SIGN36 氷結晶の涙
どこまでも続く青い海が、無数の光の粒を波に乗せて運んでいる。
やがて、海の青が色彩を落とし、徐々に白い光へと溶け始めた。
これが最後かもしれない。
◇ ◇ ◇
白い光の中に、他の色が戻り始め、やがて見覚えのある風景へと移り変わっていく。
どこともしれない森の中。彼らはまた、「
「またここや……ずいぶん長い間、夢を見とったみたいやわ」
「王は、地球に生きる者として、俺たちにどう生きていくべきかを示してくれたんだと思う。王は俺たちに、たくさんの動物たちと、たくさんの人間たちに逢わせてくれた。時にはどうしようもなく激しく襲いかかってくるけど、その先にかけがえのない美しさを見せてくれる大自然にも。この先もずっと、あの美しさと共に、同じ地球の上で生きていかなければならないということを、教えてくれたんだと思う」
「そうだね、アオト。海、すっごくきれいだったね」
シェディスの優しい言葉に
そっと触れると、結晶はほのかに熱を発していた。手の中が、ぽわっと明るい光を発している。
次に、蒼仁の頭の中に、何か不思議な音が聞こえてきた。
『――……――』
「王が、何か言ってる……?」
シェディスも同じように結晶に触れた。シェディスの手の中の光が、やがて彼女の全身を覆い、彼女の濃紺の瞳を青白く輝かせる。
「――人間の声が、ここまで届いた――」
蒼仁は驚いてシェディスを見た。
「――と、言っているような気がする」と、付け加えてから、シェディスは言葉を続けた。王の言葉を、みんなに伝えてくれるつもりらしい。
「人間の子の声が、ここまで届いた」
蒼仁のことだろう。
「そこにいる、人になった狼の子が、世話になった」
これは、シェディスのことか。
シェディスは王の娘にあたるが、王もシェディスと同じく、関係性を示す名詞や、個の名前を使わない。「人間」と「狼」という名詞はわかるらしい。頭で補完しながら聞く必要がありそうだ。
「人間の記憶に流されて、自分の力が暴走した。空が黒く変わり、水が森を飲み込んだ」
あの、「
「自分には何もできなかった。せめて子を救いたかった。自分の代わりに、『天上にいる者』が、人間の子に力を与えた。その力で、子は助かった」
大精霊、グレート・スピリット。
蒼仁は大精霊から『召喚』の力を与えられた。戦う者ではなく、戦う者が使う力の召喚士として。
「他の生物は、助からなかった。多くの生物が、あの水に飲まれて死んだ。自分には、助けられなかった……」
言葉に悲痛な響きが
「『天上にいる者』にも、消えた命を戻すことはできない。だが、『天上にいる者』と、今ここにいる者たちの力で、空を
『狼王、どうか……!』
突然、王の言葉が
緑の光をまとった蒼仁の父が、王の前に出てひざまずいたのだ。
『勝手なことを承知で言わせてください。どうか、蒼仁だけは、この子だけは元に戻してもらえませんか! この子は死んだわけじゃない、ただみんなの命を
あなたには、起きてしまった事象を打ち消す力があるはずです。日本で動物霊たちが暴れても、何ひとつ
「お父さん! やめて!」
蒼仁の叫びに、蒼仁自身の涙が重なった。
親が子の命を
「俺だけ助かりたくなんてないよ! みんなだって生きたかったんだ! みんな、生きてた時も、
涙をぬぐいながら、蒼仁は下を向き、なんとか息を整えた。
「……でも、ありがとう……それに、ごめんなさい……!」
『蒼仁……』
「ええんや、蒼仁」
蒼仁の肩に手を置いたのは、達月だった。
相変わらず淡々とした様子だが、声に、視線に、ほんの少し優しいものが混じっているような気がする。
「ワイらはまあ、たぶんもう覚悟はできとるし。もと狼やからなあ、死ぬってことが、そんなに遠くないっちゅうか、そこまで怖いものでもないんや。誰もがいつかは死ぬんやしな。ワイの家族はワイを覚えとらんけど、蒼仁が覚えといてくれたら、いや、忘れてもええんや、ワイらとの経験を何かの
言いながら、そのまま王の方に向き直る。
「ワイからも、頼んます。できるんなら、こいつだけでええから地上に戻してやってください」
「達月さん……!」
「戻れ、蒼仁。言っとくが、身軽に戻れるわけちゃうで。けっこう重いもん背負わなあかんやろうし、大変なのは確かや。でも、蒼仁が戻ってくれた方がワイは嬉しいんや」
「私もだよ、アオト」
シェディスもまた、青白い光に包まれたまま、今度は自分自身の言葉を発する。
「アオトに会えて、アオトが助けてくれて、嬉しかったよ。だから、今度は、私だけでなく『みんな』を助けてあげてね。私からも、お願いします」
言葉の最後は、王に向けられたものだった。
青白い光が強まって、シェディスの全身を包み込んでいく。
「――わかった。そうすれば、アオトは助かるんだね」
「えっ……」
「みんなでこの氷を壊すんだ。中にいる、狼王ごと。そしたら、王が『最後の力』でアオトを助けてくれる」
「そんな……王まで……?」
「どっちにしても、狼王はもう弱ってて、いずれ消えてしまう。だから、その前に『大精霊の力』を王に思いっきりぶつけてほしいんだって」
