第4話 晴海遊善4
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アパートに着く頃には午後十一時を回っていた。消灯している部屋が散見され、遊善は物音を立てないように静かに車から降りた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
結局、遊善は六葉から夜の街に繰り出していた理由を問われなかった。晴海家の事情を把握している六葉にはおおよその見当がついているのだろう。遊善にはありがたいことだった。
「晴海」
不意に呼び止められ、遊善は振り返る。助手席のウィンドウを全開にし、六葉が運転席から目を向けている。
「宿題やれよ」
セダンの駆動音が聞こえなくなると、辺りは途端に静かになった。
駐車場には巴瑛の軽自動車が停められている。部屋の灯りも点いている。寝てはいないものの外には出ていないのだろう。
(やっぱりな。明日、怒られるんだろうなァ)
憂鬱な感情のまま駐車場を抜け、遊善はアパートの階段へと足を掛ける。
「遊善ッ!」
突如、悲痛な叫びが辺りに響き渡った。遊善が振り返ると、アパートの駐車場に巴瑛が立っていた。左手に携帯電話を持ち、息も絶え絶えとなっている様子に遊善は目を丸くする。
「何で」
遊善は軽自動車を一瞥する。刹那、遊善は駆け寄ってきた巴瑛に強く抱き締められた。
「良かった、本当に良かった」
遊善は呆然とする。状況が呑み込めなかった。
(何で、明日仕事なのに)
遊善の脳内に母親との会話が思い起こされる。
『お母さんもう寝るから』
巴瑛はスーパーのパートや他の仕事を掛け持ちしており、午後十一時に就寝し、午前五時には起床している。睡眠時間を削り過ぎたせいで倒れたことがあるため、気を付けているのだ。
(何で、車使わないんだよ)
頭ではわかっている。遊善と同じ道を辿るために同じ徒歩という手段で探していたのだろう。車では路地裏といった細い道は探しにくい。
(何で、サンダルなんかで)
遊善の視線が巴瑛の足元に向けられる。脱げかけたサンダルはひどく黒ずんでいる。遊善がサンダルで飛び出したから、あまり遠くへ行っていないと踏んだのだろう。
「何で、俺なんか」
「『何で』って、家族なんだから当たり前でしょ。何よりも、大事なんだから」
遊善は目頭が熱くなるのを感じた。背中に回された腕の感触から母親の愛情が伝わってくる。
「いい暮らしをさせてあげられなくて、ごめんね。遊善は、ワガママなんて言ったことなかったよね。だから、それが普通だと思ってた。だけど、我慢、させてた、なんて」
巴瑛の声が上擦ってゆく。
「遊善が幸せなら、お母さんも幸せだから。だから、もう、いなくならないで」
遊善はいつか巴瑛が口にしていた台詞を思い出した。
『お父さんはね、お母さんたちの分まで一生懸命働いてるの』
遊善には巴瑛の寂しげな背中が忘れられない。巴瑛にとって父親とは、我が子と同様に愛する一人の家族なのだ。毎月通帳を見ては溜め息をついているのも、父親を思い出しているからなのだろう。
巴瑛の背中に腕を回し、遊善は首を横に振る。
「俺のほうこそ、ごめん。一番我慢してんの母ちゃんだって知ってるのに」
「ううん、そんなことない。遊善の幸せが、お母さんの幸せだから。それだけで、生きてきて良かったって思えるの」
巴瑛の頬に涙が伝う。遊善は瞳を閉じ、母親が守り続けてくれた今という幸せな瞬間を噛み締める。
「あのさ、母ちゃん」
「何?」
ゆっくりと身体を離すと、遊善は母親と目を合わせた。
「ケータイ買って」
母親は顔面に微笑を湛え、わかりきった答えを返した。
「ダメ」
釣られて遊善も笑みを零す。
「ケチ~」
夜の街は遊善の苛立ちを包み隠してくれたようだった。
第一章 了
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