8

「で、どうよ。愛しの奥方の様子は」


 茶化したように笑うグレアム・サーヴァン第三騎士団長を、イアン・ノーティックはじろりと睨みつけた。


 イアンが賜っている城の一室である。


 窓際のライティングデスクに座って書類仕事をしていたところへ、ふらりと遊びに来たのがグレアムである。十年来の友人である彼は、イアンの部屋に我が物顔で入ってくるから困る。一応、この部屋には機密情報などもあるのだが。もっとも、王太子の護衛を指揮している彼は王の信任も厚く、ちゃらちゃらした見た目とは異なり、根は生真面目な性格なので、イアンが書類仕事をしているときは机に近づいて来ないから、イアンも大目に見ている部分もある。


「誰に聞かれているかもわからないんだから、あまり喋るな」


「おいおい、俺はタダ奥方の様子を訊いただけだぜ? 別におかしなことを言ってないだろ」


 にやにや笑いながら言うグレアムにムッとするも、確かに彼の言う通り妙なことは言われていない。表向きは。


 イアンは大きく息を吐きだしてペンを置くと、書類を鍵付きの戸棚に片付けて、グレアムの座る曽ソファへ移動した。


「……可愛かった」


「おーそうかい」


「行ってらっしゃいと見送ってくれたんだ」


「ほーほー」


「昨日の夜も、おやすみなさいと言ってくれたんだ」


「……」


「ティーゼは世界一可愛い」


「……あー」


 にやにや笑いながら聞いていたグレアムだったが、イアンの話を聞くうちにその顔からは笑みが消え、最後には唖然としてしまった。


 どうしてそんな顔をしているのだろうとイアンが首を傾げれば、グレアムが自身のダークグレーの髪に指を入れてぐしゃぐしゃとかき回す。


「お前、そんなんで大丈夫か?」


「何がだ?」


「五年もたって、ようやく一歩踏み出す気になったんだろ? ……まあ、俺にしちゃ、明後日の方向に踏み出した一歩に思えて仕方がないが、それでも一歩は一歩だ。せっかく踏み出した一歩だろ。それなのに、ただ挨拶を交わしただけで満足そうな顔をしてどうする! 何のために俺がお前に名を貸してやったと思ってるんだ!」


 そう。


 ティーゼが働きに出たがっていると知ったイアンは、マイアンの提案に乗って、ティーゼを自分で雇うことにした。当然だ。愛しの妻を、どこの誰とも知れない家で働かせられるはずがない。


 しかし、イアンがイアンの名前のままティーゼを雇うにはさすがに問題がある。夫が雇うと言っていると聞いて、ティーゼが是と言うはずもない。そこで考え付いたのが。イアンが他人のふりをして、ティーゼを雇うという方法だった。


 幸いにして、ティーゼはイアンの顔を知らない。イアンはティーゼの前に直接姿を現したことがない体。邸に肖像画はかけられていないし、結婚前にも届けていない。だからこそできた強引な手段だが、さすがのティーゼでも架空の人物を装えば気がつくだろう。イアンは悩んだ挙句に、イアンとティーゼの夫婦関係を知っているグレアム・サーヴァンに頼むことにした。


 もちろん、ばれる危険性も考えなかったわけではない。なぜならグレアムは、ダークグレーに同色の瞳をした、長身でがっしりした体躯の男である。もしグレアムの容姿についての情報をティーゼが持っていたならば、一発で偽物だと気がついてしまっただろう。邸に閉じこもっているティーゼならば気がつかないとマイアンは太鼓判を押したけれど、ティーゼに顔をさらす瞬間はとにかく緊張した。もし気がつかれたらどんな言い訳をしよう――そればかりを考えていた。


「……わかっている」


 イアンは拗ねたように口を尖らせた。


 イアンはグレアムの名を語ったが、ティーゼに言った「赤面症」というのは嘘ではない。ただし、女性全般ではなくティーゼ限定で、彼女の顔を見るだけで顔が真っ赤に染まってしまうのだ。


「雇ったのは一か月なんだろ? 早くしないとあっという間だぞ」


「わかっている!」


 イアンは噛みつくように返すと、両手で顔を覆った。


「……わかっているんだ」


 イアンが五年もの間、ティーゼから姿を隠し続けてきた理由。それがこの「赤面症」だ。


 自分だって馬鹿馬鹿しいと思っている。思っているが仕方がないだろう。なぜならイアンはティーゼよりもやっとも年上なのだ。いい年した大人が――それも、ティーゼから見たら「おじさん」かもしれない年齢のイアンが、十五歳の子供の顔を見るだけでトマトのように真っ赤に染まってしまうのである。気持ち悪いに決まっている。こんな変な男が夫だと思えば絶望するだろう。結婚式で真っ赤になってカチコチに固まってしまう夫の隣に立ちたいはずがない。せめて――せめて、この症状が少しでも落ち着いてから。ティーゼがもう少し大人になってから。そんなことをぐずぐずと考えて、気がつけば五年が経過していた。


(……目も当てられない)


 自分で自分が情けなくなるが、だって仕方がないだろう。五年と少し前、イアンは八つも年下のティーゼに本気で恋をしてしまったのだから。初恋なのだ。嫌われたら生きていけない。


 せめて手紙でも書こうかと思ったこともあった。けれども、手紙になんて書けばいいのかわからない。公爵家へ帰らない理由を訊かれたら、なんて答えていいのかもわからない。


「せっかくティーゼと一緒に暮らせる一か月だ。この一か月の間に、この赤面症を克服して見せる」


 もしかしたらまともに会話すらできないかもしれないと思っていたのに、少しは会話らしいものができたのだ。活路はある。


 グレアムは決意をみなぎらせる友人に何とも生ぬるい視線を向けたあとで、ふとイアンに訊ねた。


「そういやあ、お前の奥方は、どうして今になって借金を返したいとか言い出したんだ?」


 イアンはきょとんとして、それから首をひねった。


「そういえば、どうしてだろうな」


 そもそもイアンはアリスト伯爵家の借金を返済した金は伯爵家にあげたつもりの金だった。それなのに、どうしてティーゼは借金を返そうなどと思い立ったのか。


「……もしかして、アリスト伯爵は、新しい借金でも作ったのか?」


 どちらにせよ、確かに気になる部分ではある。


「調べて見るか」


 もしティーゼが困っているならば援助は惜しまない。マイアンあたりに言えば、アリスト伯爵家の経済状況はすぐにわかるだろう。


 このときイアンは、そう暢気なことを考えていた。

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