第27話 何者にもなれないあなた(1)
僕は空っぽだった。自分が誰なのかも、どこから来たのかも、どんな家族がいたのかさえ分からない。森の中で倒れていたということさえ覚えていない。そのくらい何も覚えていないのだ。
目が覚めると知らない部屋に横たわっていた。凪沙、という男が僕をここまで運んでくれたそうだ。自分の名前や住所を聞かれたが、なんにも答えられなかった。こんな得体の知れない少年などすぐに追い出されるだろうな、と思っていた。でもその人はここにいていいと、優しく声をかけてくれた。神様か天使か、どちらにせよそういう類のものに見えたのだ。
やせ細っていた僕に食べ物を与えてくれた。衣類を与えてくれた。部屋を与えてくれた。
僕は何もしていない。何もできない。それなのになぜここまで親切にしてくれるのか、意味が分からなかった。
「あっ」
その日の夕食、凪沙さんが作ってくれたスープを零してしまった。皿の中のスープはほとんどなくなり、代わりに僕の服と床を汚した。怒られる、と無意識に頭を手で隠した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんんさいごめんなさい」
凪沙さんの手が伸びてくる。殴られる、と思った。
「どうしてそんなに怯えるの。大丈夫だよ。殴ったりなんか絶対にしない」
「……どうして? なんで怒らないの?」
殴るどころか怒りもしない凪沙さんが不思議だ。それどころか、「着替えを持ってくるよ。君は床を拭いてて」と僕の服を取りに行く始末だ。
頭の上には無数のクエスチョンマークが浮かんだ。
この人は僕を傷つけたりしない。理由は分からないけれど、人に傷つけられることを過度に怯えていた僕は、凪沙さんを「安全な人間」に位置付けた。
一緒に生活して分かったことがある。それは、この人には人を救える力があることだ。
何かのお店だと思っていたこの場所は、どうやら病院だったようだ。ここには心に傷を負った人が訪れる。みんな凪沙さんに救いを求めている。中には心を治療してもらっているのに、暴言を吐く人もいる。
僕はその声を聞くたびに胸が痛んだ。まるで小さくて鋭い針のように僕の耳を突き刺す。どんな仕事をしているのか気になって1階に降りていったことがあるのだが、その無数の針に耐え切れず、自分の部屋に戻って布団に包まった。ずっと耳にこびりついているみたいで気持ち悪い。
やはり何も刺激のない空間は落ち着く。自分を攻撃するものは何もない。そのうち睡魔がやってきて、僕はそのまま眠ってしまったようだった。
「――み、君」
誰かに布団ごと揺さぶられる。
「ご飯にするよ。起きて」
それは仕事を終えた凪沙さんだった。
凪沙さんの作るご飯はいつも美味しい。今日のご飯は肉じゃがだ。
僕は何も聞かないでおこうと思ったけれど、ずっと喉に引っかかってむずむずするので聞いてみた。
「今日、怖くなかったですか」
「怖い?」
「あの男の人です。俺を馬鹿にしてるのかって、怒ってた人」
「ああ、あの人ね」
凪沙さんは思い出して笑った。
「まあ、驚きはしたね。でも慣れているから。というか、君、見てたんだ」
慣れる? 凪沙さんはあの鋭い針に慣れたというのか?
僕は信じがたかった。一生かけてもできそうにないからだ。離れたところに隠れていても息苦しさを感じたというのに、真正面であれを受けるなど、きっと僕は呼吸困難にでも陥ってしまうだろう。
「ああいう人も、自分を守るために攻撃しているんだよ。だから自分は味方だと知ってもらうことが大事なんだ」
「……僕には分かりません」
「君はまだ分からなくても大丈夫だよ」
優しさで言ったはずなのだろうが、今日の出来事で警戒心も異常に高くなっているのか、凪沙さんの言葉の意図を模索してしまった。ああ、本当に自分が嫌いだ。
それからまた時間が経った。他の人ならもっと時間がかかっていただろう、しかし、相手が凪沙さんだったから、少しずつ心を許していくことができた。「安全な人間」という位置づけは正しかったようだ。
凪沙さんはこの世界の文字を教えてくれた。僕はこんなに親切にしてくれているのだからと、毎日学ぶことを欠かさなかった。凪沙さんは僕の上達のスピードに驚いていた。褒めてくれた。僕は嬉しくて、またどんどん勉強した。
その日も一日が終わろうとしていて、自分の部屋に戻るところだった。
「ちょっといいかな」
凪沙さんに呼び止められる。
「自分の名前は思い出せた?」
僕は必死に考えて、記憶を手繰り寄せようとした。でも僕は変わることなく空っぽで、なにも浮かんでこない。
「……だめです」
落胆する僕に、凪沙さんは言った。
「そっか。いや、それならそれでいいんだ。ただ、名前がないのは不便だと思ってね。ずっと『君』って呼ぶのもいやだし。なんだか他人みたいじゃないか」
それを聞いて、僕は他人じゃないのかと驚いた。じゃあこの人は僕をどう思っているのだろう。
「零、という名前はどうかな」
「れい」
これは、僕の名前? あまりにも綺麗な響きに、誰か知らない人の名前だと疑う。
「漢字ではこう書く」
凪沙さんは持っていた紙にわざわざ書いてくれた。記憶は失っていたが、漢字はすらすらと読むことができた。
「どうしてこの漢字にしたんですか?」
零という字は、「ぜろ」とも読める。なんだか何もない自分をそのまま名前にされたような気がして、聞いてしまった。
「君はほとんど何もない状態でこの世界へ来た。だからここで少しずつ記憶を取り戻して、色んなことを吸収してほしいんだ。」
凪沙さんは、この店の名前とも合わせて考えたんだ、と話す。
「僕は、感情は水のような水滴の重なりでできていると思っている。だから本人にも他人にも掴めないんだ。その水滴が心に落ちることによって揺らぎが生じる。それにはいい揺らぎも悪い揺らぎもあるね。零には、色んな人に優しい雨を降らせてほしいんだ」
そう言うと、照れたように笑った。
優しい雨を降らす。それは僕も凪沙さんのように人を救うということだろうか?
