SIGN26 イヌイット料理と流氷の幻影

 イヌイットの女性は、自分の名前を「シルミク・アパク」と名乗った。


 彼女の集落へはすぐに着いた。霧に包まれて荒涼とした海岸沿いに、一階建てと二階建てのこじんまりとした家屋が建ち並んでいる。

「先住民族」の集落だからといって、さすがに皮張りのテントが並んでいるということはなかったが、ほんの数十年前までは本当にテントばかりだったらしい。


 霧が達月たつきの太陽をさえぎっているのに、なぜか集落全体がほんのりと明るいのが不思議だった。この霧は、「闇のオーロラ」さえも地上へ届かないようにしているのだろうか。


 ここが本当に「トゥクトヤクトゥク」という集落なのかということよりも、女性が日本語を話す理由よりも、蒼仁あおとは神経をピンと張り巡らせてしきりににおいを嗅いでいるシェディスの方が気になった。

 シェディスによると、イヌイットの女性・シルミクは、『ヴィティのにおい』がするという。


「あっ、あの」


 シルミクの家へ着くよりも先に、蒼仁は声を上げた。


「去年の八月より後、ここに白い雌犬が来ませんでしたか」


「それもお話しますよ。まずはぜひ、料理を召し上がってくださいね」


 シルミクの家へ着いた。ドアを開けると、さほど広くはない一階建てのごく普通の家――の中に、いまだかつて嗅いだこともないような、まるで腐った肉のような臭いが立ち込めている。


「ええと、シェディス……これが、ヴィティのにおい……?」


「この強いのは違うよ」


 蒼仁の後ろでは、達月が苦虫かみつぶしたような顔で中へ入るのを躊躇ちゅうちょしているが、シェディスがさっさと入っていくので後から慌ててついていく。折賀おりがはネックウォーマーを引き上げて鼻と口をしっかりとガードし、蒼仁は我慢できずに思いっきりむせていた。胃の中身が逆流しそうな臭いだ。


「それでは早速分けますね。みなさん、席へどうぞ」


 食卓の上に、あらかじめ来客を知っていたかのように、ひとつの物体がどでんと乗っている。


「なに、これ……」「なんや、これ……」


「アザラシですよ。皆さんもご存知でしょう」


 水族館で愛嬌あいきょうふりまいてる、可愛いアザラシなら知っている。


 目の前の、真っ黒に変色して可愛さのかけらもない「アザラシだったもの」の腹に、シルミクは涼しい顔してナイフを入れた。腹の中から、さらに何だかわからない黒いぐちゃぐちゃな物体が、わらわらと大量に出てきた。


「ふおぉ! たまりませんねぇ! 皆さん、これぞキビヤックです!」


 ハムだけが生き生きとして、テーブル上で解説を始めた。


「これはアパリアスという海鳥、別名ウミスズメです。アザラシの腹に何百羽も詰めて、地中に埋めて発酵させるんです。みんな大好き、究極の美味ですよ!」


「ハムスターさんはよくご存じなんですねえ」


「以前カナダへ来た時にご馳走になりましてね。ええとですね、まずはこうやってグイッと羽を引っぱってー、ずるっと皮をむいてー、ガブっと肉にかじりついてー、じゅるっと中の内臓や体液を全部吸います! 中身は全部液状化してますので簡単です! 頭の骨も割って、脳味噌全部吸い尽くします!」


「……」「……」


 これがカニだったら、喜んでカニ味噌をほじくるのだが。


 ハムが丁寧な解説つきでいかにも美味しそうに実食しているが、誰ひとりとして席に着こうとしない。ハムがどんどん黒い羽にまみれ、体液にまみれ、血にまみれて赤黒く染まっても、そのうちにアザラシの腹の中に体が埋まってしまっても、誰ひとり正視しようとしない。


