あさきゆめみし

カイト

第1話

 その日私は、大学の友人の結婚式に招待していただき、隣の県まで足を伸ばしていました。


 新郎友人が集められた丸テーブルでは、懐かしい面々が顔を揃えていました。結婚式に異性の友人を呼ぶことはあまりないのかもしれませんが、在学当時人形劇のサークルに所属していた私たちは、男女問わず仲が良かったのです。


 卒業してから、十年以上が経っていました。家庭を持った人も多く、最後にみんなが顔を揃えたのはもう何年前だったでしょうか。近況報告から思い出話と、話は尽きることがありませんでした。

 高砂の席にみんなで集まり、呆れるほど写真も撮りました。新郎新婦への祝福やからかい、羨望など、私たちは騒がしいくらい賑やかで、学生時代に戻ったかのようでした。


 ですが、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうものです。


 華燭の典がお開きになると、私は現実に引き戻されました。友人のほとんどが二次会に参加するためバスに乗り込んでいく中、県外から来ており、なおかつ家で幼い子供が待つ身の私は、後ろ髪を引かれながらも帰るしかありませんでした。

 名残惜しさに何度も手を振りながら、式場から少し離れた大通りでタクシーを拾おうとした時でした。


「ナギちゃん」


 振り向くと、たった今別れたばかりの友人がそこに立っていました。


「ヒロくん。どうしたの?」

「帰るんやろ、駅まで送るよ。だから、少し歩かん? 今日、あんまり話せんかったし」


 彼はサラリとそう言うと、私の隣に立ちました。


 私の記憶の中の彼はいつも日に焼け、年中Tシャツとジーパン姿だったものですが、さすがに三十路を迎えた今は、スーツの着こなしも様になっています。胸ポケットから覗く小洒落た青いハンカチには、柄じゃないくせにと内心笑いそうになってしまいましたが。


「いいやろ?」


 なんでもないことのように言う彼に、私は思わず大きく頷きました。


 学生時代、彼と私は浅からぬ仲でした。

 早い話が、お付き合いをしていたのです。


 一瞬、家で待つ夫と子供の顔が思い浮かびました。ですが、苦笑とともにそれを打ち消します。

 私がそうであるように、彼にもまた家庭があるのです。妙な邪推は失礼というものでしょう。

 私たちは駅に向かい、並んで歩き始めました。


「二次会はいいの?」

「場所知ってるから、後から行くよ」

「この辺も、すっかり都会になっちゃったね」


 隣県の田舎出身の私からすれば、高いビルが立ち並ぶこの街は、学生当時から大都会でした。ですが、あの頃はなかったはずの建物や賑やかしい看板が増えた今は、方向感覚もわからなくなってしまうほどです。

 辺りはもうすっかり暗くなっていましたが、地上の明かりにかき消されるように、空を見上げても月も星も見当たりませんでした。


「ナギちゃんは、ずっと地元だっけ?」

「そうだよ。卒業して地元で働いて、そのまま結婚しちゃった」

「たまにはこっちに遊びにおいでよ」

「そうだねぇ。でも、子供がもう少し大きくなったらかなぁ」


 私は、やんちゃ盛りで少しもじっとできない息子の顔を思い浮かべながら、生返事をしました。


「子供、手が掛かるん?」

「こんなとこ連れてきたら、はしゃいじゃってきっと大騒ぎよ」

「元気でいいやん」

「まぁね。でも、ヒロくんとこんな話ができるようになるとはなぁ」


 私がそう言うと、彼も苦笑しました。


「俺たち、ずっとギクシャクしてたもんな」


 私たちが別れたのはお互いが嫌いになったからではなく、言いたいことを上手く口に出せない二人の関係が、どうしてもこじれてしまったからです。顔を合わせれば泣いたり、喧嘩をしたり。二人とも、「彼氏彼女」という関係に疲弊してしまっていたのでした。

