第23話 懐古(3)

 僕は彼を救えなかった……。

 彼は昔から頑張りすぎるところがあった。少しは休めと言っても、自分の体に鞭ばかり振るって、たとえ体調を崩したとしても平気だと偽る。そのせいで、彼は優秀だった。優秀なのは素晴らしいことだし、彼の才能が高い証だ。だがその裏にある犠牲が多すぎると思う。もっと楽に生きてもいいのに。どうしてそこまで自分を追い詰めて、苦しませてしまうのだろう。

 彼の家庭環境が今の彼をつくったのは知っている。幸運なことに、彼は僕に他の人よりも沢山自分の話をしてくれた。だから僕は、そんな彼にもっと自分の人生を大切に生きてほしかったのだ。憐れで自慢の親友だ。



     *



 凪沙は満がルーナシアを出て行ってから、どうするべきか考えた。自分たちが科学の恩恵を受けて生活しているように、ここでは「魔法」とやらを使って生活している。しかもそれは限られた人だけではなくて、皆が当たり前のように使用しているのだ。魔法科目は学校での必須科目らしい。

 本当にすごい世界に来てしまった、と頭を抱える。

 とすると、まずは元の世界に帰れるように、その方法を見つけるのが第一優先だろう。この世界に来たときの行動を思い返してみた。

 一番新しい記憶は、満と飲みに行った時の記憶だ。そのあと自分たちはどうなったのだっけ。

 凪沙は必死に頭の奥から引っ張り出す。……そうだ、たしかトラックが突っ込んできて、それで。

 自分は死んだのか? 凪沙は両手を見て考えた。それならここは死後の世界だろうか? いや、死後の世界が魔法を使う異質な国だということは、聞いたことがない。そうすると、何かの次元の弾みで異世界に来てしまったということだろうか。まるで漫画やアニメの世界の体験を今自分がしていることに、凪沙はますます混乱していった。


 しかしこんな世界でも、いや、どんな世界でも優しい人は一定数存在し、反対に悪い人も存在し得る。

 路頭に迷っていたところ、凪沙は一人の魔導師に助けられた。天然パーマがお洒落で印象的な魔導師だ。

 不思議なことは魔法以外にもう一つあった。言葉だ。

 耳で聞くと確かに内容は理解できるのだが、文字にすると全く読めない。なんとも味わったことのない感覚だった。クロエと名乗る魔導師は、凪沙に文字の読み方も教えてくれた。

そしてある日、

「ナギサ。私の魔法を習ってみないかい? この世界で生きていくには必要不可欠だ。あんたは熱心だからすぐに使えると思う」

とクロエは提案した。

 そこから修行ともいえる凪沙の日々が始まった。初心者が学ぶような最初の段階の魔法なら比較的すぐに覚えられたのだが、そこからが厳しかった。何度も失敗してしまう凪沙に対し、クロエは強く当たることはなかった。

「どうしてここまで親切にしてくれるんですか?」

 凪沙はこう聞いたことがある。クロエは少し考えてから答えた。

「寂しかったから、かな。かっこいい理由がなくてごめん」

 寂しそうに微笑んだクロエの表情を見て、凪沙は自分も悲しくなった。

 クロエはあまり自分のことを話そうとしなかったので、その日初めて、貴族の城で働いていたことを知った。なんでも、ありもしない自分の悪行を噂され、その疑いが晴れず追い出されたらしい。

「クロエさんほど凄い魔導師だったら、仕返しができそうなのに」

 凪沙が言うと、クロエは可笑しそうにした。

「そうしようと思ったよ。でもね、たった一人だけ私に味方してくれた貴族の方がいたのさ。その方は金髪に緑の目をした、とても美しい女性だったよ」

 昔を懐かしむような目を携えて話す。

「そんな偉いお方に庇ってもらえたもんだから、私はもういいか、って満足してしまってね。そのまま城を出ることにしたんだ」

 クロエは、その方は身重だった、と続けた。

「宮廷を出る私を心配し、資金やら食料やら色々持たせてくれたのさ。今まで長く仕えてくれたのにごめんなさいって、謝罪まで。私は、遠くにいても何かあったら、あなたも、そのお腹の子も絶対にお守りしますって言った。謙虚なあの方は、私はいいからこの子に何かあった時はお願いねって仰った」

 凪沙は隣で黙って話を聞いている。

「だから私は、宮廷を離れていてもあの方にだけは今も仕えているつもりだ。けれど、心はあの方にあっても一人なのは事実。……そこでナギサが途方に暮れているのを見つけたってことさ」

 なんともつまらない理由で、自分勝手ですまないね、とクロエは謝罪する。

「そんなことないです。……クロエさんも、その貴族の女性も素敵な方ですね」

 凪沙がそう言うと、クロエは若干頬を染めて背を向けた。

「あの方はそうだが、私はそんなんじゃない」

「僕も……、僕も人のために魔法を使いたいです」

 クロエはその言葉を聞くと振り返った。

 自分が別の世界から来たことは既に話していたが、精神科医をしていたということは黙っていたので、クロエはそれを聞くと驚いた。凪沙は反対に、精神医学がこの世界にはないということが衝撃だった。凪沙の思いを聞いたクロエは、人の精神に干渉できるような魔法を一緒に研究すると言ってくれた。このような魔法は今まで前例がない。危険だから、絶対に悪用はしないようにと、強く念を押される。凪沙は、「約束します」とクロエに誓った。


