二匹目
私が十歳の頃にも、既に突然変異した狼たちが、地球上の生物を我が物顔で喰い荒らしていた。絶滅危惧種もそれ以外も、瞬く間に減っていった。生態系が崩れ、人類も畜産物関連の食糧難に陥り始め、暴動や略奪も各地で相次いだ。
謎の小隕石が降ってきたあの日から、すべてが狂ってしまった。
そんな混乱の中でも、私が生きていられたのは、運がよかったのかもしれない。
広大な砂漠を緩やかに走る四輪駆動車の後部座席で、当時十歳の私はぼんやりと景色を眺めていた。フロントガラス越しに見えたのは、前を進む
民族衣装でもある
「こんな最高気温五〇度とかいうクソ暑いとこでも、狼どもは生きられるもんなんだなぁ」
あきれながらぼやいたのは、車を運転する初老男性の〈座長〉だ。
少人数の旅芸人一座である私たちにとっても、旅先で狼に遭遇するのは恐怖でしかない。数頭の駱駝たちを目の当たりにできたのも、奇跡に近い出来事だ。
助手席で、〈
「ここらの狼は、元々の生息数が世界に七百匹くらいしかいないらしいっすよ。姿を見ることさえ難しいんだとか」
私の隣で、〈踊り子〉の女性も不安げに口を
「でも、世界中の狼が凶暴化してるし、昼間にも出るかもしれないんでしょ?」
「ここらの奴らは、動物の死骸を主食にしてるらしいし、生きてるおれらは狙わないんじゃね?」
「わからんぞ。飢えてる連中は、どんなことでもするからな」
座長の言葉が、空気に重く沈んだ。
「なぁ、セリフィア」
彼が私に同意を求めたが、私は曖昧な笑みしか返せなかった。手に持ったままのペットボトルの水を、また一口飲んだ。
砂漠を渡るに当たり、原住民からは『駱駝のように水を飲め』と厳重に指示されていた。世界屈指の乾燥地帯では、汗もかいた瞬間に蒸発してしまう。自分が水分不足に陥っていることにも気づかず、激しい頭痛に襲われることもあるらしい。車の空調も意味を成さず、窓を全開にして換気しながら、私たちは無理やりにでもこまめに水を飲むしかなかった。
私の態度が退屈そうに見えたのか、踊り子が別の話を振ってきた。
「セリフィア。駱駝の背中のこぶって、何が入ってると思う?」
「水分じゃないんですか」
「あたしもそう思ってたんだけどね、違うんですって。なんと、脂肪なのよ」
「へー」
彼女の回答に感心したのは、私ではなく道化師だった。
「エネルギーを蓄えるだけじゃなくて、断熱材みたいな効果もあるらしいわ。便利よね」
「人間だったら、脂肪はまず腹にたまるのにな」
「ね。背中に脂肪が付くのって、どんな感じなのかしら。想像すると、ちょっと嫌よねぇ」
踊り子は苦笑したが、私はあまり興味が持てなかった。人間と駱駝では身体構造も異なるのだから、比べたところで意味はない。
狼への恐怖を紛らわせるために、適当な雑談は続いた。
――しゃべった分だけ、また水分が減っちゃうのに。
私は内心あきれはしたものの、陽気な彼らの声は耳に心地好かった。
座長も、道化師と踊り子の話に
このまま、街まで無事に着ければいい。そう願っていた。
前を行く隊商の列が徐々に崩れ、駱駝たちが砂に横倒しになるまでは。
「何だ!?」
座長がブレーキを踏み、車は急停車した。
最後尾にいた駱駝から、原住民の男性が降りてきて、運転席で座長に早口で説明を始めた。彼らの言語の意味を正しく理解できていたのは、私たちが耳に着けている同時通訳デバイスのおかげだ。
狼が現れた。先を行く仲間はやられた。早く逃げろ。
男性は、緊迫した様子で確かにそう言った。
「街はこの先だろう。このまま突っ切るぞ!」
「マジっすかぁ!?」
即決した座長に、道化師が本気で驚いた。
男性に礼を伝えてから、座長はすべての窓を閉め、アクセルを限界まで踏んだ。
踊り子が、私の片手をぎゅっと握った。そのしなやかな指が震えているのがわかり、私もごくりと喉を鳴らした。
――ほんとに出たんだ、砂漠の狼が……!