 ですが、それを解消したところで物事がスムーズに運ぶわけはなく、結局卒業するまで、どこか気まずい関係の二人だったのです。

 それでも私がサークルを辞めなかったのは、彼と顔を合わせるのは苦痛な反面、嬉しくもあったからでした。


 それも昔の思い出と、私たちが笑って穏やかに会話できるようになったのは、今ではお互い別の伴侶を迎えて、幸せな生活を送っているからでしょうか。


「卒業して、もう十二年? 最後に会ったのいつだっけ?」

「ほら、俺の…」

「やだ、ヒロくんの結婚式には、呼んでくれなかったじゃない」

「…呼ばれんやろ。だってナギちゃん、泣いたら困るやん?」

「なによそれ。まぁ私の時も、ヒロくんが暴れたらいけないから、招待しなかったんだけどね」


 私たちは、顔を見合わせて笑いました。


 ふと、前から来た人を避けようと、私は少しだけ彼の方に身を寄せました。偶然に触れた彼の右手が、そのまま私の左手に絡まってきます


 それは、私の記憶の中にあるそのままの手でした。少し冷たく硬い手のひら。野球していたからできたという、中指と薬指の付け根の大きなタコ。長い指。


 頭の片隅で「振り払わないと」と警告が鳴っていましたが、なんだか胸がいっぱいになってしまって、手を繋いだままゆっくりと歩きました。どうせ駅までなんだからと理性を納得させ、この甘美な瞬間に身を委ねていたかったのです。


 気づけば広い駅ビルの中を進み、改札口まで来ていました。


「…このまま、一緒にいけたらな」


 ポツリと彼が呟いたその一言を、私は聞こえないふりをしました。さざ波の立つ胸に蓋をし、名残惜しい気持ちに少しだけ安堵を混ぜて、口を開きました。


「ありがとう。もう、ここまでで……」


 最後まで言い切らないうちに、彼が私の手を引きました。


「え? ちょっと…!」


 彼は無言で、手をつないだまま改札を抜けました。私は慌てて切符を通しましたが、手ぶらな彼を機械は素通りさせてしまいました。


「ちょっと、ヒロくん」


 彼は私を見ることなくまっすぐホームに向かい、そこに停車していた電車に飛び乗ります。


 私は咄嗟に行き先に目を走らせ、それが地元に向かう電車であることにホッと胸をなでおろしました。


 帰宅ラッシュを過ぎた車内には余裕があり、私と彼は並んでシートに腰掛けました。

お互い無言でしたが、手はつないだままでした。


 やがて電車は走り出し、賑やかな町の灯りが少しずつ落ち着いてきた頃、私はわざとらしく呆れたため息を吐き、言いました。


「これ、特急なのよ。バカね」


 すると彼は、緊張が解けたように笑顔を見せます。


「うん。俺、昔からバカやろ?」

「二次会、どうするの?」

「ナギちゃんと別れたら飛んでいくから、大丈夫」

「もうその頃には終わってるよ、絶対」

「大丈夫、大丈夫」


 二次会会場からはものすごい速さで遠ざかっているというのに、なにを根拠にか彼は自信たっぷりです。私は本当に呆れたため息を漏らしました。


 停車駅で幾人かの乗客が降り、車内は閑散としてきました。

 向かいの窓に映る自分の顔をしばらく眺め、私は意を決して、ですがあくまで何気ない風を装って、彼に話しかけました。


「今、私幸せなんだ。夫は、まぁ色々あるけど、優しいし。子供はかわいいし」

「うん。見ればわかるよ」

「ヒロくんだってそうでしょ? そんなに幸せ太りしちゃって」

「まぁね」

「…でも──」


 彼が、まるで励ますように私の手をキュッと握りました。


「でもね。結婚式の日には、ちょっとだけ泣いちゃった。ヒロくんが結婚するって聞いたときにも」

「ふーん、なんで?」


 意地悪な問いかけに、私は横目で彼を睨みました。案の定、彼はニヤニヤと私を眺めています。つないだ手に少しだけ爪を立てると、「ごめんごめん」と噴き出しました。


「俺もだよ。嫁さんとは妥協で結婚したわけじゃないけど、それでも、ナギちゃんのことはずっと忘れられなかった」


 彼のその一言に、胸の奥底にずっとつかえていたものが溶けていくようでした。

私は言葉が出ずに、しばらくただ鼻だけをすすりました。


 私たちの斜め向かいに座っていた乗客が、こちらにちらりと視線をやりながら隣の車両に移っていくと、車内は二人きりとなりました。

 私は堰を切ったように、一緒にすごした当時の思い出話を始めました。


 初めて会った時は、単なるお調子者としか思わなかったこと。時間をかけて少しずつ好きになっていったこと。

 彼から好きだと言われた時の喜び。一緒にあちこち出かけた時の楽しさ。

 背の低い私を子ども扱いして、頭をポンポンと撫でる癖。嫌がっていたけど、本当はそうされるのが大好きだったこと。

 彼の前では格好をつけて、落ち着いた大人の女性として振る舞いたかったこと。交友関係の広い彼に面倒くさいと思われたくなくて、ヤキモチを押し殺していたこと。

 言いたいことを言わずにいる私の態度を、彼が面白くないと思っているのには気が付いていたこと。でも彼は指摘してはくれなかったし、私もその態度を改めることができず、二人の仲がぎこちなくなっていくのを止められなかったこと。

