第5話
「美紀ちゃん、おかえり!」
夜。
美紀がいつも帰ってくる時間となれば、藍は昼間あったことなんてひとつも覚えていないように美紀に接する。
いつものように美紀のコートを脱がして、キスをする。
ただそのあとに、私をちらりと見て、ふっと広角を少し上げた。
全く、こいつは・・・。
いや、私も同罪だ。
頭を抱えて私はアトリエに入った。
どうして、こうなった。
いや、こうなったんじゃない。
ここでやめれば、藍と同じように、今まで何もなかったようにして・・・。
全ておしまい。
それでいいじゃない。
そう思い直して、私は絵筆を取ったのだった。
次の日、相変わらず雪は深く積もったままだったが良く晴れていた。私は散歩でもしてみようと思い、玄関で靴紐を結んでいると、後ろから藍が抱きついてきた。
「どこ行くの?戀さん!!」
私はため息をつき、藍の手を払う。
「どこだっていいでしょ。放っておいて。」
「私も行く。」
「一人にさせて。」
「嫌。戀さんと一緒に行く。少しでも戀さんと一緒にいたいの。」
「やめて。貴女と私は何もない。そうでしょう。」
「でも、戀さんと一緒にいたい。戀さんは?違うの?」
上目遣いで私を見る。誘うような目で。その目線がひどく私は苦手だった。
「違う。」
そう言って、私は扉に手をかけて出ていこうとした。
だが、藍は私の手を取り引かない。
「そんなこと言わないで。戀さんと歩きたい。前一緒に歩いた、あの並木道。一緒に音を感じたい。連れて行って。ねぇ、連れて行って。」
自分がこんなに押しに弱い性分だとは思ってもみなかった。
いや、相手がこの子だから悪いのか。
結局、二人して出かける羽目になった。
藍は無理をしたと思っているのか、くっつきはせず、少し距離を置いて私の後をついて歩いている。
このあたりの距離感は、うまい具合に嫌いになりきれないところなのだろうか。
そんな馬鹿らしいことを考えていると、前に来た並木道についたようで、藍は急に走り出して私の前に来た。
「前はね、閑散としたつまらないところだなって、思っていたけれど、戀さんから音の話を聞いてね、ちょっと面白くなった。ふふふ。」
「そう・・・。」
「ねえ、前に私の音はどんな音って聞いて答え聞かないままに終わっちゃったけど・・・・どんな音?どんな音が聞こえるの?」
いまさら言い直すのは嫌だったが、それを藍に言ったところで通用するはずもないだろうと思い、私は重い口を嫌々開いた。
「藍の音は・・・雪原の音。」
だがその解釈を述べるのは嫌だったのでそれ以上は言わなかった。
「ええー、なあにそれ。」
「それは自分で考えたら?」
「まぁいいよ、いい風に捉えておく。」
そう言うと藍は急に前から私に飛びついてきた。バランスを崩した私は、雪の上に倒れこんだ。
ぼすっという鈍い音を立てて二人雪に埋もれる。
「何がしたいの。」
呆れて言うと、藍はぎゅうっと私にしがみついてきて答えた。
「戀さんの心の音を変えたい。変えたときの音が聞きたい。」
「だから何なんのそれは・・・。藍には美紀が・・・。」
そう言おうとしたところでまた唇を塞がれた。
「今、そういう話聞きたくない。」
藍は雪の中に私を押し倒したまま動こうとはしない。
背中が冷たい。だが藍の温もりが伝わってきて、さしてそこまで悪い気はしなかった。
というと、藍をまるで受け入れているように聞こえるかもしれないが、決してそうではないはず。だが、不思議とそういう気分になった。
雪原の並木道は静まり返っていて、私と藍の吐息の音しか聞こえなかった。リズムのように波打ちずっとこうしていられるような気がした。
「ずっとこうしていたいね。」
藍もそう思っていたらしいが、肯定はしたくなかったので、ぶっきらぼうに藍を跳ね除けて立ち上がった。
「凍死するぞ。」
「はぁい。」
藍は、私の気持ちをすべて知ってあえて追求しなかったのか、怒られたと思って引いたのか、読めない表情でそう言った。
本当に厄介な女。
そんな事を思っていると、後ろからついてくる藍が、ポツリとつぶやいた。
「ねぇ、雪原は春になるとどうなるの?私は春になるとどうなるの?」
質問は突拍子もなく馬鹿らしいものだったが、いつになく真剣に言うものだから、私はいつものように適当に突き放すことができなかった。
「・・・春になれば・・・。」
しばらく答えを考えていると、藍が不安そうに私を見上げてきた。
「消えちゃう?」
そんな藍の表情を見てなぜか胸が疼いた。私は自分でも意外だったが、藍の頭を撫でてやると、こう返した。
「なんでもなれるわ。」
「・・・なんでもなれる・・・?」
「ええ、なんでもなれる。何の音にもなれる。」
「どういうこと?」
「雪解け水になって、河にもなれるし、風の一部にもなれる。土に染み込んで花にもなれる。何にもなれる。いろいろな可能性を秘めている音。」
すると藍は思いのほか喜んで私にしがみついてきた。
「本当?」
「なれる。・・・たぶん。」
「嬉しい!」
「何がそんなに嬉しいの?」
確かにそうは思っているから言ってやったものの、どうしてそんなことで嬉しがるのか意味が分からず、私は首をかしげていたが、藍はぎゅっと私の腕にしがみついて離そうとはしなかった。だが、これも馬鹿な話だが悪い気はしなかったので私は、引き離すことはしなかった。
「嬉しい、嬉しい。」
ひとしきりはしゃぎ回ったあと藍は口数少なくなり、大人しく私のあとを付いてきて
家路に着いたのだった。
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