第2章 晴海遊善2

第5話 晴海遊善2-1

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 蝉しぐれが騒がしい残暑、海道沿いの通学路は一か月ぶりに学生たちで賑わっていた。生温い潮風がシャツをなびかせ、夏の余韻に後ろ髪を引かれる若者たちの背中を押す。行き先は十内流とないながれ中学校だ。

 十内流とないながれ中学校は十内流とないながれ市に設置された公立中学校の一つだ。正門から入ってすぐ駐輪場が広がり、その奥に南校舎、中庭、北校舎と続いている。また、駐輪場の右手側にはグラウンドやサッカーコート、テニスコートが広がっている。

 十内流中学校に吸い込まれる学生の中には晴海遊善はるみゆうぜんの姿もあった。シャツの袖を肩まで捲り上げ、額には大粒の汗をかいているものの不潔さは感じられない。幼さの残る顔立ちが清潔感を助長している。


「おっはー、ユーゼン。背縮んだ?」

「うっせ」


 二年三組の教室に入るなり、遊善は右手側より不躾ぶしつけな挨拶を浴びせられた。遊善は、しかし挨拶をいなすと、そちらに目をくれることもなく自席へ向かう。声の主である鷹崎愛夏たかさきまなかがけらけらと笑い、隣で加賀谷奈子かがやなこもまた呆れた様子で笑っている。

 平均身長に届かない遊善にそのような軽口を叩けるのは、八年連続で同じクラスとなった愛夏くらいなものだろう。デリカシーの欠片もない。

 窓際の自席に鞄を置き、遊善は隣席のクラスメイトへと声をかける。


「おはよう、江原ちゃん」

「ああ、おはよう」


 江原團士えはらだんし。凛々しい顔立ちをしており、切れ長の目と右の泣きぼくろが印象的だ。文武両道で入学時に数多の運動部から勧誘を受けたという。

 机に顔を突っ伏し、遊善が唸り声を上げる。


「今日から二学期だよ~。マジ夏休み短過ぎ」

「その様子だと夏を満喫できたみたいだな」


 團士がA4判の美術書から顔を上げ、隣席へと目を向ける。大人びた印象どおり寡黙な人物ではあるが、團士のコミュニケーション能力に問題はない。とは言え、今年初めて面識を持った二人がこうして日常会話を交わすまでになったのは、遊善の積極性によるところが大きい。一言で言えば、晴海遊善はるみゆうぜん人懐ひとなつこいのだ。

 遊善が面を上げ、右隣のクラスメイトへと顔を向ける。


「まあね。つっても、ほとんどとうちゃんと遊んでたけど」


 槙乃燈代まきのとうだい。遊善の幼馴染であり、家も近所であることから休日によく遊んでいる。


「先々週くらいにプールに行ったらさ、燈ちゃん『久しぶりだ~』ってはしゃいじゃってさ、次の日体調崩しちゃってんの。マジでウケる。かわいそうだったけどね」


 遊善がけらけらと笑うと、團士は口元に微笑をたたえ頬杖をついた。


「晴海は何ともなかったのかい?」

「ヘーキヘーキ! チョー元気! 夏休みに風邪ひくとかもったいなさ過ぎっしょ」

「息災で何よりだよ」


 鞄から教科書を取り出しながら、遊善が話を続ける。


「江原ちゃんはどーよ? 夏休み堪能した?」

「家の手伝いばかりやっていたな」

「そっか。お寺だったっけ」

「ああ。だから、同年代と話すのは久しぶりだよ。ほとんど檀家だんかさんと話していたからな」


 鞄をロッカーへ仕舞い、遊善が背もたれを前にして椅子に座り直す。


「大変っすなー。じゃあ、全然遊べてないじゃん。つらー」

「そうでもないさ。いろんな話を聞けて面白かったよ」

「例えばどんなの? 聞かせてよ~」


 遊善が興味津々といった様子で身を乗り出すも、團士は距離を取るように美術書を鞄に仕舞い始める。


「なに、晴海にはつまらない話だよ」

「いいじゃん、聞かせてって~」

「また今度な。ほら」


 團士が目配せすると、担任教師が「席に着きましょ~」という気の抜けた台詞と共に教卓についた。

 大平良六葉おおだいらろくよう。整髪料を駆使した自然な髪型と整えられた顎鬚あごひげが程良い緩さを演出している。夏休み中に会った時がいわゆる『オフ』の状態なのだろう。今の六葉には、拭い切れない疲労感の中に大人の色気が滲んでいる。

 六葉が遊善を一瞥し、すぐに皆へと向き直る。その視線に気付かず、遊善は椅子に座り直しつつ七月末の出来事を思い返していた。

 結局、あの日の不審者が捕まることはなかった。それどころか目撃証言すらも皆無だった。遊善は狐につままれたような心地となり、薄気味悪さを払拭するように夏休みを遊び倒した。

 朝のショートホームルームを終え、皆がざわざわと会話を始める。机から数学の教科書を取り出していると、遊善の鼻孔びこうをシトラスの香りが刺激した。面を上げると、六葉が眼鏡越しに遊善を見下ろしていた。近くで見るとボストン型の眼鏡が安物ではないと一目でわかる。


「みんなには内緒な」


 目をしばたたかせる遊善に対し、六葉が手にした出席簿で廊下側を指し示す。腕まくりをした左手首には高価そうな腕時計が光っている。


「上に伝われば、呼び出し食らうからね」

「ああ、なるほど。ありがと、六ちゃん」

「先生、な」


 六葉が出席簿で遊善の頭をぽんと叩く。痛みは全くなかった。しかし、胸のあたりがざわりとした。

 後ろ暗さから逃げるように、遊善は窓の外へ注意を向ける。すると、中庭に見覚えのある人影を発見し、遊善は目を丸くした。


「晴海?」


 六葉の声に遊善がハッとする。怪訝そうに様子をうかがう六葉へと、遊善は大仰に敬礼してみせる。


「あ、はいィ! わっかりましたァ!」

「よろしい」


 六葉が去った後、遊善が窓の外を眺めてもそこには誰もいなかった。

 あの不審者の姿が、どこにも。

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