 別れても、彼のことが忘れられなかったこと。お互い同じ気持ちで、なし崩しに何度か身体を重ねたこと。


「今日、ほんとはね。久しぶりに顔を見たとき、泣きそうになっちゃった」


 話しているうちに溢れてきた涙に、彼は胸ポケットのハンカチを貸してくれました。目元をぬぐいながら彼を見ると、彼はとても優しい顔をしていました。


「ねぇ、ナギちゃん。俺たちは最後に出会ったのって、いつだったっけ?」

「……なんで今、それを聞くの?」

「大事なことだから」

「………」


 答えたくありませんでした。私は子供のように、口をキュッと引き結んで首を振ります。

 彼は苦笑して、小さい子供に聞かせるようにゆっくりといいました。


「俺の、葬式だよね」


 私は目を瞑り、肯定も否定もできません。


 ですが頭の中では、いくつかの風景が忙しなく移り変わっていきました。


 彼が交通事故で亡くなったと連絡がきた夜。

 棺の中でまるで眠っているような、私の記憶の中よりも少しふっくらとした彼の顔。

 青ざめた彼の奥さんの、赤い目からこぼれ落ちた涙。

 今日の結婚式のテーブルで、一つだけ空いた席に置かれていた彼の写真。

「あいつも来てくれたらよかったのに」と、小さく鼻をすすった新郎。

 彼の写真を見た瞬間、寂しくて寂しくて、今すぐ彼のところに行きたくなった私の気持ち。


 二人で並んで座っているのにもかかわらず、向かいの窓に反射して映っているのは私一人の姿だけだということに、本当は電車に乗ってすぐに気が付いていました。


「もう、ここまでにしなきゃ。ナギちゃんも俺も、行くところはそれぞれ別にあるやろ。あんまり遅くなってもいけんし」

「…先に声をかけてきたの、そっちじゃない」

「だってナギちゃん、放っといたらホームに飛び込みそうやったやん」

「……」

「まぁおれも、あわよくば、って思わんでもなかったけど。でもナギちゃん、今、幸せなんやろ」

「………」


 シートにうずくまるようにして泣く私の頭を、優しい手がポンポンと撫でました。


「ナギちゃん、またね。暗いんだから気をつけて、まっすぐ帰りよ」


 その言葉を最後に、私の意識はスゥッと遠ざかっていきました。





「──さん、お客さん。起きてください」


 ハッと目を覚ましたとき、そこには迷惑そうな顔の駅員さんの姿がありました。


 車内案内を見ると、もうそこは終点駅。私の降りるはずの駅でした。


 慌てて周りを見ると、車内にいるのは私と駅員さんの二人きりでした。ホームにすら人影はありません。


 私の隣のシートにも、当然誰の姿もありませんでした。


──夢を見ていたの?


 夢というより、私の願望、妄想でしょうか。いったい、どこからがそうだったのでしょう。

 虚しさと情けなさがこみ上げてきて、そのままヘナヘナと崩れ落ちそうでした。


「おーきゃーくー、さん!」


 苛立ち混じりの駅員さんの声に、再度ハッとしました。私を酔っ払いと思っているのでしょう。ぞんざいな態度で「出口は、あっち」とドアを指差します。


 崩れ落ちるのも、電車を降りてからにしなければならないようです。

肩を落とし、トボトボと車両を出ようとしたときでした。


「もー、忘れ物ですよ!」


 後ろから肩越しに差し出されたもの。

それは、小洒落た青いハンカチでした。


「……え?」

「あなたの座ってたところにあったんだから、お客さんのでしょう? しっかりしてくださいよ」


 ハンカチを開くと、確かに私の涙を拭いたシミがあります。


 でも、あれは夢なんじゃ──


「まっすぐ帰ってくださいよ。お気をつけて!」


 その声は、先ほどの彼の声となぜだかダブって聞こえた気がしました。



──────────



 あの不思議な夜から数日が経ち、いつも通りの慌ただしい生活を送る私のもとに、友人から連絡がありました。


 なんでも、あの日撮った写真のあちこちに、死んだはずの彼の顔が映っていたというのです。


 送ってもらった数枚の写真には、まるでそうするのが当たり前のような顔をして、みんなの輪の中に入る彼の笑顔がありました。披露宴のみならず、二次会の写真にまで写り込んでいます。


 どうやら彼は、二次会にちゃんと間に合ったようです。


「飛んでいくから、って、文字どおりだったのね」


 胸ポケットを空にして微笑む彼の写真に、私は小さく突っ込み、笑いながら涙をぬぐいました。

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