 キビヤック。「シュールストレミング」や「くさや」などと並んで「臭い食べ物・世界ランキング」に名を連ねる、知る人ぞ知る「至高の珍味」である。


「あの、外で話聞いてもいいですか」


「寒いけどいいのですか?」


「はい、ぜひ、外で」


 蒼仁は力強く提案し、ハムを置いて全員家の外へ出た。


「この香り! この臭み! この濃厚さ、たまりませ~ん!」



  ◇ ◇ ◇



 家から数十メートル以上離れて、海岸へ。ようやくみんなで深呼吸できた。


「うぐ、胃酸と涙と鼻水出てきた……すごいもん食っとるんやなあ。さすがや……」

 

 へたって海岸に座り込んだ達月に、シルミクが穏やかに話しかける。


「皆さんと同じように、パンやパスタも食べますよ。家の中、皆さんの家とそう変わらなかったでしょう? ガスコンロもエアコンも水洗トイレもありますし」


 においとアザラシのカルチャーショックで家の中を見回す余裕もなかったが、これ以上負け犬のような顔をさらしたくないので達月は黙ってしまう。

 一方、ネックウォーマーを下ろした折賀は、鋭い目を光らせて集落をざっと見まわした。


「人の気配がない。それに、犬も」


「もともと小さな集落ですからね。猟も満足にできなくなり、働ける者は遠方へ出稼ぎに行きました。子供たちは政府からの勧告により南へ避難しています。犬は、だいぶ手放しました。ここ数年、犬ぞりを出せる日が減っていますから」


 この地域も、気温の上昇により、氷が緩くなって犬ぞりで走ることが難しくなってきたのだ。

 また、氷が減れば彼らの狩猟の獲物であるホッキョクグマやアザラシ、セイウチなどのテリトリーも減っていく。流氷とともに、動物たちは北へ、もっと北へと移動してしまう。移動する先がなくなった時、その種は絶滅の一途をたどることになる。


 蒼仁も学校や塾で学んだことがある。

 イヌイットは、狩猟を生業なりわいとし、ほぼ動物の肉だけを食べて生きてきた、数少ない最後の民族。

 寒冷地では植物の栽培ができないため、彼らは動物や魚だけを食べていた。生肉や発酵した肉はビタミンを多量に含み、野菜を食べなくても健康に生きられるのだ。


 その生活に、西洋人が、西洋の文化が大きく入り込んだ。

  

 イヌイットたちは現地案内人として西洋人の役に立ったため、虐殺されることはなかったが、長い時をかけて精神的・文化的に侵略されてきたといえる。

 西洋人はイヌイットの狩り場を荒らし、野生動物を乱獲した。野生動物が絶滅にひんすると、今度は西洋の環境保護団体が捕鯨禁止や毛皮不買などを主張し、イヌイットによる狩猟までも締めつけてきた。


「長い話し合いの努力が実り、今は狩猟の権利も保証されています。多くのイヌイットたちが住む土地、『ヌナブト準州』も誕生しました。その一方で、猟に銃を使ったり、家庭に家電製品を入れたりなど、西洋の便利な部分も浸透しています。子供たちは、PCを使いながら英語とイヌクティトゥット語の両方を勉強しています。これからも、民族どうしが、自立した部分と混ざり合う部分をうまく使い分けながら共存していくことが求められるでしょう」


 蒼仁もよく聞く、グローバル社会というものの一例なのかもしれない。


「人間は話し合いという手段を持っているが、動物たちはそうはいかない」


 北極海へと続くボーフォート海の冷たい風を浴びながら、折賀が厳しい声を放った。


「野生の肉食獣と人間は共存できない。できるとすれば、共存と呼べるかどうかはわからんが、イヌイットのように野生動物へ敬意を払い、生きるための最低限の獣しか獲らない限られた者だけだ。そうでない者が近づけば、必ず互いに害をなすようになる。近づく理由は、たいがいが人間によるテリトリーへの侵入、環境破壊。だから本当は、俺たちは狼の前に現れてはいけないんだ」


