第28話 何者にもなれないあなた(2)
次に会った時から、いったい何があったのか、ハンナの攻撃的な態度は薄れていた。
「おはよう」
「おはよう、レイ」
ハンナは僕の名前を知っていた。きっと凪沙さんが教えたのだろう。その張本人に提案されて、今日はこうして、コウを連れて2人と1匹で森の中を歩いている。
「へえ、じゃあ、本当の名前は分からないんだ?」
「うん、そうなんだ。今までどこにいたのかとか、そういうのも全部」
「ふ~ん……。それって、幸せね」
「え?」
僕は咄嗟に聞き返してしまった。ハンナは、記憶がないことが幸せだという。そんなことを言われたのは初めてだった。
「だって、そうね。もしレイがここに来る前辛いことがあったとするでしょ。でも忘れていたら、ぜんぶなかったことになる。その場合は、辛いことなんて最初から経験していないのよ」
ハンナは前を見つめながら話していた。僕は彼女の言葉の裏にある悲しさに、そこでようやく気付くことができたのだ。
どこにも自分の居場所がない。それはどんなに苦痛だろう。僕はここにきて最初は居場所どころか何もなかったけれど、それらは全て凪沙さんが用意してくれた。僕を新しくつくってくれた。
けれどハンナにはそんな人はいなくて、家族でさえ彼女をのけ者扱いにしている。食べるものさえ姉弟で違うという。もう一人妹ができてからは特にそうだ。凪沙さんの話を聞いていると、それでもハンナは愛情を求めていた。学校で自分を虐めていた人たちのことも、私が悪いんだからしょうがないと言っていたらしい。
「……えっ、なに? なんで泣いてるの?」
「……あれ? 僕、泣いてる?」
ハンナに言われるまで気づかなかったけれど、僕は突然涙を流していたらしい。
「ちょっと、やめてよもう。どうしたのよいったい」
そう聞かれても、僕は本当に分からなかった。だって、僕は全然悲しくなかったし、泣く気分でもなんでもなかったからだ。だから考えられるのは一つだけだった。
「……ハンナが悲しそうだから」
「え……?」
コウは立ち止まった僕たちに、早く歩こうよと催促するように飛び跳ねていた。足が悪くなると困るので、その場にしゃがみ込む。
「悲しい? 私が?」
「うん」
見ると、ハンナも目に涙を浮かべている。
「私は悲しいの?」
「うん、そうだよ」
涙は次々と零れ落ちていく。
「そう……そっかぁ」
声を上げて彼女は泣きだした。僕の肩口に顔を埋めていたから、服は濃い色に染まっていったけれど、僕は気にしない。ずっと一人で戦っていたハンナの背中をさすった。コウも彼女の顔を覗き込むようにしていた。
帰ると、凪沙さんは目を真っ赤にしたハンナを見て慌てていた。
「ど、どうしたのハンナ。何かあったのかい?」
「ううん……。いいえ、あったわね」
ハンナは僕の顔を見るとにっこり笑った。僕はその笑顔を見た瞬間、心臓が飛び上がる心地がした。今のはなんだったのだろう。胸に手を当てて考えるけれど、その正体は掴めない。
「先生、私、分かったわ。自分の気持ちが」
「ハンナ」
凪沙さんはハンナの両肩に手を置く。
「私はずっと寂しかったのよ……。お母さんとお父さんに私のことを見てほしい。学校の友達ともまた仲良くしたい。一人はいや」
そうはっきりと話すハンナの横顔は、初めて会った日と比べると、別人のようだった。今まであった暗い影はもうすっかりいなくなっている。凪沙さんは何度も「よかった、よかった」と繰り返していた。
ようやく自分の気持ちと向き合えたハンナを目の当たりにして、僕も嬉しく思う。同時に凪沙さんのような医者になりたいという気持ちは益々膨らんでいった。
「ねえ、やっぱりだめですか?」
「……駄目」
