Phase.17 エクルズ・ストリート7番
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「すまん、リジル。さっきは……その、さすがにやり過ぎた……。本当に、いや、あそこまでわしゃわしゃするつもりじゃなかったんだ」
「…………」
不満げに背を向け、ベッドの上で両膝を抱え込むように小さくまとまる少女に、カネトリは誠意を見せるために前に雑誌で読んだ日本式の『ドゲザ』で平伏した。
「ごめんなさい! 代わりにシャンプーしていいから! 鞭でも三角木馬でもなんでも!」
「それじゃ罰にならないでしょ。リジルもそろそろ許してあげたら? カネトリの病気みたいなもんだよ、あれは」
「別に……怒ってないから」
「怒ってんじゃん」
これまでになく清潔になったリジルは、全身から立ち上るジャスミンの香りに鼻をひくつかせつつ、ベッドの上で馬車に轢き潰された蛙のようになっている武器商人に視線を向ける。
「カネトリは……いつもこうなの?」
「うーん、普段は紳士的だけど……所詮、
「ごめん……。もう、本当、なんと謝ればいいのか……」
「ふうん……」
リジルはそっと手を伸ばしてカネトリの後頭部を撫でた。
「もういいよ。許す」
「本当か?」
「うん。でも、一つだけ答えて欲しい。カネトリは、どうして私に……」
カネトリが顔を上げ、リジルがそう言いかけた時だった。耳がピクリと動いた直後、部屋の扉が軽くノックされ、「ルーム・サービスです」と声がかかった。
「……カネトリ」
「ああ。ルーム・サービスは頼んでない」
「扉の外に四人。……あと、火薬のにおい」
「お客さんだ。ここも二日ぐらいは持つと思ったが……少し早すぎるな」
外套を羽織り、書類と旅券が入ったトランクだけ持って脱出に取り掛かる。
リジルは窓を開けて窓枠に足をかけて身を乗り出した。カネトリも後に続き、眼下に広がるオコンネル・ストリートを一瞥し、まず軽いトランクを二階のベランダに落とした。雨どいのパイプを伝って階下に着地する。銃を向けるが、幸いにも客室は空だった。
二人が降りた直後、部屋の扉が呆気なく蹴破られた。パンパンと銃声がして窓が割れる音がし、どこかで女の甲高い悲鳴が上がる。
二人と一羽は廊下に出て、非常階段から屋外に抜けた。ホテルの前で客を待っていた辻馬車に飛び乗る。
「お客さん、どこまで?」
「いいから、出せ!」
「はいよ」
御者は鞭をしならせて馬車を発進させた。座席から後方を伺うと、どうやら二人を見失ったらしい数人の男が正面玄関から急いで出てくるところだった。
騒ぎは避けたい。カネトリはほっと一息ついて、握り締めていた銃をホルスターに収めた。
「エクルズ・ストリートの7番に向かえ」
「わかりやした」
馬車はオコンネル・ストリートを北上してパーネル・スクエア・イーストを突っ切り、ドーセット・ストリート・ローワーを上がった。
馬車は十分足らずで目的地に辿り着き、二人は通りの入口で金を払って降りる。
「カネトリ、どこにいくの?」
「この一角にギルドの
ダブリン市中心街の北に位置するエクルズ・ストリートは中産階級が住む閑静な住宅街で、IRBのテロや路上のビラや落書き、アイルランドの独立熱とは一線を画する。
カネトリは一軒の長屋の前で立ち止まり、呼び鈴を押した。
「おい、ミスター・ブルーム。開けてくれ」
「一体、誰ですか? こんな昼食時に」
出てきたのは、薄い緑色のローブをまとった中年の男だった。食事中だったのか、首もとにナプキンが巻かれている。
「ギルドの者だ。ダブリンのセーフティ・ハウスを借りたい」
「ああ。そうですか。これはとんだ失礼を」
ギルドから隠れ家の管理を委託されている男――レオポルド・ブルームはナプキンを外し、広告代理店に勤めるサラリーマンらしい律儀なお辞儀を返した。
「ギルドの身分証を拝見しても?」
「ああ。カネトリだ」
「……確かに。ご案内します。部屋はラリー・オロークの店の裏手にあります」
ブルームは几帳面そうに手帳に名前を書くと、寝室に鍵とステッキを取りに戻り、外行きのコートとプラストー商会の高級帽を被って出てきた。
「モリー、ちょっと出てくるよ。すぐに戻る」
がらんとした玄関ホールで奥さんに呼びかけ、「どうぞこちらへ」と踵を返した。
五分ほど歩くと、ドーセット・ストリートの角に面した安酒場に行き当たった。地下酒造の格子から漂う黒ビールのにおいが鼻につく。
「こんにちは、ミスター・オローク。久しぶりのお客さんです」
「……ああ。離れは掃除してあるから」
禿げ頭の店主は不愛想に言って、カネトリを一瞥した。問題を起こす輩でないか抜け目なくチェックし、ポケットから部屋の鍵を放る。
「では、私はこれで」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
自分の仕事はここまでと、頭を下げて踵を返そうとする管理人を呼び止め、カネトリは手帳に現在の状況を手短に書き込んでページを破った。
「これをギルドの暗号電報で〈マスター〉宛に送って欲しい。少々マズいことになった」
「了解しました。他になにか?」
「いや、今はそれだけだ。頼んだぞ」
「お任せください」
ブルームは深々と頭を下げ、中断された昼食に戻っていった。
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