「……」
力なく膝をついた蒼仁の横に、達月もかがんで蒼仁の頭をわしゃわしゃと撫でた。
温かい、もふもふっとした毛の感触が蒼仁の頬に触れる。ゲイルとブレイズが、心配そうに蒼仁に身を寄せてくれている。
ウィンズレイは、王の方を見ながら
シェディスは結晶から手を離し、蒼仁の前にひざまずき、そっと蒼仁の背に手を回した。
「思い出すなあ……初めて逢った時に、アオト、こうやってぎゅっと抱きしめてくれた」
「……シェディス……」
「私のこと、忘れてもいいから、ちょっとだけ覚えていてね。じゃあ、帰ろうね、アオト」
シェディスはすっくと立ちあがった。
「アオト、召喚を」
声が出せない。みんなを止めたいのに、みんなを置いて帰りたくないのに、みんなの思いが邪魔をする。
蒼仁の無事を願うみんなの温かさが、命を
シェディスの言う『みんな』のために、帰ったらやらなければならないことが山ほどあるのだ。
「『
結晶を破壊しろ! 王の願いを地上に届けるために……!」
それが、最後の召喚となった。
氷の粒が風に舞い、太陽の光が炎となって、巨大な結晶を包み込む。
まるで、狼王の願いを、世界中のすべての生き物へと届けるかのように。
同時に、蒼仁の体も、巻き起こった風に勢いよく吹き飛ばされた。
そのまま、空を抜け、どこか遠くへ――
◇ ◇ ◇
どこからか、水の音が聞こえる。
川? それとも海……?
吸い込んだ息の、あまりの冷たさに、体がひゃっと飛びあがったような気がした。
実際には、体はそこからまったく動いていない。
「息をしてるな、よかった」
聞き覚えのある声が、すぐ近くで聞こえた。
まぶたの向こう側が明るい。息は冷たいけれど、とてもまぶしい場所にいるみたいだ。
そっと目を開けると、見覚えのある
「……
「無理するな。集落まで運んでやるから」
心を落ち着かせてくれる、静かな声。
温かい手が、毛布か何かを蒼仁の体にかけてくれている。
水の音。あれはきっと、イヌイット集落のそばの海だ。
帰ってきたんだ。
地上に、帰ってきた。
自分だけ。みんなを、置いて。
「……うっ……」
小さくしゃくりあげる。また、涙があふれてきた。
もう帰れない。チームと過ごしたあの時間は、もう戻らない。
「大丈夫だ。何も心配するな」
折賀の静かな声に、その時、奇怪な
「ウワアアアァァァビエエェェェウオオォォォタツキクウウゥゥゥンーー!!!!」
タツキ……?
なんとか声の方へ首を曲げてみる。
蒼仁が寝ていたのは、海沿いの、雪交じりの草地の上だった。
視線の先に、自分と同じように草地に横たわった誰かと、その顔の部分で暴れ回ってる小さな物体が見える。
「エグッエグッホギャアァァンタツキクウウゥゥゥンーー!!!!」
「うっさいわ、ダアホ……」
蒼仁の意識が一気に
「え、なんで、え」
なんとか上半身を起こすと、横たわった人の顔がよく見え――は、しなかった。
涙と鼻水をまき散らしている物体のおかげで、顔がほぼ水没してしまっている。
「あかん、もう死……モガ……」
「ピギャアァァシンジャヤダアアァァタツキクウウゥゥンーー!!!!」
なんてことだ、達月がハムに殺される。
蒼仁が動くより先に、幸い、折賀がポイっとハムを投げ捨て、達月の顔をタオルで拭いてくれた。
まだ理解が追いつかない。
少し離れた場所で、二頭の犬、正確には狼犬が、雪の上に体をすりつけてごろごろと転げ回っている。
また、別の場所では、ひとりの人間が、犬をぎゅうっと抱きしめていた。
真っ白な犬と、同じように真っ白な髪を持つ、ひとりの少女。
やっと目を覚ました母親と再会を果たしたばかりの、シェディスだった。
「アオト、よかった。私たちも、帰ってこれたよ。たぶん、私たちの願いが、狼王の力を増幅してくれたんだよ。みんなちゃんと戻ってこれたよ。死んだことを『なかったこと』にしてくれたよ。みんな、生きてるよ」
生きてる。みんな、この世に生きてる。
彼女の目元に光る、氷結晶のような小さな粒は、今までに見たどんな結晶よりも美しいものに思えた。
遠くから、ひとすじ、狼の遠吠えが聞こえてきた。
応えるように、ゲイルとブレイズも体を起こし、一斉に遠吠えを始める。
北極圏の海に響き渡る、力強い野生の声。ウィンズレイは、早々と自分の世界へと帰っていったらしい。
澄みきった空は高く、太陽の光が暖かな光を視界いっぱいに降り注ぐ。青い海を渡る冷たい風が、白い流氷を押し流していく。
もっと、周りをよく見たい。
生きているこの世界を。生きているみんなのことを。
「……『天空』……」
天空に手を伸ばす。
もう、何も起こらない。
でも、この手はきっと、今までとは違う何かをつかむためにある。
伸ばした手を、誰かがぎゅっと握った。その大きく温かな手は、折賀の手ではなく。
一緒に旅をした時から変わらない、父の手だった。
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