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朝。風呂施設のカプセルルームで目を覚ます。8時前だ。思ったよりも寝てしまった。体が痛くない。風呂に入ることは、特に湯船にゆったりと浸かることは、やはり素晴らしいことなのだと実感。痛い痛いと言いながらここ数日は身を起こしてきたが、今日は、痛いなどと言わずに起き上がる。朝ぶろに行く。やけに人が多く辟易とした。食堂で朝飯。煮魚。ブリ大根だろうか。そんな感じのやつ。北朝鮮のミサイル発射の速報がテロップで流れるなか「鬼瓦」がどうのこうのとまったく面白さを感じないバカげた行いをテレビ上でやっている。生放送っぽいが誰もテロップの速報には触れない。なんか「鬼瓦」を色んなパターンでやると面白いから色々やりましょうよお、みたいなことを、中年のおばさんが言っていた。ぞっとした。眼鏡をしていないからテレビは鮮明には見えないが、これはなんなのか。この国は一度滅びた方がいい。国全体が災害以外で、本当にシリアスな目に遭った方がいいのではないかと。どこかふざけたムード、真面目なものや深刻なものを「恥ずかしいもの」として認識する文化が、この国には根付いているように思えてならない。そうして真面目な雰囲気になると「おふざけ」ですぐにそれを変えようとする。……そのままフロントで清算して退館。男しか入れない施設であるが、俺好みのムキムキで毛深くてオス臭い感じのする男は一人もいなかった。残念なことだ。

電車移動。駅に着く。エレベーターのところに警察官と消防庁の人と女の人に付き添われた若い俯いた男が歩いていた。外には救急車が止まっている。「ポカリ?水?ねえ、飲んだ方がいいわ。ねえ」女の人が頻りに話していた。しっかりと歩いているし、黒い服の、若い男は病人には見えなかった。自殺未遂者、ということが、想起された。警察が来ていることから、病人ではあるまい。その可能性が濃厚そうだ。理解はできる。生きていても苦しみしかない。それが現実だ。陰鬱なムードを断ち切るのは不可能。希望の光がどうのこうのいう歌を歌うことを強制された学生時代とか、今思えばありえない暴挙で吐き気がする。学生には現実世界は地獄だと、生きていても良いことなんてないし苦しみは延々と続くのが普通なんだとそれだけ教育すべきだ。変な期待をさせるな。変に期待するから自殺しようとする。「俺はこんなはずじゃない。世界はもっと幸せなはずで、こんな不幸、もう嫌だ」みたいな。そんな風になってしまう。変な期待いらない。変な期待させる奴、すぐ死んで。

コンビニでチョコパイを買って帰宅。

ゲイ動画を凝視してチンポを気持ちよくする作業に邁進。

youtubeでニュースを見る。ウクライナ情勢について。コメント欄でみんなテキトーなことを言っていた。人間は人間が思うほど、人間の命のことを大切だとか思っていない、そういうフリをしているだけだろう、という印象。顔を真っ赤にして激怒してくる人もいるだろうが、俺はそれを何とも思わない。ただ、図星を突かれて感情的になっているだけだろうなあ、と思うだけである。俺は「プーチンのチンチンってデカいのかな?」とだけコメントした。もちろん誰も答えるものはない。直にプーチンのチンチンのサイズを確認したものは、いないのだろう。

小島信夫「アメリカンスクール」を読む。チョコパイを食う。コーヒーを飲む。むらむらしてきて、再びゲイ動画を凝視してチンポを気持ちよくする作業に邁進。それなりの量の精子がでた。溜まっているのだろうか。

今日はまだ乳首の撮影はしていない。

乳首を撮影しはてなブログに掲載。

ボロディンの交響曲第2番第1楽章を聴く。ロシア音楽。

カクヨムで「実名で発表しても差し支えない小説」みたいなイベントを開いている人がいて、どういうことだろうと思う。まあ、ほとんどの人が匿名で(俺もモグラ研二だし)やっているわけではあるが、べつに実名で出しても差支えはないのでは?と思うが……。でも実名で出したところで何の面白味もない「え?誰?は?知らんわ」で終わるだけだしなとか。だからみんなペンネームでやるのではないのか。実名で出すと恥ずかしいとかいう感情があるのだろうか。そこは、わからない。実名出したところで、知らんだろ、としか。身内に見られたところで、どうだろうか、苛烈なことを言ってくる奴がいるだろうか。いたとして、そんなことを言われる義理は何もない、と言えば、それで終わりではないか、とも。俺はかなりキワドイことも書いているけど、これを実名で出しても別段なんとも思わない。それは他人にどう思われようが、こうなんだから仕方ないでしょ、ということかもわからないが。企画の意図が、俺にはいまいちわからなかった。

食い物ないので外出。薬局でコッコアポEXの瓶のやつを買う。飲み続けてはいるが痩せているかは微妙。ただ、防風通聖散のなかでも、便が出やすいタイプらしく、今まで飲んできたもののなかでは良い部類に感ずる。

電車移動。ベートーヴェンの第5シンフォニーの終楽章を聴く。場所にそぐわぬ音楽で笑いそうになる。普段ベートーヴェンはあまり聴かないのだが。その時は何となく、スイッチを入れた。だが最後までは聴かなかった。

つけ麺屋に向かう。

大きめな交差点で白髪の老人が落ちていた財布らしきものを拾い確認作業をするも特に金目なものはなかったらしくその辺に放り投げていた。具体的になんだったのか、確認はしていない。茶色く、四角な革か布でできた何かであったようだが。

