SIGN35 クジラの唄

 彼らは、どこかの崖の上から広い海を眺めていた。


 誰かと一緒に海を見るのは、達月たつきの実家がある街を訪れて以来だ。

 あの時とは入れ替わったチームメンバー。海の色も、街並みの色も違う。

 でも、この海も、あの時の海とつながっているのかもしれない。きっと同じように様々な生物がいて、他の生物に様々な恩恵を与えてくれているのだろう。


「俺たち、少しは役に立てたのかな」


 海風に乗せた蒼仁あおとの言葉に、シェディスが変わらない快活な笑みを返す。


「アオト、頑張ったよ。みんな喜んでた。人間たちが自分のために一生懸命になってくれるのって、みんなわかるんだよ」


 シェディスの言う「みんな」とは、あの国の動物たちのことだ。


 彼女のような存在は、本人が意識しなくても自然に「人と動物との架け橋」になれる、と蒼仁は思う。

 弱者を喰らう肉食獣であっても、その命に感謝し、必要以上にることはしない。彼女たちは、ずっとそうやって他の動物たちとの間に大きなサイクルを回してきた。


 蒼仁から見たシェディスは、棒術で戦う姿も抜群にカッコいいが、今の姿の方が抜群に「らしい」と思える少女なのだ。


「それにしてもさ、ウィンズレイだよ。状況調査だけで干渉はしないって言ったのに、動物たちを追い回したりして干渉しまくりだったじゃん」


 蒼仁が面白そうにウィンズレイを見ると、蒼仁にその情報を伝えた蒼仁の父も小さく笑った。当のウィンズレイは、まるで人間のように「ドヤ顔」をしているように見える。

 シェディスいわく、「野生動物に干渉すべきでないのは人間だけだ。勝手なルール押し付けるなアホ」と言っているらしい。


「まあ、ウィンズレイのことだから、きっとうまくやってくれたんだよね」


 獰猛どうもうな黒狼に追い立てられ、結果として山火事などの危機から逃れた動物たちは少なくない。


 爆撃などが原因で起きる山火事も、深刻な戦争被害のひとつだ。無自覚でサイクルを守る動物たちと、無自覚で(あるいは自覚しながら)サイクルを破壊する人間。このへだたりは、決して消えることがない。


 それでも、その隔たりを埋めようと、本来の「自然」を取り戻そうとする人たちがいる。目の前の小さな命をただ守りたいがために、尽力する人たちがいる。

 戦地と化したあの国で、蒼仁が出逢ったのはそんな人たちだった。


「あの人たちは、ほんと凄いよ。俺たちはほんの少し手伝っただけ。あの人たちが必死に敷いてきたレールの上を、ほんの少し走ることができただけだ」


「でも、何往復かはできたんちゃうか。別に霊体だからって凄いことやらなあかんてことはないやろ。手伝いも立派な活動や。ワイらには、たぶんこんくらいこっそりやるんがちょうどよかったんや」


「あはは、そうだね」


 突然授けられた特殊能力であっても、突然霊体になっても。その時々で、自分たちにできる精いっぱいの道が選択できればそれでいい。

 今自分たちがここにいる理由は、まだわからない。それでもきっと、何かを残せたはずだと願う蒼仁だった。



  ◇ ◇ ◇



「あの人らも、頑張っとんな」


 達月が崖から見下ろす先に、砂浜で懸命にゴミを拾い続ける人々がいる。蒼仁も一緒になって、まぶしそうに崖下の砂浜をのぞき込んだ。


「地球をダメにする人間がいる一方で、少しでも地球の環境を改善しようと頑張ってる人間もいる。こんな生き方もあるんだ、俺は今まで何も知らなかったんだなあって、よくわかったよ。あんなにゴミが捨てられてるってことの方も驚きだけど」


『わざと捨てていく人間ばかりじゃない。ゴミが風で飛ばされたり、うっかり置き忘れたり、落としたり……そういった無自覚な方法で環境を汚すこともあるんだ。人間が存在するだけで、何らかの弊害へいがいが生まれてしまう。文明社会と野生の自然が共存することの難しさだな』


