第24話 懐古(4)

「どうして」

 零が凪沙のことを思って提案した考えだった。こんなにもばっさりと断られるとは想定しておらず、悲しさと苛立ちが込み上げる。

「凪沙さんの力になりたくて言ってるんです。どうしてだめなんですか」

 凪沙はそれを聞くと微笑んだ。

「ありがとう。でもね、零にはただ話を聞いてるだけに見えるかもしれないんだけど、それだけじゃないんだよ。精神科医は誰にでもなれるようなものじゃない」

 諭すような言い方に、零はますますむっとしてしまう。

「もしかして、何もせずここにいるのが悪いと思ったのかな? そんなことはないよ。零はただここにいるだけでいい」

「……僕、ちょっと散歩に行ってくる」

 食器を片付けると、零はそう言って部屋を出ていった。

「あまり遠くに行かないようにね」

 凪沙はずっと余裕そうにしているので、今日は遅く帰って心配させてやろうと零は考えた。

「あれ」

 鮮やかな緑色の中を進んでいると、一匹のまだ小さな犬がいた。耳はピンと立っていて、反対に尻尾は丸まっている。

「お前も迷い込んできたのか?」

 抱き上げると小さな子犬は本当に軽くて、軽く力を入れただけで骨を折ってしまいそうなくらいだった。

「悪いけど、今は何も持っていないんだ。……家族に会えるといいな」

 零は子犬を地面におろすと、そのまま歩き出した。しかし「クゥ~ン」と寂しそうに鳴くので、そのまま放っておけずにまた抱き上げた。人懐っこい子犬の魅力には勝てず、仕方なく店に戻る。凪沙を心配させる計画は早くも終わりを迎えることになった。


「ただいま……」

「おや、随分と早かったね」

 凪沙は嬉しそうに零を見る。零の機嫌は再び悪くなっていった。

「……あれ、その犬は」

「柴犬、ですね」

 凪沙の話を遮るように、薄い茶色の髪をした少女が言った。

「ハンナは動物に詳しいんだね」

「ええ。……好きよ、動物は」

 ハンナと呼ばれるその少女は零と同じくらいの年頃だった。柔らかそうな雰囲気を身にまとっている。しかし零と目が合うやいなや、

「……何。あんたも私を馬鹿にしてるの?」

「えっ」

 鋭い目つきで零を睨んだ。

「ハンナ、彼はそんなこと思ってはいないよ。……ごめん零、えーっと、そのわんこは零がどうにかして。僕はもう少しハンナと話をするから」

「……はい」

 凪沙は早口で指示をする。零もハンナの目に圧され、2階へ行った。

 零は濡れたタオルで子犬の足を拭き、とりあえず自分の部屋に放した。子犬はそこら中の匂いを嗅ぎ、決して広くはない部屋を大冒険している。キッチンから鶏のささみを持ってくると子犬の目の前に手をやった。勿論、待てやおすわりは分からないので、出してやるとすごい勢いで食べている。

 その姿が可愛くて、零は持ってきたささみを全てあげてしまった。あの森の中ですぐに別れるつもりが、ここで飼いたい、という気持ちまで変化している。凪沙は許してくれるだろうか。

 一日の診察が終了し、2人で食卓を囲んだ。

「……ねえ凪沙さん」

「分かっているよ。今日拾ってきたわんこを飼いたい、って言いたいんでしょ?」

 やっぱりこの人には何でもお見通しだ、と零は肩をすくめた。

「診察の邪魔にならないように。あと、お世話は基本零がするんだよ。」

「! いいの?」

「ちゃんと名前をつけてあげるんだよ」

「分かりました!」

 零は元気よく返事をした。やっぱりこの子は分かりやすい。先に食べ終わった凪沙は頬杖をついて、さっきよりは明らかに食べるスピードが早くなっている零を見守っていた。

 部屋に戻ると本やら小物やらは床に散らかっていて、布団も床についてごちゃごちゃだった。

「あー! お前!」

 𠮟るにも何も汚れなんてしらないような澄んだ瞳で笑いかけてくるので、こういう時はしっかり怒った方がいいのだろうが、あまりのかわいさにただ抱っこをして見つめるだけで、怒れない。これは先が思いやられそうだ、と項垂れた。

