第25話 懐古(5)
ここは一体どこだろう。光が差さない暗闇の中。たった一人の青年が歩いている。どこまで行っても視界には黒しかなくて、永遠に続くんじゃないかと思わされる。
もう諦めよう。青年はそこに留まろうとした。なんだかすべてがどうでもいい。
ふと後ろを振り返ると、闇に溶けそうな黒髪をもつ男が現れる。
「零」
男は自分の名前を呼んだ。
「零」
その顔を凝視したまま黙っていると、もう一度名前を呼ばれる。
「君は自分と向き合わなければならない。己を取り返すんだ。そうしなければ、いつか――いつか後悔するだろう」
男は零に歩み寄ると、背中を押した。
「行きなさい。大丈夫。ずっと傍にいるよ」
男の手は温かく、慈愛に満ちているようだった。カーテンが開くように光が差す。今までの闇が嘘のようだ。青年の体は宙に浮いて、その光に吸い込まれていく。
「凪沙さん!」
目を開けるとそこは病室だった。
「ここは……」
下半身に重みを感じる。確認すると、それは見知った人物だった。
「ノアさん、マシューさん」
子どもの幼さが滲む寝顔は、安心感を感じさせる。すー、と小さな寝息が響いていた。いつからここに居たのだろう。零が体を動かして体勢を変えても、てんで起きなかった。
看護師が部屋を通りかかると零が目覚めたことに気づき、「先生!」とぱたぱた足音をたてて呼びに行った。
2人を優しく揺らすと、「ん〜」と眠そうに目を擦る。
「て、店主さん! 目が覚めたんですか!」
「えっ、本当!?」
ノアに続けてマシューも声を上げる。
「よかった……! もう、起きないのかと思った……」
ノアは力が抜けたのか泣き出してしまった。
「兄ちゃん、大丈夫?」
マシューが兄にティッシュを手渡す。ノアはそれを受け取ると思い切り鼻をかんだ。
「ノアさんは、なぜ泣いているのですか?」
「はあ!?それふつう聞きますか」
今度は自分でティッシュを何回も取り出して涙をふいた。
「心配だったんだよ、店主さんが。3週間もこのままだったんだから」
「3週間……?」
零は自分の体を触った。両足と左腕、そして頭には包帯が巻かれている。動かせないわけではないが、動くたびに激痛が走る。ノアとマシューの隣には桔梗が立っていた。
「主様、申し訳ございませんでした。あの時私が主様の代わりになっていれば……。お仕えする身として失格でございます。どうぞどのような罰でもお受けいたします」
深く頭を下げる桔梗に、零は謝るなと言った。
「そんなことを言うな。桔梗はよくやってくれた。ありがとう」
「主様……」
比較的怪我が軽い右腕を伸ばす。桔梗は頭を軽く叩かれると俯いて、そのまま姿を消してしまった。
零はノアとマシューに向き直る。目を真っ赤にさせたノアは何度も瞬きをした。よく見ると、マシューにも涙の痕がある。
「僕がいない間、大丈夫でしたか。学校は?」
「なんてことない。俺たちは今まで2人で暮らしてきたんだ。平気ですよ」
ノアは力強く答える。「そうでしたね」と零は言った。病室には少しの間静寂が訪れる。ふと、零が口を開いた。
「……名前を思い出したんです。僕の名前」
換気のために開けられた窓からは爽やかな風が入る。病院のすぐ傍には木が植えられていて、その葉がひらりと舞っていた。
「僕は、零、と言います。凪沙さんにあの日、森の中で拾われたのです」
零は、断定的ではあるが凪沙と過ごした約4年という、長いようで短いような日々を思い出していた。
あの人はいつも穏やかだった。訪れる人々に寄り添い、話を聞き、決して否定することはしない。どうしてもという時にだけ、術を使った。零はそれを間近で見ていた。そんな優しい人があの悪魔に命を奪われるなんて、あってはならないことだ。いつか絶対に罰を下してやりたい。
そこで零ははっとした。どす黒い感情に自分が支配されている。御巫の手術を受けてから一度もなかったことだ。記憶も、そして感情も少しずつ戻ってきている感触がある。
「ノアさん、マシューさん。もう少し、あの場所を頼めますか」
