第30話 零の約束
「ニャーン」
「うっ」
柔らかい朝がきたかと思うと、体に何かが乗っかるような衝撃があった。布団の上には不機嫌そうなスイがいる。今日は「感情の雫」は定休日だ。ゆっくり寝られると思ったのだが、同居人はそうはさせないと邪魔をする。
「ワン!」
「コウまで……どうしたんだよ。そんなに遅い時間じゃないのに」
仕方なく起き上がると、なにやら枕が濡れている。
今日は普通に学校だから、ノアとマシューはすでに学校へ行ったようだ。
カーテンを開け、いつもの制服ではなく私服に着替える。
『昨日のスープ残ってます。バナナもあるよ』
キッチンのテーブルにはノアの残したメモが置いてあった。あの子は本当にしっかりしているけど、まだ子どもだ。自分も少しは大人っぽいところを見せなくては……と、眠気で覚醒しきれていない脳で考える。
食パンと牛乳、具だくさんのスープにバナナ。豪華な朝ご飯だ。一人で黙々とそれらを口に運ぶと、おいしいのだが味気なかった。
それからコウとスイにもご飯をやる。
コウはもう人間で言ったらおじいちゃんだからか、最近前より食べる量が減った。頭を撫でて、長生きしてほしい、と思う。急に頭を撫でられたコウは不思議そうに零を見上げた。ノアがいたら、今なんて言っているのか聞けるのに。
歯磨きと顔を洗うために洗面台の前に立った。
「?」
鏡に映る自分は泣いていた。
それはそうだ。昨晩、長い長い夢を見て、そして、零は夢の中の青年になったのだから。
起きてから、夢の中はきっと「誰か」なのだろうと自分に言い聞かせていた。でないと、あまりにも辛いから。手のひらにかかえきれない感情に、心が押しつぶされてしまう。
「違う。違う。僕じゃない……!」
じゃあ僕は、いったい誰だ?
「おえっ」
鏡の中の自分に問いかけると、そいつはなにかおぞましいものに見えて、零は思わずえずいてしまった。
いかにも不機嫌そうな顔が見える。
顔を洗ってタオルで拭くと、鏡の中のそいつはにやりと笑った。
駄目だ。消さなきゃ。零は果物ナイフを手首に当てる。手首にはいくつもの古傷があった。
途端、後ろから服の襟元を引っ張られた。振り返るが誰もいない。あるのはさらりとした絹のような、細い糸のような何かが頬にあたる感触。
さっき吐いたことで口の中が不快になったので、零は再び鏡の前に立った。
「…………」
ナイフが乾いた音をたてて床に落ちる。
零の両脇には雫のピアスをした黒髪の男性と、茶髪の三つ編みの女性がいた。2人とも愛しいものを見つめるような目で笑っている。
「ありがとう、零。思い出してくれて」
「あなたが覚えていることで、私たちは永遠に生きていけるの」
後ろを振り返ると、今度こそ2人はそこに立っていた。「びっくりした?」とハンナは楽しそうにしている。
「なんで、なんでずっと現れてくれなかったんですか。僕はせっかく見えるのに」
「知らない男が急に目の前に来たら怖いでしょ?」
「知らなくなんかないですよ」
「いいや、知らなくしたのは零じゃないか」
凪沙にそう言われると、零はすっかり黙り込んでしまった。
「私たち、ずっと遠くから見てたのよ。零のこと。まさか感情も記憶も消しちゃうなんて」
「しかも満に手術されてね」
ごめんなさい、と、零は謝ることしかできない。
「でも、君にそうさせたのは僕のせいだよね。ごめんね、零」
「私も……。自殺なんて選んじゃって、本当に、情けない」
ハンナはそう言って俯く。ハンナが木にぶらさがっている映像は、すぐにでも脳裏に浮かぶ。大切な人がまるでふりこのように揺れる。あの時の衝撃はこれから先も、ずっと忘れないだろう。
「零、とにかくね、僕がずっと上にいかなかったのは、これだけ伝えたかったからなんだ。まあ、感情を商品として店を開いていたことには、残念な気持ちでいっぱいだし、君のしたことは許されないけれど……」
「本当にごめんなさい……」
「でも、この場所をなんとか残そうとしてしたことなんだろうね。実際に感情を売買した君のお客さんたちには、本当に悪いことをした。僕にも責任がある。……ああ、また話が逸れたね」
とにかく、と凪沙は口調を強めた。
「零、これからはもう自分のために生きるんだ。自分がこうしたいと思ったらこうする。嫌だなと思ったら逃げる。自分に素直になるのは零にとって難しいことかもしれない。でも、それに罪悪感なんで感じなくていいんだ。零は零のまま生きていいんだよ」
「凪沙、さん……。でも」
信頼する師匠はそう言うが、本当にいいのかと思ってしまう。それでもし他の人に迷惑がかかったら、それこそ罪悪感に苛まされるだろう。零は人との境界線が薄いから、本当は自分がどうしたいのかも、また分からなくなってしまうかもしれない。
「一人になるのはいいけれど、独りには決してならないように。……まあ、僕はいつでも零のここにいるから大丈夫」
凪沙は零の胸に手を当てる。零の体をすり抜けてしまうけれど、ほのかな温もりを感じた気がした。しかし、その手はどんどん指先から薄くなって、零の目にも見えなくなてしまう。
「凪沙さん、」
「もういかなきゃ。未練がなくなったってことだろうね。あの約束は覚えてるかい?」
『自分を大事にしなさい。これが本当の約束』
凪沙がいなくなった日、たった一行書かれていた手紙だ。