黄土色がかった毛並みを持つ狼たちの姿が、確かに見えてきた。狼というよりは、全体的に中型犬程度の体格ではあったが。乾燥地帯の酷暑に適応するため、効率的に体内の熱を発散し、体温の上昇を防いでいるのだと、原住民からも説明されていた。当時、世界で最も小さな狼なのだとも言われていた。
奴らは、数匹で取り囲んだ駱駝や人間たちに喰らいつき、貪っていた。散り散りに逃げ始めた生き残りの原住民たちをも、迅速に追いかけて確実に捕らえていった。
踊り子が、私の頭をぎゅっと抱き寄せた。やわらかな胸に、顔が埋まった。おぞましい光景を、私に見せたくなかったのかもしれない。
「ここの狼は、群れで行動しないはずじゃなかったのか、よッ!?」
道化師の語尾が、不意に裏返った。
「おいおい……」
驚きとあきれのまじった声音で、座長もぼやいた。
車の正面から、また狼たちが迫ってきたのだ。
目視でも、七百匹のうちの十数匹はいそうだった。
座長は構わず正面突破しようと、アクセルをさらに強く踏んだ。
しかし、敵も甘くはなかった。
車の進行方向から左右二手に分かれ、先頭にいた一匹が、速度を上げて助走を始めた。
あっ、と道化師が硬い声を漏らしたのと、狼がボンネットに勢いよく跳び乗ったのと、どちらが早かっただろうか。
振り落とそうと、座長が即座にハンドルを切った。
だが、狼は信じがたいバランス感覚でフロントガラスに張り付いていた。
踊り子が短く悲鳴を上げ、私をいっそう強く抱きしめた。
彼女の身体の隙間から、敵の鋭く獰猛な牙が垣間見えて。私も思わず身を竦めた。
「――っの野郎!」
座長がワイパーを動かして狼を退けようとしたが、相手は器用に脚を上下させてそれもかわした。
おかしい。
芸を仕込むための訓練を長期間継続しているのでもなければ、動物に――野生の狼に、こんな
きっと、車内の全員がそう考えていただろう。
狼は凶暴化するどころか、知能まで上がったというのか。
「座長、残りの奴らも追ってきてますよ!」
「わかってる!」
助手席からサイドミラーで後方の景色を確認し、道化師は怯えていた。
おそるおそる顔を上げ、私もガラス越しに背後を見た。
二手に分かれた狼の集団は、その陣形を保ったままで私たちを追い続けていた。車が少しでも失速すれば、奴らは両側から挟み撃ちにする気だろうと、私でも容易に想像できた。
ボンネットに乗った奴のように、ガラスを力ずくで叩き割ろうとするか。タイヤを傷つけて移動不能にしようとするか。私たちを喰う気なら、きっと手っ取り早く前者を優先するだろう。
恐怖を抱いたまま、私は震える指でペットボトルの
「偉いぞ、セリフィア。街に着くまでの辛抱だからな」
前を険しく見据えたまま、座長が私を褒めてくれた。
ありがとう、と泣きそうな声で私に礼を言い、踊り子も水を口に含む。私たちにつられるように、道化師や座長も。
運転席のドリンクホルダーに立てられたペットボトル。そこから伸びる長いストローで、座長はこまめに水を吸っていた。自動運転モードに切り替えれば、ハンドルから手を離せるはずだ。それでも、彼は自身の運転技術に自信と誇りを持っていたのだろう。自動運転モードでは、速度制限もかかってしまう。少しでも狼たちを突き放し、私たちを護りたい一心で、手動運転を続けたのかもしれない。
フロントガラスに張り付いた狼が、片方の前脚を振りかぶった。
バン、バンッ!
