第8話

これで厄介事がなくなるんだ。

いつもの生活だ。

ご飯を食べる。絵を書く。寝る。

いつものリズム。

そう、これが望んでいた平穏な日々。


私の音は波打つことなく静かに・・・。

私の音・・・。


そういえば、藍が馬鹿げたことを言っていた気がする。

私の音を変えたいだとか。

藍といた頃は、藍といた時は・・・、そう思い返し、私はハッとした。

そうか、藍は私の音を変えたのか。今更になってそんな単純明快なことに気づく。

それは、厄介であったが心地の悪いものではない、いやむしろ。


・・・でもすべて、遅い。


そう思い立ち止まったが、藍がもういないくせに、今までになく熱く・・・そう、ひどく目眩がしそうなほど熱くなってきて。


遅い?


いや、まだ。


私にもできるか。藍の音を変えることが、最後に見たあの悲しそうな静まり返った雪原の音を。

そう思うや否や、私はコートをはおり、家を飛び出した。

向かったのは人がいないあの駅舎。

藍と出会ったあの駅舎だ。

こんなに走ったのはいつぶりだろうか。白く吐かれる吐息は不規則なリズムを刻む。それでいて鼓動は規律よく早めのリズムを絶え間なく刻む。


藍、藍、藍。


これが、私の音が変わったとでもいうのか?

いや、違うな、それは、もっと。

そう思っていると、駅舎が見えてきた。


だが、すべてはもう遅かった。

私の目の前で電車は、いってしまった。


力尽き、ふらふらとホームに上がる。

なんと愚かしいことか。

恋愛感情にふりまわされることが一番愚かしいことと思っていたが、恋愛感情に気づかないようにすることが一番愚かしいことだったのだ。

今、やっと気づく。

私は、浮かれている奴らをどこか馬鹿にしたところがあった人間だったが、一番の馬鹿は私だ。


「藍・・・。」


泣きそうな顔でそうつぶやいた時だった。

物陰から、もう一人、泣きそうな顔の女が出てきた。

栗色の髪に大きな瞳。

間違えることはない、藍だ。

「戀さん・・・、どうして・・・。」

「藍こそ、どうしたの、美紀と一緒にいたんじゃないの!?」

「行こうと思った。でも、行けなかった。・・・行けなかった。」

藍の顔をよく見ると頬が赤い。また美紀に叩かれたのか。

「藍、顔・・・。」

「私が悪いから・・・。でも、もういい。」

そう言うと藍は私に駆け寄り抱きついた。

私もそれに答えるように強く強く藍を抱きしめた。

「戀さん・・・戀さんは、どうしてここに?」

「もうわかるでしょ。」

「言ってくれなきゃわかんないよ。」

本当に質の悪い女だ。だが、それが今は心地よい。


「・・・藍と一緒にいたいから。」

「本当に?」


私は充分懲りたくせに、今となってもまだ言うのが恥ずかしかったので、答える代わりに、ぎゅうっと藍を抱きしめ返してやった。

すると藍は泣きながら笑って言った。

「・・・ねぇ、私、戀さんの音を変えれた?」

「もう、藍には聞こえているんじゃないの?」

「・・・ん。すごく熱くて素敵な音・・・。ね、私は何にでもなれる?」

私は、藍の流れる涙をぬぐいながら答えてやる。今度はあの時とは違う。

「なれるよ。私が溶かしてあげる。そうしたら、藍は色んな音を奏でられるの。」

「嬉しい・・・うれし・・ん・・・。」

藍が言う言葉を塞ぐように口付ける。

藍もそれに答えて首に手を回す。

時がまるで、止まっているように感じた。


「戀さん、大好き。戀さんの静かな音も好きだったけど、今の音はもっと好き。もっと聞きたい。」

「これから、ずっと聞けばいいよ。」


私の音はきっと雪原の音も変えていける。

未来なんてどうなるかわからない。

でも、そうでありたいと強く想った。

私らしくないことだ。

でもそうさせてくれたのは藍。

そういう、考え方になるのも別段悪い気はしない。

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心に音があるというならば 夏目綾 @bestia_0305

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