 ところで名前はどうしようか。凪沙のように深く考えて名づけができる自信がなく、まず片付けから始めようと本を拾い上げた。

「ん?」

 その本は零がこの世界の文字を習い始めていた時、凪沙が与えてくれた絵本だった。『コウの神隠し』というタイトルが書かれている。その主人公は仲間思いで明るく、けれどどこか抜けていて、周りから愛されるようなキャラだった。大きな瞳もどこか目の前の子犬に似ているから、自分の「零」という名前に比べたらかなり安易だと思うが、なんとなくしっくりきたのでコウにしようと決めた。

「お前は今日からコウだ。ちゃんと覚えろよ!」

 頭を撫でようとすると甘噛みされる。

「いてて」

 痛がる零を見てコウは尻尾を振っていた。



     *



 昨晩の雨は最初から降っていなかったかのように晴れている。散歩から零とコウが帰ってくると、あの日の少女がいた。凪沙によると、どうやらハンナは長期的な治療が必要な子らしい。

「こんにちは」

「……こんにちは」

 零が挨拶をすると、警戒心は相変わらず高いが返してくれた。ハンナの周りにはまるで見えない壁があるようだ。一定の距離以上は近づけない。凪沙と話している時とは別人のような挨拶をされたが、コウを見るとハンナの表情は一気に明るくなった。コウも警戒心は高いが、ハンナに対してはよく懐いている。

「本当に、ハンナは動物が好きなんだね」

「動物は裏切らないもの」

 零はその言葉に引っかかった。

 動物は裏切らない。その言葉の裏について考えていると、

「……なによ。ジロジロ見て」

「あ、ごめん」

 ハンナの顔をずっと見ていてしまったようで、今回も怒られた。

「じゃ、じゃあ、僕行きます」

「ああ、手洗いも忘れずに」

 凪沙はそう言うと、再びハンナに向き合った。

「ハンナ、彼はちょっと変わったところもあるかもしれないけど、素直でいい子だよ」

「嫌いとは言ってないわ、別に」

 ハンナは顔を横に背けた。

「よかったら仲良くしてほしいな」

「……考えとくわ」

 ハンナは凪沙が零を拾う時期とほぼ同じ時からここに通っている少女だった。家庭では親に放置され、学校では友達に嫌がらせを受けている。自分の居場所がなくなって自殺を考えふらふら彷徨っていたところ、偶然「感情の雫」を見つけたらしい。ここは病院らしくなくていい、と少女は言う。

 凪沙が仲良くしてほしいと言ってから、ハンナは零と少しずつ距離が縮まっていった。もしかしたら彼女自身、きつく当たってしまったことを申し訳ないと思っているのかもしれない。凪沙は、ハンナが本当は愛情に飢えていて、人に裏切られようとも人を求める、寂しがりやな女の子であることを知っていた。

 この調子なら術を使わなくてもいいかもしれない。凪沙は安心した。


「ねえ、やっぱりだめですか?」

「……駄目」

 ハンナの容態に満足する一方で、凪沙は零に頭を悩まされていた。一度断ってから暫くは大人しかったものの、最近になってまた「精神科医」になりたいと言ってくるようになったのだ。

「そうたやすくなれるものではないと言ってるだろう」

 この世界では精神科医になるための学校はないし、自分もしっかり教えられる自信がない。凪沙の中の良心が「教えてやれ」と言っていても、もしそれで患者に失礼なことがあればやり直しなどできない。

 しかし零はあまりにもしつこいので、とうとう凪沙は交渉した。

「……じゃあ、零には僕自身と師匠で開発した術を教える」

「師匠? 術?」

 零は目を丸くする。凪沙がそれについて説明すると、胡散臭いものを見るような目はたちまち輝いていった。

「ぜひ教えてください! 頑張ります!」

 それから師匠と弟子の関係が始まった。少し前までは自分が教えてもらうばかりだったのに、凪沙は教える側になっていることに感慨深く感じる。あの人はお元気だろうか、とクロエを思い浮かべた。

 零はみるみる才能を開花させ、ついには結界まで張れるようになった。

「わあ、すごい!」

「……っ」

 自分の張った結界を見てはしゃいでいるようだったが、一方で凪沙はその秘めたものに驚きを隠せなかった。凪沙の結界はある一定の範囲までしか作用しない。しかし零のものは、師匠である凪沙よりも広範囲に及んでいた。与えた知識を貪欲に吸収している少年に夢中になり、凪沙は自分の持ちうる術を惜しみなく与えていった。


 『もしかしたら、ナギサの世界でいうっていうのが、ここでいう魔法のシンになるのかもしれない』


 以前クロエが考察していたのを思い出す。彼女は凪沙があまりにも出来が良すぎるのを不思議がり、持ち前の知的好奇心でその原因を探っていた。その結果、一番有効なのがその仮説だったらしい。そういった考察も全てノートに書き留めていったものだから、一冊から始まったノートは十何冊にまで膨れ上がった。

