SIGN27 「煌界」へと続く空

「ヴィティ!」


 蒼仁あおとの悲痛な声が響いた。


「無茶だ、ヴィティは霊狼ヴァルズじゃない! 動物霊と戦う力は持っていないのに!」


 それでも飛び出さずにはいられなかった彼女ヴィティと、今まさに飛び出さんとする蒼仁の衝動しょうどうがシンクロする。


 ヴィティも助けずにはいられなかったのだ。

 ウィンズレイとは、血のつながりどころか同じ群れの仲間でもなかったはず。

 それでも、同じ狼王に関わる者として。たった一頭で脅威に立ち向かう気高い同族に、力を貸さずにはいられなかったのだろう。


 ヴィティの驚くべき勇気は、残念ながら無謀と同義だった。

 相手は地上最大・最強の肉食獣と言われるホッキョクグマだ。一頭だけでも勝てそうにない相手が、ざっと見ただけでも五十頭はいる。


 傷を負ったウィンズレイは、それでも地に腹を付けずに立ち続けている。鋭く釣り上がった金の瞳から、狼としての誇りを失わないままで。


 ヴィティはウィンズレイの前に立ち、それまでの彼女からは思いもつかないほど雄々しい遠吠えを上げた。


 呼応するように、五十頭のホッキョクグマがいっせいに吠えた。巨獣たちが二頭の勇ましい狼に向かって突進を始める。二頭のいた場所が、獣霊たちに埋め尽くされる。


「やめろおぉーーッ!!」


 その慟哭どうこくはシェディスだった。

 彼女はかつてないほどに、叫びを、苦悶を、激情をほとばしらせていた。


「みんなを殺してどうしようってんだ!! 私たちが何をしたって言うんだ!! たくさんの命を巻き込んで、それで何がしたいんだーッ!!」


 シェディスの憤激ふんげきが、空へ届かんばかりに燃え上がる。

 そこへ、シルミクの穏やかな声がかぶさった。


「これは、『ここでありながらここではない場所』で起こったことです。彼らのいる場所へ、繋げられると言ったらどうしますか」


「助けに行く! 俺たちを、あそこまで連れてって!」


 蒼仁の声に、迷いはひとかけらもない。


「もう助けられないとしても?」


「そんなの行ってみないとわからない! シェディスの力なら、助けられるかもしれない。そうだろ、シェディス」


 シェディスは空に向かって吐き出した息をのみ込み、こくんとうなずいた。


「そうだ、アオトの言う通り!」


 シルミクも穏やかにうなずいた。


「彼らの場所は、遠くて近い。あの空、『煌界リュース』が作り出した場所なのです。ここは、『煌界リュース』が発生させた『闇のオーロラ』の渦の中心。『煌界リュース』へと続く、はじまりの地――」


「あなたはいったい……」


 折賀おりがが懐疑の目を向ける間に、空の「闇のオーロラ」がさらに激しく揺らぎ始めた。

 不気味なうねりが、地上の生き物たちと天上の動物霊たち、すべての生き物たちに狙いを定めるかのようにのたうっている。まるで、とぐろを巻いて獲物を見定める大蛇のように。


「行ってらっしゃい。私はここで、いつまでも待っていますよ」


 シルミクの微笑みを最後に、一帯の空気が白くはじけ飛んだ。



  ◇ ◇ ◇



 蒼仁は、昨年の夏、ユーコン川でおぼれた時の感覚を思い出した。


 この胸に白い狼犬の仔、シェディスを抱いて。荒れ狂う波にもまれて死ぬんじゃないかと思った時。確かに、正体のわからない白い光に包まれたことを思い出した。


 シルミクが放った光なのかどうかはわからないが、彼らを包んだ光が徐々に消えていき、白以外の色彩が戻り始めた。

 その色彩の中に、蒼仁はさきほど映像で目撃したばかりの光景を見た。


 目の前には、五十頭を越えると思われる、ホッキョクグマの霊。

 その中に、小さな白の毛並みと黒の毛並みが見えなかっただろうか。


「みんな、行くよ!」


 蒼仁が天空へ伸ばした手に、きらめく命の光が宿る。

 光の粒はそのまま、棒の形を形成し、空中で激しく回転を始めた。


 シェディスの右手と左手、両方に一本ずつの氷結棒アイスロッド。自身の両側で二つの大回転を操るシェディスが、「いっけーーッ!!」という威勢のいい掛け声と共に、ホッキョクグマに向かって棒を解き放った!


 手を離れた棒は、大回転を維持したまま触れる敵のすべてを打ち砕き、粒子へと変える。二つの嵐が敵陣の中を荒れ狂い、多くの霊を粉砕しながら、まるでブーメランのようにシェディスの手元へと戻ってきた。


「シェディスさん、さすがや! ワイも行くでー!」


 達月は両手にいくつもの光球を作り出し、次から次へと空へ投げ上げた。

 空にとどまった太陽光に、さらに新たな球を命中させていく。

 衝突によってさらに距離を伸ばして飛んでいく光球、合体してどんどん巨大化していく光球。空に太陽がいくつも現れ、より広く、より強い光で世界をまぶしく照らし出す。光球が波及するごとに、光を浴びたホッキョクグマが戦意が溶けたように背中を見せては消えていく。