「任せといてよ、レイさん!」
「うん!」
零は足の骨が折れているということだったので、魔法で治癒力を高めてもらいながらリハビリに励んだ。おかげでそう長い期間をかけずに無事退院することができた。
「レイさん、もう怪我は大丈夫なの? 店はもう少ししてからでいいんじゃないのか?」
ノアがそう言っても、零は「大丈夫です」の一点張りだった。
「お店、掃除してくれていたのですね。ありがとうございます」
「まあな。マシューも一緒にやったんだ」
ノアは誇らしげに胸を叩いた。
明日からの店の開店に備え、零はもう一度整理を始めた。凪沙が残したノートも見直す。
『1.感情を抜く時(本人のもの)』
筆跡を指でなぞると、凪沙の笑顔がすぐ隣にあるような気がした。
「やっと、やっと……」
零は散々読まれて分厚くなったノートを抱きしめた。まだ大量に積まれている他のノートにも目をやる。
そういえば、以前は術について書かれているノートにしか興味がなかったのを思い出し、零は一番下に置かれているものを開いた。
『今日はクロエさんに風を操る魔法を教えてもらった。昨日よりはできるようになったけれどやはり難しい。また失敗して、干してあった服を飛ばしてしまった。こればかりは怒られた』
中身は凪沙の日記のようだった。あの人も昔は失敗していたのか、と零は不思議に思う。親近感も湧いてくる。そこからさらに読み進めていくと、
『驚いた。森の中で少年が倒れていた。外傷はなさそうだが、どうしてあんなところに。しかも自分の名前も、家も覚えていないようだ。うちでしばらく面倒を見るしかないだろうか』
と、自分がここへやってきた時のことが書かれていた。この日もし凪沙が見つけてくれなかったら、自分は今頃どうしていたのだろう。そこから先は、零は意外と頑固だとか分かりやすいだとか、零が犬を拾ってきた、精神科医になりたいと言ってきたなど、零に関することが沢山書かれていた。
『今日の夜は零が作ってくれた。見た目はすごく美味しそうなのに、食べてみると、なんというか、絶妙に変な味がする。これは一種の才能じゃないだろうか。作ってあげたいという気持ちだけでも嬉しいのに』
ノートにはぽつり、ぽつりと、まるで霧雨が降り始めたコンクリートのように、幾つもシミができていった。
「凪沙、さん」
苦しい。
「どうし、て」
雨はずっと降っていた。胸が苦しい。生きるということはこんなにも痛いものだったのか。
たとえばたった1つの感情があるとして、身体はそれを吸い込んで大きな刺激を受けるというのに、人には無数の感情が存在するのだから、身の回りの出来事によって心は反芻して疲れてしまうに違いない。それを抱えて生きている人間は、本当に立派である。だから抱えきれず手のひらから零れ落ちてしまうような誰かがいても、決して不思議なことではない。
零はずっと、痛みから逃げたかったのだ。自分ひとりの手のひらでは足りなかった。
その瞬間、頭に激痛が走った。
「ゔ、うう……」
咄嗟に床に丸くなって痛みに耐えた。息を荒くして頭を抱えていると、脳裏にはあの少女が浮かび上がってくる。
『私は……たい、やっぱり、だめみたい』
『ごめんね』
その少女は、いつも夢の中に出てくる少女だった。夢では時間が進むことなく、いつも同じところで終わる。
名前の知らない謎の少女だと今まで思っていたが、ようやくその正体が判明した。
「ハンナ、君だったのか」
零は店の物置に行った。ここには凪沙の遺品や、かつての患者のカルテなどが保管してある。もともとここは凪沙の部屋だった。探してみると、「ハンナ・クラーク」と書かれているカルテがあった。年齢は7年前当時で16歳と書いてある。
学校でのいじめ、母の連れ子で家庭でも扱いが雑であること、ネグレクトを受けていることなど、様々な事項が書かれている。自傷行為あり、とも。
そんな彼女が夢の中ではいつも楽しそうに笑っているのだ。
零は懸命に思い出そうとするものの、やはりまだ記憶は完全には戻っていなくて、彼女の性格や自分との関係などは分からなかった。
