第29話 何者にもなれないあなた(3)

 待った。待ち続けた。でも凪沙さんはいつまで経っても戻ってこなかった。あんな手紙を残すなんて、最初から帰ってくるつもりなんてなかったのだろうか? それとも、どこかで自分がもうここへは戻ってこないだろうと、悟っていたのだろうか。

 どちらにせよ僕は一人になってしまった。

「クゥーン……」

「ごめんよ、コウ」

 間違えた。一人と一匹だ。

 病院には沢山の手紙が届いた。

『もう感情の雫は閉院したのでしょうか?』

『娘の症状が悪化しています。先生、どうか診てください』

 凪沙さんの代わりに僕が、と言いたかったけれど、術しか使えない僕に患者は救えない。僕は何もできなかった。

 無力感と虚無感に襲われ近くでぼーっとしていると、ハンナが現れた。

「ハンナ!」

「レイ……」

 そう僕の名前を呼ぶハンナは、どこかおかしい。明らかに元気がない。

 どうやらハンナはスクールでいじめにあっているらしい。揶揄われている女の子を庇ったら、今度はハンナが標的になったというのだ。

 許せない。どうして神様は彼女にここまで試練を与えるんだ。

 こんな時、凪沙さんならどんな言葉をかけるか考えた。

「ハンナは何も悪くないよ。そんなところ行かなくていいと思う」

 けれど結局凪沙さんらしい言葉はかけられず、思いきり自分の言葉になってしまう。

「……なんかこっちが逃げてるみたいでいや。というか先生は何でいないの?」

 分からない、とだけ答えた。

 それを聞くと彼女は

「そう」

とだけ言って去ってしまった。僕は残されたまま立ち尽くす。風があざけるように僕の頬をなぞった。


 凪沙さんが亡くなった。それを知ったのは数か月後のことだった。彼の師匠である優秀な魔導師であるクロエさんが手紙を寄こしてくれたのだ。

 クロエさんは僕を預かってくれると言った。コウも一緒に。けれど何も考えられないほど思考が停止していた僕は、せっかくの申し出を断った。あの大切な場所を放置するなんてできない。

 現実を受け入れられないまま時間だけが過ぎていく。

 何もせず、お腹が鳴っても食事をせず、夜も眠れない日々が続いた。『感情の雫』宛てにあれだけ届いていた手紙も、今はもう一通、二通ほどしかない。

 ある日コウにしつこく吠えられて、僕はリードを繋いで散歩に出かけた。春の暖かい日差しの中、廃人のような瞳で僕は歩いていた。

 ずっと歩いて、歩き続けていたけれど、ある地点でコウが立ち止まる。引っ張ってもそこから動こうとしない。

「どうした、コウ」

 コウは脇道を見て吠えている。一体何があるというのだろう? 僕はコウについていく。

 足が浮いていた。ゆらゆら、ゆらゆら。手もだらんと重力によって垂れていて、美しい淡い茶髪がなびいている。口にはなにかハンカチのようなものを詰めていて、目にはいっさいの光がなかった。女の子の頭に鳥がとまる。

「あ、あ、」

 息が出来ない。この子は誰だったっけ。

 みつあみをしていないから、きっとちがうはずだ。これはあのこじゃない。しらないだれか。

 足元には白い紙が石で固定されている。

『レイへ もしレイが私を見つけてくれたのなら、どうかこのまま放っておいてください。私はやっぱり生きていけない。生きていてはだめなのだと思う。だってどこにも私の居場所なんてないのだから。レイはまだこっちにきちゃだめよ。あなたは私なんかとは違う。どうか、生きてね。約束よ。ゆびきりげんまん』