 零はここに来る以前の記憶がないが、彼もその可能性が高い。

 そのうち、術を使う時は助手として隣にいてもらうことが多くなった。

「零、人形を用意してくれないかい?」

「分かりました」

 凪沙は、初めて会った時より身長も伸びたな、と思う。面影はそのままだが、どこか寂しいものがあった。

 この世界に来てから9年が経つ日のこと。

 街中で、凪沙は邂逅かいこうを果たした。

「満か……?」

「お前は」

 その人物は凪沙を見ると本当に驚いた顔をしていた。間違いない。親友である。見知らぬ土地に来て他に誰も知り合いがいない状況で、凪沙はいつも冷静を装っていたが、心細いと思う日は何度もあった。御巫がルーナシアを出て行ってから、もしかしたらもう会えないのだろうかと、不安に襲われた日だってある。

 思わずがばりと抱き着くと、相手は呆れた顔をしながらも引き離すことはなかった。このまま立ち話をするのも通行人の迷惑なので、2人で近くのカフェに行き、お互いのそれぞれを話し合った。話し合ったとは言っても凪沙がほとんど喋っていたので、御巫はほとんど相槌を打っているだけである。凪沙が自分ばかり喋りすぎたと謝り御巫の話を促しても、自ら話そうとはしない。

「今度僕の病院を見てほしい」

 凪沙がそう言うと、御巫は

「分かった」

と一言返事をした。


 親友が自分の店を訪れてくれる。そのことで、渚は浮き立つような気持ちになった。

「凪沙さん、今日はなんか落ち着きがないですね」

「そうかい?」

 凪沙が楽しみにしていたのも束の間、御巫は来てから30分もしないうちにすぐに帰ってしまった。

「凪沙さん」

 明らかに落胆する師匠に、恩人に、零が声をかける。

「大丈夫」

 心配する声に答えるように、自分に言い聞かせるように凪沙は笑った。

 数か月後。今度は反対に御巫の家に呼ばれた。この前は自分が怒らせてしまったと落胆していたので、単純に嬉しかった。

「満、いるかい?」

「ああ、今開ける」

 ドアがゆっくり音を立てて開く。御巫に部屋に案内されて、凪沙は高価そうなソファーに腰を下ろした。

 どうやら御巫はルーナシアを出た後、軍医をしていたらしい。戦争が起きていたことは新聞で知っていたが、そんな危険な戦場へ赴いて医者として働く親友が、心配ながらも誇らしかった。

 やはり御巫はどこの世界でも、道が2つあれば困難な方へと進むのだ。

 出してもらった紅茶を飲もうとすると、突然御巫に取り上げられた。凪沙は親友の意図の読み取れない行動に動揺する。

 すると向こうからロープを取り出してきて、勢いよく凪沙の首に巻き付けてきた。

 どうして? 今僕は何をされている?

「お前がいるとおれの邪魔なんだ。死ね、死んでくれ!!」

 苦しみに張り裂けそうな声で、きつく、きつく首を絞められる。

 ずっと親友だと思ってたのに、こんなにも恨まれていたのだな。

 凪沙は息のできない苦しさはもちろん、心も締め付けられる程に痛んだ。

 酸素の回らない頭に今までの出来事が蘇る。日本にいた時のこと、こちらの世界に来たときのこと。自分に必要な知識を与えてくれた師匠、素直で頑固で心優しい弟子、通院していた患者たち。これが所謂いわゆる走馬灯というやつか。日本にいる家族が恋しかった。

 凪沙は自分に苦しみを与えている張本人である親友を見上げた。


『お父さんを救えなかった。自分が憎い』

『おれの夢のために2人に無理をさせた』

『だから立派な医者に、立派な人間にならなきゃいけないんだ』


 そんなに無理をしなくていいのに。どうして自分を追い詰めるのだろう。満の家族は、したくてそうしたはずなのだ。君は何も悪くない。

 凪沙はそう言いたかったけれど、もう長い言葉は口に出せそうにもなかった。

 ああ、僕は死ぬのだ。これが死だ。

 自分の言動の何かが繊細な親友の気に障ってしまったのだと思うが、せめてもう少し生きたかった。生きて、助けたかった。

「かわいそうだ、満……」

 遠ざかる意識の中、流れ星が命を失っていくように、凪沙の頬に一粒の雫が落ちた。


 

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