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 サーヴァン男爵が城へ向かった後、ティーゼが本屋に行きたいと言えば、サーヴァン男爵家の執事のポールはあっさり許可をくれた。


 馬車を出そうかと言われたので丁重にお断りして、目立たないシンプルな深緑色のワンピースに着替えたティーゼは、意気揚々と商店街に向かう。


 アリスト伯爵令嬢だったころは、こうして歩いて出かけることが多かった。なぜなら馬の維持費が高くて手放したから、馬車を所有していなかったのである。


「いい天気ね」


 黒い日傘の下のティーゼの赤銅色の髪は、首の後ろで緩く一つにまとめられているだけだ。リボンも巻いていない。ドレスも日傘も地味なので、まさかティーゼがノーティック公爵夫人だと気づくものはいないだろう。


 舗装された道を歩きながら、大きく息を吸う。ティーゼが「ティーゼ」だと気がつかれないことが、とても嬉しかった。


 城に近いサーヴァン男爵家から目的地の商店街までは、ティーゼの足で四十分ほど。商店街までは中央通りをまっすぐ進めばいいので道に迷うことはない。


(ここもだいぶ変わったわね)


 中央通りをまっすぐ進んで商店街に到着してティーゼは、広い石畳の道の左右に並ぶ店を見て小さく息をついた。


 ティーゼが知らない店がたくさんある。噴水広場の近くには大きな時計塔が建っているが、五年前はまだ建設中だった。時計塔の反対側には、これまたティーゼの知らないデパートという大きな店が建っていて、知っているパン屋は見当たらない。


(五年だものね。変わっていても不思議じゃないわ)


 なんだかティーゼ一人世界に取り残された気がしてきた。ティーゼは二十歳になったのに、ティーゼの中の情報は五年前の十五歳の時から更新されていない。


 気が沈んだティーゼだったが、感傷に浸りに来たわけではない。目的は本屋だ。ティーゼはティーゼの人生を取り戻すためにここにいる。


 ティーゼが伯爵令嬢だったころに通っていた本屋は、五番通りにまだ存在していた。扉を開けると、カランと可愛らしいドアベルが鳴る。天井まで届く本棚にぎっしりと本が並べられているのは昔と変わらない。本は高価なので頻繁に訪れはしなかったが、たまにお小遣いをもらったときに来ていた、懐かしい本屋。


 ティーゼは本棚と本棚の間を歩きながらくすりと笑う。五年前に戻ったみたいだ。結婚が決まる少し前、ティーゼはここに誕生日プレゼントを選びに来ていた。そう、父であるアリスト伯爵が無理をしてティーゼの誕生日プレゼントを買ってくれると言ったのだ。嬉しい反面、申し訳なくて、ティーゼは一番安い本はどれだろうかと必死に探し回った。


(見つけた本が、野菜の育て方って……お父様、すごく変な顔をしていたわね)


 本当にこの本がほしいのかと何度も訊かれた。ほしいかほしくないかと聞かれたら微妙だったが、あの本はほかの本よりも平均三割も安かったのだ。


(それに、あの本、意外と役に立ったわ。おかげで庭で野菜が育てられたもの)


 読んだら実践したくなって、ティーゼは伯爵家の小さな庭の一部を耕した。本で勉強しながらせっせと育てた野菜はアリスト家の食卓に並び、母からは家計が助かると喜ばれたことを覚えている。一つ年下の弟はトマトが苦手だったのに、自分で取ったミニトマトだけは食べたから、両親は感動していい本を買ったと褒めてくれた。あの畑は、まだあるだろうか。


 ノーティック公爵家が借金を返済してくれたあと、父のアリスト伯爵はほとんど領地に缶詰め状態で、領地改革をしている。今度水不足になっても大丈夫なようにと水路を整え、農業以外の産業を興すのだと、絹の生産にも乗り出したと弟の手紙に書いてあった。


 そんなわけで両親はアリスト伯爵領に生活の拠点を移しているから、王都のアリスト伯爵家には現在、弟一人が住んでいる。


(久しぶりに会いたいなあ)


 実家に遊びに行くことは禁止されていないので、弟には年に一、二回会っている。あんまり頻繁に実家に帰るのは外聞が悪いからとマイアンがいい顔をしないので、帰れても王都の伯爵家だけで、往復で何日もかかる伯爵家へは無理だから、両親にはずっと会っていない。


「っと」


「きゃっ、す、すみません!」


 ぼんやり本を眺めながら歩いていたからだろう。前方に人がいたことに気がつかず、ティーゼは背の高いその人にぼすっとぶつかってしまった。


 慌てて謝れば、その人は「いや……」と言ったきり黙り込む。どうしたのだろうと、ティーゼより頭一つ分以上も背の高い男を見上げると、彼が青い目を見開いた。


 小麦色の髪に青い瞳。はて、どこかで見たような顔だと首をひねれば、男が目を丸くしたまま言う。


「お前……ティーゼか?」


 名前を呼ばれて、さらに首を傾げる。ティーゼの名前を知っているということは、やはり知り合いのはずだ。それも、「ティーゼ」と呼び捨てるほどの関係のはず。


(んんん?)


 ティーゼはじーっと背の高い男の顔を見つめて、それからハッとした。


「もしかして、トーマス⁉」


「……気づくのが遅いな」


 彼はクライスラー伯爵家のトーマスだった。五年ぶりに会う三つ年上の幼馴染だ。五年前も背が高かったが、さらに少し伸びている気がする。顔立ちも少年っぽさがなくなって精悍になった。……それもそうだ、ティーゼが二十歳になったのだから、トーマスも二十三歳になっている。


 トーマスは、ティーゼの頭の先からつま先まで視線を這わして、あきれ顔で言った。


「お前もしかしなくても、とうとう離縁されたのか?」


 そうだったらどんなによかったかしらね――、ティーゼは思わず、大きくため息を吐きだした。

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