絶対にできない、難しいだろうと、自分で自分を否定する。傷つけられることに人一倍怯えている僕だ、救うということは自分が傷つくということだ。
そうは思っても、僕は純粋にこんなに考えて名前をつけてくれたことが嬉しかった。名前なんてもう思い出せなくてもいいと思っていたけれど、名前があると存在を認めてもらえるような気がした。
時間をかけて考えてくれた名前だと思うと、体が急激に熱くなった。
人に優しくする。人を救う。僕は凪沙さんのような人になりたい。
そしていつか、僕も必要とされるような人間になりたい。
でもそれ以前に、僕は凪沙さんに恩を返せていないことに気がついた。どうにかして何かできないかと考えた結果、凪沙さんのような医者になることに行きついた。これなら名前の通りに生きれるし、凪沙さんの力になれる。
翌朝、すぐに伝えに行った。しかし時間をおかずに断られる。
「もしかして、何もせずここにいるのが悪いと思ったのかな? そんなことはないよ。零はただここにいるだけでいい」
僕はどこか馬鹿にされているような気がして、子ども扱いをされているような気がして部屋を出た。恩返しがしたくて言ったのに。今日はしばらく戻らないと決めた。
森に出ると、自分が倒れていた日のことを思い出す。ここに来るまで何をしていたのか、柔らかい草の上に寝転がって考えてみるけれど、ただ風が心地いいだけで全く分からない。もしかしたら一生思い出せないのかもしれない。
起き上がってまた森の中を進むと、一匹の子犬がいた。どこかで見たことがあるような犬だ。怖がらないように少しずつ近づいて抱き上げる。その軽さに慌てた。
「お前も迷い込んできたのか?」
言葉が通じないのは分かっているけれど、思わず話しかけてしまう。このまま連れて帰りたかったが、きっとこの子にも家族がいる。そう考えた僕は子犬を降ろした。じゃあな、とどこか別の場所に行こうとしたけれど、あまりにも悲しそうな声を出すのでまた同じ位置に戻ってきてしまった。この可愛さに勝てる人はいるのかが疑問だ。
僕はそのまま子犬を抱いてあの家へと戻る。計画ではこんなに早く戻る予定じゃなかったのに。
ドアを開けると、凪沙さんともう一人、女の子がいた。僕と違って柔らかな茶色の髪をしていて、三つ編みでまとめている。彼女は腕の中の子犬を見ると、柴犬、と口にした。
柴犬。どこかで聞いたことがある気がする。この人は動物が好きなのか、とそのまま立っていると、
「……何。あんたも私を馬鹿にしてるの?」
唐突な攻撃に、体が固まってしまった。鋭い目つきで睨まれる。凪沙さんに指示されたこともあって、僕は自分の部屋へと行った。
驚いた。優しそうな見た目をしているのに、彼女の態度はいきなり急変するのだから、そのままぐさりと刺さってしまった。凪沙さんが言っていたことを実践する。
『何か言われた時は、一度もう一人の自分を前に立てて、それを客観的に見るようにするんだ。そうすれば少しは直接的な痛みは避けれる』
さらに深呼吸もして自分の気持ちを落ち着かせた。
「大丈夫……うん、大丈夫」
子犬はそんな僕など気にせず部屋中歩き回っていた。
それからなんと凪沙さんに飼ってもいいと許可してもらえたので、コウという名前をつけて沢山可愛がった。同じ森の中に一人でいたということから、僕はコウに対して親近感が湧いていたのだと思う。
ある日散歩に行ってから帰ってくると、そこにはまた、あのハンナという女の子が来ていた。緊張を感じながらも挨拶すると、
「……こんにちは」
と、小さく低い声だったが返してくれた。僕はたった5文字の言葉に大きな満足感を得た。一方で、
「動物は裏切らないもの」
という言葉には、なぜだか引っかかりを覚えた。その後またハンナに怒られてしまったので、今日もやってしまった、と脳内で一人反省会が始まる。
夜になって、僕はハンナについて尋ねた。
「凪沙さん、ハンナって、何が原因でここに来てるんですか?」
凪沙さんは「うーん」と考えて、零になら教えてもいいか、と言った。
どうやらハンナの両親は昔離婚して、母が再婚したらしい。そして新しい夫との間で子どもが生まれた。そこではハンナは母の連れ子という立場だ。母は大好きな新しい夫との間にできた子どものことを可愛がった。家の中のハンナの居場所は消えていてしまう。
学校でもハンナの存在は浮いていたらしい。ハンナは家庭で自分の居場所がなくなっていく恐怖と、自分は自分が守らなければという意思から、周囲への当たりが強くなっていった。今まで仲の良かった友人もハンナと距離をとるようになる。周りと関わろうとせず、協調性のないハンナが気に食わないグループが現れて、徐々にいじめが始まっていった。担任の先生も問題を大事にしたくないためか、特に注意しようとしない。
もう何も考えたくない。消えてしまいたい、死にたいと思っていたところ、ここを見つけたようだった。
「……そうだったんですか」
僕はハンナの話を聞いてから、前に感じていた彼女への恐怖が薄れていく感じがした。それに彼女は、なぜか他人だとは思えない。いつの間にか、もう少し話してみたいという気持ちが芽生えていた。
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