「海洋プラスチック問題」。今、日本が真剣に取り組まなくてはならない問題のひとつ(日本はプラスチック生産量が世界第三位)。

 特に、包装・容器などの「使い捨てプラスチック」の消費量が甚大じんだいだ。


 陸から川、川から海へと流れ着いたプラスチックが、海の生態系に与える影響は計り知れない。

 ビニール袋を飲み込んだ海鳥。漁網にからまって窒息したウミガメ。プラスチックボトルに首を突っ込んで抜けなくなった動物たち……。

 粒子状になった「マイクロプラスチック」の生物への影響は、まだはっきりとは解明されていない。この先、さらにどんな害が発生するのかわからないのだ。

 蒼仁も、教科書や資料集で何度も勉強してきた問題だ。


 全国的に、従来のレジ袋は有料になり、環境への害が少ない素材のレジ袋のみが無料で配布できるようになった。

 他にも少しずつではあるが、プラスチック製品の生産が見直されている。スプーンやマドラーを木製に変える、ゴミの分別方法を改定するなど、消費者目線にもわかりやすい試みが各地で進められている。


 プラスチックはゴミを分別してもごく一部しかリサイクルされない上に、リサイクル時にCO2を発生させる。

 初めから「プラスチック製品を生産しない」「プラスチック製品を買わない」姿勢が求められているのだ。


『すぐにプラスチックを減らす方法として簡単なのは、「ペットボトルを買わないこと」だな。備蓄用や配布用は仕方ないとしても、マイボトルを持ち歩いて安易にペットボトルを買わないようにしよう、という運動が日本でも起こっているんだ』


「そうなんだ……。まだまだ、できることって色々あるような気がしてきた」


 蒼仁は父を見上げ、海に視線を戻した。


「俺、旅に出てからずっと、たくさんのことを勉強した。学校でも塾でも、教科書や資料でしか見られなかったことを、たくさん経験できた。知ったこと、みんなに伝えたいことが山ほどある。もっと、何かできないかな。もっと、何かしたいよ。もっと……」


 言葉の終わりは、顔を上げられず、下を向いたままだった。


 まだまだ勉強したいこと、やりたいことが山ほどある。

 でも、自分は簡単に「霊狼ヴァルズになる」と言ってしまった。迷いなく出てきた言葉だった。


 自分だけ無事に帰ろうだなんて、今でも考えていない。何度同じシーンを繰り返したとしても、きっと同じことを言う。

 でも、ほんの少し感傷的になるくらいは、許してほしい……


 蒼仁の顔が上がったのは、自分の体が突然、勝手に浮き上がった時だった。



  ◇ ◇ ◇



「うわっ!?」


 全身が地を離れ、もがく間もなく急上昇!

