Phase.3 ホワイトチャペルの憧憬
3
船を降りて一歩踏み出すなり、一行は波止場を縄張りにする物乞いや
旅行鞄を両手に抱えたカネトリは、毅然とした態度でそれらをすべて無視した。
ちゃっかり荷物役に任命された殺し屋少女は、白カラス入りの鳥かごを胸に抱えて群衆を割って歩く。
「てっきり、
「フラティ? ……ああ、思い出した。
「ううん。ドルーリィ・
「ドゥルーリィ・レーンな。
二人は活気に満ちた港を横目にロンドン橋に足を向けた。
耳をすませば、雑踏の中に微かな振動が混じっているのがわかる。橋桁で拡張工事のために起動しているマーク・ブルネル掘削機の音だ。
「何か、帰ってきたって感じだな」
「だね!」
「久しぶりなの?」
「ああ。ほぼ一年ぶりかな」
馬車を呼び止めようと橋の中ほどまできた時、一行の頭上に楕円の影が落ちた。見上げると浮遊する金属体が、テムズ川を横切ってヴィクトリア発着場に向かっている。
その正体は、王立英国空軍の
〈HMS フライング・ビーグル〉と呼ばれる、かのチャールズ・ダーウィンの乗ったブリッグ船から名づけられた長距離持続航行艦だ。
ブーンとプロペラを回してその周囲を旋回するのは〈M1フライング・マシン〉。機関銃の父にして『飛行王』の名を冠する発明家ハイラム・マキシムが二万ポンドもの大金を費やし、無名の科学者であったケイヴァー博士の手を借りて完成させた次世代型の航空機械だ。
帝国主義と技術革新の時代。人類が初めて有人気球を打ち上げてから一世紀、英国は五つの大陸、三つの海を征し、ついに空をも手に入れようとしている。
「航空防護巡洋艦、フライング・ビーグルか。ケイヴァーライトはすごいな。あんな重そうな装甲板を付けた機体を宙に浮かせるんだから……この十年で科学技術も進歩したもんだ」
「もし戦争になったら、あれに爆弾を満載して敵国を焼きにいくんだろうねー」
「まあな……」
一見すると平穏な街並みには、それぞれの
「胸くそ悪いが、今は空の時代だ。仕方がないさ」
空車を示す白旗が立てられた馬車を拾い、御者に行き先を告げる。黒毛の馬は石畳を打ち、タワーハムレッツ区のヴィクトリア・パークに向かう。
「しっかし、人生はどうなるかわからないもんだ。俺を殺しにきた相手と、今こうして馬車に乗ってるわけだからな。本当なら、俺は今頃テムズ川に浮いている身分だ」
「ごめんなさい……」
頭を下げるどこか律儀な殺し屋を見て、カネトリはふんと鼻を鳴らした。
「別に非難してるわけじゃないさ。お前も俺も、
「
途中、馬車はホワイトチャペルのハイ・ストリートに差しかかった。
ガラス一枚を隔てた世界には、貧困だけが存在している。
足下のおぼつかない骨と皮だけの老婆が泥に捨てられた生ゴミから腐った芋や豆の欠片を拾い上げている。腹をすかせた子どもたちは路地裏の果実の山にハエのように群がり、腐敗して汁の出ている塊の中に腕まで入れて、その場で崩れた破片をがつがつと貪る。下品な嬌声、飛び交う怒号、酔っ払いの濁声……。
脳裏に宿るのは、もう十年以上も前の光景だが、ここは当時とほとんど変わっていない。
生粋のロンドン生まれに混じってユダヤ系やアイルランド系の移民、出稼ぎにきた黒人や獣人、売られてきた
「お前、家族はいるのか?」
「ううん。いない」
「そうか。俺もだよ。俺はドイツからの移民でな。ここに来た時は……食べるものも着る服もなにもなかった」
カネトリはどこか遠い目で窓の外を眺め、肩を竦めて見せる。
「それが今や一介の武器商人だ。ホント、人生何が起こるかわからんな」
栄華を極める帝国の犠牲者たち。道行く彼らは錆びた銅貨を握りしめてその日を生きるが、カネトリの財布に入っているのは血塗られた金貨だ。
少なくとも、恩人に拾われてアンダーシャフト家の養子になってからは、そうなった。
「俺とここにいる彼らとの違いは……なんだと思う? 俺にあって、彼らにないものだ」
「……?」
カネトリが何気なく発した問いは、少女に対してというよりは、ほとんど自問自答のようなニュアンスが含まれていた。
窓枠に腕を乗せて流れていく景色を眺める男に、少女は首を傾げる。
「お金……?」
「まあ、そうなんだが……。人間、金だけあっても仕方がない。大事なのは……」
それは率直な真理だと苦笑し、答えを告げようと口を開いた時、
「旦那!
窓が乱暴に叩かれ、ニキビと煤だらけの顔が押しつけられた。イタリア移民らしい訛りの強いアクセントで、手にした紫色のスミレの花をこれでもかというばかりに振っている。
「……新入りか。ここのルールがよくわかってないらしい」
カネトリは肩を竦めて、わざとらしく新聞を広げるアクションを見せた。
「旦那、おねげぇです! おねげぇです!」
「おい、離れろ!!」
通りを一つもいかない内に、立ち番をしていた制服の巡査が駆けつけて少年を剥ぎ取った。
警棒で殴りつけられた少年は呻いて道路の端に転がるが、その間も馬車は足を止めることなく進んでいく。まるで何事もなかったかのように。
「……俺にあって、彼にないもの、それは武器だ」
「武器なら……」
「あー、そうじゃない」
カネトリは首を振って、それを彼女に告げるのは酷なことかもしれないと思い直した。
「いや、変なこと聞いて悪かったな。ただの戯言だ。忘れてくれ」
―――――――
星の数ほどもある物語の中から、本作をお読みいただきありがとうございます!
この先も『UNDERSHAFT』は続いていく予定ですが、やはり反応が皆無だと小説が面白いのかどうかも判断がつきませんし、モチベーションに繋がりません。
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