「さっきも自分を傷つけようとしてたから心配だよ。……今度こそ守ってね。約束だ」
「凪沙さん!」
凪沙は悔いのない笑顔を見せると、そのまま光になって消えてしまった。
零のこころは温かいままだ。
「いっちゃったのね、ナギサさん」
「ハンナ……」
ハンナはその光を見つめて呟く。彼女の首には縄の痕がはっきりと残っていた。
「……痛い?」
「ううん、全然。見た目だけよ。……それにしてもレイ、ナギサ先生の約束もそうだけど、私との約束もすっかり破ってたわね」
「約束……。あ」
零はハンナが死んだ日、あまりにも悲しすぎて涙が出てこなかったのを思い出した。自分はことごとく忘却して破り捨てている。
「ごめん、泣けなくて」
ハンナはそれを聞くと困った顔で笑った。
「いいのよ。それは忘れて。あとね、生きてねって約束。それも守らなくていいから。先生と反対のことを言うようだけれど」
「え?」
零は目を丸くした。
「だって、私は自分で死にたくて死んだのに、零は死んじゃだめって、そんな話ないじゃない。あまりにも我儘すぎると思って。だからね、零はもう好きにすればいい。誰もそれを否定しないよ」
ハンナの体も凪沙のように透けていく。消えてしまう。零はそれを止めようと彼女の腕を掴もうとするが、自然の摂理には誰も逆らえないようだ。
「私はきっとナギサ先生と同じところにはいけない。でもいいの。後悔なんてしてないし。私の人生はずっと不幸だったわ。最初から生まれてこなければよかったのにって、何度も思ってた。私は何も生み出せなかったし、この人生に意味なんてなにもなかった。息をするだけで地獄」
腕が消え、足も空間に溶けていく。
「でもね、ナギサ先生に会えて、なによりレイに会えて、本当に生まれてきてよかったって思うの。ありがとね、レイ。それだけ伝えたくて」
「僕も。……僕も一緒だよ」
「嬉しい……。ずっと、ずっと見守っているからね。幸せな人生をありがとう」
そう言い残し、ハンナはとうとういなくなってしまった。
零とコウと、スイだけが残る。
(僕はなんて、幸せなんだ)
零は胸に手を当てた。
あんなに一人を望んだのに、こんなにも愛されていた。凪沙とハンナだけじゃない。ノアもマシューも、コウもスイも、みんな大切な人たちだ。
愛された分返したい。愛されなくとも、自分がそうしたいと思えばそうする。外側だけじゃなくて、内側にも愛情を注ぐ。
「……よし」
零にはいま、やるべきことができた。
*
「店主さん、俺、やっぱりあの人のことが諦めきれないです……。あの人も僕を好きになるように、感情をください!」
「う~ん……。気持ちは分からなくはないですが、もう少し考えてみたらどうですか? 過剰な愛は毒ですよ。そうですね、たとえば……」
「あたしにはやっぱり才能がないのよ。絵に対する情熱を買ってちょうだい……」
「勿体ないです。その気持ちは、大切にとっておいたほうがいいと思います」
零は一人ひとりの願いをそのまま叶えず、話を聞いて相談にのることを始めた。そのうち街には、森の中にはいい相談屋がいるとの噂が広まった。どうしてもという時には、なんと感情のやり取りをしてくれる、とのことだ。
「零さん~、これ見てよ。明日の予約ほとんど全部埋まってる」
「それは大変だ。ノア、マシュー、期待してるよ」
「ええ~」
「明日せっかく学院休みなのに……」
ノアとマシューは揃って溜息をつく。
「図鑑、新しい箒」
「「やります!」」
相談屋は大忙しである。
2人の返事を聞くと、零は両耳の雫を揺らして笑った。
*
「もし、そこのお嬢さん」
「わたし?」
女性はフードを被った年配の女性に話しかけられ振り向いた。
「突然すまないね。ちょっと失礼」
年配の女性は彼女のおでこに2本指を当てると、何かぶつぶつと呟く。怪訝でどこが不気味に思った彼女は、後ろに身を引いた。
「ちょっと、いったいなにをするの」
「おでこに糸くずがついていたもので」
そんなわけないでしょう、と女性の顔が言葉に出さずとも物語っている。彼女はそのまま進行方向へと歩いて行ってしまった。
「ご立派になられて……」
フードをとると、白髪交じりの髪が現れた。
「遅くなって申し訳ございませんでした」
彼女は空を見上げて微笑みながらそう言った。
「それでね、そのおばあさん、糸くずがついてたって言うのよ」
「不思議な人もいるもんだね」
女性は夫とお茶をしながらさっきの出来事を話す。
「はい、これ。ここのドーナツおいしいのよ、特にこの……」
今日買ったドーナツを取り出すと、急に彼女の動きが止まった。
「どうしたの?」
しかしすぐに頭を左右に振って、
「ううん、何でもないわ。さあ食べましょう」
といつもの様子に戻る。
夜。夫はもう寝てしまって、彼女はドレッサーの前に座ってあるネックレスを眺めていた。贈り物であるネックレス。それは彼女の華奢な鎖骨にぴったりで、小さな光に照らされて光り輝いていた。
この気持ちは、ずっと取っておいてもよかったのね。
そっと輝きにキスをして、彼の顔を浮かべる。
今頃何をしているのだろう。これはわたしの「最高」の幸せではないけれど、後悔はしていない。彼もどうか幸せでありますように。
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