SIGN13 空を繋ぐ橋

 野生動物が人間を襲うとしたら、その理由に、人間が抱くような「憎悪」は含まれない。


 彼らはただ、目の前の「脅威」に立ち向かうために戦う。

「脅威」ではないと判断したとき。また、「獲物」としても認識しなかったとき、彼らは攻撃を止める。


 現状に関わりなく、自身の「感情」のために相手を殺すのは、人間だけだ。



達月たつき」が記憶に見た狼は、内に生まれ出た「憎悪」に支配されてしまった。

 仲間のすべてを失い、逃げることもできたのに、狼は人間に飛びかかった。

 牙を通しておのれの細胞に沁みわたる、人間どもの血。

 それは、狼が野生動物としての習性を捨てた瞬間だった。


 その憎悪は、人間だったときと同じもの。


 人間は、戦場にいた。荒れ果てた瓦礫がれきの中、毎日誰かが死んでいく。

 爆弾の脅威が、「彼」の鼓膜と心を襲わない日はなかった。


 彼自身も爆弾を手に取った。

 自分が誰に向かって爆弾を投げているのか、徐々にわからなくなっていった。

 胸を締めつけるような悲しみも、気が狂いそうなほどの恐怖も、彼の力とはならなかった。

 心に浮かぶ愛しい者の顔さえも、彼を生きて帰す力とはならなかった。


 彼を生かしたのは、「敵を殺す意思」と、手の中の爆弾。


 投げようとした先に、また別の意識が混ざり込む。

 「彼」は、背中を見せてひざまずいていた。

 今まさに自分に向かって投げられようとした爆弾を、振り返った顔は。


 べったりと、愛しい者の血に濡れていた。



  ◇ ◇ ◇



 蒼仁あおとと同じく、達月が自分の記憶を読み込んだ時間はわずか一秒たらず。

 それでも、凄惨せいさんな記憶に身も心も支配されるには十分だった。


 記憶に呼応するように、再び手の中の光球が燃え上がる。

 湧き上がる衝動のままに、右腕が大きくしなり、再び目前のに向かって光球が放たれる。


 そのが、たとえ脅威の力を持たない者であっても。

 階段の下から彼らを見上げている、金髪のか弱い少女であっても。


「パーシャーッ!!」


 蒼仁は、遠くで自分の声が悲痛に響くのを聞いた。

 蒼仁の叫びも打ち消して、ハムを抱えたパーシャが爆音・爆炎に包まれる。


 記憶のあまりの重さに動けなくなっていた蒼仁は、それでもたまらずに階段の下に向かって駆け出した。

 白い風が、彼とは違う方向へ飛び込んでいったのにも気づかずに。


 パーシャがいた場所をすっかり覆ってしまった灰煙が、ようやく蒼仁の目の前で、少しずつ薄らいで――

 ――は、いなかった。どういうわけか、煙も粉塵ふんじんも、様々な形状・大きさの破片に至るまで、すべてにとどまったままだ。


「う、ぐぎ、ぎ、ぎゅう」


 煙の中から、変な声がする。

 やがて変化が起きた。煙も破片も、すべてが一ヵ所に収束し、急速に縮んでいく。いな、ぎゅぎゅうっと小さく圧縮されていく。まるで、見えざる巨人の両手で力いっぱい握り潰されているかのように。


 凄まじい「空間のねじれ」だった。

 そのままでは蒼仁まで吸い込まれてしまったかもしれない。だが、ギリギリのところで制御された力は、奇跡的に誰も巻き込まず、爆弾が生み出した災厄だけを重力でねじり潰した。


 すべてが圧縮され、ひとつの真っ黒な野球ボールほどのサイズになり、サイコロ大になり――ちりのように、静かに消えた。


「よ、よかった……。僕の時空能力スペースタイマー異空間ここでも、制御できた、みたいですぅ……」


 残されたのは、ぽっこりお腹を上に向けてフゥフゥ言いながら寝そべってるハムと、そばに倒れた――


「パーシャ!!」


 蒼仁はパーシャの横に膝をついた。ワンピースの裾からのぞく細い脚が、赤黒く染まっている。

 それだけじゃない、形状がゆがんでいる。肉がえぐれた? 骨が折れた?