今日も許しはもらえない。あと何回言ったら凪沙さんは首を縦に振ってくれるのだろう。誰かの助けになりたい。渚さんに恩返しをしたい。この2つの目的を達成するには、この許しをもらうほかにないはずなのに。
凪沙さんは頑なだった。
でも、いったい何回目だろうか。とうとう凪沙さんの口からは、「教える」という単語が出てきた。でもそれは精神科医になる方法じゃなくて、「術」とやらについてだった。最初はがっかりしたが、話を聞いていくとどんどん興味が出てくる。
「ぜひ教えてください! 頑張ります!」
僕は大きな声で返事をした。
それからの日々は、大変なことも多くあったけれど、毎日がとても充実していた。失敗も沢山重ねて、注意されて怒られて。でもあの凪沙さんに教えてもらえているということが、本当に嬉しかったのだ。
凪沙さんの術は、人の感情を扱うという、俄かには信じがたい術だった。これは危険だからむやみやたらには使わないというのが彼の口癖だった。じゃあなぜ教えてくれるのですか、と聞くと、
「零を信用しているから。……それと、零の気持ちは本物だと思うからだよ」
と答えた。
「零もこの術は濫用しないこと。……ほら、約束だよ」
凪沙さんは僕の前に小指を立てて手を出した。
「これは?」
「約束するときは、こうするんだよ。ほら、零も手を出して」
僕は言われた通りに手を出して小指を絡ませると、凪沙さんは短い歌のようなものを歌った。
「それ、知ってるような気がします……」
「本当⁉ 零の記憶が戻る日も、もしかしたら近いのかもしれないね」
凪沙さんは自分のことのように嬉しそうだった。こんな人を裏切るような真似は絶対にしない。僕はそう強く誓った。
「ありがとう。零がいてくれてよかった」
次の日になり、ハンナがやってきた。
近況を話していると、ハンナは目を輝かせて「それはすごいわね」と笑った。
「レイ、頑張ってるんだ」
「凪沙さん、術のことになると厳しくなるんだけど、期待されているような気がして嬉しいんだ」
「そう。いいことじゃない。……ねえ、聞いてレイ! 私ね、また中学院へ通えるようになるために、スクールに行くことになったのよ」
「スクール?」
スクールもその中学院やらと同じところじゃないかと思ったが、どうやら違うようだ。スクールとは、それぞれの事情で学院に行けない子たちが通う学校らしい。そして、「学校」という環境に慣れることができたら、学院に戻るのだとか。
「少しずつだけど、レイが頑張っているなら私も頑張りたいの。自分の居場所は自分でつくるものなのよね。ゆっくり自分のペースでいいってナギサ先生も言っていたし、レイの成長スピードにはついていけないと思うけど」
「そんなことないよ!」
僕はハンナを心の底から尊敬している。ハンナは僕よりもきっと、遥に強い人間だから。
「ふふ、そう? ねえレイ、お願いがあるの」
「お願い?」
「そう。もしまた私が悲しくなったら、私のために泣いてくれる?」
ハンナはそう言った後すぐに、「ごめん、冗談よ」と訂正した。けれど僕は、ハンナの言ったことは別に難しいことではないし、仮にお願いされていなかったとしても自然にできるような気がした。
「いいよ」
僕が答えると、ハンナは驚いたような顔を見せた。
「レイ、だから、冗談だって」
「僕はハンナが困っている時、助けになりたいんだ」
凪沙さんが僕にしてみせたように、小指を一本立てて手を差し出した。
「なにそれ?」
「指切りげんまん。凪沙さんに教えてもらったんだ。僕はハンナのためならいくらでも泣いてあげる。約束だよ」
小指をつなぎ、歌に合わせて手を上下に揺らす。歌が終わると同時に離した。
「へんなうた」
ハンナは楽しそうに笑っていた。
時間は少しずつ、ゆっくりと流れていく。
「誕生日おめでとう、零!」
「おめでとう」