 ハンナは指切りげんまんを知ってから、しょっちゅう僕と約束をしたがった。そんなに気軽にしてどうするの、と聞いた。

「2人だけの秘密みたいでいいじゃない」

 ハンナはいたずらっ子のように笑っていた。


 みんな僕をおいていく。みんなみんな、約束だけを残していなくなってしまう。

 ただの形のない約束が、重かった。

 それから僕はどうしたのか、覚えていない。コウと一緒に誰もいない家に戻ると、一匹の迷い猫がいた。

『ニャーン』

 猫は首輪をしていて、それには「スイ」と名前が書いてあった。迷い猫だ。こんなところに迷ってしまうなんて、猫も大変だなあ。

 動物好きのハンナは、猫にも詳しかった。きっとスイを見せたら、「かわいい!」と飛びついてくるだろう。ハンナ、早く来ないかな。



     *



 僕は生きているのか死んでいるのかも分からない状態で、街を彷徨っていた。何人かは僕を見ると怪訝な顔をして、小さな声で「関わっちゃいけないやつだ」と吐き捨てた。

 裏路地に入って座り込んでいると、いつの間にか女性が僕の顔を覗き込んでいる。

「ツラそうねえ。ねえ、あなたも先生のお世話になったらどうかしら? あの方は本当に腕がいいのよ」

「先生……?」

「カンナギ先生っていうの。あの方にかかれば、きっとすべてうまくいくわ。さあ」

 僕は彼女に手をとられて立ち上がった。すると女性だった彼女は黒猫へと姿を変えて狭い路地を抜けていく。「着いてきて」とでも言っているかのように、振り返って僕を見た。

 着いた先は古くて小さな病院だった。黒猫は再び女性へと姿を変え、カンナギ先生、と名前を呼ぶ。

「先生、おもしろそうなのを見つけました」

 僕を見ると、カンナギと呼ばれた男も、

「ああ、本当に。これはいいのを連れてきてくれた」

 と愉快に笑う。何がそんなに楽しいのだ? 楽しいとはいったいどんな気持ちだったか。

 僕は言われるがまま椅子に座らせられる。

「見たところ君には治療が必要だ」

「僕はどこも怪我していません。悪くありません」

「悪いだろう。心が」

「いいえ。どこも悪くありません」

「では言い方を変えよう。君はどうしたい?」

 どうしたい、と曖昧で輪郭のない質問をされて、僕は困惑した。

「私は多くの人を助けたいのだ。君のような、困っている人間を。さあ、君の願いはなんだ」

 願い。

 僕はいつぶりだろうというくらい、頭を回転させた。

 この世界に来るまでの記憶を思い出したい。凪沙さんのようになりたい。誰かに必要とされる人間になりたい。あの病院をまた復興させたい。もっと術を極めたい。

 色々あった。こんな状態になっているのに、願いはなんだと聞かれるといっぱいあった。

 僕は罪深い人間だ。そもそも、僕の根本はなんだっただろうか。

 人を傷つけたくないし、同じくらい傷きたくない。

 そうだ。

 カンナギは僕をずっと目を細めながら見ていた。

「僕は……。僕は、感情のない人間になりたいです。全部全部、もう何もかもいりません」

「そうか! それはすばらしい! 早く君の願いを叶えてあげなくては。……ではさっそく始めよう。こっちに来るといい」

 カンナギに別室に案内され、そこでようやく僕は思い出した。

 この人はたしか凪沙さんの友人だ。親友だ。この人も医者をしていたのか。ずっとぼんやりとしていた僕は、それ以外何も考えられなかった。

「次に目が覚めるころにはきっと君の感情はなくなっている。大丈夫、手術費もいらない。逆にこちらが協力してもらっているような立場だからな」

 腕にわずかな痛みがあり、何か薬のようなものが僕の体に入っていく。色んな器具がつけられた。そのうち意識が遠のいていく。

『ハンナのためならいくらでも泣いてあげる』

(約束、守れなくてごめん……)

 大切な人たちも、大切な約束たちも、僕はすべて無にしてしまった。

 深い深い、海へと沈む。

 この手術が成功して無事に感情がなくなったら、僕はいったい何者になれるのだろうか。


 

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