 パニックにおちいりかけた蒼仁の思考を、パーシャの言葉が繋ぎとめた。


「アオト、わたしは大丈夫……それより……」


「た、達月くんを……」


 ハムの言葉で、蒼仁は「その人」を見た。


 まだ、階段の上の方にいる。シェディスも一緒にいる。

 二人の頭上で、空中に浮いた赤い球体が、目のくらむような光を放っている。あの「爆弾」は、何度投げても尽きないのか。


 「爆弾」の下で、シェディスは――達月の背中に手を回し、抱きしめていた。

 ほんのわずかも震えることなく。なんの恐れも抱かずに。

 こんな場所で、会ったばかりの青年の体をしっかりと、自分の心臓に密着させるように抱きしめていた。



  ◇ ◇ ◇



 蒼仁の意識を繋いだのがパーシャの言葉なら、達月の意識を取り戻したのは、間違いなくシェディスの抱擁ほうようだった。


「……な、な、なんや……」


 まだ状況が飲み込めない。狼狽ろうばいし、またも混濁こんだくしそうになる達月の意識を、シェディスの体温が引き戻す。


「きみはにいる。きみの相手を、間違えないで」


「……相手……? ワイは、いったい何を……」


「きみの『力』は、さっきのとは違う。もっと別なものだ。『力』を、間違えないで」


 シェディスが体を離し、達月と視線を交わした。

 人懐っこそうな少女の瞳が、達月に向かって何の憂いも見せずに微笑みかける。


「安心して、きみは私が守る。きみは自分の本当の『力』が何なのか、ゆっくり思い出せばいいよ。それまでは、私がこいつらを食い止める」


 言いながら立ち上がり、達月を自分の後ろにかばう。

 目の前には、まだ低く唸りながら様子をうかがっている七頭のクーガーがいる。


「アオト、武器を!」


 凛然りんぜんと告げる。蒼仁は近くまで駆け寄った。

 すぐにロッドを召喚して投げ渡した蒼仁に、シェディスは言葉を続けた。


「私はこれが一本あれば戦える。アオトは、残りの力でパーシャの怪我を治して。『天空』の白い力には、傷を治す力がある。私も、霊狼ヴァルズたちにやられたとき、アオトのおかげで助かったんだ」


 蒼仁は一瞬驚いたが、すぐに理解し、「わかった!」と、パーシャのもとへ戻っていった。


 学校で霊狼ヴァルズを相手取ったとき。一時は傷を負って全身を血に染めたシェディスが結果として無傷だったのは、蒼仁が召喚んだ「天空」の光を浴びたから、だった。

 ならば今は、その力をパーシャのために。


 シェディスの氷結の棒アイスロッドが、ゆっくりと舞いながら周囲に光の粒をおどらせる。ここが自分の「間合い」であると、相手に向かって高らかに宣言するように。


 シェディスがすべきは、この一本でみんなを守ること。

 パーシャの怪我が治るまで。達月が自分の「力」を理解するまで。



  ◇ ◇ ◇



 再びクーガーと戦い始めたシェディスから、達月は目が離せなかった。

 彼女が放つ、一本芯が通った明快さと美しさ。

 彼女が残した、混じり気のない言葉の意味。


「ワイの、本当の力……」


 いつしか、辺り一面に雪が降っていた。

 いや、雪のように見える光のかけらが、ひらひらと舞い降りていた。


 シェディスが言っていた「天空の力」だろうか。

 大切な存在を守り、戦うための力。今は、傷ついた者を治すために降りてくる力。

 シェディスという少女の生き方・考え方そのものが、この異空間を満たしているようだ。


 ならば、自分の力は。自分が手にすべき武器は。


 達月は踏み出した。頭上に浮いたままになっている、赤い光球に手を伸ばす。


 それを見た蒼仁が、はっと身構えるのが伝わってきた。

 言い聞かせるように、安心させるように。達月の声は、低く落ち着いた響きを乗せている。


「心配せんでええ。ワイはもう、間違えんよ。ようやっと、自分の記憶の整理ができたんや。『記憶の操作』は、『記憶の整理』と言い換えてもええかもしれんなあ」


 達月は光球を手に取った。

 手の中で燃える炎は、自分次第でその性質を変えられる。


「これはもう、爆弾やない。誰かを傷つけるもんでもない。これが狼の力言うんなら、自分らを守るためにあるんや。狼の牙が、家族を、仲間を、自分を守るためにあるのとおんなじや」


 赤い光球を、ゆっくりと空へ放つ。

 炎の尾をなびかせながら空へ昇っていく光は、やがて彼らの空間すべてを照らし始めた。


「この光は、まるで……太陽のようですねえ」


 お腹を出して寝そべったままのハムが、全身に光のぬくもりを浴びている。

 まるで抱きしめられているような暖かさが、空間のすべての生き物に降り注いでいた。


「天空」の雪の結晶が、太陽の光を受けてきらきらとまぶしい光を振りまいていく。

 その光が、やがて収束し、ひとつの大きなアーチを描き――空へ架かる、巨大な橋を形作った。


「『光架こうか』の狼――光を架けて世界そらを繋げ!」


 太陽の光を受け、虹色に輝く光の架け橋は、獣たちの記憶をも「整理」したらしい。


 それまでシェディスに襲いかかっていた七頭のクーガーは、戦う理由を失くし、動きを止めた。

 もはや何の興味もないとでも言うように、そろって背を向けて去っていく。その後ろ姿はやがて黒の粒子となり、光に溶けるようにして消えた。


 パーシャの怪我も、雪の結晶がきれいに治してくれた。


 蒼仁に支えられて立ち上がった彼女は、「きれい……」とつぶやきながら、いつまでも空を渡る架け橋に見入っていた。

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