10
「なにするのよ」
「それはこっちのセリフだ!」
怒鳴り返しながらも悪いと思ったのか、トーマスがハンカチを差し出した。
ティーゼが頬を膨らませて顔にかかった紅茶をぬぐっていると、トーマスがぐしゃりと前髪をかき上げてため息を吐く。
「お前、なんつー爆弾を落とすんだ」
「爆弾?」
「離婚だよ離婚! どういうことだよ。お前、幸せなんじゃなかったのか? なんたって、ノーティック公爵家だぞ? こう言っちゃなんだが、王子に嫁ぐより贅沢ができる家だぞ? 何が不満なんだ。お前、金大好きだろう!」
「お金は好きだけどその言い方なんか嫌だからやめて」
ティーゼは顔をぬぐい終わったハンカチを畳んでテーブルの上に置く。
不満ならばある。いくら贅沢ができても、夫の顔も知らない夫婦なんてありえない。それに、ティーゼは確かにお金は好きだが、贅沢が好きなわけではないのだ。借金に首が回らなくなって、守りたいものが守れないのが嫌なだけ。かろうじて邸は手元に残ったけれど、父から贈られた思い出の宝石やドレスをすべて売り払った母が泣いていたことを知っている。祖父から受け継いだ家宝を手放すことになった父が、夜中に祖父の肖像画に向かって何度も謝っていたことを知っている。領民が明日食べるものもないと絶望しているのを見たことがある。幼い子供が売りに出されようとする瞬間を見たことがある。世の中お金がすべてではないとわかっているけれど、お金がないから味わう絶望があることを、ティーゼは痛いほどよくわかっている。だからその最低限の幸せが守れるだけのお金がありさえすればいい。人の上に胡坐をかくような贅沢は望んでいない。
(別に贅沢なんてしなくていいから、結婚して、子供を産んで。小さくても幸せな家庭を手に入れる方が断然いいわ……)
顔も知らない夫を恨んでいるわけではない。恨むだけの情報がないから、恨みを抱くほどの感情もない。ただ、今のティーゼの生活は身の丈にあっていないのだ。何もせず、ただぼんやりと生きているだけでちやほやされる今の生活は、ティーゼには苦痛でしかない。
「とにかく、いろいろ考えて見たのよ。そうしたら、離婚するのが一番いいんだって気がついたの」
「お前、こう言っちゃなんだけど馬鹿なんだから、誰かに相談してもう一度考えなおしたした方がいいと思うぞ」
ティーゼは賢い方ではないが、堂々と馬鹿呼ばわりしないでほしい。本当に本当に失礼な幼馴染である。ティーゼだってたくさん考えて至った結論だったのに。けれども離婚したい理由が「夫が帰ってこないから」とは、公爵家の名誉のためにもさすがに言えず、ティーゼはぶすっと頬を膨らませた。
「トーマスこそ、いい加減結婚したらどうなの。まだ独身なんでしょ? そのうち婚約者に愛想つかされても知らないから」
ふんっとそっぽを向いて言えば、トーマスが苦笑した。
「まあ、そのうちな」
何とも歯切れの悪い返事に、これはまだ結婚する予定はなさそうだと悟る。
トーマスはウェイトレスを捕まえて新しい紅茶を頼みながら、幼子に言い聞かせるように繰り返した。
「とにかく、考え直せよ? お前が考えてるほど、結婚も離婚も軽い問題じゃないんだからな」
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