 蒼仁の脳裏に、自分たちを襲おうとした野生の狼たちの咆哮や遠吠えがよみがえる。

 達月の前世の記憶を通して経験した、長きにわたる狼狩り、その結果としての狼乱獲も。すべて、元をただせば人間が彼らのテリトリーに立ち入ったのが原因だ。


「それでも、俺たちは『ウィンズレイ』という狼に会いに行かなければならない。『大精霊』と呼ばれる存在が、蒼仁たちと同じように特殊な力を与えたそうだからな」


「あなたは、その特殊な力を得たのが自分だったらよかった、と思っているようですね」


「当たり前だ。なぜ、狼王とこいつらが戦わなくてはならない。特に、蒼仁やシェディスはまだ子供だ。狼王が人間を憎んでいるというなら、前に出て戦うのは俺のような大人であるべきだ」


 折賀は手を広げ、蒼仁たちを示した。折賀なりに、サポートにしか回れない自分を歯がゆく思っていたのだろう。そういう彼もまだ、二十代の学生だ。


「――わかりました。初めからわかってはいました。あなた方は、『力』を与えても決しておごることはない、と」


 シルミクの手が、天に向かって伸ばされた。

 厳しい海風が彼女の上着のフードを払い、さらりとした黒髪を空中に舞い踊らせる。


「私はこれでも集落のシャーマンの端くれなのです。

 お見せしましょう、この地で、何が起こったのかを――」



  ◇ ◇ ◇



 今まで不思議な霧に包まれてほの明るかった一帯が、急激に暗くなった。空を覆う闇。再び、「闇のオーロラ」が世界を包み始める。


 風が強さを増していく。

 海上で何かが動き始めた。

 スクリーンか何かで覆われたように、ぼんやりとしたシルエットだったものが、徐々に鮮明に解像度を上げていく。


 無数の白く巨大な生物と、たったひとつの小さな黒い生物。


「――ウィンズレイ!」


 誰ともなく叫んだ。彼らが捜しにきた黒狼が、たった一頭で白い肉食獣の群れをにらみ、低いうなりをあげている。

 

 囲まれている。

「最強の肉食獣」と言われる、何十頭もの巨大な獣、ホッキョクグマに。


「行こう! 助けないと!」


 蒼仁が叫ぶと、重なるように「大丈夫です!」と声が飛んだ。


 いつの間に来たのか、ハムがシェディスの頭に乗っている。

 体はきれいに洗ってきたらしいが、お腹はぽっこり出たままだ。においが取りきれていないことをツッコんでるヒマはない。


「これはシルミクさんが見せている幻影です。立体映像ホログラムのようなものですよ」


 氷上に浮かぶ幻影。

 そのスクリーンの中で、ウィンズレイはただ一頭で戦っていた。

 風が空を裂き、海も氷も舞い上げる。天空の闇さえも切り裂いて、動物霊たちが次々にちりと化して飛んでいく。


 だが、数が多すぎた。

 風を起こす瞬間、無防備になる背中に、背後のホッキョクグマが数頭がかりで牙をむいて襲いかかる。

 その度に身をひねり氷上を跳んでよけ続けていたウィンズレイにも、限界が来た。ついにホッキョクグマの前脚の一撃が、容赦なく背中に叩きつけられた。


「あっ……!」


 幻影だとわかっていても飛び出さずにはいられない。

 氷上へ飛び込もうとした蒼仁の肩を、シェディスがつかんで止めた。


 蒼仁を腕で支えながら、シェディスの瞳がスクリーンに釘付けになる。

 彼女の前で、ウィンズレイのそばに新たな影が飛び込んできたのだ。


 黒い狼を守るように、氷上に足を着けた白い影。

 かつてのシェディスによく似た、雪のように白い毛並み。


 人間たちに「粉雪ヴィティ」と呼ばれた、雌の狼犬だった。

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