 数年後、凪沙とクロエは精神に作用する魔法を開発することができた。それは人の感情を奪い取ったり、与えたりする魔法だ。凪沙は簡単にこの魔法が悪用されないように変わった手順を加えることにした。人形やこの世界にはない呪文だ。手順はノートに書き留めて大切に保管した。この魔法の基礎をつくったのはクロエだが、使用方法などを考えたのは凪沙である。クロエはその変わった手順を見て、「魔法というか何かの術みたいだな」と言った。

「それにしても、初期の魔法を学んでから数年しか経っていないのに、よくぞここまで頑張ったな」

「クロエさんのおかげです。本当にありがとうございます」

 凪沙は深く頭を下げる。

「これからどうするつもりだ? 私はナギサがいつまでもここにいてもらって構わないが、きっとそうするつもりはないんだろう?」

「クロエさんはよく僕のことを分かっていますね」

 クロエは呆れたように笑った。

 それからも凪沙は忙しかった。静かなところに病院を建てたいと、わざわざ森の奥を選んだ。病院が建つまでは魔法の研究を着々と進めていた。様々な本や文献を読み漁る日々。人手が必要だからと式神を呼び出したり、病院の安全のために結界をつくったりもした。式神は普段の手伝いをしてくれる時の桔梗と、護衛に向いている梅の二体。凪沙はやがて完全に自分の術式を確立していった。

 病院が完成してから最初のうちは、今まで精神科医がいなかったこともあって、訪れる人は少なかった。クロエも協力してくれたからだろうか。徐々にその評判は広まり、精神病院、「感情の雫」は多くの患者が訪れるようになった。


 その日も凪沙は診察をしていて、休憩時間になり外へ出た。散歩日和の天気だった。木と植物の匂いが鼻をくすぐる。そろそろ引き返そうかとした時、地面に人が倒れこんでいるのを見つけた。

「君、大丈夫かい⁉」

 急いで駆け寄ると、それは黒髪の、まだ中学生くらいの少年だった。すっかり気を失っていて、凪沙の声にも反応を示さない。脈を確認し、とりあえずうちで安静にさせようとゆっくり運んだ。

 一日の診察が終わり2階へ行くと少年は目を覚ましていた。

「……ここは」

 小さな口から掠れた声が出る。

「ここは『感情の雫』、精神病院だよ。君はここの近くで倒れていたんだ。森の出口まで送っていくよ。立てるかい?」

 凪沙が少年に手を差し伸べても、少年はぼーっとした目で目の前を見つめていた。異変を察した凪沙は質問する。

「君、自分の名前は言える? 住所は?」

「……分からない」

 少年は茫然としていた。

 名前を思い出せない、帰る場所も分からない少年は、凪沙に保護されることになった。唯一分かっているのは、この世界へ飛ばされてきた同じ日本人ということだけ。凪沙が日本語で書いていたカルテを読んでみせたのだ。

 感情の起伏のない少年かと思いきやそんなことはなく、むしろすぐに顔に出てしまう方だということが分かったのは、一緒に暮らしてから半年ほど経った頃だった。凪沙はクロエがしてくれたように文字を教えた。少年はめきめきと上達していった。

 名前がないのは不便だと思い、凪沙は少年の名付け親になった。

「零、という名前はどうかな」

「れい」

「漢字ではこう書く」

 凪沙が紙に書いて見せると、

「どうしてこの漢字にしたんですか?」

と聞かれる。

「君はほとんど何もない状態でこの世界へ来た。だからここで少しずつ記憶を取り戻して、色んなことを吸収してほしいんだ。」

 凪沙は、この店の名前とも合わせて考えたんだ、と話す。

「僕は、感情は水のような水滴の重なりでできていると思っている。だから本人にも他人にも掴めないんだ。その水滴が心に落ちることによって揺らぎが生じる。それにはいい揺らぎも悪い揺らぎもあるね。零には、色んな人に優しい雨を降らせてほしいんだ」

 ちょっと重いかな、と凪沙が笑うと、

「……別に」

と零は顔を背けた。耳まで真っ赤になっている。その様子に凪沙はどこかの師匠を思い出して、思わず吹き出してしまった。

「何で笑うんですか!」

「ごめんごめん」

「2回言うってことは本心じゃないってことですよ」

 振り向いた零の顔も、やはり真っ赤になっていた。


 その夜、窓から見える月を眺めて零は考える。

 どうやったらあの人に恩返しができるだろう。

 こんなに沢山良くしてもらっているのに、僕は何も返せていない。もし自分が凪沙の立場だったら、至れり尽くせりはできないだろうなと想像した。彼はいつも働きづめだから、家事をする? いや、一度料理を担当したが、自分でもまずすぎて食べれなかったことがある。とりあえず掃除だけは毎日しよう。

 頭の中を色々な考えが巡って、その晩は眠れなかった。だが一つだけ、納得できる考えが浮かぶ。僕も凪沙さんみたく、医者になったらどうだろう。

 凪沙が患者に行っていることは、カウンセリングがほとんどだ。患者の話を聞き、その苦しみがどこからくるのかを分析する。精神的にタフでないとできない仕事だろうけど、それでも凪沙に恩返しができるのならばと思う。

 翌朝、零は目が覚めてすぐ、昨晩考えたことを凪沙に伝えた。しかし、優しい彼らしくなく、

「それはだめだ」

と断られた。

 

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