 慌てふためき、両腕を振り回して必死に抵抗した蒼仁は、やがて無駄な抵抗をやめて流れに身を任せることにした。

 他のチームメンバーたちまで、同じように浮き上がっていたからだ。しかも楽しそうに。


「わー、私、今鳥みたいになってる?」


「ま、待ってシェディスさーんッ! ワイがいつでもそばに……ゲフッ」


「ウグォ(邪魔だぶつかるなッ・シェディス訳)」


「グルル……(あの鳥のそばまで連れて行け・シェディス訳)」


 ゲイルとブレイズまで、たいして慌てるでもなく空を飛んでいる。


 そう、全員が空を飛んでいた。

 霊体なのだから、むしろ今まで飛ばなかったのが不思議なくらいだが。


刃風はかぜ」の力で全員を飛ばしたと思われるウィンズレイは、しなやかに空中を翔けながら、ブレイズが見ている鳥の群れの方へ突っ込んでいく。


「ウィンズレイ! こんな所で空飛びながら狩るなー! 少しは狼らしくしないとっ!」


『蒼仁、今までお父さんも龍みたいに空飛んでたんだ。やっぱり人間らしくないか?』


「もう全員、人間も狼もやめてるよね! でも、なんか……慣れてくると、気持ちいいー!」


 蒼仁は、まるで遊園地で遊んでいるかのような歓声を上げた。


 風を感じる。風の流れに乗って、広大な海の上を翼を広げたように飛んでいく。


 空の青と海の青が、はるか遠く、彼方の水平線まで続いていく。白い波に太陽の光が反射して、いくつものしぶきのような光のかけらを投げかける。


『あれは、キョクアジサシだね』


 ウィンズレイが追っていた鳥たちについて、父が解説してくれた。


 北極圏から南極圏へ。南極圏から、再び北極圏へ。

 体長三〇センチちょっとの鳥が、一年のうちに地球の北へ南へと驚くべき距離を移動する。渡り鳥として、最長の移動距離を誇る。


 ウィンズレイの接近にわずかに列を崩したキョクアジサシも、すぐに自分たちの飛行ルートを取り戻し、再び悠々と青い空を飛翔し始めた。


 地球の極地から極地へ。九万キロを越えるスケールの大きな長旅は、蒼仁には想像もつかない。

 きっとこの鳥たちは、地球の様々な姿を、誰よりも数多く目撃しているのだろう。



  ◇ ◇ ◇



 キョクアジサシと別れた後も、ぐんぐんと空を進んでいた彼らは、いつしか公海こうかいへと差しかかっていた。


 公海――。

 どこの国の海岸線よりも遠く離れた、どこの国にも属さない海。

 その総面積は、実に地球の表面積の半分だ。


『この公海を守れるかどうかが、地球の我々に託された大きな課題なんだ。密漁や海賊行為などの犯罪を取り締まり、あらゆる環境汚染からも守って、いつまでも健全な状態を維持しなければならない』


 人間たちがあまり立ち入らない無国籍海域だからこそ、犯罪行為が行われやすい一方で、手つかずの大自然の宝庫ともなっている。

 そこにはまだ、人間たちが知らない環境、人間たちが知らない生物が数えきれないほどあるという。

 人間たちは、国籍を越え、一丸となってこの公海に海洋保護区を設置し始めている。


 地球の人間たちが、共に手をたずさえて取り組める環境問題が、こんなところにもあるのだ。


「アオト、見て!」


 ふいに、シェディスが海の彼方を示した。

 その辺りの海面が大きく動き、渦を巻き、巨大な影がうごめき始めている。


「なんだ、あれ?」


 チーム全員の目の前で、突然大きな水柱が噴き上がった。

 いくつもの大量のしぶき。続いて現れる、巨大な青灰色の影。


『クジラ……シロナガスクジラだ!』


 いくつもの細長く巨大な体が、海上へ伸びあがり、一気に海面へと倒れ込む。

 全長、約三〇メートル。大音声だいおんじょうと大量の白いしぶきが、これでもかというくらいに世界最大生物の存在を示している。


 野生のシロナガスクジラによる、ブリーチング(大ジャンプ)。

 全部で五十頭はいるだろうか。

 シロナガスクジラがここまで一堂にあつまることも、ここまで連続で何度も跳ぶことも、人間がそれを目撃できることもほとんどない。まぎれもない希少場面だ。


 でも、なぜか、蒼仁は感じていた。

 この光景が、今、多くの人間たちの目に届けられていることを。

 多くの人間たちが、その雄大さに圧倒され、胸を熱くさせていることを。


 もう、止めるのは無理だった。

 蒼仁の目から、絶え間なく涙がこぼれ落ちる。

 地球の生物の可能性を、豊かさを、これほどダイレクトに伝えてくる光景があるだろうか。


「俺、わかったかも、しれない……。

 俺たちは、狼王をつらい記憶から救うために、ここへ来たんじゃない。


 王が、俺たちに見せてくれたんだ。この地球が、これから向かっていく姿を。この地球を、どんな未来へと導いていけるのかを。

 この先の可能性を。俺たちが向かうべき道を。

 王が、俺たちに見せてくれたんだ……」


 やがてクジラたちは、優美な青灰色の背を見せながら、連れだって泳ぎ去っていった。


 世界中の海を旅するクジラたち。

 海を、これからも旅ができるように、みんなが守って行かなければならない。


 シロナガスクジラが発する力強い唄声が、ここまで響いてくるようだった。

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