つけ麺屋のすぐ側に2軒ラブホテルがありその横をカップルが抱き合いながらゆっくり歩いていく。しかしラブホテルには入らない。いかにもセックスしたそうな様子をしていたが、にやにやしながらお互いに抱き着き合いゆっくり歩いていた。柔らかい茶色の毛布のようなものを女の方は被っていた。二人とも背が小さく小太りだった。この二人のセックスはあまり見たいとは思わないと感ずる。子豚同士の交尾のようなものだろう。そのような侮辱の言葉がでてくる。毛深いガタイの良い雄臭い男同士の濃密な愛の時間を、想像する。

つけ麺食う。両隣の若い男どもはつけ麺食う間もスマホ凝視。ウクライナ情勢を案じている平和主義の人々だろうか。俺はスマホは見ない。つけ麺と特製トッピングを見る方が心地よいからだ。ニンニク入れて食う。やや元気になった気がする。つけ麺を待つ間に「アメリカンスクール」を読み終わる。店内では可愛い声を演出したいという意図をありありと感ずる女性シンガーによる「さみしくて切ないよ」という歌詞。もう、気持ち悪すぎて……。

つけ麺屋をでる。

路上の鳩。頭のところ、白い羽がピンって出ていた。風が強いからそうなったんだろう。

ベローチェに入りLサイズアメリカンコーヒーを購入し路上側のカウンター席に座る。かなり混雑している。カップルや老夫婦や家族連れが入ってきては「満席ですので」と店員に言われ帰っていく様子が見える。怒りをあらわにする人は一人もいなかった。みんな驚くほど温厚だ。一人ぐらい怒鳴る人がいてもいいのではないか。俺の両隣に座っている男どもはすでにコーヒーなど飲んでいない。ともにノートパソコンを開いては何か打ち込んでいる。1人はPCの横に「相続税についての本」を置いていた。ここは回転の速い牛丼屋とかマクドナルドではないから、ゆっくりと落ち着いた時間を過ごすのは自由であろう。しかし、この男どもは、すぐ側で繰り返し「満席ですので」と言われ帰らされている人々を見ても、何も思わないのだろうか。思わないのだろう。そういう感興を自ら封じている趣がある。二人の横っ面には何か、己を無機物として機能させたい、人間と関わりたくない、人間は勝手に生きて、勝手に死ねば良い、私は無機物なんだ、人間ではないのだから、人間がどうなろうと、別段どうでもいいのだ、そのような気概を、感じるように思う。

Lアメリカンを飲み終え、席を立ち、後ろにある返却台にお盆と、飲み終えたものを置く。呆けたような顔をした老人が1人、席に座っていて、一瞬だけ目が合う。

大きな本屋に寄る。古井由吉「山躁賦」、つげ義春「苦節十年記」を購入。文芸文庫とちくま文庫だから割合と高い買い物になった。だがその価値はある本だと思う。

腹の具合を考え、今日はもうがっつりした飯はいらないだろうと。電車移動。10両編成の一番最後尾。ぶつぶつと独り言を言っている太った50代以上であろう男がいて不気味であったのでイヤホンを付ける。バッハ「フーガの技法」を聴く。下車。コンビニに寄りクリームパンとジャスミン茶だけ買う。今日はこれで良いだろうと。

頭を台所の給湯器で洗う。

明日は風呂にでも行こうかなとか。行ったことのないところ。結局行かなそうではあるが……。「マシアス・ギリの失脚」を読む。ようやく4章目を読み終えた。これはゆっくりと数カ月掛けて読むつもりだ。全9章なのでようやく半分か。明晰な文章だ。池澤夏樹の文章と吉行淳之介の文章はいつ読んでも「とてもクリア」に感じる。安倍公房の文章もそういう気味があるが「とてもクリア」とはまた違うか。この人たちは恐らく話すときもとても明晰に、すらすらと、まごつくことなく文章のように話すのだろうなと思わせられる人々だ。

ゲイ動画を見てチンポを気持ちよくする作業に邁進。これは衝動的なもので、始める1分前まで、猥褻な行為を自分がするなどとは全く思っていなかった。いつもそうである。いつの間にか、猥褻な顔つきになり、手を、チンポに伸ばし、下半身が剥き出しにされているのだ。

今日連絡を取った他人は皆無。元々友人はゼロ。家族も死んでいるのか、生きているのか不明。向こうも同様に思っているだろう。その程度の人々だ。好きでもないし、興味もないんだろう。そう思われていると思うと、こちらも、別段そう思わなくなる。自分のことで精いっぱいで生き残ることに精いっぱいで、他人のことなど気に掛けることは、少なくとも自分には無理だ。言えることは「勝手に生きてくれ」ということくらいだ。こちらも「勝手に生きている」それでいいのではないか。ふとそんな感興がある。

エリオット・カーターの「ナイトファンタジー」を聴く。初めてまともに聴く気がする。なかなか素晴らしくて、率直に感動。カーターの音楽は知的でシャープな感じが好ましくて、ロマンチックな甘さとかがほとんどないのにある種のロマン性みたいなものを感じさせる音使いが素敵だなと元々思っていたのだが、この曲ではその「素敵だな」と感じる部分が、かなり秀でて出ているように思われた。大好きなウェーベルンのピアノ曲に近いものを感じるので、そのせいもあるかも。


(了)

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