「零さーん、ご飯だよー」
「はい」
零はノアに呼ばれ2階へ上がる。
「いつも作ってもらってばかりですみません。たまには僕が」
「あ、それは大丈夫!」
ノアに笑顔で拒否された。前の零なら普通にしているだろうが、今はどこかしょんぼりしているように見える。
「今日は退院祝いで豪華にしたんだよ!」
マシューは嬉しそうに言う。その言葉通り、テーブルの上には溢れそうなぐらいの料理が並んでいた。
「全部ノアさんが作ったんですか?」
「いや、さすがにここまではできないよ。さっきマシューと一緒にチキンとピザを買って来たんだ。あとケーキもありますよ!」
「そうだったんですか。ありがとうございます」
それから3人で賑やかな食事が始まった。ノアの学校では、零が入院している間に飛行大会があったらしい。決められた地点から学院までを、どのくらい早く飛べるかという大会だ。なんとノアが一位だったらしい。優勝賞品として箒のケースを貰ったという。誇らしげに「余裕だった」と語っている。
一方マシューは、点字を習い始めてからというものの、点字で書かれている本ならほとんど読めるようになった。これで兄ちゃんに読んでもらわなくても自分で読める、と嬉しそうだ。そんな弟を見てノアはどこか寂しそうな表情を浮かべていた。零は最近あったことを話す2人を眺めていると、心が温かくなるのを感じた。廃ビルから転落して以来、手術される前の記憶だけでなく、感情までもが内側に湧き上がってくる。久しぶりの人間としての当たり前にまだ戸惑っていた。
「ノアさん、これは?」
零は並べられている料理を指さす。
「ああ、これ? 卵焼きって言うんですよ。昔母さんに教えてもらったんだ」
「卵焼き……」
フォークで一切れとって口の中に入れる。柔らかい甘さが広がった。
「おいしい……」
「兄ちゃんの卵焼き、時々焦げちゃうんだけどすごくおいしいんだ」
味わって食べる零とテーブルを挟んで、「一言余計だ」とマシューが弟の頭を軽く叩く。
「ごめん兄ちゃん~」
「まったく、お前は……え⁉」
ノアは零を見て驚く。
「どうしたの兄ちゃん?」
零はご飯中だというのに、涙を流していた。
「レイさんが泣いてるんだ。えーっと、どこかまだ痛むんですか?」
成人男性が無言で、そして静かに涙を流す状況に、ノアは慌てふためいていた。零が泣いていることを知ったマシューも、「大丈夫レイさん⁉」と心配している。
「大丈夫、ごめん……。ちょっと、卵焼きで思い出して」
零の脳裏には凪沙の顔が浮かんでいた。自分は料理が下手だから、掃除や洗濯は零がやって、料理は凪沙が担当していたのだ。凪沙もよく卵焼きを作ってくれた。卵焼きの他に彼は日本の料理が得意だった。
ノアとマシューは顔を見合わせる。そして、ふふっと笑った。
「?」
零にはなぜ2人が笑っているのか分からない。
「すみません、レイさんがこうして記憶を思い出しつつあるのと、いま自然体で話してくれたのが嬉しくて……」
「そんな話し方、してましたか」
「あーっ、また元に戻った!」
マシューは眉を上げて怒った。零は自然な話し方というのがどのようなものが見当がつかないが、これから少しずつ、色んなことを知っていければいいなと思う。
ホールケーキのチョコには、『退院おめでとう』の文字が描かれていた。3人では全て食べきれないので明日に残しておく。
楽しい、とはきっと、美味しいものを食べて笑い合うことだ。零は今の状況に既視感を覚える。
*
『誕生日おめでとう、零!』
『おめでとう』
『ありがとうございます!』
青年と、少女と少年。
ろうそくを消すと暗闇が現れ、そして明かりがつく。拍手の音が響いた。森の奥の建物の小さな空間。もう戻ることはないし、過去を美化しすぎているのかもしれない。けれど確かに、あの頃に戻りたいと思えるような愛しい時間は、たしかに存在していたのだ。
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