「ありがとうございます……!」
この日は僕が凪沙さんに拾われてから2年が経った日だった。僕は自分の誕生日も勿論分からないから、この日を誕生日として祝ってもらったのだ。ハンナは自分も参加したいと言って、ケーキを買ってきてくれたのだ。
こんな時間がずっと続けばいいのにな、と思う。変わらないことは変わることより難しいのかもしれない。
*
修行が続くにつれ僕は結界というのも張れるようになり、凪沙さんの式神とやらも紹介してもらった。桔梗と梅。梅は最初綺麗な女の人だと思ったけれど、人間でいうと男の分類になるらしい。騙されてしまうぐらい綺麗だった。
そして一番嬉しかったのは、病院の手伝いをさせてもらえるようになったことだ。凪沙さんは極力術を使わなかったが、どうしてもやむを得ない瞬間は出てくる。その時は僕が助手の立ち位置に立って、一緒に作業をするのだ。
凪沙さんに必要とされている。その感覚が心を満たしていって、幸せだった。
僕が手伝いをできるようになってから少し経った頃、その日、凪沙さんはいつもと違ってずっとそわそわしていた。
「凪沙さん、今日はなんか落ち着きがないですね」
「そうかい?」
凪沙さんは不安や焦りというより、嬉しさから落ち着きがない様子だった。聞けば、元いた世界の友人が来るそうだ。こんなに嬉しそうなんだ、余程仲のいい昔からの友達なのだろう。
でもその友人は来てから会話を弾ませることもなく、すぐに帰ってしまった。
「凪沙さん」
僕は悲しそうな背中に声をかける。いったいこの2人に何があったというのだろう。ろくな言葉も思いつかず、凪沙さんを見てただ自分も悲しくなるだけだった。
「大丈夫」
違う、大丈夫なんかじゃない。今の僕には凪沙さんの気持ちが手に取るように分かる。
昔からそうだった。大して親しくない周りの人でも、ああ、この人はいま苛々しているなとか、悲しんでいるなというような感情が、僕の意思とは別に、勝手に流れ込んでくる。これは一見すると何かの特殊能力かのように思えるがそんなことはなかった。むしろ迷惑で、自分を疲弊させる以外のなにものでもなかった。
そのうち僕はこれが自分の感情なのか、はたして誰かの感情なのか、区別をつけるのが難しくなった。たとえば今何が食べたいかと聞かれても、自分の食べたいものが分からない。これが食べたい、と言われたら僕もそうなのだと思う。
そして僕には人の言葉の裏を過剰に考えてしまう癖がある。誰かを傷つけてしまうのなら、僕自身が傷ついてしまうのなら、最初から一人でいたほうがいい。そのほうがずっと気が楽だ。
そこでようやくはっとした。
昔から? 僕の癖?
まだ自分の名前すら思い出せないが、もしかすると少しずつ無意識の記憶が戻っているのかもしれない。僕は凪沙さんにそれを伝えた。
「そうか! それはいい兆候だ。……でもね、前から思っていたんだけど、やはり君は真面目すぎるんだ。そうやって生きるのはよくない。もう少し自分勝手に生きてもいいと思う」
「真面目、ですか」
「うん。どう頑張っても、みんながみんな幸せな世界にはならないんだよ。厳しいことを言うようだけど、君一人我慢して気を遣ったところであまり変わらない。だからもっと我儘になったっていい」
そうして、幼い子どもにするように、凪沙さんは僕の頭を撫でた。
「や、やめてください」
「あはは、照れてるの?」
ああ、凪沙さんはすごい。こうも簡単に僕の心を救ってくれる。
なのに、どうしていなくなってしまったんだろう。
机の上には手紙が置かれていた。
たった一行の短い手紙だ。
『自分を大事にしなさい。これが本当の約束』
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