気がつくと、途端に眉を寄せた。
店の主人に、ジャケットが出来上がるころに取りに来ると告げて、ラビットの手を掴むと、そそくさと店の外へ出る。
馬車をとめているところまで歩きながら、ウィルバードは低い声で言った。
「あの男が気になったの? でもだめだよ。あれは人のものだ」
ラビットはああいう顔の男が好きなのかと問われて、目を丸くする。
「違うよ、そうじゃなくて……」
夢で見た男だと説明しかけたラビットだったが、ちょうど路地の曲がり角のところで見たことのある顔を見つけて「あ」と声を上げた。それはレマニエル侯爵令嬢アザリーだ。彼女は路地の角に身を潜ませるようにして、先ほどまでウィルバードたちがいた仕立て屋の方をじっと見つめている。
「ロード」
ラビットがくいくいとウィルバードの袖を引けば、彼も気がついたらしい。
「おやおや」
ウィルバードは足を止めて、ラビットを伴いアザリーの方へと方向を変えた。
「アザリー、こんなところで何をしているのかな?」
突然声をかけられたアザリーはびくっと肩を揺らして揺り返り、ウィルバードの姿を見つけるとほっとしたように笑った。
「ヴィラーゼル伯爵、奇遇ですわね」
「そうだね。奇遇と言えば奇遇だけど……、あまり感心しないな、アザリー」
ウィルバードはちらりと仕立て屋のあたりを一瞥して苦笑する。
ウィルバードはアザリーがどうしてここにいるのか知っているようだ。侯爵家の令嬢が供もつけずに一人でいる理由とはなんだろう。
「見たところひとりでいるようだが、侯爵家まで送ろう」
アザリー仕方ないわねと息を吐く。
アザリーをレマニエル侯爵家まで送り届けると、帰りの馬車で、ラビットはどうしても気になったので訊ねてみた。
「レマニエル侯爵令嬢はあそこで何をしていたの?」
「ああ。あれは、元婚約者の様子を探っていたみたいだね。よほど腹に据えかねているようだ」
「元婚約者って、ポールマー伯爵?」
「そうだよ。仕立て屋でラビットが見ていた男がポールマー伯爵だ」
「え……?」
ラビットは驚いた。
「あの人がポールマー伯爵なの?」
「そうだよ。どうかした?」
「あ、ううん。なんでもない」
ラビットは首を振ったが、頭の中にはチョコレート色の髪のポールマー伯爵の顔があらわれる。
ナターリアの時計が見せた夢に現れた男は、彼のはずだ。だが、どうして彼が出てきたのだろう。てっきりナターリアの恋人かと思ったのに、アザリーの元婚約者であるなら、彼女の恋人であるはずがない。
(変なの)
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