どれほど殴打されようが、強化ガラスはそう
座長もそう考えていたのか、狼を無視して運転に集中した。
「こいつ、マジで人間みたいなことすんなぁ……」
あきれと不安を、道化師が言葉に乗せた。
狼を振り落とそうと、こちらから攻撃を仕掛けるのは逆効果だ。敵は隙間から前脚を突っ込み、車内へ侵入しかねないのだから。
狼が何かの弾みで自然に落ちるか、街の住民たちに始末してもらうか。この時は、その二択しかなかっただろう。
砂や青空ばかりが、果てしなく続く景色。
砂漠走行用の装備による重量負荷も多少はあったとはいえ、車も最高速度には達していたはずだった。
――いつになったら、街に着けるんだろう。
終わりの見えない焦燥と恐怖が、じわりじわりと私の心に巣食っていった。
また一口、水を飲もうとした時。
ドンッ!
突然、車が真下から激しく突き上げられた。
車体が傾き、私たちは悲鳴を上げながら衝撃に耐えた。緊急用エアバッグが作動し、身体を包んでくれたが。
車は何度か横転し、止まった。
圧迫感と閉塞感に
幸い、車は逆さまにはなっていなかった。エンジン音も聞こえた。
だが、私以外の仲間は気を失っていたようだった。
サッと血の気が引いた。
何が起きたのかまるでわからない状況下で、狼からどう逃げればいいのか――幼かった私には、
踊り子の腕や肩を叩き、必死にそれぞれの名を呼んで起きてと訴えかけた。
それなのに。
私の声をかき消すかのように、間近で狼が
割れた運転席の窓ガラスの隙間から、ギラギラと光る深緑色の眼が、こちらを
ボンネットに乗ってきた奴とは別の個体だと、すぐに気づいた。
その顔面が、窓ガラス一枚には収まらないほどに大きかったからだ。
砂の中に潜み、車を転がしたのも、きっとこの大型個体の仕業だったのだろう。ちょうど、通過地点に巣穴を形成していたのかもしれない。
座長の頭部が、根こそぎ噛み砕かれた。
獣の体臭と噴き出した血の臭いが、空気を濃く汚していって。
悲鳴すら出せずに、私は彼が喰われる光景を愕然と見ることしかできなかった。
残りの狼たちも追いついてきて、車を取り囲み始めた。
――逃げなきゃ……!
脳は自分にそう命じていたのに、身体は全く動いてくれなかった。
狼たちが窓に群がって張りつき、
生温かい鮮血が、自分の顔や短い金髪にも飛び散った。
「――っ、やめてぇぇぇぇぇッ!」
私は、その時初めて、抵抗の声を張り上げた。
奴らの動きが、たじろいだように一瞬止まった。
シートベルトを外し、手探りで見つけた小道具のナイフを振りかざし、エアバッグを切り裂いて。自分に迫った狼たちの鼻や眼、眉間を、ひたすら滅多刺しにしていった。
次から次へと押し寄せてくる獣を、私は怒りに駆られて狩っていた。
「ゆるさない、おまえら、絶対ゆるさないッ!」
反対側の窓から侵入しようとする敵にも、ナイフを投げつけた。
座長を捕食し続けていた大型個体が、一旦距離を取った。
――また、車を転がす気?
私の背筋は、ゾッと冷えた。
嫌だ。死にたくない。せめて、皆の仇を討ちたい。
大型個体の後ろ脚が、砂を蹴ろうとした瞬間。
複数の銃撃音が響くと同時に、狼たちの身体が跳ねて砂に倒れていった。
驚いて振り向いた私の
銃を構え、剣を振るう赤い〈猟兵〉たちだった。
旅芸人として世界各地を転々と巡る間、噂で聞いたことはあった。
各国の精鋭軍人を中心に結成された、対狼専門特殊戦闘部隊の存在を。
十数人の彼らは連携しつつ、狼を一匹ずつ着実に仕留め始めた。
また私のそばの窓から入り込もうとした個体も、首を
「生きてるな」
道化師よりは年上だろうか。若い男性の低い声が、確認のように問うた。私にも理解できる言語で。
長身を屈めて窓越しに私を見つめてきたのは、赤い
ぎこちなくうなずいた私に、彼は微笑んでくれた。安心させるように。
「今、出してやる。ちょっと下がれるか」
促されるまま、私は座席の奥に屈み直した。
ガッ、とドア上部の隙間に硬いものが捻じ込まれる音がした。男性の持つ大剣の切っ先だ。ヴィィィ、とその刀身は細かく振動した。電動式の武器なのだろう。