 突進を始めたホッキョクグマが、勢いを止めることができずにそのまま蒼仁に向かって突っ込んできた。

 衝突の寸前、蒼仁の体がひらりと空を飛び、距離を取って鮮やかに着地。折賀が蒼仁を抱え、軽々と飛んでよけたのだ。


「攻撃は無理だが、回避ならできる。蒼仁、気にせず力をび続けるんだ」


「ありがとう! 行くよ、ゲイル、ブレイズ!」


 仲間たちが作る道を、蒼仁が走る。ゲイルとブレイズがその先へ飛ぶ。


 突然、彼らの全身がガクンと揺れた。

 いつの間にか、足元が流氷になっている。

 それも凄まじいスピードで、氷塊ひょうかいが流れてはぶつかり、沈んでは乗り上げながら、海上をどんどん移動していく。目指す地点が、自分たちのそばから離れて行ってしまう。


「ゲイル! ブレイズ! 二頭を守れ!」


 秒ごとに流れていく足場。離されていく距離。

 足を踏み外せば、氷の下は極寒の海だ。


 蒼仁の体を折賀が支え、その先をゲイルとブレイズが軽やかに跳びながら駆ける。

 ようやく目指す白と黒の体が見えた時、その二頭が乗っている氷が他の氷とぶつかって衝撃に揺れ、大きくかしいだ。二頭が海に落ちてしまう!


 ゲイルとブレイズは、力を合わせて爆風を生み出した。

 絶妙な加減でその爆風に乗り、勢いのままそれぞれがヴィティとウィンズレイの体をくわえて、さらに飛ぶ。

 四頭は、氷から氷へと大きく移動して、ようやく足場のしっかりした大きな氷の上へ着地した。


 ゲイルによって氷上に下ろされたウィンズレイが、顔を上げた。

 ふらつく脚を踏ん張って、空を見る。彼が見つめるのは、空にうごめく巨大な渦の中心。


 ウィンズレイが、吠えた。

 寒風に乗せるように響く、細いが力強さを感じさせる遠吠え。


 長く続く声が、空に届いたのだろうか。


「闇のオーロラ」が、空に溶けるように消えていく。

 地上のホッキョクグマも、仲間たちの手によってすべて消えていた。


 この地にまた、本物の空が戻った。

 静かに流れていく流氷と、遠くから海の音を運んでくる冷たい風が、戦場の痕跡こんせきを洗い流すかのように残されていた。



  ◇ ◇ ◇



 ヴィティとウィンズレイは、幸いにもシェディスの「天空」の力で一命をとりとめた。

 まだ動かずに眠っているヴィティを、シェディスが優し気な瞳で見つめている。


 シルミクは突然日本語が話せなくなった。ハムから英語でこれまでの話を聞いた後、苦笑しながらこう語った。


「私がそんなことをしたのですか……。残念ながら、私にそこまでのことができる力はありませんよ。私はただ、ちょっとした占いやまじないをするだけの小さな人間です」


 まだにおいを引きずっているハムも語る。


「さすがは本職のシャーマンですね。彼女の中に、何か別の存在が部分的に憑依ひょういしていたようです。ひょっとしたら、大精霊が力を貸してくれたのかもしれませんね」


 シルミクによると、ヴィティは「太陽光消失サンライト・ロスト」の二ヶ月後、この集落へ薄汚れた姿でふらふらと迷い込んできたのだという。

 ヴィティもまた、イヌクシュクに導かれてユーコン川から長距離を旅してきたのだろうか。シルミクが世話をしていたが、体力を回復すると、何かを捜すように近辺を歩き回り、やがて集落を出ていったという。シェディスを捜していたのだろうか。


 ウィンズレイは、力を回復するとチームから去っていった。

 一足先に「煌界リュース」へ戻り、チームのために道すじを探ってくるという。


 ウィンズレイが言うには、「闇のオーロラ」の中心が「煌界リュース」へと繋がっているそうだ。


「極北へ来た思うたら、今度は『煌界リュース』かいな。話聞いとると、まるであの世みたいなとこやんか。ワイら、ちゃんと帰ってこられるんか?」


「何としても帰ってきましょう。すべてがうまく片付いたら、あとは大精霊のおぼしですよ」


 彼らの背後から、人々の活気ある声が聞こえてくる。

 遠方へ出稼ぎに出ていたというイヌイットの人々が、続々と帰ってきたのだ。


 折賀は、まだ眠っているヴィティと大事なそり犬たちを預かってもらえるよう、シルミクと集落の人々に頼み込んだ。イヌイットの人々は、人懐っこそうな笑顔を浮かべて快く引き受けてくれた。


 その日ご馳走になったトナカイ鍋は、文句なしに美味しかった。

「これはキビヤックの次に美味しいですね!」



 海岸の向こうには、北極海へと続く冷たい海が広がっている。

「闇のオーロラ」が消えたとしても、地球の気温が上昇を続ける限り、この集落は近いうちに消滅してしまうかもしれない。すでに海岸沿いの家屋の何棟かは、凍土が溶けたために傾いてしまっているのだ。 


 いずれ流氷が消え、ホッキョクグマやアザラシ、セイウチなどの動物たちは姿を消すのかもしれない。

 また、凍土の下に眠っていた、膨大な量の二酸化炭素やメタンガスが、凍土融解によって空気中に噴出している可能性があるという。その現象は間違いなく、今急速に進んでいる気候危機に拍車をかける。

 

 本物の空を取り戻したとしても、その先にはほろ苦い結末が待っているのかもしれないのだ。



 それでも彼らは前を向き、天空の向こうをそれぞれの澄んだ瞳で見定める。

 そこに、彼らの仲間、誇り高き黒狼が待っている。


 闇の空をも吹き飛ばす、その力は『刃風はかぜ』。


 高潔なけものの魂は、真実の空を取り戻す力となるか――。

 





 Ⅲ 「双焔」の霊狼 <了>

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