第10話 離脱

「――せい、せんせい!」

 呼びかける声にリオンは我に返る。

「大丈夫ですか、先生?」

「すみません、少しボウっとしてしまいました」

 へカルトはホッと安堵するも、直ぐに表情を引き締めて前を見る。

 頭を振って余計な考えを頭から追い出してから、リオンも同じ方向を見た。

 そこにいるのは1匹の赤いドラゴン。

 大きさ事態はそれほどでもなく、怯えて固まっている馬と比べてもせいぜい三倍程度だ。

 しかし大きさと強さはまったく比例しない事を目の前の惨状が物語っている。

 ブレイス、そしてテルミスは地面に突っ伏したまま。

 僅かに動いている事が呼吸を続けている事を教えてくれるが、気を失ってしまっているようで動こうという気配は微塵も感じられない。

 イーファは悲鳴とも雄叫びともつかない声を張り裂けんばかりに叫び、魔法を撃っている。

 どんどんと苛烈になっていく魔法によってドラゴンの姿は隠れていくが、リオンはその行為に意味がない事を瞬時に理解していた。

 あのドラゴンに火の魔法は何の効果も無い。

 それどころか、下手をすればより一層その力を強める可能性も否定できないだろう。

 しかし今の錯乱した様子のイーファを止めることも難しい。

 幸いなのは、ドラゴンはこの場に留まりはしているが、まだ獲物から命を奪う気はない様子だということだろう。

 そうれなければ突っ伏している2人も、叫び声を上げる魔法使いも、情けなく縮こまっている自分とへカルトも、とうの昔に殺されているはずだからだ。

 生かしておく狙いは何なのか。

 気まぐれか、はたまた絶望するさまをもっと見たいという嗜虐心か。

 なんであれ生き残りたければ、ドラゴンが決断を下す前に行動を起こさなければいけない。

 自分でも驚くほど冷静に状況を分析している事に嫌な気持ちになる。

 しかし、そんな事を気にしている暇もない。

 この場を乗り切るための方法、少なくとも倒すことは不可能だろう。

 どれほどの力を秘めているのか、その片鱗すら見せていない存在に挑むなど全くの無謀だ。特に手練れたる冒険者たちの惨状を見れば、自分が同行できる相手でない事は分かる。

 では逃げるか? 

 どうやって?

 見逃してくれない以上は、他に選択肢はないが方法が果たしてあるのか。

 目を閉じ、深く呼吸をする。

 心を落ち着かせて、自分に言い聞かせる。

 これは問題だ。

 いつも対面している世界に数多ある謎の一つであり、自分が探求する深淵の世界。

 それに向き合う時と同じように、蓄積された知識を組み合わせ一つの解を探し出す。

 そう、これはいつもの事であり自分にとっては日常だ。

 落ち着いて、自分はどんな知識(どうぐ)を持っているのか。

 どのような条件を設け、それを満たし答えを得るのに必要な要素はなんなのか。

 深く、深く、深く。

 深淵の世界へ、己の知恵のみを武器にして潜っていく。

 へカルトの呼びかけが聞こえる。

 イーファが魔法を撃ち尽くしたらしい。

 かけられる言葉を理解しながらも、リオンは落ち着いて思考を続ける。

 やがて無軌道な思考の中から一つ浮かび上がるものが出た。

 リオンはそれを掬い上げる。

 分析と吟味、それを行える環境か、行う時間はあるか。

 ――結論は出た。

「合図をしたら、ブレイスさんをお願いしますね。それと、先に謝っておきます。」

「え、ちょ! いったい何を言っているんですか?!」

 質問には答えない。

 答えている時間が無い。

 カバンから薄緑の石を複数取り出し、軽く謝罪の意味で頭を下げてからリオンは荷台の上に立ち上がった。

「立ちなさい!」

 絶望に打ちひしがれて座り込んでしまった者へ叱咤する。

「まだ間に合います!」

 確信を持ってリオンは断言する。

 チャンスはある。

 ドラゴンはまだ諦めていない人間を見て、興味深そうに眺めているだけの今ならばまだ。

 リオンは水の入った壺、それに被せられていた蓋を取り払う。

 ドラゴンはバカにするように笑った。

 それっぽっちの水で何が出来ると、言わずとも考えている事は分かった。

 リオンは持っていた石を軽く投げる。

 それは竜を目がけた行為ではない。ただただ中空に放り投げるだけの一見無意味な行為。

「水よ、全てを隠し惑わせ!」

 リオンは魔力を一気に放出する。

 この心許ない水の中に眠る精霊の力を、己の望んだ形で呼び起こす。

「これは……霧?」

 へカルトが目を丸くする。

 日の光を受けて白く濁った微細な水の粒子。

 それは遠くの景色を、近くの景色を、目の前の光景を、己の手足さえも隠してしまう程に濃く深くなっていき、それでもまだ止まらない。

「風よ、我が心の望むままひた走れ!」

 再びリオンは命令する。

 精霊の力を宿した石は、その内に溜め込まれた風の力を解放する。

 しかしそれは無軌道な暴力でも、魔法陣や紋様に従ったものでは無い。

 術者が望むままにただ一つの方角へと駆けていく。

「今です!」

 リオンは叫び、走り出す。

 自分たちにおける霧は、風によって流され薄くなっている。

 一方でドラゴンを覆う霧は一歩先すら見通せないほどに濃くなっていた。

 もちろん、それだけではない。

 イーファの手を取り、テルミスを担いでリオンは走る。

 いつものリオンであれば不可能であっても、そこは鍛冶場の馬鹿力というものだ。

 近くからは自分と同じように息を切らしているへカルトの息遣いが聞こえる。

「こんなんで、逃げられるんですか?!」

「何も逃げるのは私達だけではありません!」

 そう聞いてへカルトとイーファはチラリと後ろを振り返る。

 そこにはもう一つの影があった。

「あれは……え? わたし、たち…………?」

 ボンヤリとしたものだから見間違いかもしれない。

 しかし二人の目には確かに逆の方向へと走っていく五つの影が見えた。

「グオオオオオオオオオオオオオ!!」

 咆哮が聞こえる。

 ドラゴンは獲物を逃がさないために動き出した。

 しかし――

「羽ばたきの音が、離れていく?」

「まさか、あの影たちを追いかけていったのか?」

 驚きを隠せない2人。

 リオンは少しだけ歩調を緩めた。

「さあ、今のうちに出来るだけ遠くまで行きましょう」

 立ち込める霧はそれから徐々に薄れていき、日の傾く頃にはすっかり消えて無くなる。

 霧のあった中心地にはポツンと馬車の荷台だけが残っていた。

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