大剣は、そのまま下まで輪郭通りにズドンと銀色の刃を落とし、水平に滑って横の線も斬っていった。
大して時間もかからず、派手な音とともに、力任せにドアが取り払われた。
男性がスッと差し伸べてきた大きな手は、焦げ茶色の革手袋と銀色の
「よく耐えた。降りて来な」
「……っ、でも……」
私は、改めて車内を見渡した。
無残な姿になってしまっても、旅の仲間をこのまま置いて行きたくはなかった。
心情を察してか、男性は言葉を継いだ。
「悪いが、今は一緒には連れて行けねえ。俺の部下が遺体を回収する。あとで合同で
それを聞き、私は少し安堵した。また狼の餌食になって骨まで喰い尽くされてしまったらと、想像するだけで恐ろしかった。
よろよろと立ち上がり、男性の手をそっと握って外に出た。靴底に水が染み込んだ。ペットボトルは、底部で
足元に散乱していた狼の死骸を見下ろすと、溜飲が下がった。このうちの何匹かは、自分で手傷を負わせて追い込めたのだと実感できて。
仲間の命が奪われたことは悲しかったが、泣くわけにはいかなかった。そうしたところで、きっと涙も瞬時に蒸発してしまっていただろうけれど。
「飲め。水分不足は命取りになる」
男性が大剣を砂に一旦突き立て、腰のベルトに提げていた水筒を差し出してくれた。
会釈し、私は厚意に甘えて蓋を開けようとした。けれど、その時に気づいた。
狼を刺したナイフを、握りしめたままだということに。
「あ……」
呆然と、自分の手を見つめた。
深緑色の液体にまみれた刃は、陽の光さえ反射しなかった。
男性のてのひらが、私の手の甲を包んだ。私の指を、ナイフの[[rb:柄>つか]]から一本一本外してくれた。
落ちて砂に埋もれた凶器を拾い上げ、彼はまた穏和に笑んだ。教え子を褒める教師のように。
「おまえなりに戦ったんだな。立派だ」
「……大事な人たちを、結局助けられませんでした」
「それでも、おまえは
ぽん、と男性の手が頭に触れて。
「
その言葉は、私の心臓を一際大きく鼓動させた。
――どうして、会ったばかりの私に、そんなことを言ってくれるんだろう。
きゅっと締めつけられた胸の感覚もごまかしたくて、私は水筒の
「サディジール大佐、ご報告が」
「何だ」
一人の女性が男性に呼びかけ、赤いマントをなびかせて足早に歩いてきた。踊り子よりも少し若い印象の人だった。
「残念ながら、隊商の人員と駱駝は全滅です。要救助者は、こちらの少女のみでしょう」
「わかった。生物研究部の連中にも、遺体と死骸の確保、回収を優先させろ」
「はッ」
「こいつは、おまえが〈
男性――サディジール氏は、私をちらりと見て不敵な笑みを浮かべた。
「住民とは別で、こいつは俺の〈
「は? 本気ですか?」
女性の目がまるくなったあと、半分に細められた。
「また大佐の
「またとか言うな。俺は見込みのある奴に仕込みたい、それだけだ。俺の勘に――」
「間違いはない、でしょう? 聞き飽きました」
嘆息まじりにあしらった女性は、微苦笑して私に向き直った。
「ごめんね。この人、強引だから。深く気にしないで」
「ほら、さっさと行け。新手が来ねえうちにな」
「了解。じゃあ、行きましょうか」
「……はい。水、ありがとうございました」
「ああ」
水筒を受け取ったサディジール氏は、自信ありげな笑顔のままで私に訊いてきた。
「おまえ、名前は?」
「セリフィアです。苗字は、ありません」
「そうか」
大剣を砂から軽々と抜き放ち、彼は戦闘の続く方向を見据えて返答した。
「俺は、ロイボルト・サディジール。対狼専門特殊戦闘猟兵部隊、通称〈赤ずきん〉の一人だ。
勇猛に駆けていくたくましい後ろ姿を、私は見送った。
なぜか、彼との縁が深まっていきそうな未来を予感しながら。
これが、命の恩人であり第二の〈育ての親〉でもある彼との、運命的な出会いだったのだ。
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